【週俳9月10月の俳句を読む】
非常階段に並ぶ灯
江口ちかる
シチュエーション句と呼べばよいのか。特定の状況で思い出される句がある。春のやわらかで湿気をふくんだ空気に撫でられれば、《さくらさくらこの世は眠くなるところ 松永千秋》が浮かび、逢魔がとき、人が行き交うなかにおれば、《雑踏のひとり振り向き滝を吐く 石部明》という具合で、いつか滝を見たいとも思う。
そして、視界の先に点在する街灯や、遠景の中高層マンションの非常階段に並ぶ灯を目にしたときには、月野ぽぽなさんの句が浮かぶのだった。
街灯は待針街がずれぬよう 月野ぽぽな
「街灯は待針」というポエジー、双子のような字面のおもしろさ。街がずれぬようということはずれると知っていることだ。かわいらしさとほのかなこわさがあって、こわさよりではない。この句が好きで、『ピアニシモ』もわくわくして読んだ。
ワッフルに足すシロップと秋日差 同
作者がワッフルへシロップと秋日差を足している。窓辺に運ばれたワッフルなのだろうか。差し込む光も作者の管理下にあるのがいい。ワッフルの格子は海辺の城壁の数々かもしれず、ねっとりとしてきらめいた波が城壁を濡らすのだ。読後には、シロップと並列だったはずの季語、目を射てくる日差が残るのがふしぎである。
鶏頭花ざわめく鋏入れるとき 同
子どものころ、母が赤い鶏頭を育てていた。花をかたちづくるうねうねとまがった形状や毛羽立ちがこわかった。名の由来が鶏のとさかと知ってからはなおさらである。花の下につめたい目がかくれていて知らないうちに動き出しそうだった。今は鶏頭もいろんな形や色のものがあると知り、モールドールみたいでかわいいと思うこともある。 「鶏頭花ざわめく」と、作者は鶏頭をひとめかせる。ひとめいたのは鋏を入れるときなのである。いのちを摘むときにざわめいたと思う。しんとしたこころもちに惹かれる。
白菊の白に屈めば街消える 同
どういう状況なのだろう。香りを嗅いでいるのだろうか。個人の好みはあるだろうが、菊が芳香な花とは思えない。それに、白菊に屈むのではなく白菊の白に屈む、なのだ。菊の魔術にかけられているのかもしれない。刹那のあやかし。消えた街は白菊の白からからだをおこせば復活しているのだろう。
秋気澄むピアノのピアノピアニシモ 同
澄んだ空気のなかでは音はくっきりと届くだろう。ピアノが鳴らすピアノピアニッシモの音も。ピアニッシモは「非常に弱く」でピアノピアニッシモは「きわめて弱く。できるだけ弱く」という意味だそうだ。さらっとした句だけど、「ピアノのピアノピアニシモ」という音がたのしくて声に出してみたくなる。17音中の12音がピアノで満たされている。「の」の音も「ピアノ」の音の一音で、音の重なりが魅力的だ。半濁音の多さやほどけそうな「の」のかたちも音が他所へ届いていくイメージあっている。かそけくもたのしげに音が秋気へ散らばっていくようだった。
■村上瑠璃甫 ままこのしりぬぐひ 10句 ≫読む 第907号 2024年9月8日
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