【句集を読む】
あるく・つまずく・ころぶ
瀬戸正洋『似非老人と珈琲 薄志弱行』とゆるく付き合う・その4
西原天気
冬の日の薄志弱行似非老人は躓く 瀬戸正洋
冬三日月歓楽街で転びけり 同
つまずいたりころんだりは、宇宙や地球と、ある種特別な関係をもつことです。万有引力といつもと違う感覚で関係したり、地表の存在をことさらに感じたり。あるいはころんだとき、見上げる空。宇宙的体験かもしれません。
まあ、そういうことは抜きにしても、つまずく・ころぶは、日常のなかのちょっとした事件であって、それは老人にとって(おそらく万人にとって)新鮮ではあるのですが、半面、すこし恥ずかしい。誰も見ていなくても、バツが悪かったりする。《歓楽街》なら、人目も多いからよけいです。おまけに老人だと、やけに心配されたりする。そんな意味、というのはつまり、宇宙や地球との、ではなく、他人との関係という意味でも、スペシャルであろうというものです。
ただ、このとき、ころんで、そのまま、というわけにはいかない。すこしのあいだ、そのまま休んでいてもいいはず、と、アタマでは思うですが(体験的に)、やはり気恥ずかしさなのか、太古からの危機意識なのか(倒れたままだと天敵から逃げられない)、痛くても、我が身が情けなくても、すぐに起き上がろうとする。
で、この句。
門松や歩けば転ぶそれでも歩く 同
ふたたび歩きだすという、この句のなかの行為。どこか悦ばしいもののように感じるのは、季語のせいなのか、俳句だからなのか。ちょっと不思議です。この《それでも歩く》人には、肯定感や毅然、かわいらしさといった複数の感情を抱いてしまう。
一方、この句の成分には危ういところもあります。三段切れのことを言ってるんじゃありません。じゃなくて、《歩けば転ぶ》は多分に格言的・相田みつを的で(歩けば転ぶ、にんげんだもの)、《それでも歩く》も教訓的。なので、寓意性を強く纏ってしまいそうなのですが、そこはそれ、《門松や》と、新年のおめでたい季語が置かれたことで、格言・教訓・寓意からするりと逃れることになります。
この《門松や》は、かなりいいんじゃないでしょうか。門松の前で転んだ、と、即物的・実景的に読者に入ってきますし、新年早々、転んで、また歩き出すという、事の始まりに相応しい雰囲気も漂います。
「つまずく・ころぶ」が、宇宙や地球とのスペシャルな関係なら、「あるく」は、それらとの良好な関係とえるかもしれません。
といったところで、別の作家・別の句集で、こんな句を見つけました。
どこまでも歩くぶらんこ乗りすてて 谷口智行〔*〕
「歩く」って、いいなあ、と、思わずにいられない。
(つづく)
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