【野間幸恵の一句】
38万キロメートル
鈴木茂雄
きょうもまた月までの距離で飲むコーヒー 野間幸恵
野間幸恵のこの句は、日常の行為に宇宙的スケールを重ね、詩的で思索的な世界を創出する。月は伝統的に秋の季語とされるが、作者はこれを季節の枠から解放し、物理的・象徴的存在として扱うことで、普遍的な詩情を紡ぎ出す。
「きょうもまた」は日常の繰り返しを軽やかに示し、時間の連続性を浮かび上がらせる。一方、「月までの距離」は約38万キロメートルという科学的視点を導入し、日常を超越した広がりを提示する。この対比が句の核心であり、コーヒーを飲む平凡な行為が、広大な宇宙的イメージと結びつき、詩的飛躍を遂げる。
月は遠さや静寂、憧憬を象徴し、科学的距離感がそのイメージを深化させる。コーヒーを飲みながら月を思う行為は、現実と空想の間を自由に行き来する人間の意識を映し出す。
コーヒーは覚醒や休息を象徴し、現代人の生活に根ざした親密な存在である。その温かさや香りは感覚的な喜びを呼び、冷たく遠い月との対比を際立たせる。作者は、身近な行為を通じて宇宙的スケールに触れる瞬間を捉え、日常の細部に無限の広がりを織り込む。
音韻的には、「きょうもまた」の軽快な反復と、「月までの距離」のゆったりとした響きが、句に独特のリズムを与え、十七音の枠内に日常と宇宙、有限と無限を共存させる。
この句は、現代人の内省や日常の中での心の飛翔を象徴する。月を普遍的イメージとして捉え直し、科学と詩を交錯させることで、作者は現代俳句の新たな地平を開く。コーヒーという身近な媒介を通じて月を思う行為は、自己と世界のつながりを静かに再確認する瞬間であり、読者に思索の余韻を残す。
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