2026-06-07

【句集を読む】舟への憧れ 山岸由佳『丈夫な紙』評 福田若之

【句集を読む】

舟への憧れ
山岸由佳丈夫な紙』評

福田若之

『豆の木』第27号(2023年6月)より転載


『丈夫な紙』という書名は、見たところ、なんとなく無骨な感じがする。その感じは、たとえば、本書のなかに収められた八つの章の表題――「スピーカー」、「見えない硝子」、「ボクシングジム」、「歩行者天国」、「幻の羽子板」、「一輪草の夜」、「十一月の木」、「鳩のゆめ」そして「手から手へ」――と比べてみても、明らかだろう。さて、この書名が無骨に感じられるのはどうしてか。それは、おそらく、丈夫な紙という言葉が、多くの場合、何かの素材として紙を扱うひとのものだということによる。この言葉は、次のとおり句に書きこまれている。

 黄のカンナ丈夫な紙を探してゐる

何かのために、丈夫な紙が探しもとめられている。要するに、この書名は本来何かの素材を指し示すはずのもので、ただし、その素材が何をかたちづくるかについては、さしあたり読み手には知るよしもない。だから、この書名は読み手に無骨な印象を与えるとともに、何のための紙なのか、何のために丈夫でなければならないのか、という問いをもたらす。句集などというのは、どんな句を載せようと、畢竟、丈夫な紙の束にすぎない、というイロニーだろうか。しかし、集められたくさぐさの句は、そうした皮肉な自己言及の文脈を帯びてはいない。

問いは宙づりのまま、しだいに、ひとつの象徴的なイメージが、くりかえしのうちに際立ちはじめる。水だ。

まず、季題としての水を書いた句がある。

 草に風ロープ張られてゐる泉
 春水の揺れゐし奥の歯にちから
 水温む誰も死なない陽だまりの
 噴水をはなれぬ人の長き髪

読み手は、これらの句に、それぞれの季の水の表情を思い描くだろう。とくに表情がはっきりしているのは、三句目にあげた水温むの句だと思う。誰も死なない陽だまりという言葉に、目のくらむようなまばゆさとあたたかさを感じる。そのまばゆさ、そのあたたかさが、ふっと死ということを呼びおこす。誰も死なないという言葉は、死を思うときにしか湧いてこない。

つぎに、季題とは別に水を書いた句がある。

 満月の浅瀬は砂を吐きつづけ
 炎天の水を跨ぎて人に会ふ
 水音の氷を渡り城の跡
 躑躅ほろほろ命日の階段にみづ
 雉鳴いて腐りたる水地に馴染む
 藻の花のひらいて水の忘れゆく

これらの句は、水そのものを指し示す言葉が、はっきりと書かれている。取りあわせによって、水がそれぞれの表情を浮かびあがらせている。

さらにまた、水そのものが名指されなくとも、書かれた景のうちに、水のあることが感じられる句もある。

 排水溝ひゆうと告げたる檸檬かな
 雪の果肥りつづける魚の棲み
 ひかる雲あり蟷螂の濡れてをり
 さくらんぼ洗ふ時計のあかるさを

これらの句において、水は、排水溝を鳴らしたり、魚が息づいたり、かまきりを濡らしたり、さくらんぼの実をきれいにしたりすることで、その存在を示している。

この句集にみられる水の表情は、このとおりさまざまだ。けれども、読みかえすにつれて、とりわけひとつの表情が、くりかえし書かれていることに気づかされる。

 こゑ消えてプールに映る誰かの家
 足元のみづの揺らいでリラの花
 水底を覗き青葉に囲まるる
 とんぼうの水面に鳥居さざなみの
 雪やみし水面に映る赤ん坊
 潦の木々雉よあらはれよ

映すとはっきり書いてある場合も、そうでない場合もあるけれども、水は、くりかえし、そのつど異なる何かを映してみせる。平らでない、たったひとしずくの水さえもが、外界を映しだす――《一滴の水に映つてゐる九月》。とりわけ目を惹いたのは《朝焼のもうすぐ終はる水たまり》という句だ。空の刻一刻の色合いの移りかわりが水に映りこむさまを、この句は情感をこめて指し示す。

水の表面への関心は、水のうえに現れるさまざまのものへの関心とも結びつくだろう。

 あたたかに鳥の流るる夜の川
 鴨流れ笛の音流れ遅き日を
 水のうへのこゑすれちがふ桜かな

この句集の主体にとって、水面という場は、ものがただ浮かぶところではない。水面にあるものはたえず移ろっていく。くりかえしのうちにさえ、そのつど生まれなおすものがある――《繰り返し繰りかへし海月となりぬ》。そして、この移ろいは、もちろん、水そのものが流れ、湧き、動いていくということに由来する。

 雪原の真下をとほる水の音
 タンバリン鳴らす造り滝の前
 石を生む体の睡り泉湧く
 湧水の小石の力花菖蒲
 犬抱いて降りゆく春の川音へ
 つばくらめ川を下つてゆけば夜
 金色の川越ゆ受験生の頰

雪原の句が示すとおり、流れは潜伏することもある。だから、《ストローを上る果肉や成人の日》という句なども、やはり水にのって流れるものを描いた句と捉えることができる。海月の句から思われるとおり、この流れは、去るばかりではなく、巡るものだ。雨や雪が、この水の流転のうちに組みこまれている。ほんとうに、ほんとうにくりかえし、水が降りそそぐ。ときには、雨はじかに見えていないかもしれない――《地上は雨誰彼のこゑ秋灯》。地上の音や声によって、見えていない雨を知ることがある。雨は、ほんとうにかすかなこともある――《赤い羽根濡れないほどの雨の降る》。そうかと思えば、ひどく降ることもある――《カンナから土砂降りの橋見えてゐる》。急なこともある――《驟雨来る猫の背骨を撫でながら》。広く降ることもある――《藤の花見下ろす雨のひろびろと》。もちろん、雨を感じるのは外ばかりではない――《秋の蚊と入り来し雨の男かな》。ときには、雨という名で呼ばれないこともある――《蟋蟀のこゑの空より崖に水》。せつなく感じられることがある――《雨音のつたはる手擦星まつり》。懐かしく感じられることがある――《大根を煮てこの町に雨の降る》。甘やかに感じられることがある――《枇杷を剝く男の指の甘え雨》。そして、ぬくもりを感じさせてくれることもある――《しろき根のあらはに雨のあたたかし》。雨はそうして、やがて止む――《蟋蟀の木のまつすぐに雨上がる》。

冬や春には、雪のこともある。さまざまの場所に、さまざまのものに雪は降る。

 デパートを出て宝くじ売場の雪
 鉄橋の向うは母の春の雪
 透明な洗濯ばさみ雪降るなか
 子供服売場こどものゐない雪
 傘越しに階段見ゆる春の雪
 雪柳に雪積もる日や客ひとり

もちろん、積もった雪は、やがては融けて水となって流れはじめるだろう――《雪解けの鴉の瞳深く塗る》。雨として、また雪として、降りようはほんとうにさまざまだけれども、地上に降りそそぐ水が、やがて地を伝わり、泉となり、川となって、流れていく。

姿を変えながら句集をゆく水とともに、水のうえを流れるもの、その象徴として、舟という語が姿をあらわす。

 舟は花つめたい顔の揺れながら

舟として立ちあらわれる花とは、つまり花筏のことだろう。顔は、花びらが流れていく水面に映って、つめたく揺れている。

ところで、花といえば、こんな句もある。

 紙の花飾り雨水の一日暮れ

二十四節季の雨水は、二月の半ば過ぎ、降るものが雪から雨に変わり、地上でも雪解けがはじまるころだ。まさしく水にまつわる季の移ろいのなかに紙の花飾りがある。もちろん、花飾りという言葉が呼びおこす花の姿は桜とは限らない。けれども、水の動きはじめる早春において、紙の花飾りは、まことの春の花を待つ気分とともにある。

一方で紙は花の姿をとることができ、さらにまた、花は舟の姿をとることができる。それなら、紙は舟の材料にもなりうるはずだ。そういえば、丈夫な紙は水に浮く。

もちろん、ただ言葉遊びだけでこうした評を書いているわけではない。舟という語は、この句集に二度、ただし、見立てとしてのみ姿をあらわす。二度目は《毛布かけ尖れる耳の舟となり》で、眠るひとの片耳を、毛布のうえに浮かんだ一艘の舟に見立てる。見立てのくりかえしと実物の不在は、舟を憧れのものとして浮かびあがらせる。この憧れは、海という広がりが、眺める先にありながら踏みこみがたい場として描かれていることにも関わるだろう。

 液晶の眩しき海へ秋の蚊は
 凩に振るポラロイド写真の海
 金網に冬の音あり海のあり

水に耐えうる紙は、望みを文字として載せもする――《欲しきもの書くサイダーに濡れし紙》。紙は言葉を運ぶ舟にもなる。そして、書くことは、象徴的に、水のうえをゆくことへの憧れと結びつけられてもいる――《文字を書く速さ海鵜の飛ぶ迅さ》。このとき、『丈夫な紙』という書名は、句集を即物的に紙の束へと還元するイロニーを超えて、それを舟に見立てるユーモアとして働くことになる。書物=舟は、やはり夢のように、かなた先にその場を占める――《蒲団からとほき本棚とほき川》。

舟への憧れは、届くことへの願いでもある。だから、数枚の硬貨さえもが、手から手へ渡るとき、この句集ではあんなにもうつくしい。

 手から手へ硬貨ながるる蛍の夜

そう、流れていく。


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