2026-04-26

早瀬はづき【新京大俳句会 創刊準備号 会員作品評】 新京大俳句創刊準備号評

  【新京大俳句会 創刊準備号 会員作品評】

新京大俳句創刊準備号評

早瀬はづき


五七五の合計十七音で季語が必要な俳句と、五七五七七の合計三十一音で季語が不必要な短歌。両者ともに短い定型詩として類似のジャンルで語られることが一般的だが、その内実は大きく異なる。わたしの場合、その違いはそれぞれの作品を鑑賞するときのスタンスに現れるのである。俳句を読むときには取り合わされたモチーフの関係性・距離感や切り取られた景を通して作中主体の感動の中心を感じ取ろうと作品と向き合うのに対し、短歌では詠み込まれた体験や景、心情などを追体験しようと作品を読み解こうとすることが多い。俳句は読み手側が面白がりにいくもので、短歌は書き手側が面白くするものであるという印象をなぜだか持っているのである。 

天井を見て気付きたる夏の宿 /カジオ・ブランコ 

目が醒めたときに飛び込んでくる天井の景色がいつもと異なることで、自身が旅行先にいることを再認識させられる。いくら旅行先にいても、食事や睡眠など最低限の生活はふだんと変わらず遂行しなければならない。あえて日常的な動作である起床に言及することで、かえって旅先にいることが強調されるのである。きっとこの人は、実家から下宿に切り替わるタイミングでも同様のことを思ったに違いない。
 
大木に満つる無力や春の月 /川田果樹 

悠久の年月を生き延びた大木が最終的にオーラとして纏うのが無力感であるということに、深く考えさせられる一句。この世界に長くいればいるほど、自身が何もできないという事実を思い知らされるだけなのだとしたら、わたしたちは何を目指して生きていけば良いのだろうか。大木にはなく、我々にはある移動する能力だけで、その未来は変えることができるのだろうか。 

冬館三面鏡に我のある /智里 

冬という季節が打ち出されることで、鏡の透明感とそこに映る像の輪郭がくっきりとする。しかしながらその鏡が三面鏡である以上、どれだけ像の輪郭がくっきりしても、三つ映し出される。そしてその像のどれが本物であるか、はたまた、どの像も本物ではないのか。鏡に三人も映る我を通して、ほんとうの自分とは何かということを考えさせられる。 

なめくじのうすくあのにますなからだ /超文学宣言 

不定形であることがアノニマス(形容詞:匿名の)であると捉えた一句。形を持たないということは身体の可動域が大きくなり、移動に自由が効くというメリットの一方で、浸透圧や乾燥といった外部環境の急激な変化には弱くなる。こう読めば当然、アノニマスであることに付随するデメリットについても考えたくなる。インターネットの匿名性を筆頭に、現代社会への示唆に富んでいる。 

長き夜の汁に花麩の浸かりきる /武田歩 

不可逆的に進行する変数である時間を共有している以上、生きているうちにある物体の変化の瞬間にたびたび直面することになる。乾燥していた花麩が汁に加えられ、徐々に柔らかくなっていき、最終的には完全にふやけてしまう。わたしが時間にさらされて、衰弱しきってしまうのはいつなのだろうかということを考えさせられる。 

南天のように落ちゆく煙草の火 /中島丈多郎 

植物が実を落とすこと、煙草の火が落ちることもまた、時間という変数によりもたらされる事象である。南天が落ちるのは次世代へ自身の遺伝子を継承するためであるが、煙草の火が落ちていくのは何のためなのだろうか。
 
下宿生に夜の致死量ふきのとう /濱田春樹 

受験戦争から解放された下宿生にとって、一人で過ごすには夜の時間はあまりにも長すぎる。だからこそ人と集まって何かをするのである。とはいえ、地面の底で静かに越冬し芽を出すふきのとうのように何かを成し遂げるには、致死量の夜を一人で耐え抜く必要があるのかもしれない。 

谷の中春泥いくつもが乾く /馬場叶羽
 
谷の底に満ちているであろう冷涼な空気。そしてそこにたしかに存在するはずの春泥。谷の上ではもう春の空気が満ち始めているのであるが、谷の底まで完全に春になるのはまだ少し先なのだろう。 

排水溝に果肉の角の残りをり /疋田纏 

無機質なステンレスと変色した果肉の断片の対比は、一人暮らしの寂寥感を強く打ち出す。実家にいたころは親が片付けてくれていたのかもしれないし、もっと言えば果物の皮剥きからカットまで全てをやってくれていたのかもしれない。
 
その赤は焼きすぎの赤バーベキュー /宮本清蝶 

焼いた肉の変色はタンパク質が変性することにより起きるが、これは不可逆なものである。この現象が持っていることの暴力性に気が付かず、話に興じているうちに肉を焼きすぎてしまう。一つの句としてこのシーンが切り取られることで、それもトークテーマの一つとして笑い合っていることの恐ろしさまでも感じてしまう。
 
ここまで立ててきた読みのいくつかには、短歌界隈で嫌われるものもあるだろう。なぜなら、短歌の世界では、読み手と作者を切り離して考える読みが今の一大勢力となっている。そのため、「京大俳句に寄稿しているから、大学生で、一人暮らしで……」といったような、作品に書かれていない作者の属性を前提とした読みはあまり歓迎されない。とはいえ、学生サークルの機関誌という発表形態が、読み手に作者のざっくりとした情報を前提として共有してしまうのは事実である。読み手側が使える情報を最大限活用して句を深いところまで鑑賞するのもそれはそれで良い読みだと思うのだが、どうだろうか。 

0 comments: