2024-10-13

西原天気【句集を読む】あるく・つまずく・ころぶ 瀬戸正洋『似非老人と珈琲 薄志弱行』とゆるく付き合う・その4

【句集を読む】
あるく・つまずく・ころぶ
瀬戸正洋似非老人と珈琲 薄志弱行』とゆるく付き合う・その4

西原天気


冬の日の薄志弱行似非老人は躓く  瀬戸正洋

冬三日月歓楽街で転びけり  同

つまずいたりころんだりは、宇宙や地球と、ある種特別な関係をもつことです。万有引力といつもと違う感覚で関係したり、地表の存在をことさらに感じたり。あるいはころんだとき、見上げる空。宇宙的体験かもしれません。

まあ、そういうことは抜きにしても、つまずく・ころぶは、日常のなかのちょっとした事件であって、それは老人にとって(おそらく万人にとって)新鮮ではあるのですが、半面、すこし恥ずかしい。誰も見ていなくても、バツが悪かったりする。《歓楽街》なら、人目も多いからよけいです。おまけに老人だと、やけに心配されたりする。そんな意味、というのはつまり、宇宙や地球との、ではなく、他人との関係という意味でも、スペシャルであろうというものです。

ただ、このとき、ころんで、そのまま、というわけにはいかない。すこしのあいだ、そのまま休んでいてもいいはず、と、アタマでは思うですが(体験的に)、やはり気恥ずかしさなのか、太古からの危機意識なのか(倒れたままだと天敵から逃げられない)、痛くても、我が身が情けなくても、すぐに起き上がろうとする。

で、この句。

門松や歩けば転ぶそれでも歩く  同

ふたたび歩きだすという、この句のなかの行為。どこか悦ばしいもののように感じるのは、季語のせいなのか、俳句だからなのか。ちょっと不思議です。この《それでも歩く》人には、肯定感や毅然、かわいらしさといった複数の感情を抱いてしまう。

一方、この句の成分には危ういところもあります。三段切れのことを言ってるんじゃありません。じゃなくて、《歩けば転ぶ》は多分に格言的・相田みつを的で(歩けば転ぶ、にんげんだもの)、《それでも歩く》も教訓的。なので、寓意性を強く纏ってしまいそうなのですが、そこはそれ、《門松や》と、新年のおめでたい季語が置かれたことで、格言・教訓・寓意からするりと逃れることになります。

この《門松や》は、かなりいいんじゃないでしょうか。門松の前で転んだ、と、即物的・実景的に読者に入ってきますし、新年早々、転んで、また歩き出すという、事の始まりに相応しい雰囲気も漂います。

「つまずく・ころぶ」が、宇宙や地球とのスペシャルな関係なら、「あるく」は、それらとの良好な関係とえるかもしれません。

といったところで、別の作家・別の句集で、こんな句を見つけました。

どこまでも歩くぶらんこ乗りすてて  谷口智行〔*〕

「歩く」って、いいなあ、と、思わずにいられない。


(つづく)

〔*〕谷口智行句集『海山』2024年9月/邑書林

瀬戸正洋『似非老人と珈琲 薄志弱行』2024年3月/新潮社

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