【番外・音楽千夜一夜】
ジェドゥ=ブレイ・アンボリーのスープ
小津夜景
このあいだ新しいレコード屋へ行った。
知り合いに「行け行け」と十年くらい言われつづけ、そのたび「はいはい」とうなずくだけで済ませてきた店である。それが、十年ぶんの面倒くささを一気に払うみたいに急に行く気になった。
店に入ると、通路が一本、細く伸びていた。
うなぎの寝床をさらに半分に折りたたんだような狭さで、もはや寝床ではなくうなぎの神経に入っていく気分である。左右の壁は全部レコード。人がすれ違う余裕はない。突き当たりには店主。その横には老犬がいる。
老犬に見張られながら、知らない音楽ばかり並んでいる棚を神妙な顔つきで眺めていく。ジャケットが気に入ったのでレ・ディアブロタンというガボンのバンドのレコードを買った。
で、家で聴いたら、これがまあ散らかっている。
別に悪口ではなく、散らかった部屋に住んでいる人が、その散らかりを「ちょうどいい」と言っている感じ。いろんな出自の音が置きっぱなしで鳴っていて、誰も片づけようとしない。それでも崩れない。崩れないまま生活が成り立っている。録音が粗いとか技量がどうこうではなく、これはもう趣味性の問題で、整えた瞬間に死ぬタイプの散らかりだ。
ギターはじゃらっとして、ホーンはやや上ずり、ドラムは陽気で、なぜかその陽気さが物悲しい。昼の光がまだけだるくて、なのにそこへ夜の影がそろりと寄ってくる時刻。あれを音にするとたぶんこうなる。好き嫌いではなく、街角の景色として聴くとしっくりくる。ハイライフというジャンルらしい。
この話を知り合いにすると、すぐ食いついてきた。
「アンボリー、聴いたことある? ジェドゥ=ブレイ・アンボリー」
こちらが「ないよ」言う隙を与えずさらに続ける。
「ハイライフに一個乗っけてシミグワ・ドってジャンルをつくった人。まあ、俺ジャンル、の人だな」との由。
俺ジャンル。いい言葉だ。まだ聴いてもいないのに、「ああ、そういう人か」と九割くらい理解したような気になる。
と思ったのだが、いざ聴いてみると、こちらの音楽知識が心もとなさすぎて、どこが「俺」でどこが「ジャンル」なのかさっぱり摑めなかった。それでも、いい。ものすごくいい。軽いハイライフの上にファンクが乗ったり、ジャズが乗ったり。そのあいだをアンボリーのしゃがれた語り歌がマイペースで横断していく。それぞれのタイヤが好き勝手な速度で回っているのに、車は快適に前へと進んでいく。癖になる。
ちなみにレ・ディアブロタンとは別物だ。あっちは「散らかっているけど居心地のいい部屋」。多民族都市の雑踏みたいな、自然発生の寄せ集まり。一方アンボリーは「散らかって見えるようにデザインされた部屋」。おしゃれなアッサンブラージュの手触りがある。
調べてみたところ、アンボリーはガーナではちゃんと巨匠で、七〇年代のハイライフ再編の中核を担っている。ラップを商業音楽に持ち込んだ最初期の人でもあるとか。ただ世界的には巨匠というよりレコード好きが反応する奇才くらいの扱いだ。俺ジャンルの人の宿命なのかもしれない。
「音楽っていうのはアプローチの問題なんだ。うまいスープには、ちゃんとした材料が必要だろう? 俺のスープは、ハイライフとジャズ、カリプソ、ファンクを組み合わせて、それらを全部ひとつに混ぜ込んだものだ。そのやり方がうまくいくんだよ」
スープ、と言われて腑に落ちる。鍋の底で具がおのおのぷかぷか揺れている状態。たしかにそれだ。ちなみにシミグワ・ドはトウィ語で「私は王であり、玉座に座っている」という意味らしいが、アンボリー談なのでどこまで本当かはわからないな、と思いつつ YouTube を開いた。
すると、つい二ヶ月前の KEXP で、七十八歳のアンボリーが、さらっと立って、さらっと歌っている映像が出てきた。
いや、立つんだ。ライブやるんだ。普通に現役なんだ。
ということは、まだ生で見られる可能性が残っているってこと?
すっかりもう伝説人かと思ったら、ぜんぜん違った。
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