(新)成分表 1
石原良純
上田信治
石原慎太郎の子供は、四人いるけれど、みんな自分が好きでなさそうに見える。
そういうふうに育てられたのかもしれない。
そのことは、すごいスター性のなさとして現れていて、そういう人は人気が出ない。
だったら、人気商売をやらなければいいのだけれど、あの家族は、裕次郎という叔父さんもいたから、有名でなければ人権がないようなところがあったのだろう。
気の毒なのは石原良純という人で、俳優兼タレントになった彼は、三十も半ばを過ぎてから、北区つかこうへい劇団に入ったり、気象予報士の資格を取ったりしていた。
それはきっと、なんらかの能力を獲得して、自分というぬいぐるみに中味を詰めようとしていたのだ。
ということは、と急に思った。
能力や役割と、自己愛は、ぬいぐるみの中味として交換可能なのだろうか。
さあ、それはどうだろう。自分を、中味の足りないぬいぐるみのように感じる人にとっては、たぶん、そうなのだと思う。
○
生命にとって「自分が好きかどうか」は判断のしようのない「ない質問」だ。けれど、人の心は、セルフィーのように、ひっくり返して自分を映すことができる。
だから「自分を好きでない」という状態がありうるわけで、それは、他人の目で自分を見る人だけにある感情だと思う。
スマホのインカメラが性能が低いことによく似ていて、たいした像が得られるわけでもないけれど、まったく「人目を気にしない」ことは良くないことらしいので、人は、ぬいぐるみのように生きることを(つまり自己像を自己として生きることを)強いられる。
自己愛は、足りない「自分」を自分でふくらませる営為なので、うっすら劣等感が見えてしまって、苦しげかつ滑稽なことが多い。
けれど、たまに、もともと足りている「自分が好き」に自己愛でブーストをかけて、パンパンに詰まったぬいぐるみのようになっている人がいて、そういう人は、一見タマシイが大きいように見えるので、人を惹きつける。
石原良純の父親は、そういう人だったのかもしれない。
自分をパンパンに大きく見せることは、ひどく気持ちのいいことに違いない。メディアに出ているのは、そんな人ばかりだ。
○
むかし穂村弘が、短歌はタマシイの比べっこだと言ったことが、自分にはずっと残っているのだけれど、ものを作る人は、自分のタマシイの最大値を、作品に記録するのだと思う。
あるいは、ぴょーんと高く跳んで手の跡を残す。いつでもその最高地点を、自分でふり返ることができるので、気持ちがいい。
そして、芭蕉のような人は、人類の最高地点を記録していたりする。
海くれて鴨のこゑほのかに白し 芭蕉
朝はパン飛んでゐる白鳥を見る 上田信治
よく「タマシイの比べっこ」と言いながら、芭蕉と自分を並べられるね、という声が聞こえてくるけれど、ここは並べたほうが面白いと信じられるので、平気。
○
いまの石原良純は、ほどよく中味の詰まった人として幸せそうに見える。
テレビの仕事が上手くいっていることが大きいのだろうけれど、パンパンにふくらんでいた父親が、しょぼしょぼになって死んだことが、救いになったのかもと、思ったり思わなかったり。
0 comments:
コメントを投稿