2026-09-13

浅山幹也 『翅わつててんたう虫の飛びいづる』論 ――日本伝統俳句協会講座『映像化してみたら俳句の作り方が見えてくる』視聴レポート

『翅わつててんたう虫の飛びいづる』論
――日本伝統俳句協会講座『映像化してみたら俳句の作り方が見えてくる』視聴レポート

浅山幹也


1.「いづる」ってなんやねん

高野素十の「翅わつててんたう虫の飛びいづる」の「飛びいづる」ってなんやねん、と思ってしまっていた。

特に「いづる」がわからない。

広辞苑(第七版)を引くと「出づ(いず)」の項目の中に「⑦他の動詞の連用形に付いて、「出る」の意を添える。」とある。なので「出る」の項目にも目を通す。

「①現れる。姿を現す。」「②内から外に移る。」「③源から起こる。」「④(東北地方などで)出来る」。

①と②で矛盾しとるやないか。テントウ虫は飛んで来るのか。それとも飛んで行くのか。もちろん「翅わつて」からの「飛びいづる」という、テントウ虫の動きの叙述から考えて「①現れる。姿を現す。」ではなく「②内から外に移る。」なのはわかりますよ。じゃあ、テントウ虫は何の内から外へ出て行ったんですか?

「翅わつててんたう虫の飛びいづる」の解釈は幾つも読んだ。しかし皆「翅わつて」にご執心。ちゃうねん。こちとら「いづる」でひっかかってんねん。

と、いうようなことを延々と考えていた。

延々とは言ったが、私は元来、怠惰でテキトーだから、このことに対しては明確な回答も出すことなく、うやむやのまま、というかぶっちゃけすっかり忘れていたのだが、「映像化してみたら俳句の作り方が見えてくる」(日本伝統俳句協会オンライン講座)で「翅わつててんたう虫の飛びいづる」の動画を見ていたら、かつてそんなことをうだうだ考えていましたね、と、私の記憶の扉が開いたのだ。「いづる」問題の再来である。

この文章は「映像化してみたら俳句の作り方が見えてくる」(日本伝統俳句協会オンライン講座)のレポートとの体裁を取っているので、一応、このあたりで講座ではどのようなことが話されていたのかを紹介しておこう。

この講座の主役である蜂谷初人さんは、さまざまな俳句を映像化する試みを行っている元NHKディレクターで、日本伝統俳句協会評議員を務める俳人でいらっしゃる。そんな蜂谷さんの(俳句を映像化した)動画を、蜂谷さん自身と文学研究者で日本伝統俳句協会会長の井上泰至さんが見て、得られた気づきを話し合うというのが「映像化してみたら俳句の作り方が見えてくる」の大枠である。

俳句を動画にするためには、カメラをどこに置くか、どんなカメラレンズを使うか、どのようにカットを割るか、などを決める必要があり、より細かく一句の世界を読み解くようになったと語る蜂谷さんは、たくさんの俳句を動画にする中で「俳句というものは、一瞬を切り取る言葉の写真である」と、教わったけれども、自分自身で(俳句を映像化し)名句を読み解いていくと、俳句には時間の流れを詠んだものが結構あるぞ、となり、俳句が時間をどう扱っているのか、に興味を持つようになったとも言う。

講座では、まず、時間の流れを詠んだものの代表格として、芭蕉の有名句を取り上げられていたのだが、「映像化してみたら俳句の作り方が見えてくる」の大枠を掴むため、かつ、この後に言及する「いづる」問題の前提になるようなやり取りがなされていたので、こちらの芭蕉の句に対するやりとりも紹介しておこう。

2.「現在の時間」と「回想の時間」

さまざまのことおもひ出す桜かな 松尾芭蕉
 
この芭蕉の句には現前の桜(現在の時間)をトリガーに思い出すさまざまなこと(回想の時間)が詠まれている。蜂谷さんは、ピクチャーインピクチャー(PIP)と呼ばれる動画技法を用いて、映像化する。では、その動画を描写してみよう。

散る桜の映像、その中央にウィンドウ(PIP)が浮かびあがる。そこにさまざまなことに対応する、赤ん坊の写真、振り袖姿の女性の写真、ウェディングドレスの女性の写真がアルバムのページを捲るように切り替わる。

動画を見れば一目瞭然だが、桜を背景とするPIPの中には、「成長する娘」という大きな時間が流れている。もちろん「さまざまのこと」は「成長する娘」に限定されないのだが、具体的にしなければ映像化できないからこうなっているのであって、本来の「さまざまのこと」にはどんな記憶でも落とし込める。

散りゆく「桜」という後戻りできない「現在の時間」と、アルバムのページ捲るように過去の好きな場所にいける心の中の「回想の時間」という二つの時間を表現するためにPIPという映像技法を用いたと蜂谷さんは解説する。

さらに井上さんは蜂谷さんの動画におけるPIPの縁取りにあたるのが「さまざまのこと」の「こと」なのだと語る。俳句には「こと」の俳句と「もの」の俳句がある。今・ここを詠む「もの」とは異なり「こと」にはもう過ぎ去ってしまって取り返しのつかないことを表現する響きがあるのだろうと言う。

このように、俳句を映像にどのように(映像技法を用いて)置き換えたか、を分析、追体験することで、俳句の中の時空間を露わにできる、というのがこの「映像化してみたら俳句の作り方が見えてくる」の趣旨なのであろう。
うん。とっても楽しそうだ。

なので、次は「翅わつててんたう虫の飛びいづる」について、私も、蜂谷さんと井上さんの議論に勝手に(後から)加わって「いづる」問題を深掘りしていこう。 

3動画でわかる「飛びいづる」の境界

翅わつててんたう虫の飛びいづる 高野素十

まずこの句を蜂谷さんがどのように動画化したか、を描写してみる。

画面中央、花が散った後のタンポポがある。画面の下端、タンポポの茎には赤いテントウ虫がいる。テントウ虫は茎の裏側に回り込みながら先端へ向かってよじ登っていく。タンポポの先端には、まだ開く前の綿毛が白く密集している。タンポポの裏側からテントウ虫が頭を出す。タンポポの先端に辿り着いたテントウ虫は、そのまま方向転換、カメラに対して背を向け、背中の、固く赤い上翅からはみ出した薄い翅をぴくぴくと動かす。そして一瞬、上翅を開く。ここで翅を一度開いて、たたみ込んでいた薄翅を展開したのだろう。
(ここで画面がスローモーションになる。)

目指す方向へ身体の向きをゆっくり旋回させる。

(ここから画面はストップモーションに。)

上翅が開き、薄翅を左右におおきく広げたと思ったら、左右に三本ずつある脚の真ん中の脚だけを振り上げ、その勢いでタンポポから離脱。弧を描くように画面の外へと飛んでいった。

この「翅わつててんたう虫の飛びいづる」の動画は、カットを割っておらず、ワンシーンワンカットだ。

さらに描写してみると気づくことだが、この動画は「翅わつててんたう虫の飛びいづる」に至る前段も記録している。蜂谷さんもこの句を映像に置き換えるにあたって、ポイントは「翅わつて」の時間を引き伸ばした、あるいは止めて見せた点であると解説しているが、「翅わつててんたう虫の飛びいづる」で描写されたテントウ虫の動きは、スロー/ストップモーションを用いて表現されている部分が対応している。

私はこのレポートの最初に、
「翅わつててんたう虫の飛びいづる」の「いづる」の意味は「②内から外に移る。」ですが、するとテントウ虫は何の内から外へ出て行ったんですか?
という問いを立てていた。

蜂谷さんの動画を見たとき、この答えが出たので、まず、その問いの自分なりの答えを提示しておこう。

答えは「画面」の内から外へ出て行った、である。

動画の画面内からテントウ虫が画面外に飛び去る様を見て、「いづる」が作っていた内と外の境界は、映像化すれば画面のフレームだと気づいたのだ。

「画面」では、あまりにも動画を前提にしているから「視界」でも良い。

俳句を映像化することは、言葉が潜在的に作っていた空間構造を明確にすることでもある。蜂谷さんの動画は、「いづる」が含んでいたこちらとあちらの境界を、映像のフレームによって可視化したのではないだろうか。

はい。

と、冒頭の課題を自分なりに納得できる形で片付いたところで、私が蜂谷さんの動画を見て、そして蜂谷さんや井上さんの話を聴いて、浮かんできた仮説、

「翅わつててんたう虫の飛びいづる」の中にも「現在の時間」と「回想の時間」という二つの時間が流れているのではないか。
 
を共有しておきたい。
 
蜂谷さんは「翅わつててんたう虫の飛びいづる」の「飛びいづる」の働きについて「動きが繋がっていくような、後ろに余韻があって、広い空に飛びだしていくような効果」と述べていた。

これは私が蜂谷さんの動画を見て辿り着いた「視界の内から外へ出て行った」との解釈と通じるものがある。観察者(素十)の視界や、動画のフレームの外へ出ていても、テントウ虫の運動は続く。そんな余韻が「飛びいづる」の働きによって生まれているのは間違いない。テントウ虫には、蜂谷さんの言うとおり広い空に飛びだして行った後も、その運動が連続するような、後戻りできない「現在の時間」の余韻がある。

一方で井上さんは、この句末を、終止形「飛びいづ」ではなく連体形「飛びいづる」で思いっきりカットして、読者に強い印象を与えることで、上句の「翅わつて」へ戻っていく効果があると言う。これは作者や読者の中にある「回想の時間」において、と言ってしまって良いだろう。

しかしすると、蜂谷さんの言う連続する時間「現在の時間」と、井上さんの戻っていく「回想の時間」は、同じ「翅わつててんたう虫の飛びいづる」の中に重なっているように思える。芭蕉の句「さまざまのことおもひ出す桜かな」では、「さまざまのこと」が回想の時間を担い、「桜」が現在の時間を担う。この対応関係が明確だった。ところが素十の「翅わつててんたう虫の飛びいづる」では、「現在の時間」と「回想の時間」の、どちらも同じテントウ虫の運動が担っている。このことをどのように捉えれば良いのだろう。

4. 迂回して「翅わつて」を考える

考えに行き詰まったときは一度、動画に立ち返ってみる。するときっと打開策が見えてくる。この「翅わつててんたう虫の飛びいづる」の動画は、カットを割っておらず、ワンカットだ。なぜ蜂谷さんは技法としてワンカットを選んだのだろう。ワンカットによって表現されたのは「翅わつて」と「飛びいづる」の連続する運動だ。

「翅わつててんたう虫の飛びいづる」の句において、この運動のシームレスさを担保しているのは「翅わつて」の「て」だろう。これは井上さんがおっしゃっていたことにも重なる。

井上さん曰く、「翅わつて」「飛びいづる」の二つの動詞を助詞「て」で繋げば(なになにして~なになにする)というかたちの説明になってしまうが「翅わつててんたう虫の飛びいづる」の句はそうなっていない。「翅わつて」と「てんたう虫の飛びいづる」の間には切れがあり、その屈折が動作の説明になることを回避している、とのことだ。

この解説を受けて私はその屈折とは何かを考えた。そして次の考えに辿り着いた。

「翅わつててんたう虫の飛びいづる」には、「て」を起点として、「翅わつて、飛びいづる、の連続する動きの描写」と「飛びいづる、の直前、テントウ虫には、翅わつて、の瞬間がある、という発見」が折り重なっている。

動画では、タンポポの茎をのぼり、翅を開き、飛び去る、一連のテントウ虫の動きを、ワンカットで切れ目なく展開させて、テントウ虫の翅を割る動きをスロー/ストップモーションで強調しているのだろう。

5. 「不可逆な時間」と「再生可能な時間」

現実の「翅わつて」「飛びいづる」テントウ虫の運動は一回限りで後戻りできないが、それをワンカットでまるっと記録した瞬間、その運動は何度でも最初に戻って再生される時間へ変わる。

光明は見えている。

素十の句は回想とは異なる仕方で捉え直したほうがよいのかもしれない。芭蕉の句は、現在の「桜」と過去の「さまざまのこと」という異なる二つの対象・時間を並列する句だったのに対し、素十の句は「一度しか起こらない」テントウ虫の運動と「何度でも呼び戻せる」テントウ虫の運動が重なり合っている。つまり一つの運動の二重化だ。

「翅わつて」「飛びいづる」テントウ虫の運動は私たちが生きる連続する現在においては一回性のものだ。しかし動画や俳句によって、そのテントウ虫の運動を、始まりと終わりがある完結した時間に切り抜くことができる。

重要なのは「現在の時間」という言葉が含んでいる「一回性」と「不可逆性」であり、「回想の時間」が持つ「反復性」と「再生可能性」だろう。

ここで「現在の時間」を「不可逆な時間」へ、「回想の時間」を「再生可能な時間」へと捉え直してみよう。

撮影という行為はその被写体、テントウ虫と同じ「不可逆な時間」で行われる。その「不可逆な時間」を撮影し、テントウ虫の運動を動画化することで、区切りのない被写体の時間は、開始と終了がある動画になる。再生された映像には「不可逆な時間」で展開されたテントウ虫の運動と(スロー/ストップモーションで部分的に時間を引き伸ばされている以外は)寸分違わぬものが映っているだろう。しかし、それはもう、後戻りできない「不可逆な時間」に属するものではなく、好きなときに戻る「再生可能な時間」に属するものとなってしまっている。

この動画がワンカットになっていることで、素十の句「翅わつててんたう虫の飛びいづる」に、「不可逆な時間」と「再生可能な時間」が、折り重なっている事実が見えてくるのである。

6. 俳句にできて動画でできないこと

素十の句は〈翅わつて〉で始まっているが、蜂谷さんの動画では〈翅わつて〉で始まっていない。

蜂谷さんの動画では〈翅わつて〉はスロー/ストップモーションで強調されてはいるが、テントウ虫の運動の過程の一時点にすぎない。

蜂谷さんの動画で〈翅わつて〉から始めなかった理由も理解できる。

動画は、何も映っていなくても、(動画を再生する)メディアに備わる画面のフレーム(枠)だけは残ってしまう。蜂谷さんの「翅わつててんたう虫の飛びいづる」の映像化は、ワンカットを選択したがゆえに、そのフレームに囚われている。もしこの動画が画面中央のテントウ虫の〈翅わつて〉から始まるのであれば、そこに唐突感が生まれてしまうだろう。ましてや、元の素十の句はフレームの外へ出ることを志向する句末〈飛びいづる〉で閉じている。だからなおさら動画の始まりはフレームを意識したものにならざるを得ない。

つまり、蜂谷さんの動画は、その動画メディアの性質ゆえに「フレームの一辺にいたテントウ虫が(中央を経由して)別の一辺へ飛び出ていく(その過程にテントウ虫の〈翅わつて〉がある)」作品になっている。

「フレームの一辺にいたテントウ虫が(中央を経由して)別の一辺へ飛び出ていく」ことによって蜂谷さんの動画作品は、はじまりとおわりを得て、完結しており、〈翅わつて〉がその完結性に寄与しているわけではないのだ。

いっぽうの素十の句では、すでに〈飛びいづる〉まで見届けた運動の中から発見した〈翅わつて〉という瞬間を選び出し、作品の始まりにしてしまっている。発見〈翅わつて〉そのものを〈翅わつて〉の主体であるテントウ虫よりも先に記述している。これをワンカットの映像で描写するなんてほぼ不可能だろう。

芭蕉の句「さまざまのことおもひ出す桜かな」の映像を思いだそう。

芭蕉の「さまざまのこと」も、映像化する際は「娘の成長のスライド写真」に具体化せねばならなかったのと同じ事だ。

7. 結局「いづる」ってなんやねん

「さまざまのこと」の議論の中で「こと」は出来事をひとまとまりに縁取るという話があった。

「翅わつててんたう虫の飛びいづる」もまた連体終止〈いづる〉によって、句全体をひとまとまりの出来事として受け取ることができるようになるのではないか。

井上さんの共著書「俳句がよくわかる文法講座:詠む・読むためのヒント」(井上泰至・堀切克洋、2022、文学通信)第11章(202ページ)の「連体形の終止形化」の項目にも、理屈をこねればとの断定を避けているが、このような記述もある。

〈(「連体終止」は)理屈をこねれば、「人よ」や「ことよ」という言葉が省略されていると見ることもできますが。〉

もちろん「翅わつててんたう虫の飛びいづる」の句末は、俳句のフレームに則って(上五中七)下五でなければならなかったからと考えることもできる。

しかし連体形〈いづる〉が省略された「こと」を想起させ、ひとまとまりに縁取る「回想の時間/再生可能な時間」が生じていると考えるほうが面白いじゃないか。

〈いづる〉は、まず〈いづ〉/「出る」の「②内から外へ移る。」という意味によって、「翅わつて、飛びいづる、の連続する」動作を行うテントウ虫を「不可逆な時間」においての画面/視界の外へ出す。

しかし連体終止〈いづる〉という形式によって、省略された「こと」を想起させる。詠んだ素十、あるいは読んだ読者の中に「再生可能な時間」のテントウ虫が立ち上がる。それは「飛びいづる、の直前、テントウ虫には、翅わつて、の瞬間がある、という発見」である。

その〈翅わつて〉という瞬間は、読者の目の前には存在しない。俳句が立ち上げる「再生可能な時間」の中のみに存在するのである。

結局、「翅わつててんたう虫の飛びいづる」の「いづる」ってなんやねん。

テントウ虫を視界の外へ飛びださせながら、その飛びだす運動を作品の中に残す言葉、それが「いづる」ってことちゃうかな。知らんけど。

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