【週俳3月4月5月の俳句を読む】
翻訳
谷口愼也
韻文である俳句を鑑賞文または批評文として述べる行為は、韻文を散文に翻訳するに等しい。だがその翻訳に特段のルールがあるわけではない。
であれば、「勝手読み」は別として、作品が生きるか死ぬかは個々人の「読み」のオリジナルティにかかっていると言えるのではないか――などと思いつつ、作品に当たってみる。
◆巣箱 松田晴貴
甘海老を殻より抜きて春の山
鞦韆をかけて昔の木となりぬ
藻の花や日影日向とくりかへし
気兼ねなく水打つてゐる男かな
鳰のまたあつまつてきし浮御堂
日常の事がらを韻文として表現しようとするのが俳句。為に季語を応用するのが一般的。だがその季語は、いわゆる「季題趣味」を誘引し易い。この作者は、そこを心得ていて、日常茶飯を平明な文体で描きながら、季語の変容をさりげなく、無理なく行っている。従ってまた作者の感情も、異和なく一句全体の情緒として納得させられる。
1句目。〈春の山〉は〈甘海老〉の甘さやさくら色に著しく変容させられている。季語の変容・変換が表現として成立している一例かと思う。
2句目。なつかしい昔の風景は〈鞦韆〉という古語によってより強調され、本来、木の姿はそのようなものだと思わせるところが面白い。
3句目。時間の推移を〈藻の花〉に託している。日常茶飯の掬い上げ方が板についている。
4句目。叙述型の俳句だ。だから表層の意味性だけに目が行き、句か散文にしか過ぎないという読者も出てくるだろうが、そうではない。〈気兼ねなく〉の措辞に留意すれば、例えばそこに、退職後の〈男〉の解放感が、水打つ行為から精神の解放感にまで広がっていくその爽やかさが読み取れる。
5句目。この句、〈浮御堂〉が変容されている。浮御堂のまわりに鳰が集まって来たというのが表層の意味。〈きし〉は「來し」。この古語の使い方(意味や音調)が1句に微妙に影響し、〈鳰〉の群れは〈浮御堂〉本体の中にまで流れ込む。それを強調するのが〈また〉である。散文的事実を韻文に変容させるその行為が、極めて自然にできているはそのせいであろう。
◆夏の詰合せ 松岡佐緒理
あぢさゐや子を通訳に保護者会
白鷺を中心点に風立ちぬ
カルピスの薄目の実家青田波
何者か閉ぢ込められてゐるゼリー
まずはこの4句を抽出。作者は日常のある日ある時の一点を捉え、それをできるだけ素直に表現しようとしている。
1句目。少し緊張している〈保護者〉と、その場に慣れ親しんだ〈子〉との取合せだが、そこに〈子〉を〈通訳〉と評したおどけ心が何とも微笑ましい。それを〈あじさい〉という色彩で包んでいる。まるで一枚の絵のようでもある。
2句目。一見理知が先行しているかに見える。また〈中心点〉を起点としたその発想にも、特段の新しさはない。だが〈風立ちぬ〉の措辞は、作者そのものが秋風となって舞い上がる爽快感を感じさせる。
3句目。実家の親たちには「薄目のカルピス」が口に合うのだろうか。都会生活に慣れた「舌」は、〈青田波〉と「薄目のカルピス」との調和を感じている、あるいは思い出しているのであろう。
4句目。ゼリーの中には味を一つ付け加えた「何か」が入っているものが多い。そこを〈何者か〉が〈閉ぢ込め〉られていると擬人化した小さなユーモア。何でもないことが俳句(詩)になっている。
◆とは 上田信治
花かつお人生は春ひらひらと
濡れてゐて考へ顔のあざらしよ
はまぐりや夜開いてゐる喫茶店
富士山もいそぎんちやくも穴開いて
散る花のパジャマの下が干してある
花鳥賊のみなとに雲の多かりし
会館に昔の松や雲に鳥
日永とは鯉一つゐる町の川
作品は15句提出してある。表題の「とは」とは「永遠」のこと。いや、「人生とは」の「とは」か? 表題で少し戸惑うが、作品をみれば、作者の思いはその双方にまたがっているようだ。私が興味を持ったのは、この作者の「エモーション」(emotion)の在り方である。すなわちそれは、情感・情動・情想、等の「動き(流れ)」のこと。文学の根源的は「エロスとタナトス」と言われているが、そのエモーション(エロス)の在り方が面白い。
以下、抽出句は、こちらの都合のいいように順番を入れ替えてみた。
1句目。〈人生は春〉と言い切ったその青春性は、この作者の文学的な志向を言い放っている。すなわちそれは「解放感」。〈ひらひら〉がそれを軽く言い止めている。だがこれを単純に、薄っぺらなどと言ってはいけない。2句目、3句目、4句目に目を移せば、「濡れてゐるあざらし」も「夜開くはまぐり」も、「穴開いている富士山やいそぎんちやく」も、隠語を交えての性的暗示性にんでいる。そして「表現」としてのそれらの個体には現実以上の手触り感がある。すなわち作者は、個のエロスを、より直截に肉体的なものとして拡張、開放しているのである。
5句目。俳句定型の特色のひとつである「の」の文法とでも言うべきものの活用だ。〈散る花のパジャマ〉では意味不明。またこれは「散る花がプリントされたパジャマ」などではない。要はこれは下半身の話。夢想の果てのその様を軽い滑稽感に変換している。それを超論理としてが可能にしているのが〈の〉応用による〈散る花のパジャマ〉である。散文的な意味は成立しなくとも、読者にはそのエロチシズムを自然(じねん)納得できるのである。
6句目。ここにも〈の〉の文法が応用されていてるので、もちろん「花烏賊」は主語にはならない。すなわち「花鳥賊が所有する港」とはならない。表層の意味合いは(せいぜい)「花烏賊がたくさん獲れる港」ということになる。だが作者の情感は、夏雲の立つ美しい港を幽かなエロチシズムで成立させている。何故ならそこに〈花〉の一語があるからだ。これが単なる〈烏賊〉であれば、その生臭さしか残らない。〈花筏の港〉の〈の〉はそういう解釈を導き出している。
最後の2句はまさに「ザ・俳句」という感じ。6句目は「定型」の中に凝結した時間を開放し、7句目は逆に流れる時間を〈永遠〉という一語で凝結化している。
いずれにしてもこの作者は、俳句は「定型詩」であることを十分に理解し、その上で「生」(性)のエロスをどう開放していくかに挑戦している人のように思える。
◆ゆらめくようにだめなとこ おおにしなお
抉れてえんちゅういつかこころになれるかなあ
だいぶ難あり銀河こそこそ描写して
あのねはつゆき、 あ、初雪の なんでもない
ふちゅーいゆーいゆ―えい禁止のゆめみる湖
しかしぼろいな梅雨にはびこる言葉の塵
この作者の特徴は、話し言葉の音調の不思議さにある。それは書き言葉とその意味性との相互干渉の程合いによって成立するもの。その程合いが(読者に取って)まずければ、それは難解句となる。その中でも私が気持ちよく読んだのが上の4句である。
1句目。〈えんちゅう〉は「円柱」かと思う。いや「炎昼」ではどうか? まずはそう思うのであるが、その私(読者)の「思い」は、最初から〈抉れて〉いるのである。その奇妙な不思議さが,下句〈いつか心になれるのかな〉をごく自然に導き出している。
2句目。この句、〈こそこそ〉によって、意味性と音調の調和が程よく伝わってくる。
3句目。これも面白い。〈あのねはつゆき〉は作者の呼びかけ。それが唐突に〈あ、初雪の〉という視覚的イメージに変換されるが、それも〈なんでもない〉の全面否定で打ち消される。読者に残るのは意味を成さない3つの意味性のバラバラの動き。すなわちその高低や飛躍の動きが不思議な音調となって伝わってくる。
解釈するに難解なのが4句目であろう。〈ゆ〉で押し通す音調。〈ふちゅうーい〉の後の〈ゆーい〉が問題。その言葉に「有意」(そうしようとする意志)を絡めてみるとかえって混乱する。〈ゆーい〉は次の〈ゆうえい〉を誘引するための仕掛けと見てよい。それでも「ゆうえい禁止の湖」を〈ゆめみる〉のであるから、それは確かに表題通りという面白さに通じてくる。
5句目は、〈ぼろい〉のは〈梅雨にはびこる言葉の塵〉という平板な比喩に終わっているのではないか。
残りの句は、今の私では理解が届かない。別の人の解釈を見て見たいものだ。
◆ハプスブルク家の春 超文学宣言
ながい前書のようなものが付いている。だが作者は(これは前書ではない)という。そこを読むと、これはシュールな「現代詩」のように思える。だが、ハプスブルク家の盛衰は豆知識としては知っているが、それにまつわる史実や物語などは知らない。ましてやシェーンブルグ宮殿やウイーン盆地などは全く知らない。すでにこの時点で私は読者失格なのであろうが、このシュールな風景を下敷きにして、作品が描かれていることは理解できる。従って、
ふるえるか。書けば春夜の水面あり
ゆるやかに回転しつつ庭が咲く
うつむけばペルソナに木の洞浮かぶ
などは、(前書のようなものがなくとも)なんとなくわかるような気がするが、次のような句は、現代詩の中の一行(断片)を読むようで、お手上げである。
ステンドグラスを割り海を濡らすな
劇のまなかを白い灯火ら消えてゆく
遠くよばれて離宮の門が灼ける
従ってここもまた、別の人の解釈を見て勉強してみたいと思っている。
■松田晴貴 巣箱 10句 ≫読む 第936号 2025年3月30日
■ おおにしなお ゆらめくようにだめなとこ 10句 ≫読む 第939号 2025年4月20日
■ 超文学宣言 ハプスブルク家の春 ≫読む 第940号 2025年4月27日
■ 竹岡佐緒理 夏の詰合せ 10句 ≫読む 第942号 2025年5月11日
■ 上田信治 とは 15句 ≫読む 第944号 2025年5月25日
0 件のコメント:
コメントを投稿