2026-04-26

津崎一加 【新京大俳句会 創刊準備号 会員作品評】 あとは自分で補って

 【新京大俳句会 創刊準備号 会員作品評】

あとは自分で補って

京大短歌 津崎一加 


瓦礫・椿あとは自分で補って /濱田春樹 

会員連作をひととおり見て、わたしが選を入れた句は、「あとは自分で補って」の句、つまり、「あとは自分で(うまれてくる疑問詞に相当するものを)補って」の句が多い。 

天井を見て気付きたる夏の宿 /カジオ・ブランコ 

なにに(気付きたる)? 

心得てそのまま春の傘に入る /川田果樹 

なにを(心得て)? 

寒椿ふだんはタイミングが大事 /中島丈多郎 

(タイミングが大事)でないのは、いつ? 

では、「あとは自分で補って」の句にある魅力とはなんだろうか。 

「定型っていうのは長さへの制限であるだけじゃなく、短さへの制限でもあるからね。」とは、我妻俊樹・平岡直子『起きられない朝のための短歌入門』内での我妻俊樹の言葉であるが、「あとは自分で補って」の句にある魅力を生み出しているのは、俳句定型がもつ「長さへの制限(=俳句定型より長くなれないという制限)」と「短さへの制限(=俳句定型より短くなれないという制限)」の合わせ技なんじゃないかとにらんでいる。 

創刊準備号pp17-18「発起人対談」内「言葉を容易に切り捨てない」、および同誌p34-「試論:これからの用言、そして〈文字的なこと〉のために 『オルガン』を中心として2015-2017という転換点を考える」でも触れられるように、俳句のなかで、おもに運動の性質を語義に含む体言の使用と同時に、用言が省略という形でその存在を追われてきたという状況があることは確からしい。「雨降る」といわず、「雨」(といえば雨が「降る」)。用言は省略されてなお体言の手綱を握っていて、用言じたいが見えなくても、その用言は常に体言と接続している。 

しかしいまここで起きていることは、それとは違うことだ。 

天井を見て気付きたる夏の宿 /カジオ・ブランコ 

あとはわたしたちでおぎなう、となったとき、うまれてくる疑問詞はどこからうまれてくるのか。それは、句の中の言葉が、通常は目的語を持つ語であるとか、制限を示す語であるとかいうことから生まれてくる。つまり、「雨」「降る」の二語のあいだには、みんなが見ている紐帯があるとして、先に引いた句の中の言葉からは、その紐のさきに結わえる決定的な何かを共通に了解しているわけではないが、その語から出ている紐だけをみんなで見ている。
紐が出ていることだけが了解されている。だから、その紐にゆわえるなにかが、疑問詞のかたちで生まれてくる。 

寒椿ふだんはタイミングが大事 /中島丈多郎 

言いたいことを俳句定型に収めるというプロセスを想定するとき、短くないといけないことによって捨てられる言葉があり、しかし、「長くないといけない」から、全部を捨てるわけにはいかなくて残ってしまう、それと緩やかに結わえられていた言葉がある。
 
そしてその二者の存在を示す紐の存在こそが、「あとは自分で補って」というメッセージを持っているのであり、その紐を垂らしたまま、しかしそこに置かれるしかない、残ってしまった言葉の存在は、俳句の「長さへの制限」にももちろんよるものだが、それと同時に、そこに残置されないといけないという、「短さへの制限」からくるものだ。 

さて、「長さへの制限」の話をもう少ししよう。 

短歌定型との比較をしてみる。短歌定型は三十一音の五七五七七であり、一首に含むことができる情報は俳句定型の十七音より十四音も多い。ここから単に「短歌の方がたくさんの情報を一首に含められる」といってもいいが、「短歌の方が、俳句より、情報処理の選択肢が多い」と、ここでは言ってみたいと思う。つまり、短歌では文字数に比較的ゆとりがある分、俳句と比べて、「情報を出す」選択と、「情報を出さない」選択がより同じ高さに並置されている感じがする。例をあげよう。 

すべきこと それよりわざわざ靴を買いそれよりわざわざ靴を磨いて /平岡直子 

平岡直子『短い髪も長い髪も炎』より引いた。この歌、冒頭で引いた三句と同じように、「(すべきこと)はなに?」と問いたくなる歌だ。その情報が欠落していることを見せていることこそがこの歌のキモであるということはいうまでもないこととして本稿では触れないが、ここには、「すべきこと」(の一部)を残りの音数で言うこともできる(かもしれない)のに、その分のスペースを違うことで埋めてしまう、という、情報を出さない選択、を確認することができる。もう一首、短歌から引く。 

炭酸水うつくし 魚やわたくしが棲むまでもなく泡を吐きゐる  /川野芽生 

川野芽生『Lilith』より引いた。こういう歌は、では、前の説明に則れば、「情報を出す」ことの方を選択した歌だ。説明による美の歌とまで言おう。ここにも、裏にあるのは、炭酸水が「なぜ」うつくしいのか、ということへの説明の情報を出すという選択ができる長さの短歌定型の存在である。 

翻って再び俳句定型のことを考えよう。俳句定型は短歌定型に比べて短い、ということはつまり、短歌定型と比べたとき、俳句定型は、「情報を出さない選択」への圧力がより強い、ともいえる。 

しかし前述のような句が、そのような俳句定型の圧に「負けて」、情報を出さない選択をしているとは考えづらい。というかむしろ、そのような句で起こっていることは、俳句定型の圧力を逆手にとってしまうという戦略な気がしている。 

心得てそのまま春の傘に入る /川田果樹 

前述の通り、情報の欠落を楽しませるというテクニック自体は、情報を欠落させざるを得なさの原因である「長さへの制限(=ある音数を超えてはいけない、という制限)」が比較的緩い短歌定型でも使われうる。つまり、このテクニックは定型の圧力だけによって生じたものではない。しかしわたしがついさっき前段で、そのような情報の欠落は俳句定型が要求する情報の取捨選択によって起こるのだ、と愚直に論じさせられてしまったように、なにを心得たのか言えないのは、俳句定型のせいだ、と読者に思わせてしまう。 

本当にそこで起こっているのは、俳句定型の圧力を受けている作者が、しかしテクニックとして情報を出さない選択を自ら行なっているということなはずだ。その圧力を本当に跳ね除けるのならば、情報の不在を見せないままものを詠めばよい、ということになるし、そのような明らかな情報の不在がないながらも、発見の面白さや、景全体から抒情を引き出すような秀句は、詳しい鑑賞にまで本稿で立ち入ることはできないが、 

混ぜるたび酢飯かがやく九月かな /武田歩 
古雛の矢筒まっすぐ矢の入る /馬場叶羽 

などに見ることができるだろう(二句とも会員作品から引いた)。 

だから、「あとは自分で補って」の句は、俳句定型の圧力に従って情報の欠落が起きたわけではない。「あとは自分で補」わせることを確かに選択したはずだ。それはさながら、苦手な人の集まりに「家が門限厳しくて」と言って帰ってしまうとか、「今日中の課題終わってなくて」と言って早抜けしてしまうというような、いやこういう言い方では卑怯だと言っているようなのでしっかり書くと、俳句定型という圧力をうまく味方につけて、俳句定型と共謀して、これ以上言えないのは仕方ないですよっていう顔をしてしまう、情報の不在自体に作為を感じさせないことが、情報の不在にある種の澄まし顔をさせるおもしろさがある。 

長くなったのでまとめてみよう。「あとは自分で補って」の句は、俳句定型が要請する短さのために情報の一部が欠落するが、同時に長さへの要請を受けることで、何かしらの情報と結びついていたことがわかる(つまり、紐の垂れている)情報だけが残されるという、俳句定型の圧力の影響によるものだとまずは考えられる。しかし、情報の不在を面白がらせることはその圧力だけの問題ではない。作者は情報を欠落させることを選択したはずだ。短歌と比較してみても俳句にはより定型の圧力の強さがあることは確かだろうが、俳人は句の中での情報の不在を、テクニックとしてというより、俳句定型と共謀してそれをある種「不可避」なものとして提出できてしまうところに、一種のおもしろみを見出すことができるのではないか。 

それを踏まえて、「あとは自分で補って」というフレーズは、前述した俳句定型と作者の共謀的な関係を前提におきながらも、句のなかに書かれた方の言葉から紐が出ていることをより強固に読者に見せると同時に、それが定型の要請であるというよりむしろ作者の意図によって起こっているのだ、ということを主張する。 

だから、この句がおもしろい。 

瓦礫・椿あとは自分で補って /濱田春樹

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