2024-12-08

【俳句を読む】 <特別作品50句・相互鑑賞の試み> 田中惣一郎 五十句ずつ葬る遊び

<特別作品50句・相互鑑賞の試み>

五十句ずつ葬る遊び
 

田中惣一郎
 

五十句連作というものは奇妙な作品形式で、ただ一句が良い悪いという判断をするだけでは何か物足りなく、自分なりにこれを読み込むにあたっての仕方というか、道行というか、姿勢のようなものがぽつぽつある。

まずはガワ、見栄えの問題として、季語の選び取りかた、その配置。一から五十と並べる順番もだが、一句の中にどう言葉が配されているか、上五に切字のや、中七に連語で、下五体言止め、一句の中で大きな意味的ウエイトを占める言葉をどのようにでも捉えることができる、という、これは極端に技術的な側面の話だけれども、その点の充足感が高ければ読み進めるテンポが良くなり、俳句を読むのが好きな人間として気分が良い。

こう言うと、季語をどこに置くか、というテクニックを重視していると思われそうだけれど、そうではなくてむしろ、なぜその言葉を拾ったのか、という部分に確かさが欲しい。

無限の様態をとる現実は、言葉の上でもあらゆる姿をとるはずで、だから画一化された型で五十句並んで自然なはずはない、とそういうこと。

そうして句の姿が現れ、いくつもの句を読み進めると、ここを書き残したいという人の執着が見えてきたり、そんなのなかったり、いい句だなあと思う頭の片隅で、なんで俳句書いてるんだろと思ったりして寂しくなったり、そういうことも楽しくて、いつか誰かが書いた、百句ずつ葬る遊び、は今も変わらずあるものかと、次の句へ、次の句へ、驚きに浸りたくて読み進む。



クズウジュンイチ「生木」

 薬効く雨の昼間の沈丁花

「薬効く」がとにかく良い。昼間なのだから睡眠薬ではないし、効いてるんだからサプリメントでもない。雨で低気圧で頭痛なのか、それとも単にお腹を壊してるのか、持病があって普段から飲んでいるものがあるだとかもありうるけれど、そういう想像のあれこれにきっぱりと、答えをくれない「薬効く」が良い。他人の体に立ち入ることができないという、厳然とした現実を言い尽くすのに五音で足る、それを感じられるのが俳句的快感だ。

沈丁花は存在感があるけれど、どこかありふれてもいて、それがこの句の印象をごく個人的なものから人間一般の抱く感懐となるよう橋渡しをしている。

 仙人掌の花は唐突犬は雄

サボテンはそもそも独特のいでたちをしていて、そこへ付く明るい花がやや「唐突」というのはわかるけれど、そのこと自体はわかりすぎるというものでいささか感興薄く思われるところ、この句はそれを唐突に言ったことで光を増した。「犬は雄」も唐突。急によそ見をしている。

この一連は先の二句に見られるような、異物感のある言葉の押し出しが目を引くところで、単語レベルで異質なものの他にも、変わった用言の扱いで風景を動かそうとする意識も多々見られたが、個人的にはこれらは少し強引に感じてしまった。

「隣を夜が過ぎ」と書けば夜は足早に過ぎていく。「松をたたんで」と書けば松は重畳と折り重なる。そのときががんぼは、秋風は、置き去りにされてはいないだろうか。

あまた試みられているこういった方向よりも、かえって単純な句の方に心惹かれた。

 蓋のある水路伝ひのみなみかぜ

水に親しい土地の側溝には豊かに水が流れている。夏の日が照り、軽トラが音を立てて通る人家疎らな風景を縫うように走り抜ける南風。

南風という言葉はとかく大きく詠まれがちで、雄大な景こそ本意とも思いかかるが、しかし日常じっさいに触れて思いを動かされるのはこういった南風でもあるはずだ。「蓋のある水路」という書き振りには言葉を手づかみにした作者の感触も伝わる。気持ちの良い句だと思った。

他に好きな句をいくつか。

 花冷の肩に手を置く写真かな
 濃山吹すのこ伝つて蕎麦のみづ
 アフリカの面に西日の留守の家
 うみかぜもすゑのこざかな冬の虹


藤田哲史「コンソメ」

 零時過ぎ東区驟雨レジを呼ぶ
 自らに珈琲落とす西日中


静画的ではない。シーンがある。事実として、街があり、夜がきて、雨が降る。人と人が関わり交わす心をよそにまずその事実だ。

コーヒーを飲むということもそう。何度もしているはずのあたたかいコーヒーのあたたかさが喉を通り、体の内側に落ちていく感触を、思い出すというほどの大げささもなく思いまた、飲み終えると忘れてしまえるほどの感慨を、のみ下しおさめる体にふりかかる西日はいつかの景であり、またこれからもコーヒーを飲む私にも重なる景だ。

 冷ややかに朝の如雨露の雨溜り

朝も明けたての張り付くような冷えた空気の中、降って溜まった雨の水がジョウロに光っている。

こうした景をまさによくいう季語として露がどうしたって思い浮かんでしまうのだが、露のある景とは何かを、詳解するとこのようになろうかという、露を求める心がこの句を書かせているが、しかし現実に露はないから書かない、という頑なさ、それがしたたかなリアルをかたちづくる。

翻ってなぜ「冷ややか」が季語なのかをはっきり分からせてくれるすばらしい句。

この一連はおそらく意図して古典的表現を退けている。

意図して、と言ってしまうのは私自身が主に古典的表現どっぷりの言語世界で俳句を考えがちだからで、作者としては不本意かもしれないが、とにかくここに書かれた句を構成する言葉は、俳句と昵懇であるか否かを問わず、今人が生きて発しうる言葉、そんな日常語、きりしかない。

しかしだからこそここに現れる語は至極切り詰められていて、数々の言葉に対しそれがそのままで俳句となれるかについて当然楽観的ではありえないという態度が漂っている。

かように日常語の侵入に対して非常に抑制された意識がゆえに、この一連からは声が聞こえてこない。それは決して欠点ではなくて、むしろ簡単に声に覆い尽くされてしまう生の言葉に、俳句としてのつやを与えるための作者の敬意が書き言葉としての無声を際立たせているのだろう。

俳句に真摯であるがために自らの日常語を厳しく矯める。

俳句を書くというとるに足らない馬鹿げたことをある種崇高とでも思いたがる、輝き鈍く打てども響かない俳句にそれでも一片の信を置きたがる俳句書きという人間にとり、こんなに眩しく映る姿があろうものだろうか。

 上々の小春日和の日のひかり

あまりになめらかに過ぎて、この人にしか書けない句、ではないのかもしれないけれど、この人が書いたことに意味がある句ではある、確実に、そう思う。

他に好きな句をいくつか。

 風船がみるみる遠い融雪期
 噴水の形ゆらめき吹かれる日
 衆目にマネキン裸形駅残暑
 路上チェロ寒さも蚤の市のうち
 解け残る三日目の雪だるまです



千倉由穂「花布」

 サンダルに砂の重さがまだ残る

海へ行って帰りの道すがら、足の裏に幾度も触れる砂を確かめている。歩くたびそれは減り、振り落としてもまだある幾らかの重さ。楽しかったでも、悲しかったでも、出かけた思い出自体には何らかの感情が伴うだろうが、このしっかり分かる砂の把握にはそれがない。そこが良い。一瞬で無心になれて。

 稲妻も沈めて風呂に入るなり

私は雷に打たれたことがないのだけれど、この人もきっとそうなのだろう。遠くで光る稲妻、それを聞き、窓から見えてもいるのか、暗闇を感じつつも「風呂に入るなり」。この入り方には気持ちよさしかない、あたたかなたっぷりの湯にふかぶか体を横たえる開放感。

この一連の中には作者がこだわって描こうとするモチーフがいくつかあり、血縁、住む、居るということ、事物に触れ内から湧き上がる身体性を持ったよろこび、そうしたものが度々現れるのだが、私はあまりそれに乗れなかった。

特に親族の句に関して、こうした句をそもそも普遍性を持って立たせるのがとりわけ難しいということもあるが、書き表される語群に、意味する情報を伝えるのみに留まらず読み手が足を取られてしまうような空白が欲しかった。

 寂しさのかぎり首振る扇風機
 扇風機またも夕刊膨らませ


そこはかとなくある8bit感。扇風機を扇風機そのままとして、スノードームのように生とのつながりを断ち切って景としておくならば、そこに閉じ込めるのに夕刊というものはふさわしくはある。

他に好きな句いくつか。

 春雪に塞がれライブハウスの扉
 コンビニの冷気素足に抜けてゆく
 鯖雲は傾くばかり偏頭痛
 寒晴に戻る証明写真機より




高梨章「踏切」

静かにずっと歌っている、そんな印象を持った一連だった。

「さへずりや光合成の途中です」と例示するまでもなく、全篇を包む発話的フレーズの浮遊感に、その繊細さと比しては幾分素朴に取りあわせられる季語の響き方は、寓意の顔をしたただごととでも言いたくなるふうがあった。

 たんぽぽの黄はすいめんに山ふたつ

言葉が言葉に掛かって次々と変転していく危ういバランスと見えながら、そのものまさしく水に映る花のように、きちんと壊れない一線のある美しさ。

 いくらかの深さに掘れば春の月

読んでわからない言葉はないのにつかみ所がないのは「掘」るというイメージで沈降させられていた思考が「月」で突然引き上げられるからで、しかも読み手がこれは俳句、と意識しているせいもあってか、潜るように読み下していた「春の」まで「春の月」として宙づりに持ち上げられてしまう。

その揺さぶられ感に加えて、で、これ一体何してんのという不可思議なおかしさ。

 夕立の気配のなかの醤油差し

これは一連の中ではかなりくっきり物の姿が摑める句だが、それにしたって夕立は気配でしかないし、醤油差しはこれ以上ないくらい適当なものとしてそこにあるけれども、その納得感がどこから来るものか考えてみると落ち着かなくもあり、醤油差しって、何だ? とまでは思わないにせよ、雨が来る、夕立が必ず来る、という気配が確かにあるのみの密室に取り残される心地になる。

惜しむらくはやはりこのように彼の歌い出すフレーズに寄せて現れる季語が、ときおりその依って立つ足場の不確かさに揺れて見えてしまうことだろうか。

それはこの作品に限らず、取り合わせという技法自体が根本的に持つ危うさではあるが、それをおして、中では「夕立の」の句が全ての景物の動かなさとともに夕立の持つ世界を押し広げて描いているように感じ、好き、と思った。

他に好きな句をいくつか。

 肩にのるあんずの花のやはらかき
 花冷えの傷ぐちひらく廊下かな
 花は葉にハムからハムをひきはがす
 数珠玉のいつつでならぶ夜空かな
 透明のシャープペンシル山ねむる


 
久々に生きている人の書いた句をまとめて読んだ。

僅僅十七音。これだけしかない言葉が、なぜ無上に良い感じになるのか、書くたびにそれを考えなければならない。
 

 

■コンソメ 藤田哲史 作品50句 ≫読む

■踏切  高梨章 作品50句 ≫読む

■卯月  田中惣一郎 作品50句 ≫読む

■生木  クズウジュンイチ 作品50句 ≫読む

■花布 千倉由穂 作品50句 ≫読む

 

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