【野間幸恵の一句】
階段
鈴木茂雄
広島を去る階段が終わらない 野間幸恵
野間幸恵のこの一句は、「広島」という地が孕む歴史的トラウマを、極めて抑制された表現で体現した秀作である。本句は、2019年に刊行された彼女の第四句集『ON THE TABLE』(TARO冠者)に収められており、作者の代表句としてしばしば言及される。表面上は「去る」という単純な離別の動作を描いているに過ぎないが、「階段が終わらない」という反復的なイメージが、離脱の不可能性を露呈させる。読者はここに、被爆地の記憶が永遠に「去り得ない」ものであること、そして去ろうとする主体自身がその記憶に囚われ、果てしない上昇を強いられるという、残酷な逆説を読み解かざるを得ない。この構造は、単なる個人的な喪失ではなく、集団的記憶の重層性を示唆し、戦後文学の文脈においても深い示唆を与える。
「階段」という具体的な形象の選択は、実に巧妙である。階段は本来的に、垂直の運動を通じて過去を下方に置き、頂点へと向かうことで現在や未来への移行を象徴する装置だ。しかし、この句ではその論理が逆転し、上昇するほどに「広島」の影が濃密に増幅され、出口が永遠に遠ざかる。こうした逆説は、物理的な空間運動が時間軸を崩壊させるメタファーとして機能し、被爆の余波がもたらす永続的な「いま・ここ」の停滞を喚起する。それは、爆心地から放射状に拡散した放射能が、時間そのものを汚染し続けるかのような、物質的・形而上学的残留を連想させる。野間はここで、階段を単なる比喩ではなく、身体的体験として定位させることで、読者の感覚に直接的に訴えかける。結果として、この句は視覚的な静止画ではなく、動的なループを生成し、広島の歴史が循環的なトラウマとして存続することを強調する。
注目すべきは、伝統的な季語の不在である。代わりに「広島」という固有名詞が、句の核心を担っている。この固有名詞は、俳句の文脈で稀有な「歴史の季語」と呼ぶべき重みを帯び、必然的に1945年8月6日の原爆投下を喚起する。野間幸恵は、この重みを正面から受け止めつつ、直接的な被爆描写――血痕、炎、慟哭――を意図的に回避する。こうした省略の技法は、かえって「語り得ぬもの」の圧倒的な存在感を増幅させる。アドルノの有名な警句「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」を思い起こさせるが、野間は沈黙に近い簡潔さを通じて、叫びを超えた深い共振を生み出す。広島を詠む俳句は、しばしば感情の噴出に傾斜しがちだが、この句は抑制の美学により、読者の内省を促す点で独自の位置を占める。
形式面では、五・七・五の伝統的な枠組みを厳格に遵守しつつ、句は底知れぬ深淵へと導く。「終わらない」という現在形で切れる点が特に効果的で、過去の出来事として封印されるのではなく、現在進行形の苦痛として位置づけられる。これにより、広島は「終結した歴史」ではなく、「終わらない現在」として告発される。この文法的な選択は、戦後日本の記憶文化を反映し、加害と被害の複雑な交錯を想起させる。野間幸恵の作風は、全体として日常の断片を抽象化する傾向が見られるが、この句ではその手法が広島のテーマに適合し、普遍的な絶望を抽出する。
最終的に、この一句は戦争俳句の新たな地平を開拓する可能性を秘めている。慟哭や糾弾を排し、ただ「階段が終わらない」という日常的な絶望の感覚を提示するだけで、読者の足元から基盤を崩す。言葉を極限まで削ぎ落とすことで、広島の重みを最大限に響かせる野間のアプローチは、ミニマリズムの文学理論と共鳴する。沈黙に近接した簡潔さの中に、無限の階段が延々と続き、読者を永遠の反芻へと誘う。この句は、単なる追悼の表現を超え、記憶の倫理を問い直す批評的な装置として機能する。野間幸恵の仕事は、現代俳句が歴史の重層性をいかに扱うかの模範を示しており、さらなる探求を促す価値がある。
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