【週俳3月4月5月の俳句を読む】
きゅるきゅる
中矢温
◆松田晴貴「巣箱」
甘海老を殻より抜きて春の山
海の幸と山が取り合わされていておめでたい。大きな山と手元の小さな甘海老が対照的で面白い。昨秋主体の行動から山への接続として、〈炬燵出て歩いてゆけば嵐山/波多野爽波〉を何故か思い出した。
足跡とサーフィン摺つてゆく跡と
着眼点が素敵。浜から波打ち際への二本の跡。〈泳ぎ女の葛隠るまで羞ぢらひぬ/芝不器男〉を想起した。ともに対象のA面ではなくB面を描く感じ。
気兼ねなく水打つてゐる男かな
ばしゃばしゃという音まで聞こえてきそう。こちらには(まだ)気がついてなさそう。そして作中主体よりももっと透明な視点だけがこの句にはありそう。
連作全体としてどの句も決して珍しくない句材を用いて有季定型のなかでまっすぐに詠んでおり、だからこそ松田氏の句が更新した差分が際立っている。遅くなりましたが、星野立子新人賞のご受賞おめでとうございます!
◆おおにしなお「ゆらめくようにだめなとこ」
ふちゅーいゆーいゆーえい禁止のゆめみる湖
言葉が次の言葉を読んでいる。湖という具体物が置かれていることで、読者は湖を起点としてのびのびと想像を広げることができる。
もっと来ないでね王子 五月のびる群送りながら
我々二十代後半の世代は、白馬の王子を待つことと待たないこと(白馬の王子の存在の否定や超越)の時代の狭間を生きて来た。故に、その存在は認めつつ自己への接近を拒否することに、個人的かもしれないが共感を覚えた。電車に乗りながら「ビル群」を目で流している感じ。あるいは「伸びる群」。どちらの読みも楽しい。
しかしぼろいな梅雨にはびこる言葉の塵
可愛い甘い言葉たちから一転、「しかしぼろいな」の導入は大変手厳しい。しかし「言葉の塵」たちを無下に払いはせず、顔を顰めながらも揺蕩うのを許す。
連作全体として柔らかい言葉や語りが、傷や痛みや屈折を包みこんでいる感じ。その「トゲトゲ」たちは「布団」のなかでもぞもぞとしていて、けれど穴を開けはしない。平成のデコメール文化を一部継承しているような記号の使い方など、日本語でしか書けない俳句を考える際には、おおにし氏の俳句は重要な参照先の一つであると思う。
◆超文学宣言「ハプスブルク家の春」
高木の口語に風の拍がする
背の高い木の葉擦れ。「こう」木の「こう」語で、口が心地よい。
みず巡る接吻もみずあさくあり
水は天下を巡るものである。西洋の雰囲気に導かれるようにして、水面に映った自身に接吻をしようとし落下し、溺死したナルキッソスの神話を思い出した。
合図なくたおれて鹿は孕んでいた
「鹿」をキーワードにして、〈青年鹿を愛せり嵐の斜面にて/金子兜太〉を思い出した。この「たおれて」には何となく死を思う。アニメや映画で銃声のシーンは無声(「合図なく」)でゆっくりとスローモーションでコマが進んでいくことが多いと思う。
像(情景)を簡単には結ばせない俳句たち。言語とか文化とか幅広く、この作者には俳句に先立つ教養というか興味があるのだろうと思った。この方向性において高める/書き続けるのはきっと楽なものではない。だから眩しい。だから凄い。
◆竹岡佐緒理「夏の詰合せ」
あぢさゐや子を通訳に保護者会
温又柔『来福の家』を思い出した。主人公は思春期で、母を疎ましく思ってしまう。何故なら母は中国語を母語とし、日本語を流暢に話せないことが恥ずかしいからだ。この子もヤングケアラーとして作中主体をサポーターとしているのかもしれない。あるいはもっとユーモラスに詠んで、親が子を何かと話の種に使って、媒介(通訳者)とすることで気の重い保護者会を乗り切るという俳句かもしれない。紫陽花は校庭に咲いているのだろう。
掛軸を退かせば穴や蚊遣香
ふふふとなった。穴があったからといって、『ナルニア国物語』のタンスよろしく物語が展開していくことはない。ごくごく小さな穴だ。この日常が続くことを暗示するようにいつもの蚊遣線香の香り。
何者か閉ぢ込められてゐるゼリー
ジブリ映画『猫の恩返し』で猫のムタがゼリーに閉じ込められたシーンが頭を過った。作中主体は半透明なゼリーを掘り進めていく。出て来るのはただのフルーツかもしれないけれど。
「夏の詰合せ」は一句から取られたものであるが、この連作自体も夏の色々な場面の詰め合わせであった。読者へのサービス精神のある楽しい連作だった。炊飯器が壊れたり、白鷺を目に留めたりと、パーソナルで固有な日々の瞬間が、俳句の形式に乗ることで却って普遍的になることは、いつも新鮮で嬉しく思う。
◆上田信治「とは」
散る花のパジャマの下が干してある
穏やかな軒先。下着もパジャマも靴下も組合せが狂うことはままあるが、書き留められると何だか不気味。
海苔の海だれも見てゐない昼の
誰もいない昼の海。静かに殖えて育つ海苔。綺麗な海なのだろう。誰も見ていないなら何でもできてしまう。そのことの怖さ、かつ穏やかさ。
雨のあと菠薐草を食べにけり
不思議で健やかな俳句。雨が降って雨があがることと、法蓮草を茹でることと食べることの二つのタイミングが重なった。人生とは遍くタイミングである、とすら思わされる。
上田氏の俳句は脱力したところが魅力であり特徴だと思うが、これは自然と脱力しているというより、脱力して見せている(魅せている)のだと思う。だからこそ、〈花かつお人生は春ひらひらと〉とさらっと書かれてしまうと、日常を脱力するのとは少し違って、どきっとしてしまうのだ。
■松田晴貴 巣箱 10句 ≫読む 第936号 2025年3月30日
■ おおにしなお ゆらめくようにだめなとこ 10句 ≫読む 第939号 2025年4月20日
■ 超文学宣言 ハプスブルク家の春 ≫読む 第940号 2025年4月27日
■ 竹岡佐緒理 夏の詰合せ 10句 ≫読む 第942号 2025年5月11日
■ 上田信治 とは 15句 ≫読む 第944号 2025年5月25日
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