【野間幸恵の一句】
ふらすこ
鈴木茂雄
ふらすこがいまわのきわを滴れり 野間幸恵
ある静かな午後、ふと俳句を手に取ると、十七音の小さな宇宙に引き込まれてしまうことがある。野間幸恵の「ふらすこがいまわのきわを滴れり」は、そんな句のひとつだ。平仮名表記で書かれてはいるが、フラスコという冷たい器具は、人の命の最後の瞬間と結びついたこの句は、まるで実験室のガラス越しに見る生命の物語のようだ。「滴」という漢字に託された、このたった一滴の液体が、時間と存在の重みを語る。今日はこの句を、ゆっくりと読み解いてみたい。
まず、目を引くのは「ふらすこ」という言葉だ。フラスコ――化学実験のガラス器具。無機質で、どこか冷ややかなその響きは、日常から少し離れた場所、たとえば薄暗い実験室の棚に並ぶガラスの輝きを思い起こさせる。カタカナの硬い音は、まるで科学の客観性そのものを体現しているようだ。しかし、このフラスコはただの道具ではない。この句では、命や時間の象徴として、もっと大きな役割を担っている。フラスコの中で揺れる液体は、まるで私たちの心臓の鼓動や、命の最後の瞬間を映し出す鏡のようだ。
そして、「いまわのきわ」という言葉。この言葉が、句に劇的な緊張感を吹き込む。「今際の際」とは、人が死に直面する瞬間、命が終わるその一線だ。仏教や古い和歌にも通じる、人生の無常を凝縮した言葉だ。この重い表現が、フラスコという無機質な器具と並ぶことで、驚くほど鮮烈な対比が生まれる。科学の冷たさと、命の熱量。無機と有機。永遠とも思える時間の流れと、刹那の終わり。この二つの世界が、十七音の中で出会い、火花を散らす。フラスコの中の一滴が、まるで魂の最後の吐息のように感じられる瞬間だ。
最後の「滴れり」が、この句の核心だ。一滴の液体が、ゆっくりと、しかし確実に落ちていく。その音、そのリズムは、時計の秒針や、遠くで響く心拍のようだ。「れり」という終止形が、動作の完結と同時に、静かな余韻を残す。滴りが落ちる瞬間、時間は止まり、しかし、また動き出す。この一滴には、命の終わりと始まり、時間の不可逆性が凝縮されている。読む者は、実験室の静寂の中で、滴る音を耳にしながら、命の儚さと美しさに思いを馳せる。
この句の季語は「滴り」だが、まるで季感を明示する意思がない。むしろ季節は夏、と明示すること自体がナンセンスと思われる。このフラスコの中の「滴れり」のイメージは、秋の澄んだ空気や、冬の凍てつく実験室を連想させる。たとえば、秋の夕暮れ、窓辺で冷たいガラスに触れるような感覚。あるいは、冬の朝、実験室の静寂の中で滴る水音。こうした季節の気配が、句に透明な美しさを添える。季感がないことで、逆にこの句は特定の季節を超え、普遍的なテーマ――命、時間、存在――を浮かび上がらせる。伝統的な俳句の枠組みを借りつつ、現代的な自由さで表現する作者のセンスが光る。
音の響きも素晴らしい。「ふらすこ」の硬質なカタカナの音は、科学の冷たさを体現し、「いまわのきわ」の重厚な和の響きと対比をなす。この二つの音が、まるで無機と有機、永遠と刹那の対話を織りなす。下の句の「滴れり」は、軽やかな「り」音で終わり、滴る液体のリズムを耳に響かせる。この音の流れは、句のテーマである「時間の流れ」を聴覚的に再現し、読者の心に余韻を残す。
この句の背景には、科学と人間の交差点への深い洞察がある。フラスコは、単なる器具ではなく、生命の探求や真理の追究を象徴する。化学反応の場が「いまわのきわ」と結びつくことで、科学が命の神秘に迫る瞬間や、人間が自らの有限性を見つめる瞬間が描かれる。滴る液体は、生命のエッセンス、時間の経過、魂の断片とも解釈でき、読者に多層的なイメージを呼び起こす。作者は、科学の無機質さと人間の感情を巧みに交錯させ、命の儚さと美しさを浮かび上がらせる。
視覚的な力も強い。フラスコから落ちる一滴の透明な輝き、静かな実験室の光景――これらが、読者の心に鮮明な絵を描く。滴る一瞬に、命の終焉や時間の停止が凝縮され、その刹那の美しさは、芭蕉の静寂の句に通じる静けさを持つ。現代的な題材を使いながら、俳句の伝統的な美意識を継承するこの句は、洗練された美しさがある。
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