2026-02-22

鈴木茂雄【野間幸恵の一句】魚籠一つ

【野間幸恵の一句】
魚籠一つ

鈴木茂雄


魚籠一つ旧約聖書に返すかな  野間幸恵

この句は、野間幸恵の言語感覚が最も鮮烈に結晶した瞬間の一つである。まず「魚籠(びく)」という言葉が放つ湿度と重量に注目したい。竹を編んだ素朴な籠でありながら、そこには海の記憶が染みついている。濡れた鱗の匂い、潮の乾いた白い痕、そして一度は命を宿したものが空っぽになった後の、虚ろでしかし確かに存在するかたち。現代の俳句において「魚籠」は季語としては稀有であり、むしろ道具としての実存感が強い。それを「一つ」と数えることで、なおさら孤立した一個の物体として際立たせている。

対して「旧約聖書」は、文字通り「言葉の始まり」を束ねた巨大なテクストであり、創造と契約と裁きと救済の物語を収めた、時間と空間を超えた重層的な存在である。そこに「返す」という動詞が据えられることで、途方もない非対称が生まれる。人間が神に返すものならまだ理解の範疇にあるが、ここでは魚籠——あまりに日常的で、土着的で、しかも「魚」という生の輪廻を一時的に閉じ込めただけの粗末な器——を、旧約聖書という絶対的な書物へと「返却」しようとする。

この「返すかな」の「かな」は、決意でも断言でもなく、漂うような逡巡である。返すべきか、返しきれないのか、あるいは返すことで初めて何かが完結するのか。作者自身もその答えを知らないまま、ただその行為を想像している。そこに生じるのは、滑稽さと荘厳さの同時性だ。まるで子供が拾った貝殻を「海に返そうか」とつぶやくような無垢さと、同時に、創世記以来の膨大な時間の重みを背負った者の、途方もない疲労感と諦念とが共存している。

さらに深く読み解けば、これは「言葉の起源」と「生の終着」の、奇妙な交換儀礼とも見える。旧約聖書は「初めに言葉ありき」と始まるが、魚籠は言葉以前の、ただ蠢く生命の器である。その両者を「返す」という一挙動でつなぐとき、言語が生命を捕らえきれなかったこと、そして生命が言語に回収されきれないことの、両義的な痛みが露わになる。

野間幸恵の俳句はしばしば「言葉の関係性」を純粋に追い求めるが、この句はその極点にある。意味の連鎖を意図的にずらし、しかしそのずれそのものが深い余韻を残す。魚籠が旧約聖書に「返される」瞬間、どちらもが一瞬だけ互いの異質さを映し合い、そしてまたそれぞれの沈黙に戻っていく——その一瞬の、ほとんど神話的な交換が、ここでは十七音の中に収まっている。

静謐でありながらどこか不穏で、滑稽でありながらどこか荘厳。野間幸恵という作家が持つ、言葉を玩具にしながらも決して軽薄に堕さない、独特の緊張感が最も美しく顕れている一句である。

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