犬がいて金魚も
小笠原鳥類
2025年度日本現代詩歌文学館常設展「ペットと詩歌」(日本現代詩歌文学館、2025年3月11日~2026年3月8日、小笠原鳥類の詩もあります)、図録から俳句を「 」、そして思ったことを。
「八月やなんともあかき犬の舌」(鎌倉道彦)
私は、踊っている布を思い出しているキノコたちの図鑑には、歩いている料理と〈そば〉が、乾燥して(いなくてもいいけれど)撮影されている壁だと思っています。
「遠雷や腕に熱く犬の呼気」(町田無鹿)
今は、テレビを見ることが、水槽のピラニアを(銀色に)見るアザラシではないのだと、楽器を持っている人がアコーディオン(と、金魚)のように言う時代なのだろうか。
「老犬の冬の記憶が晴れてゆく」(野名紅里)
建物は、バケツにいるヒトデや、青いバケツに入っている(庭の)テニスのボールのように、いい公園だ、そこにアライグマがいるようだ(ひよどり)。
「冬の金魚家は安全だと思う」(越智友亮)
体操が、宇宙から来た〈みみずく〉ではないのだと、科学の雑誌には書いてあった未来かもしれないが、トンボ昆虫トンボ昆虫トンボ昆虫(トンボは恐竜ではない)。
「犬らしくせよと枯野に犬放つ」(山田みづえ)
キツツキが、ロボットではないと、セミである虫は、キャベツやトカゲを思い出して言っていないとしても、ワニだワニだ。
「屋根にまで犬の来てゐる雪卸」(山崎和賀流)
むかしタマネギ(と、レモン)を見て、そこにある絵を(クレヨンで)どのようにするのか、であったのだけれども翼竜を食べるイソギンチャクであるとは言わない(モズも)。
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