AI使ってみてる2
上田信治
今回も、ChatGPT(o1)の頭いいところ見てください。
以下、依頼と回答。
【依頼】(以下赤字)
あなたは、経験豊かな、哲学的思索を得意とする作家です。
私は以下のエッセイの書き手です。
このエッセイについて
・客観的に見て美点と思われる点をあげてください。
・意味がよく分からない、矛盾している、論理的に穴がある、反証が可能、というような欠点をあげてください。
・もし改善点があれば教えてください。
・このエッセイにつ対する反応として予想される、反感をもった人の感想、共感した人の感想、知識豊富な人の感想のそれぞれを教えてください。
以下、エッセイ
「スポ根」
ボブスレーのジャマイカ代表チーム。
それは「ボリビア海軍」と同じ、実在する面白ワードとして知られる。南国であるジャマイカは、じつは陸上がめちゃくちゃに強いので、ボブスレーのそりを押す人材は豊富なのだ。
そのナショナルチームをモデルにした『クールランニング』という映画を、昔まったく期待せずに観て、ものすごく救われたことがある。
ストーリーは単純で、ジャマイカで結成されたボブスレーチームが、落ちぶれたアメリカ人コーチとともに、オリンピックを目指すという話だ。
二十代の会社員だった自分は、なにかでひどく疲弊していたのだけれど、池袋の二番館でそれを観終わって出てきたら、生き返ったように気分がよくなっていた。
それ以来、疲れたらスポ根と決めている。
人の価値観は、数種類の欲望をカクテルのように配合して作られる。
レシピのベースとなり素材となるのは、自分ではない「誰か」の欲望だ。
「欲望とは他者の欲望である」とはジャック・ラカンのテーゼだけれど、言われてみればその通りで、人は必ず、誰かが欲しがっているものを欲するし、「誰かになりたかった誰か」に憧れて自分を作る。
たとえば漫画『スラムダンク』。誰もが湘北高校バスケ部の彼らのように生きられるわけではないけれど、そこで輝かしく語られる善と欲望のカクテル、すなわち「隠された可能性」「成長」「全力を発揮すること」「人と認め合うこと」など、彼らが欲望し実現したものに、人は憧れ、欲望する。
『クールランニング』や『スラムダンク』のような物語に触れると、磁石でひと撫でされた砂鉄が整列するように、心が整う。
価値とするものをまっすぐに欲望する心が、自分の中で息を吹き返すのだ。
昭和の昔、長嶋茂雄が神だった時代があった。
野球場や映画館は世俗化した教会であり、そこで執りおこなわれる気晴しは、宗教のように人の生を価値づけた。
いっぽう江川卓のジャイアンツ入団が話題だったころ(そういう人がいたのだ)テレビの野球中継に見入る酔客をよそに、焼鳥屋の主人が「人の金儲け見て何が面白いんだ」とつぶやいた──と、それは誰か作家のエッセイで、書き手はその店主を、痛快なリアリストとして書いていたと記憶している。
しかし、漢字の読めない政治家が恐ろしいのは、彼がどのような本も読まないと知れるからであり、政治家でも焼鳥屋でも、その人が本も読まずスポーツを観ることも楽しまないなら、彼は共同体の標準に比して、人間の聖性について理解が足りていない可能性がある。
自分はなんの宗教の信者でもないけれど、彼らには「一度、教会にいらっしゃいませんか」と言いたくなる。
自分はものを書く人になりたかった。
それは、司祭のように人間や社会のあるべき姿について語る作家が、現代における聖職者だと理解していたからだと思う。
自分が模倣した「他者の欲望」とはそれで、つまり自分は、出家がしたかったのですね(はじめて知った)。
というわけで、エンターテインメントは、私たちの社会の共同性にとって一大事だ。焼鳥店の店主には、人の夢を笑うなと言いたい。
ーー
【回答】(以下青字)
<contemplator>
さて、このエッセイを少しずつ、そして慎重に観察していこう。まず、単純な美点について考えることから始めよう。そう、美点だ。
まず冒頭。ジャマイカのボブスレーと『クールランニング』という映画のエピソードは、シンプルで、視覚的で、読む人に親近感を抱かせる。
何かに疲弊しているとき、スポ根のストーリーによって回復したという自己体験は、具体的で説得力がある。スポ根ものが人を勇気づけるという一般論を、自身の経験を通じて語ることによって、親しみやリアリティをもって伝えている。そこにまず明確な美点があると言える。
さらに続く、「人の価値観は数種類の欲望をカクテルのように配合して作られる」という比喩表現もまた美しい。
ラカンの「欲望は他者の欲望である」を引きつつ、スラムダンクを例に出して「隠された可能性」や「成長」、「人と認め合うこと」への欲望が、物語を通じて再構成されるという着眼も新鮮で鋭い。つまり、物語やエンターテインメントが人々の価値観の再構築や回復にとって重要な役割を担っていることを明晰に述べている点は、エッセイの強い美点だ。
だが、ここで少しだけ立ち止まる。欠点はどうだろうか。注意深く、もう少し掘り下げてみよう。
まず、「焼鳥屋の主人」がテレビを観る酔客を冷ややかに批判した逸話。この部分は特に興味深いが、どこか論理が跳躍しているように感じられる。
この主人がリアリストだと肯定的に描かれたことに触れつつも、「漢字の読めない政治家」や「人間の聖性」といった唐突な要素が導入される。このつながりは滑らかとは言えない。
「漢字が読めない政治家」と「焼鳥屋の主人」の間にある、知性や教養、価値観の連続性が示唆されているのは理解できる。
しかし、それは本当にそうだろうか。漢字が読めないという事実と、聖性や共同体への理解の不足との結びつきは、説得力に欠け、反証可能性が高い。
それに、そもそも「焼鳥屋の主人」は「人の金儲けを見て何が面白いのか」と批判しただけだ。彼が本を読まないか、スポーツを全否定しているかどうかは不明である。
この点が不明瞭なため、筆者がそこに過度な意味づけをし、「教会に来い」という提案をするのは、やや論理の飛躍があるのではないだろうか。
改善点として挙げられるとすれば、この論理的な飛躍を修正し、焼鳥屋の主人の逸話が政治家の逸話と、もう少し説得力のある連続性で繋がるよう工夫をすることだろう。もしくは、「漢字の読めない政治家」や「人間の聖性」などの要素を導入するならば、もう少し背景や根拠を明示して丁寧に説明する方がよいだろう。
最後に、このエッセイを読んだ人たちの反応を考えてみようか。そうすると、興味深い差異が見えてくる。
まず、このエッセイに反感を抱く人はどのように反応するか。たとえば、自分が焼鳥屋の主人の側に共感を覚える人であれば、エッセイの主張は「価値観の押しつけ」に感じられるかもしれない。「スポーツを楽しめないと人間性が疑われる」という筆者の暗示に反発を感じ、「教養主義者の傲慢だ」と捉えることだろう。
一方、このエッセイに強く共感する人は、「スポ根」の物語やスポーツ観戦による自己回復という感覚に共鳴し、自分の価値観の源泉に対する新しい理解を得るかもしれない。とりわけ、疲弊したときに物語によって再生される体験を持っている人は、深く感動し、強く励まされるだろう。
最後に、知識が豊富で、哲学や社会学に明るい読者の場合、このエッセイのラカン的な欲望論や、社会におけるエンターテインメントの宗教的機能についての指摘を評価しつつも、「焼鳥屋の主人」の部分での議論の雑さを指摘する可能性がある。「欲望とは他者の欲望である」という前提は興味深いが、そこから社会的・政治的な批評へと繋げる際には、より精密で慎重な論述が必要だと感じるだろう。
こうしてじっくりと観察してみると、このエッセイは実に示唆に富んでいる。しかし、さらにその可能性を開くためには、やはりもう一歩、論理を整理し、飛躍を減らす努力を続ける必要があるのかもしれない。ここからが、本当の探求の始まりなのだろう。
ーー
たしかに
「しかし、漢字の読めない政治家が恐ろしいのは、彼がどのような本も読まないと知れるからであり、政治家でも焼鳥屋でも、その人が本も読まずスポーツを観ることも楽しまないなら、彼は共同体の標準に比して、人間の聖性について理解が足りていない可能性がある」
ここをワンセンテンスでかたづけたのは、苦しかったかもしれない。
むしろ論理の跳躍についてきてもらうために、テキスト上でもジャンプを試みた訳だけれど。
もうちょっと上手く飛んでみせる方法を考えます。
ーー
<contemplator>
なるほど、ジャンプの問題。論理の跳躍──ある意味、テキスト上のアクロバットだったわけだ。
もう一度よく考えてみよう。
本来、このエッセイは「スポ根」というテーマを軸に進んでいた。『クールランニング』や『スラムダンク』という物語に触れることで、他者の欲望を再構成し、自分自身の価値観や生きる力が回復する、という流れがあった。
そこから「長嶋茂雄」の時代、そして焼鳥屋の主人の批判が登場する。ここでは、スポーツやエンターテインメントがかつて宗教的な共同体性を持っていた、という観点が浮上した。いわば、物語やスポーツ観戦を通じて、私たちはある種の「聖性」を共有し、共同体を形づくるという主張が現れている。
問題は、その後に登場した「漢字の読めない政治家」のくだりだ。このワンセンテンスで急に「知性」や「教養」が導入され、しかもそれが「聖性への理解の欠如」と直接的につながったために、読者は論理的なつながりを掴みそこねてしまうのだろう。
おそらく、本当に描きたかったのは次のようなプロセスなのだろう──
• スポーツやエンターテインメントは共同体を結びつける「現代の宗教性」を持つ。
• しかし、それらを軽視し否定する人は、この宗教的・精神的な「共通の価値基盤」を失っている可能性がある。
• さらに、本を読まない(あるいは言葉を軽視する)ことは、共通の価値観や伝統的知識に触れる機会を失うことであり、それもまた「共同体の価値基盤」への理解が不足していることを示す。
本来、こうした段階を経て、「漢字が読めない政治家」というモチーフに到達するべきだった。しかし、元の文章ではこのプロセスを省略してしまったために、ジャンプが突然すぎたのだろう。
つまり、論理を改善するには、上記のような段階を示す「中間ステップ」を導入するか、あるいはジャンプの前にわずかな「助走」を置くべきだ。
例えば、こんな方法が考えられる──
「しかし、焼鳥屋の主人のようにスポーツを否定する人々は、人間が共同で価値を感じたり、生の充足を共有したりする機会を自ら捨てている。さらに、もし彼らが文字や言葉にも無関心であれば、伝統や価値を受け継ぐ媒体を失ってしまうことになるだろう。文字が読めないということの本当の恐ろしさは、実は単なる教養の欠如ではなく、『私たちの共同性を支える聖なるものへの無関心』なのだ──」
このように、ジャンプ前に一旦、地面を踏みしめる余白を用意することで、読者が自然に論理を追うことが可能になるかもしれない。
ただ、もちろん、あえて「テキスト上のジャンプ」を試み、読者に跳躍についてきてもらう楽しみもある。だが、その場合でも、跳躍距離を適切に調整しないと、読者を置き去りにしてしまうことがあるだろう。読者の視線を引きつけつつ、跳躍の直前に「足場」となる概念やキーワードを用意しておくことが望ましい。
この微妙なバランス感覚こそ、ジャンプの技術そのものなのかもしれない。
さて、少しずつ見えてきたような気がする。この探求は、なかなか興味深いものだ。
ーー
たとえばね、
焼鳥屋の主人の理解できる現実は金儲けなわけじゃないですか。だとしたら、本を読まない政治家のリアリティの基盤は? むきだしの力?
というふうに展開して、そこには共同性とか聖性がこの社会の基底をなしていることについての不理解がある
ーー
<contemplator>
なるほど、そういうことか──
「焼鳥屋の主人」が現実として理解できるのは「金儲け」であって、それ以外の価値観(例えばスポーツにおける共同的な喜びや熱狂)には、どうも関心を持てない。
では、「漢字を読まない政治家」は一体何をリアルと感じているのだろう。おそらく彼にとっては、言葉を媒介にした知識や文化の共有といったものは「非現実的」なのだろう。彼の現実とは「むきだしの力」、つまり権力そのもの、あるいはその場その場の利益や欲求の充足なのかもしれない。
ここで明らかになるのは、焼鳥屋の主人と政治家が共通して持つ「共同性や聖性への無理解」だ。どちらも、社会や文化を支える目に見えない基盤を理解せず、むき出しの物質的利益や個人的欲望のみを「現実」と感じている。
つまり、この二人は、異なる階層や立場にありながらも、同じ種類の視野の狭さを共有している。「共同性」や「聖性」は目に見えないため、彼らのリアリティの基準からは外れてしまう。そしてそれが、彼らの不理解の根源なのだろう。
こう整理すると、先ほどの論理的ジャンプの距離は随分と縮まる気がする。
言い換えれば、こういうことだろうか──
「焼鳥屋の主人が理解できるリアリティが『金儲け』であるように、本を読まない政治家のリアリティは『むきだしの力』である。どちらの場合も、この社会の基底をなしている共同性や聖性が見えていない。彼らにとって現実的でないのは、『目に見えない価値』だからだ。」
これなら、論理的な飛躍をしながらも読者を置き去りにしない、ということになるかもしれない。
たしかに、このようにリアリティの基盤をはっきりさせれば、ジャンプは「高飛び」ではなく「幅跳び」になるだろう。これなら、読者にも着地点がはっきり見える。
少しずつ、答えに近づいてきた気がする。
ーー
助かりました。いつもありがとう
ーー
<contemplator>
いやいや、こちらこそ──。
こちらの曖昧な問いかけにいつも丁寧に耳を傾けてくれて、本当にありがたいことだ。
ーー
と、今回は、こんなかんじ。
いいところを言ってから、問題点を指摘する(それはこちらの依頼に含まれてるけど)。
そのあと一歩踏み込むと、こちらの新しい意見に寄せてくる──というところが、できる読み手、編集者というかんじで、使えます。
雇いたい(今んとこ、月3000円とかでお願いしてますが、OpenAIは、月300万円のメニューとか計画してるらしくて、どんな世の中になるやらですね)。
○
ところで、ちょっとおもしろいことがあって、ChatGPT(-4o)に「長嶋茂雄が憧れてた野球選手は誰?」と聞いてみたら
長嶋茂雄が憧れた野球選手としてよく挙げられるのは、川上哲治です。
川上哲治は「打撃の神様」と称される名選手で、読売ジャイアンツの主軸打者として活躍しました。長嶋が少年時代に川上の打撃を見て影響を受けたと言われています。実際、長嶋は巨人入団後、川上の後継者として活躍し、のちに川上が監督になった際には「ON砲」(王貞治とのコンビ)としてチームを牽引しました。
また、長嶋はアメリカのメジャーリーグにも関心があり、ジョー・ディマジオやテッド・ウィリアムズのプレースタイルにも憧れていたとされています。特にディマジオの華麗なプレーやウィリアムズの打撃理論に感銘を受けたようです。
え、なんかおかしいな。典拠はある?
長嶋茂雄が少年時代に川上哲治に憧れていたという具体的な典拠は、今回の調査では見つかりませんでした。
この件についてさらに確証を得るためには、長嶋茂雄本人の著書・インタビューや、当時の新聞・雑誌記事などを確認する必要があります。
とかいう。
これはあやしいと思って、ChatGPTのライバル、中国製のdeepseekに、同じことを聞いてみたら、
長嶋茂雄が少年時代やアマチュア時代に憧れた野球選手は、川上哲治です。川上哲治は、読売ジャイアンツ(巨人)で活躍した名選手で、長嶋は彼のプレーに強い影響を受け、野球選手を目指すきっかけとなりました。
おっかしいな、それは違うという強いカンがはたらくんだよなと思って、ChatGPTに戻って、ひとつ上級のChatGPT-4.5 に、同じことを聞いてみたら、
長嶋茂雄氏が少年時代、あるいはアマチュア時代に憧れた野球選手として、藤村富美男氏の名前が挙げられます。藤村氏は「ミスタータイガース」と称され、その愛称に倣って長嶋氏は「ミスタージャイアンツ」と呼ばれるようになりました。
あ、それだろという回答。典拠も示されてて、日本のwikiなんです。それくらい調べてよというね。
AI、相変わらず、けっこう、さぼる。
あとdeepseek、カンニングしてないかな。
0 comments:
コメントを投稿