2026-01-25

土井弘一郎 瀧口修造の俳句的断章について

 瀧口修造の俳句的断章について 

土井弘一郎


はじめに

瀧口修造(一九〇三―一九七九)は日本におけるシュルレアリスムの受容者・牽引者として、また戦前・戦後を通じて詩人・美術評論家として活躍した人物である。その文学的歩みを概観すると一九二六年慶應在学中に同人誌『山繭』に散文詩「雨」を発表したのを皮切りに西脇順三郎編のアンソロジー『馥郁タル火夫ヨ』や北園克衛の『衣裳の太陽』、春山行夫らの『詩と詩論』などに次々と詩や評論を寄稿し一九三〇年にはフランス超現実主義の旗手アンドレ・ブルトンの著書『超現実主義と絵画』を翻訳出版、この頃から本格的に美術批評の活動を開始している。詩作と美術評論を並行して行い一九三七年には画家・阿部芳文(展也)と共作の詩画集『妖精の距離』(1)を刊行、翌一九三八年には評論集『近代藝術』を出版した。

『妖精の距離』と『近代藝術』はいずれも瀧口初期の出版された重要業績として言及される。特に『近代藝術』は瀧口を世間に知らしめた代表作であり、美術評論家としての地位を確立する大きな転機となった。瀧口自身、


『近代藝術』は昭和十三年に三笠全書の一冊として刊行されたものである。昭和の初頭からシュルレアリスムに熱中し、詩をこころみていた私は、すでに昭和五年にブルトンの『超現実主義と絵画』の訳本を出していたけれど、美術評論家というレッテルをはられるようになる素地は、よかれあしかれこの本あたりに発しているのだろう。(3)


と回想している。美術雑誌などで同時代の画家たちを紹介し現代美術の啓蒙に努めたこの評論集によって「現代芸術に目を開かれた人びとは、すでにかなりの厚い層をなしているかもしれない」(4)と針生一郎が述べたように多くの読者が刺激を受けた。

このように詩人として出発しながら美術評論家としても語られることの多い瀧口であるが評論家もしくは詩人であること以前に彼はまず「日本におけるシュルレアリスムの正統な受容者」であり続けた。『近代藝術』でも「シュルレアリスム論」の章を設けシュルレアリスム芸術の紹介と分析を積極的に行っている。(5)

同書ではブルトンとポール・エリュアール共著のシュルレアリスム的実験的小説『無原罪の御宿り(L'Immaculée Conception)』に触れ、その中の一節「ぼくは若い頃の自分、水兵服のポケットにヘラクレス星座を隠しておいたが、年老いてから水切りをして遊ぶぼくの墓石に身代金をつけて、彼を開放してやった。」を引用し当該形態の文章表現を「言語映像の詩法」と呼称、ブルトンの「物体詩(Poème-objet)」の試みの一例だと位置づけた。そしてシュルレアリスムの「オブジェ(objet)」とは「日常・現実の用途や概念からまったく離れて、人間の欲望と幻想との機能に一致させる」ものだ、と解説している。

興味深いのはこの「物体詩」概念と現代俳句の先鋭的な感覚との響き合いである。例えば現代俳句作家・鴇田智哉は自身の句集あとがきで


生えている句を作りたい、と思ってきた。草や花がそこにあるように、俳句もまたある。(中略)だから私は俳句を、記録や報告や手紙、あるいは日記とは違って、造形物とか音楽に近いものだと思ってきた。


と述べている。(6)俳句を単なる記述ではなく自律した「造形物」として捉えなおすこの感覚は瀧口が追究したシュルレアリスムのオブジェ―日常的意味から解放された純粋なイメージの塊―と通底するものがあるのではないだろうか。

瀧口が生涯こだわり抜いたシュルレアリスムと日本の伝統的定型詩である俳句表現とはごく単純な図式に当てはめれば革新と伝統というように一見かけ離れたものに思われる。しかし上記のようにその根底ではどこか共鳴し合う部分があるのではないか。また俳句という形式を「瀧口修造」という日本のシュルレアリストを通して捉え直すと新たな相貌が見えてくるのではないか。本論は、瀧口修造の俳句との関わりを整理し、瀧口にとっての俳句表現の必然性について考察するものである。俳句プロパーから瀧口を見るという作業は加藤郁乎が西山宗因、井原西鶴、談林時代の松尾芭蕉の作品をあげて瀧口が試みたシュルレアリスムの活動との接点をあげている程度(7)であり、俳句側からの積極的な瀧口理解にまだ大いに白地があるということも本論の動機のひとつである。松尾芭蕉とシュルレアリスムや瀧口との連関については藤井貞和も指摘している。(8)


第一章 瀧口修造と短歌―抒情詩的出発

瀧口修造は青年期、短歌の創作に熱中していた。富山県に生まれた瀧口は旧制富山中学在学中の一九二〇年(十七歳)の頃、斎藤茂吉の歌集『赤光』や木下利玄の『紅玉』に触れて大きな衝撃を受け、一時は短歌に没頭したという。この時期には上田敏訳の象徴詩集や蒲原有明の詩などにも親しみ、詩的表現への憧れを募らせていたようである。(9)

また地元紙への投稿作品などからも瀧口の短歌熱がうかがえる。瀧口が富山中学四~五年生だった一九一八~一九一八年頃、計八首(内、瀧口をさむ名義は二首)の短歌作品が校友会誌や新聞に掲載されているのが確認されている。(10)

例えば第四学年の短歌には


しみじみと力が欲しくなりにけり 

小き野草の繁るを見ては


零落!零落…何ものか耳に囁けり

暗き軒端にズイチヨ鳴き居り


といった抒情的な歌があり、第五学年の歌にはアララギに通じる万葉振りへの志向が感じられる


夕風は吹きいづるらし溝畑の

のこぎりばなのしづめる赤さ


あめぐものうすさけ光るひるまへを

ふもとにちかく鶏なくきけり


がある。また一九二一年一月一日付の『富山日報』には


背戸口の栗の大木に吹きあつる

雪まばらかにさやけくもあるか


という瀧口名義の短歌が掲載されており、これは歌人・若山牧水の選歌欄に採用されたものであった。これら青春期の短歌からは後年のシュルレアリスム詩人・美術評論家となる瀧口修造の姿は直ちには想像できないが短歌的抒情の世界を通過儀礼のようにくぐり抜けている少年瀧口像を垣間見ることができる。

瀧口自身は後年この短歌創作に耽った時期をかなり客観視している。一九七三年、親類にあたる宮英子が属した歌誌「コスモス」に寄稿したエッセイ「短歌に因む私見」(11)で、若き日の短歌や俳句作りの体験について


既存の詩や句の形を藉りて書いた記憶がある。それは相手を前にしての戯作か、或る時代の苦し紛れの不本意な仮作にすぎなかった。私は世にいう厳密主義者でも、純粋主義者でもなく、矛盾に満ちた人間である、それにもかかわらず(?)、私は詩の領域に足を踏み込む当初から、あたえられた詩型からの脱却を前提とするよう宿命づけられていたのであろうか。


と記している。結果として瀧口の短歌熱は十代の一時期に過ぎなかったかもしれない。しかし茂吉の『赤光』に心酔し、自らも短歌という定型詩で青春の感情を表現していた時期が確かに存在したのである。当時の『赤光』の影響力の大きさを考えれば多感で早熟な地方少年にとってはあるべき事象であるが瀧口を語るときに、その心性表現の端緒に短歌とその情緒的影響があったことは重要な事実として押さえておくべきである。


第二章 詩的実験の時期―シュルレアリスムへの傾斜

少年期を終えた瀧口は上京し一九二三年に慶應義塾大学文学部予科へ進学するが学業へ失望、ウィリアム・ブレイクのイノセンスの思想にあこがれを抱いていた。関東大震災を経て二年間の放浪的な期間を過ごした後、姉の強い勧めで慶應へ再入学、そこから本格的に文学・芸術のモダニズム運動に触れていく。 一九二六年永井龍男の誘いで『山繭』に参加。この前後で英国留学から帰任した西脇順三郎と出会いその後五年間師事する。西脇は当時最先端の欧米詩を紹介しており、瀧口は彼を通じてランボーの新しい啓示やブルトンの「シュルレアリスム宣言」に直に触れて強い影響を受ける。西脇や北園克衛、春山行夫らとの交流の中で瀧口は徐々にシュルレアリスムへ傾斜していった。しかしながら『山繭』の時代の瀧口については


都会の高踏派のなかにいる瀧口さんは、やはり北陸の暗い空の下で生まれた人で、ときに中野重治のような眼で都会の文学グループの生活を見ていることに気づいたからである(12)


という田辺徹の鋭い証言もあり、単純な衣装としてモダニズムを取り入れた都市的インテリゲンチアと瀧口の相違点も押さえておくことは本質理解のために重要である。

瀧口の詩的活動としてまず挙げられるべきは一九二七年頃から一九三〇年代後半にかけて展開された数々のシュルレアリスム詩の実験にある。これらは後に編集され『瀧口修造の詩的実験1927―1937』(以下『詩的実験』)として刊行された。(13)この時代の詩作品は非常に透明で極めて美しいのだが一律の読みを許さず、いくつかの論文(例えば秋元祐子による『瀧口修造研究』、(14)これは瀧口の初期詩編二部から地球創造説に至る中間地点である『六月の日記から』においてウィリアム・ブレイクの影響を明確にとらえバシュラールを用いてテキスト分析をするなど示唆に富んだ労作。ただ地球創造説への兆しを『山繭17号』に掲載された『冬眠』『断章』に求める論もある。(15)または土渕信彦によるテクストの文体論を扱った先行研究(16)も併せて参照のこと)や多くの方向感のバラバラな評論群と知人たちによるエンコミアムのような覚書がある。そのなかで鶴岡善久は瀧口のこの時期の詩作品群を主に次の三つに分類している。(17)この分類は妥当である。


「地球創造説」の時代(一九二八年)

「仙人掌兄弟」「TEXTES」「絶対への接吻」「花籠に充満せる人間の死」その他の時代(一九二八―一九三一年)

「地上の星」「岩石は笑った」「五月のスフィンクス」および詩集『妖精の距離』の時代(一九三二年~以後)


「詩的実験」はある限られた時期に発表された詩群を対象として編集されており瀧口の詩的活動全体を網羅するものではない。例えば前節で触れた十代後半の短歌作品や、後述する戦後の断章的作品(いわゆる後期瀧口の活動)などはこの射程外である。「詩的実験」は重要な作品群であるが「詩的実験」以外の詩的活動にも重要な瀧口に関する資料があることを改めて記述しておく。

瀧口はそのままシュルレアリスムに傾倒していったが、その過程の初期ではなお短歌的抒情の痕跡が認められる。鶴岡善久は詩的実験の中からは漏れている『山繭』に掲載された瀧口の最初期の散文詩『雨』『月』(18)には「私性」の痕跡があり、同時期にモダニズムの詩を書き始めた北園克衛や上田敏雄が「没私」の状態で海外の詩の意匠を真似た詩を書いたことと比較して、瀧口は日本の自然のなかの「私」に忠実であり、それによって(単なる意匠としてシュルレアリスムを理解するのではなく自己の肉体としてシュルレアリスムを捉えつつ)表出する自我と現実のあいだの「主体」の激変からシュルレアリスムへ向かっていくことができたと述べている。(19)

こういった「私性」を秘匿した下敷きとして鶴岡分類による①の時代の「地球創造説」のような非常に結晶化されたイメージのきらめくような作品が生まれてくる。瀧口は当時について


私には文体の趣味はどうでもよかった。レトリックなどはどうでもよかった。別の何ものか、イメージの抽象的な痙攣と火花のようなものをもとめて足りたのである〈中略〉また自分自身があきらかにその影響をうけながら、日本のシュルレアリスム的な詩のフォルマリスム的な、あるいは芸術至上主義的な語法にあきたらなかった。アクチュアリテのなかを通したいという誘惑にたえず見舞われた。(20)


と記しもともと自分のなじんでいた定型や西欧からきた新しい意匠についてもかなり自覚的意識的に決別しイメージの火花を作り出すことに専心したことを振り返っている。瀧口修造というシュルレアリスム詩人の確立は、短歌的な私性からの発進を意識しつつもその詩的表現の意匠についてはシュルレアリスムを含めてあらゆるものからの影響を否定する形でなされていったと言える。

瀧口はこうした詩作を並行しつつ美術評論や翻訳活動へも活動を広げていく。大学卒業後はピー・シー・エル映画製作所(のちの東宝)にスクリプターとして勤務しつつ、海外のシュルレアリストたちと文通交流を行い、一九三七年には「海外超現実主義作品展」を日本で開催するなど精力的に活動した。しかし時代は徐々に戦時色を強めていく。


第三章 特高警察による検挙と俳句的表現の開始

一九三〇年代末から日本政府の言論統制は厳しくなり前衛芸術も弾圧の対象となっていった。シュルレアリスムとマルクス主義についての関係について加藤彰彦のまとめがある。


アンドレ・ブルトンにとって、シュルレアリスムとは現実の変革を目指すという意味で、革命に繫がっている。実際ブルトンは政治的領域における革命を視座に据えているのだが、革命というものがいわゆる暴力革命として捉えられ、暴力的であり得ることから、それを避け、芸術的領域において革命を試みるということも可能性として出てくる。(21)


フランスのシュルレアリストたちはそもそも内部の混乱や思想の揺らぎがあり最終的には共産主義者からは絶縁されるのだが、このように評価される程度には革命との親和性を思想的に包含していた。そのような歴史過程や思想評価の中で瀧口修造も一九四一年三月五日、治安維持法違反の嫌疑で警視庁特別高等警察に検挙され十一月まで杉並署留置所へ拘留されてしまう。この獄中体験は瀧口にとって精神的に過酷なものであったが肉体は雑役によって健康になったと自筆年譜にある。

そのような状況下で瀧口は初めて俳句らしき短詩形の表現を試みた。以下は瀧口が拘留中に作った現在確認することができる最初の俳句表現である。


方寸の怒り見せたり小揺れ蓑虫


一九四五年八月、戦争が終結し瀧口も自由の身となった。終戦直後の解放感の中で彼はさらに二つの俳句を残している。


黒揚葉抜けて涼しき竹の奥

星月夜ついに敵機は来ずなりぬ


馬場駿吉はこの蓑虫と黒揚羽の句について


それぞれが本質的に担っている行動空間をただちに想起させる生物体である。状況の変化をまず空間認識という物理的な感覚の揺れ動きに変換させるシュルレアリスム的特性と、日本人の血に避けがたく流れる韻律の響き合いをここから聞くことが出来よう。〈中略〉自筆年譜にこれらの句を書きとどめていることには、大きな意味を読み取らねばならないだろう。(22)


と述べている。形式上で見れば黒揚羽の句は季重なりで作としても取るに足らない凡庸なものさえ見える。しかし瀧口にとって俳句という定型詩形は青春時代に親しんだ短歌以来の定型への再接近であった。この戦中・戦後直後の三句はいずれも個人的な趣味として詠まれ公表されたわけではなく強烈な体験の中から思わず直に表出された詩的表現だったと言えるだろう。詩的実験のきらめくような結晶性・屹立性とはかけ離れており弾圧と戦争という極限状況下で、瀧口はシュルレアリスト詩人として培ったイメージの錬金術を俳句のなかに表現しているようには見えない。彼は最も過酷な状況下でなぜか短詩型(俳句)を選びそれを素朴な自己表現の一形態として用いたように見える。

一方でほぼ同時期もしくは戦前に実作されたモダニズム詩人たちの作句についても触れておこう。「風流陣」という同人誌には北園克衛を中心に竹中郁、村野四郎、田中冬二らが参画し、極めて伝統的な俳句を作っていた。例えば北園の句集「村」(一九八〇年)は以下のような俳句で満ちている。


初富士や葱より高く二三寸

いつはつの朝にしはぶく老師かな


北園の句は洗練されており文壇俳諧的な余裕がある。瀧口の俳句は洗練されておらず、生のままである。このように定型詩に対する姿勢にすら北園克衛と瀧口修造すなわちモダニズム的意匠を借りた日本浪漫派と真のシュルレアリストであろうとした瀧口とで大きな違いがあることがわかる。


第四章 戦後の断章詩

終戦後、瀧口修造は一旦は新聞社勤務などを経て美術評論活動を再開する。一九五〇年代には読売アンデパンダン展の支援や画廊のキュレーションなど美術界の重鎮として活躍した。しかし一九五八年のヴェネツィア・ビエンナーレ視察や欧州歴訪(ここで初めてブルトンと直接出会っている)を境に、次第に「ジャーナリスティックな批評を書くことに障害」(自筆年譜)を感じ始め公的な批評活動から距離を置くようになる。代わって一九六〇年代以降、自身も造形実験(デカルコマニー、バーントドローイング等)に取り組み、新たな創作の地平を開拓していった。詩人・批評家として公と私の領域が連続するような独自の表現活動へと向かったのである。

その中で注目すべきなのが、瀧口が親しい画家や友人たちに私的に贈呈した詩的断章の数々で「リバティ・パスポート」と呼ばれる小冊子がある。これは瀧口が一九六〇年代後半以降、海外へ旅立つ友人などに餞別として手渡した手作りのノート群で、多くはアクロスティックな言葉遊びのテキストと瀧口の手によるコラージュやデカルコマニーがほどこされたユニークなオブジェであった。もちろん非売品であり公的発表を意図しないごく私的な創造物である。瀧口はこうした発表前提のない小さな「断章」を周囲に配ることを晩年まで続けた。

一例をあげると瀧口と親交のあったフランス文学者の巖谷國士はパリ往訪の際にこのリバティ・パスポートを託されたのだが、瀧口がパスポートに後押しや勇気を託した以上に可能な限りアクチュアルな支援を密かに行っていたことがわかる。


パリに来てみると、一見あそびのように思えたその不思議なパスポートが、実際に有効であるという気がしてきた。パリや旅先のヨーロッパのあちこちで、なにか仕組まれていたことのようにして、私はいろんな人や物と出会った。神秘めかしていうのではない。実際に外国のしかるべき人や物と瀧口修造とのあいだには、わたしの考えていたよりもずっと広い、深い交流があったらしい。(23)


このことからリバティ・パスポートとは瀧口にとっては冊子の形態をとった有形無形の形のある支援の証であったと言える。また同傾向の活動として晩年まで画家の個展や舞踏家の舞台などに与えたいくつかの詩的断章が「余白に書く」(24)にまとめられている。いくつかあげておく。


夏扇口なし」(UN EVENTAIL D'ÉTÉ, PAS DE BOUCHE.)

(アンリ・ミショーへ)

姦月や五臓六腑を照らしける。(り)」

(加藤郁乎へ)

晴れるやらむ この日の客の 風ふくべ

(笠井叡へ)

片割れのかたはれときや旅立たむ

(菊畑茂久馬へ)

残暑はや残りいくばく生きんとす

(唐十郎・李礼仙へ)

木枯しやからくれないに鏡花いざ

(唐十郎へ)


なぜ俳人でもない瀧口はこのような断章を創作したのだろうか。


第五章 瀧口にとっての俳句表現

瀧口修造は青春期に斎藤茂吉の短歌に心酔しつつもシュルレアリスムの洗礼を受けて詩人への道を歩んだ。藤井貞和によればその過程で彼が最も恐れたのは西欧のシュルレアリスムを単なる新しい意匠として日本的文脈に取り込んでしまうことであった。(8)実際、瀧口以外のいわゆるモダニズムの詩人たちによってそうした表層的な受容が行われ結果として日本のモダニズムは文芸趣味の一つの様式としてしか開花しなかった。その蓄積には確かに何らかの美的価値が生じるものの詩の本質的な現実への屹立性や現実を燃え上がらせるという使命に関してはほぼ無力であったかむしろ月並みで有害なものですらあったと言わざるを得ない。

瀧口が身を投じたシュルレアリスム詩運動は近代的自我や伝統形式への根本的な挑戦でもあった。瀧口は「与えられた詩型からの脱却」を宿命づけられていたと後年述懐しているがその言葉通り短歌という定型から抜け出し全く新しい詩法を求めて飛翔したのである。

ただ興味深いことに瀧口は完全には定型から逃れきれなかったようにも見える。戦中・戦後の俳句的表現への回帰や晩年の断章作品群はその証左と言えるだろう。短歌的なセンチメンタリズムを嫌った瀧口は俳句的な即物性にある種の可能性を見出したのだろうか。確かにそうした見方は成立するだろう。短歌が個人の情緒を歴史の通時的な流れの中に掬い取る器だとすれば俳句はより匿名的で普遍的なイメージの容器であり、瀧口は俳句にモダニズムが求めた非個人的な詩の形式を重ね合わせて見たのかもしれない。しかしそれのみが俳句に対する瀧口の関心の全てだったのだろうか。

瀧口が俳句という形式をいかに捉えていたかについてそのヒントとなる重要な記述が随筆「狂花とオブジェ」(25)に見出される。ここで彼は俳句を含む日本文化の結晶的芸術を「自然主義ではなく自然の凝結」だと捉え、俳句を「物体詩」として明確に位置づけている。以下、その核心部分を引用する。


日本の結晶芸術といわれる能、花、茶、庭、発句などは、結局自然に即して、しかも自然主義ではなかった。龍安寺の石庭のひとつには、自然石の重心の重さを逆さにしたものがあると聞いた。物に即して詠むことは、万葉以来の詩歌の伝統のひとつともいえるが、俳諧発句にいたって、叙述は最小限に還元され、イメージは純化強化され、物体が突出する。日本は独特の物体詩の国であった。「讃」の精神もそれに通じている。芭蕉が、「物一つ瓢は軽き我が世かな」と讃した瓢箪なども、侮蔑的なユーモラスな形態をした自然のオブジェの一つである。非常に卑俗な句になっているが「朝顔に釣瓶とられて貰ひ水」は日本人の自然観の様式が単純に表されている点で興味深いものである。これはいわゆる発見された物体に通ずるものであって、それが発展すると、古木の根などが鑑賞の対象として独立した価値をもつようになる。つまり自然に即してといわれる場合も、それが多少とも美的凝結の作用を通された場合、自然はオブジェの範疇にはいってくるのである。俳諧はこの意味でもっとも鋭利な作用を持ったものといえる。


この記述において注目すべきは瀧口が俳句を単なる写実や叙情の枠組みから解放し自然の中から偶然に出会った物体=オブジェを美的に凝結する詩形として捉えている点である。瀧口はここに俳句の先鋭性を認め、ランボーを始祖とするシュルレアリスムと共鳴する要素を見出していた。

さらに重要なのは瀧口が俳句とシュルレアリスムの関係を時代的先後関係においても論じていることである。『近代藝術』においても、次のような興味深い指摘がなされている。


西欧の象徴詩運動の極限の意義には、日本の俳諧のそれー芭蕉などを中心としたーと相通するところがある。勿論、時代的言語的な相違を認めた上でのことである。例の音や色や匂などの照応(コレスポンデンス)の信条にしても、文法的な自由にしても、芭蕉なかに実現されている。つまり日本の象徴言語の中に体験されてゐた聯想の現象が、西欧ではいはゆる象徴派の詩人たちによつて初めて体験されたのではなかつたかといふことである。


この観点において瀧口は俳句を西欧のシュルレアリスムの単なる日本的対応物として捉えるのではなく、むしろシュルレアリスムが追求した詩的技法の歴史的先行形態として位置づけている。俳句は「物」に対してことさら意味を付加していくのではなく、出会った物を詩的言語形式で把握することによって「物そのものへ」化体していくような詩形式を持つ。この思考はシュルレアリスムの〈詩的オブジェ〉の構想と本質的に重なり合い、瀧口が最終的に到達した詩的形式の重要な一端を示している。

瀧口の俳句理解においてもうひとつ重要な要素が俳句俳諧が本来的に持つ「座」の文学としての性格である。この点について、高橋修宏は以下のような鋭い指摘を行っている。


瀧口修造は、新興俳句運動が結社を超えた「広場」を呼ぶべき場を求めたのとは反対に、戦後己ひとりで特定の者との「座」を目指したのではなかったのか。それゆえに彼の俳句的な表現も、その時々に応じて、その特定者との「座」に最もふさわしい言葉のスタイルとフォルムが、たえず選ばれつづけたのではないのか。その言葉たちは、瀧口の「座」においてのみ価値をもてばよかったのである。第三者から見たならば、たとえ「反故」であったとしても。(26)


高橋はこの現象を「芭蕉との本質的な出会い」として捉え、瀧口にとって俳句とは「未知なる詩を求めつづける永久革命の原基のひとつとも呼べるものだった」と評価している。

この「座」の概念は瀧口の戦後における創作活動、特にリバティ・パスポートをはじめとする私的な断章詩群の制作において、極めて重要な意味を持っている。瀧口の俳句的表現は公的な文学空間における発表を前提とした作品ではなく、特定の個人との関係性の中で生まれる一回性の高いコミュニケーション手段としての性格を強く持っていた。


第六章 瀧口修造の俳句表現の詩学的意義

これまでの考察を踏まえ瀧口修造と俳句との関係について以下の三点に整理することができる。

第一に瀧口は短歌的抒情から詩的活動を開始し、それを密かに内包しつつ、「自己抛棄」の態度でシュルレアリスムの詩作を行った。青春期の短歌体験は彼の詩的感性の基層を形成し、後年の俳句的表現への回帰の重要な伏線となっている。短歌から俳句への移行は、個人的情緒の表現からより客観的で即物的な表現への志向転換を明確に示している。

第二に瀧口は俳句にシュルレアリスムの「物体詩」の歴史的先行を認め、芭蕉の俳句表現にランボーに先駆する連想の現象を見出した。瀧口にとって俳句は、西欧のシュルレアリスムが追求した〈詩的オブジェ〉の日本的先行形態であり、「自然の凝結」としての俳句は日常的意味から解放された純粋なイメージの結晶として機能する。これは単なる東西の文化比較論を超えた瀧口独自の詩学的発見であった。

第三に瀧口は俳句の「座」のコンセプトに対して極めて意識的であり、この概念をリバティ・パスポートをはじめとする後年の創作活動に積極的に導入流用した。戦後の断章詩群は特定の相手との関係性の中でのみ成立する表現であり、瀧口にとって俳句は友人との秘匿されたコミュニケーションにおいて「座」の概念が包含された極めて実用的で柔軟な表現形式となった。


瀧口修造と俳句という組み合わせは一見すると革新と伝統という対立軸において矛盾をはらんでいるように映るかもしれない。しかしながら本論考において明らかにしたように、瀧口の詩的軌跡を詳細に辿ると定型からの出発と回帰という一貫した環構造が確実に存在している。青春期の短歌創作、シュルレアリスム詩への転身、戦中の俳句的詩作、戦後の断章詩制作、これらは決して断絶した個別の現象ではなく一本の強靭な糸によって繋がっているのである。

瀧口の多様な創作活動を一言で要約することは危険を伴うが、それをあえて試みるならば自分の表現をアクチュアリテ(現実性)を通じて生活世界に向けて提示していく、極めて意志的で個人的な力への衝動によって統合された活動であったと言えるだろう。結果的に瀧口修造にとって俳句を含む定型詩とは、青春期には既に完成され体系化されたそこに安住する者の多い乗り越えるべき対象であったが晩年においては友人との秘匿されたコミュニケーションにおいて特に俳句は「座」の概念が包含された極めて使い勝手の良い表現形式へと自覚的に変化していったのである。

「自己抛棄」の態度で「詩的実験」を遂行していた時期を経た後、次第に俳句のような断章形式が選択されるようになった経緯は興味深い。『妖精の距離』のような共作はあるにせよ「詩的実験」の時代はまだ意識せずに閉ざされた個人空間でのシュルレアリスムがどうしても脱しきれなかった形而上学的テオリアを強く意識した単独の物体詩制作作業の傾向が強い、しかし後年の断章詩群は友人との「座」を強く意識した物体詩であると位置づけることができる。短歌や象徴詩に触発されて幼少期に形成された日本的美学意識を保持しながらも、極めて純粋で個人的、かつ強固な自己を基盤として、自覚的にアクチュアリテに翻弄されながらもアクチュアリテを通して他者との関係性の中でシュルレアリスムが越えようとして内包しつづけたヨーロッパ思想の形而上学を日本伝統の物体詩の結晶としていわばポストヨーロッパ的に表現し続ける意志、これこそが瀧口修造の根本的な魅力であると指摘できる。

この点について山本浩貴は「オブジェとわたし、書物とアトリエ―瀧口修造の「新しい主観性」」(27)において、極めて示唆に富む考察を提示している。


瀧口は事物について考える時、〈私〉という存在を抜きにするのではなく、むしろ〈私〉ないし精神を事物の側から再定義しようとしていたのではなかったか。〈中略〉それらは自らの人間関係を温めるための贈呈物にも、エッセイや推薦文や批評にも留まらない。〈中略〉テクストの手前側の肉体や事物を強く引き受け巻き込んだかたちでの〈詩的実験〉としてあるのだ。


山本の現象学的指摘は瀧口の俳句的表現が単なる文学的技法の問題を超えて主体と客体、精神と物質といった近代二元論、そして絶対と相対を行き来するヨーロッパ独自の局所的な思考傾向を日本の伝統のなかで根本的に組み替えようとする試みであったことを明確に示している。

瀧口修造が身を投じたシュルレアリスムの精神と日本の俳句が本来的に持つ潜在的な力、その交点には依然として十分に論究されていない未完の可能性が潜在していると考えられる。現代俳句において鴇田智哉のような極めて先鋭的かつ伝統的な作家が俳句を「造形物」として捉える感覚は瀧口が追求したシュルレアリスムの〈詩的オブジェ〉の概念と深い親和性を示している。

今後瀧口修造というシュルレアリストを経由して俳句の世界をより深く掘り下げることができればこの視点は俳句史研究や俳句鑑賞論に対して新たな示唆を提供することは間違いない。特に俳句の「物体詩」としての側面や「座」の文学としての特性を現代の詩的表現の文脈において再評価することは俳句という形式の持つ革新的可能性を再発見する重要な手がかりとなるだろう。

また瀧口の後年における創作活動、特にリバティ・パスポートのような私的で一回性の高い表現形式は現代のデジタル・メディア環境における新しいコミュニケーション様式を補完するパーツであり、文学とテクノロジー、オリジナルと複製、アウラと移ろい、の関係を考察する上でも重要な示唆を提供している。


結論

本論考において明らかにしたのは瀧口修造の俳句表現が決して偶発的な現象ではなく彼の詩的軌跡全体の中で必然的な位置を占めているということである。短歌的抒情から出発し、シュルレアリスムの洗礼を受けながらも最終的に俳句的な断章形式に回帰していく過程は瀧口独自の詩学的探求の軌跡を示している。

瀧口にとって俳句は西欧のシュルレアリスムに対する日本的な対応形式であると同時に、それを歴史的に先行する日本独自の詩的技法でもあった。「物体詩」としての俳句理解と「座」の文学としての俳句実践は瀧口の詩学において不可分に結びついておりこの二つの側面が統合されることによって、彼独自の表現世界が構築されていったのである。

瀧口の俳句表現研究は日本の前衛詩史における定型詩の位置づけを再考する上でも重要な意味を持つ。革新と伝統という単純な対立図式を超えてより複雑で動的で現代的な詩的表現の可能性を探求する手がかりとして瀧口の俳句観は今後さらに深く研究される価値があると考えられる。

本論はこれで終えるが引き続き瀧口の俳句表現を単なる実験的技法として捉えるのではなく、より包括的な詩学的文脈の中で理解することを続けていきたい。


なお本論考では触れられなかったが岩崎美弥子のように「瀧口を既存の詩にあきたらない言葉の前衛主義者と見なして詩の言葉を「オブジェ」のように扱ったという面」(28)のみを強調する解釈に対して健全な疑問符を提示する研究者の存在についても付け加えておく。

併せてリバティ・パスポートでも触れたように瀧口の仕事には造形的オブジェがある。これについての包括的な調査には、光田由里の『瀧口修造 造形的実験の軌跡』(29)等の先行研究があることも付言しておく。


参考文献

(1) 瀧口修造・阿部芳文『妖精の距離』春鳥会、一九三七年

(2) 瀧口修造『近代藝術』三笠書房、一九三八年

(3) 瀧口修造『わたしの一冊『近代芸術』毎日新聞四月三十日 一九六八年 

(4) 針生一郎『瀧口修造著『近代藝術』解題』美術出版社 一九六二年

(5) 瀧口修造「シュルレアリスム論」、『近代藝術』所収。一九三八年

(6) 鴇田智哉「あとがき」『凧と円柱』邑書林 二〇〇五年

(7) 加藤郁乎「マルジナリア風に」『現代詩手帖1974年10月臨時増刊 瀧口修造』思潮社 一九七四年

(8) 藤井貞和「精神の革命、いま絶えず綜合の夢 主題小考・瀧口修造」『白鯨』 一九七四年

(9) 瀧口修造『自筆年譜』本の手帖八月号 昭森社 一九六九年

(10) 萩野恭一『新発見資料 瀧口修造の短歌』洪水 第七号 草場書房 二〇一一年

(11) 瀧口修造『短歌に因む私見』コスモス3月号 一九七三年 

(12) 田辺徹『戦争と政治の時代を耐えた人びと 美術と音楽の戦後断想』藤原書房 二〇一六年

(13) 瀧口修造『瀧口修造の詩的実験1927–1937』思潮社 一九六七年

(14) 秋元裕子『瀧口修造研究』和泉書院 二〇二二年

(15) 笠井裕之「純金の鍵の行方 : 西脇順三郎と瀧口修造」慶應技術大学アートセンタ― 二〇一三年

(16) 土渕信彦『『瀧口修造の詩的実験』の構造と解釈(1)~(3)』洪水 第六~八号 草場書房 二〇一一年

(17) 鶴岡善久『太陽への希求』想像No17-19 一九六二年

(18) 瀧口修造『雨』『月』山繭第十一号 一九二六年

(19) 鶴岡善久『シュルレアリスムの発見』湯川書房 一九七九年

(20) 瀧口修造『超現実主義と私の詩的体験』ユリイカ六月号 青土社 一九六〇年

(21) 加藤彰彦『アンドレ・ブルトンにおけるシュルレアリスムの政治的位置と文学』四天王寺大学紀要第五十三号 二〇一二年

(22) 馬場駿吉『方寸のポテンシャル―瀧口修造の俳句的表現序論』洪水 第七号 草場書房 二〇一一年

(23) 巖谷國士『封印された星』平凡社 二〇〇四年

(24) 瀧口修造『余白に書く』みすず書房一九六六年

(25)瀧口修造『狂歌とオブジェ』アトリヱ 一九三八年 同名にて『近代藝術』へも掲載

(26)高橋修宏『瀧口修造と俳句という詩形』瀧口修造研究会会報 橄欖第四号 二〇一八年

(27) 山本浩貴『新たな距離』 フィルムアート社 二〇二四年

(28) 岩崎美弥子『瀧口修造 沈黙する球体』 水声社 一九九八年

(29) 杉田秀樹・光田由里編『瀧口修造の造形的実験』 富山県立近代美術館・渋谷区立松濤美術館 二〇〇一年


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