2025-06-08

湊圭伍【週俳3月4月5月の俳句を読む】ふつうのこと

【週俳3月4月5月の俳句を読む】
ふつうのこと

湊圭伍


松田晴貴「巣箱」は、 ぼんやりとのみ人の存在が表れている句が面白いと思った。

浮くやうな凭れるやうな巣箱かな  松田晴貴

巣箱についての描写だが、巣箱を置いた人や社会について、置いた時点からの時間の経過が感じられる。

足跡とサーフィン摺つてゆく跡と  同

鳰のまたあつまつてきし浮御堂  同

これらも人の存在の痕跡をとらえている。鳰は人が来ていったんちりぢりになったのだろう。また集まってきた鳰を見る視点もまた人のものだが、その視点はすでに現実には存在していないような味わいがある。

 

おおにしなお「ゆらめくようにだめなとこ」はひらがな表記によって強調された句のひきのばされた姿に目がゆく。ただ自由律かというとそうではなく、すべての句が定型をどこかで感じさせる着地になっている。

ふちゅーいゆーいゆーえい禁止のゆめみる湖  おおにしなお

抉れてえんちゅういつかこころになれるかなあ  同

あのねはつゆき あ、初雪の なんでもない  同

主観的なようでいて、どこか亡霊的なところは、最初の 松田晴貴「巣箱」とも共通している。「いつかこころになれるか」に表れているような、実感のある情感へのずれを孕んだ希求もどこかテーマ的な共通性がありそう。ただ、こちらでは痕跡が先行している。そう考えると、時間の操作に平仮名表記が相当効いているなあと思える。

 

超文学宣言 の「ハプスブルク家の春」は、「 (これは前書ではない)」という前書?の最初に置かれた言葉がちょっと厄介。散文として魅力的なので、読み手の一人としてはわざわざこう宣言しなくてもよい(読者にまかせればよい)と思うのだが(もやもやさせる、という効果ははっきしている?)。句は旅吟として読んだ(もしかして在住なのかも知れないが、場とのかかわりの薄さで、やっぱり旅吟かと思う)。

ゆるやかに回転しつつ庭が咲く  超文学宣言

Grüß Gott, Grüß Gottひたき堕ち  同

造形を馬二匹駆け微風あり  同

動きのある風景の独特の把握が面白い。日本語に海外の事象や言葉を持ち込んでいるわけで、その時点で重くれになりそうだが、そこにつかまらない軽やかさがある。

チューリップ持ち雑踏のトラムぬけ  同

のような、ただ事に近い平句の軽さが効いている。

 

竹岡佐緒理「夏の詰合せ」は一転して、日本の日常にとっぷりと浸かっていて、対比として楽しく読んだ。

炊飯器壊れて朝食は氷菓  竹岡佐緒理

あぢさゐや子を通訳に保護者会  同

夏の詰合せ余つたのを貰ふ  同

日常のちょっとした事件や違和感を、季語を使ってまとめている。あるいは、季語のもつまとまり感を、現実的なずれを持ち込むことで生きたものにしている(まあ、俳句ではオーソドックスなので、わざわざこういうふうにいうのも面映ゆいんだが)。最後の

何者か閉ぢ込められてゐるゼリー  同

は、そういう安心からちょっとはみ出していていいなと思った。

 

上田信治「とは」は、イメージの重ね方が上手い(という語はここまでは避けていたけれど、上手いものはやっぱり上手いですね)。

日の色の春のふすまや目の当り  上田信治

下五、「日の当たり」と空目してしまうが、その空目から、うん、となって、「目」だと気づく。それまでの語の並びも「春の色の日の」などと別の可能性も読みながら浮かび、そして、最終的な納得に収束していく。いや、収束はしないのかな。「目の当り」は最後までいい意味でひっかかっている。

富士山もいそぎんちやくも穴開いて  同

は、平句的な軽さがある。ベタになる寸でのところ、という印象。まんが的に読んでもいいし、富士山をのぞむ海岸での実景としても、スケール感の配分が楽しい。いそぎんちゃくに指を入れてきゅっと絞められるのを富士山でもできそうな感じ。

雨のあと菠薐草を食べにけり  同

ふつうのことだろう、と思わないではないが、わざわざ「雨のあと」だなと気づくのは変。あるいは、「雨のあと」だからホウレンソウを食べる(食べなきゃならん)なんてことがあるのか。ふつうのことだから面白いというのに、折々気づいておくのはよいことだなと思った。


松田晴貴 巣箱 10句 読む 936号 2025330

 おおにしなお ゆらめくようにだめなとこ 10句 読む 939号 2025420

 超文学宣言 ハプスブルク家の春 読む 940号 2025427

 竹岡佐緒理 夏の詰合せ 10句 読む 942号 2025511

 上田信治 とは 15 読む 944号 2025525

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