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2012-12-02

角川書店「俳句」の研究のための予備作業〔後〕 江里昭彦

角川書店「俳句」の研究のための予備作業 〔後〕

江里昭彦



「夢座」第167号(2012年7月)より転載
【昭彦の直球・曲球・危険球】42


12 腐っても鯛、落ちぶれても角川「俳句」

俳句ブームが去ったことで、かつての威勢を失い、落ちぶれてしまった「俳句」誌。しかしながら、依然としてこの誌は俳句商業誌のキングである。俳壇が角川「俳句」を中軸に動いていくという構図に、たいして変化は見られない。なぜかというと、「俳句」誌は単なる商業誌ではなく、唯一の〈格づけ機関〉であるからだ。総合誌と称するものは他にも数誌でているけれど、どれも〈格づけ機関〉としての威信を具えるに至っていない。

かつて「俳句とエッセイ」という商業誌があった。一九七三年の創刊で、二十年以上もつづいたのに、現在ではまったく忘れさられている。また、「俳句朝日」が姿を消したのはほんの数年前なのに、はや話題にされることも稀である。俳壇には忘恩の徒が多いから、ではあるまい。主たる理由は、この二誌がただの商業誌のまま終わったことにある。つまり〈格づけ機関〉としての信望を得ることなく、幕を閉じたためである。

喩えを用いると、俳人にとって、〈格づけ機関〉の性格をもたぬ商業誌は、歌手における地方の劇場・ホールのようなものである。そうした劇場・ホールで公演すると、聴衆が集まるし、ギャラも手にできる旨みがたしかにある。ところが、大都会の檜舞台となると、話が違う。そこで歌うことは一流歌手の証となり、箔がつく。つまり、檜舞台は歌手にとり〈格づけ機関〉の意味をもっているのだ。

こうした信望を得られなかった「俳句とエッセイ」「俳句朝日」の終刊は、ただ発表誌が滅ったことを意味するだけである。いつの世も俳人の最大の関心事は、いま在る発表舞台のなりゆきであるから、消えた商業誌のことが念頭からぬけおちるのは、やむをえないではないか。

わたしの見解では、これまでのところ、〈格づけ機関〉としての性格を具有したのは「俳句」と旧「俳句研究」との二誌だけである。(ただし、旧「俳句研究」は、一九八六年に富士見青房へ身売りされ、角川傘下に吸収された時点で、〈格づけ機関〉の性格を喪失している。つまり、たんなる商業誌に格下げとなったのである)。

戦前の俳句史に大きく貢献した旧「俳句研究」が尊重されるのは尤もなことであるが、それでは、後発の「俳句」が、後発であるにもかかわらず、先輩格の「俳句研究」を凌駕するほどの〈格づけ機関〉としての威信を獲得できたのは、どうしてなのだろうか。この疑問への回答は、一九五〇年代から六〇年代初頭にかけての俳壇の動向のうちに隠れている。だから、われわれは、答えをみつけるために、そのころの「俳句」詰の歩みを振り返る必要がある。


13 総合誌の時代へ

「俳句」の創刊は一九五二年六月である。

意表を突くようだが、ちょっと角度を変えて、歌壇の名編集者として鳴らした中井英夫の発言を聞いてみよう。「短歌研究」の編集長だった中井は、角川書店の「短歌」創刊が投じた波紋を次のとおり描写している(潮出版社『増補・黒衣の短歌史』、一九七五年)。ただし、ここでの「短歌研究」は改造社のそれではなく、四四年から六一年まで日本短歌社が発行した総合誌を指す。また角川「短歌」の創刊は五四年一月であることに注意しよう。
戦後八年間、歌壇を独走して、その強権ぶりを誇っていた(といういい方もおかしいが、やはりおのずから旧歌壇の秩序に従って「強キヲ扶ケ弱キヲクジク」式のところがあったのは確かであろう)「短歌研究」も、これで勝手な真似は出来ないぞというのが、アンチ短歌研究派の胸の裡でもあったろうし、向うはなにしろ昭和文学全集で当てた“大”角川である。早くも原稿料はこちらの五倍は出すそうだなどという噂が乱れとんだ。昔の新歌人集団の面々、つまりイキのいい若手は、みんなもう向うについて、誰と誰が編集参謀をしているといった声もする。〔太字は江里〕
この発言のなかで注目すべきことが二つある。

第一に、五三年の時点で、歌人の大半はすでに、これからは総合誌が歌壇を牽引するという認識をもっていたこと(そうした認識の形成に、まさに中井編集の「短歌研究」は大きく貢献した)。

第二に、経営基盤の安定した角川書店の参入に期待が高まっていたこと(「原稿料はこちらの五倍は出すそうだ」の風評の真偽はともかく、そうした噂がとぶのも、角川書店が大店であったからだろう)。

この二つは、当時の俳壇にもほぼ当てはまると考えてよい。とりわけ後者は、俳人にとって喫緊の関心事であったろう。というのも、戦後に再生した「俳句研究」は経営の苦しい版元を転々として俳人をやきもきさせていたし、新たな総合誌をめざした「現代俳句」(石田波郷編集)も短命に終わり、五一年には姿を消していたからである。そこへ「昭和文学全集で当てた“大”角川」の参入である。総合誌を軸に俳壇が動く新時代へと移行したことは、誰の目にもはっきりしていただけに――「俳句研究」にそっぽを向いた高浜虚子が、「俳句」創刊には祝句を寄せた一件は、こうした文脈において理解すべきである――月刊誌を安定して提供しうる出版社の登場は、多くの俳人に福音として受けとめられたにちがいない。

そして実際、草創期の「俳句」は、期待に十二分に応えたのである。長い引用になるが、飯田龍太は、「俳句」誌が「その後の俳壇に決定的な影響をもたらした」事例を、こう記述し賞賛している。(講談社『日本近代文学大事典』第五巻、「俳句」の項)。
ことに昭和三〇年前後、編集を担当した大野林火は、これら三十代作家に全面的に誌面を提供。活撥な論議を生ましめる一方、三一年四月号に『戦後新人五十入集』を特集、実作面での評価に具体的なデータを示した。ここに登場したおもな人名を抄出すると、赤城さかえ、飯田龍太、石原八束、伊丹三樹彦、上村占魚、桂信子、角川源義、金子兜太、清崎敏郎、楠本憲吉、香西照雄、佐藤鬼房、沢木欣一、鈴木六林男、高柳重信、田川飛旅子、野沢節子、野見山朱鳥、能村登四郎、原子公平、藤田湘子、細見綾子、森澄雄らである。後年同誌において、四三年一月号より十二月号まで特集した俳壇の中核を示す『現代の作家』および四六年二月号より十二月号まで特集した『現代の風狂』は、ほとんどすべてがこれらの人々が対象となったことをみれば、その意義はきわめて大きいものがあったといわねばならない。
飯田龍太は、自分たち戦後派に活躍の場を与えてくれたことに恩義を感じてこう述懐しているのでは、ない。彼は「俳句」誌が、新人発掘にさいして発揮したその見識に、敬意を表しているのだ。だってそうではないか、大家や人気俳人に原稿を依頼して誌面を飾ることなら、馬鹿でも無能でもできる。

総合誌は伯楽でなければならぬ。その見識と力量は、俳句の未来を担う力を汲みあげることができるか否かにかかっている――おそらく龍太はこう言いたいのだろう。実際のところ、彼が列挙した錚々たる顔ぶれは、感動のあまり、膝がわなわな震えるほど素靖らしい。この一群の新人たちは、まさにその後の俳句を〈決定〉した。龍太の記述は過褒でも誇張でもない。そして、戦後登場した新人たちが「俳句」誌へ寄せる信頼は、この時期に不抜のものとなったのであろう。

(くどいようだが、「俳句とエッセイ」も「俳句朝日」もこうした貢献をしていない。ただの商業誌のまま終わったとは、こういう意味である)。


14 文学の力と資本の力

「俳句」誌のかかる功績は、やはり編集長の采配によるところが大きい。初代石川桂郎のあと、一時発行人の角川源義が担ったが、大野林火・西東三鬼を長に据えるや黄全期を現出させたのである。だが、問題は三鬼後に社内人事ばかりがつづいたことであって、塚崎良雄・山田浩路・渡辺寛・室岡秀雄・鈴木豊一らが起用されている(このくだりの記述は、明治書院『現代俳句大辞典』の「俳句」の項を参照した)。ここで、またもや中井英夫の文を引用することにしよう。社内人事へと舵がきられた頃、彼が目撃したあるできごとについての証言である。(朝日文庫・現代俳句の世界13『永田耕衣・秋元不死男・平畑静塔集』所収の「哄笑する人びと」、一九八五年)。
私が角川「短歌」の編集長をしていた昭和三十年代の初め、部屋は社長室の隣りで「俳句」の人びとと一緒だった。編集長は大野林火から西東三鬼、さらに歳時記編集のため秋元不死男もいるという花々しさだったが、現代俳句について一向に無知だった私は、とり立てて畏敬の念も特たず、仲よくおつき合いをいただいていた。
(中略)
昭和三十二年の七月、隣りの社長室へ呼ばれていった三鬼と不死男は――それはもうあらかじめ決まった話ではあったのだが――帰ってくるなりまず不死男が、あの独特の苦笑いを浮かべて一言だけいった。「馘ですわ」
この逸話は、文学の力と資本の力との〈力関係〉の変化を象徴的に語っている。西東三鬼・秋元不死男と角川源義のいずれが俳人として優れているか、と問うのは愚かだ。答えは前者に決まっている。しかしながら、角川書店のオーナーたる源義(すなわち資本の力)は、俳人として格上の三鬼・不死男を、必要なときに雇い、都合が悪くなれば馘にできるのである。それを根にもって、もし三鬼・不死男が協力を拒んだとしても、源義にとってさほど打撃ではあるまい。時代はすでに総合誌を中心に勣いており、これから地歩を固めたい多くの俳人は、「自分をどれだけ高く買ってくれるか」と、総合誌の意を迎えることに汲々としているのだから(角川「短歌」の創刊の際、新進歌人らがみせた迎合ぶりを思いだすがよい)。

月刊誌を全国的な販売網によって多数の読者に届ける資本力を、角川源義はもっている。他の俳人が、彼と同等の資本力をもたないのなら、なんだかんだいっても、とどのつまりは源義に膝を屈するしかない――これが〈総合誌の時代〉の冷厳な現実である。要するに、総合誌の時代は、その始まりにおいて、「俳句にとって資本主義とはなにか」という命題を底に匿していたのである。

とはいえ、源義には文学者の含羞があった。二流俳人のおのれが格上の大家にあれこれ指図するのは、気づまりでもあり心苦しい、という心のうずきを感じていたろう。だが社内から編集長を起用するとなると、この心のうずきは消える。源義は社長命令として編集内容に容喙できるのだ。現場には鬱陶しい指図であっても、それは企業の組織原則にも指揮系統にもなんら反しない。

有力俳人を編集長に迎えるのを止めた理由として、表むきは、創刊から数年たち、社内に人材が育ってきたことをあげるだろうが、真の意図は、源義の俳句観を設計図にして編集しやすい体制へ改造すること(そしてそれを通して俳壇を誘導すること)にあったと見るべきである。わたしは草創期の「俳句」の功績を高く評価する。けれど、編集長人事が社内からの起用に切り換わって以降は、警戒の眼をむけざるをえないのだ。


15 改めて角川春樹の覇権主義を糺す

再び言う、角川源義は文学者の含羞をもちあわせていたと。彼はおのれの器量を弁えていたから、自分を一流俳人として遇するよう求めなかったし、誌面の私物化を図ることもしなかった。彼は終始、学究肌の黒幕としてふるまったのであり、俳壇を誘導したり、気に入らぬ俳句観の流布を妨害したり、対抗勢力を抑えこもうと画策したりしたけれども、おのれの神格化だけは斥けた。

ところが、角川春樹は父親とまるで違う。二流俳人である自分を(二流俳人としての才能はある、ということだ)、風雲児・天才と褒め讃えるよう、あからさまに求めたのである。どうして、そんな厚顔無恥な態度に出ることができたのか?理由は、彼が資本の力について、揺るぎない認識をもっていたからだろう。総合誌を中心に俳壇が廻っている現状においては、総合誌を制する力(資本力)を保有する人間こそ覇者である、という資本主義の論理を信じきっているのだ(残念ながら、と言うべきだろうか、その確信はまったく正しいのである)。

加えて、彼は、大手出版社のオーナーとして、政界・新聞社・俳句団体などに働きかける人脈をもっている。そこから幾多の賞をひきだせば、現代のメディア社会では「実像より大きく見える」演出効果があることを熟知している。とかく大衆は、演出された虚像に靡きやすい。資本力、それを元手にした各界との人脈、そして派手なメディア戦略。これらを駆使して覇権を握ろうとする野心家角川春樹に、さて、俳人はいかに対処したらよいか?

要するに、俳句の世界は、角川春樹の登場によって「俳句にとって資本主義とはなにか」という命題とまともに向き合うことになったのである。それまで浮上しなかった命題が、一挙に、禍々しいまでに極限のかたちで、俳人たちにつきつけられた。はたして、俳壇はいかなる言動、対応、去就を呈したか――関心のあるご仁は、当時の俳句誌や新聞に実際にあたって検分してほしい。かずかずのあさましい人間模様が見られること、請け合いだ。

だが、それよりも、どうして俳句ブームが到来するまで、上記の命題が浮上することがなかったのか、という疑問を解明することのほうが重要だろう。商業出版が主流を占める事態は、すでに戦後経済の復興とともに動かしがたい趨勢となっていたのに、なぜ、俳句の世界がその例外ないしは辺境でありえたのだろうか?

この疑問に答えるキーワードは、俳句界における〈冷戦〉である。一九六一年十一月の現代俳句協会の分裂事件がそれにあたる。


16 冷戦体制の成立

俳壇を超えて世人の耳目を驚かせたこの分裂騒動を、田川飛旅子は、辞典の記述においてこう総括している。(明治書院『現代俳何人辞典』の「現代俳句協会」の項)
遂に昭和三六年末に、結成当初の原始会員を含む多くの会員が突如連袂脱退して、別に俳人協会を作るに至った。分裂の真因は未だにはっきりしないが、表面的には、無季俳句や前衛俳句を全く認めない伝統俳句陣(俳人協会側)と、無季俳句、前衛俳句を認め、広く伝統俳句をも包含する派(現代俳句協会側)と二分した恰好になった。〔太字は江里〕
当事者たちにはいろいろ言い分があるから、「分裂の真因」を確定するのは甚だむずかしかろう。でも、ただひとつだけはっきりしていることがある。角川書店の関与である。「俳句」六一年十二月号に「俳人協会清記」と題する一ページ大の広告がいきなりあらわれ、そこに「角川書店内 俳人協会」と明記してあったのだ。密かに組織され、一斉蜂起のごとく突然名のりでた分裂組織は、当面、事務所や通信手段や備品をもたないから、そうした便宜を角川書店が供与したことになる。

これが、俳句界における冷戦体制の成立である。ごっそり会員を失った現代俳句協会が、事態の進展にとまどい、混乱したとしても、新組織をたちあげた俳人協会の視界は、きわめて明瞭であった。われわれは「健全な」俳句観を蝕もうとする種々の悪しき傾向と断固闘い、これを排除する、心強いことに、角川「俳句」は守護神として支援を約束してくれた、分離して浄化を遂げたわれわれこそ、俳句の正道を歩むものである、という自覚と使命感にのぼせていたのだから(残存者による現代俳句協会が一種の混成部隊であることは、田川の記述からも伺える)。

かくして、六〇年代と七〇年代は、冷戦時代となる。冷戦は結社誌・同人誌を単位として闘われるのだが、〈総合誌の時代〉にあっては、「俳句」と「俳句研究」の舵取りが帰趨を左右するほどの影響力をもつ。そして歴史は、「俳句」のゆるぎない全面支援を得て優位に立った俳人協会と、さほど応援に熱意をみせない「俳句研究」しか頼みにできず劣勢に終始した現代俳句協会、という構図のまま推移したと描写できよう。

こうした対立構図が支配するもとでは、総合誌とは実のところ商業誌であり、資本主義社会において、商品として生産され、流通し、そして消費される出版物なのだという本質規定は、どこかにふっ飛んでしまう。俳句理念をめぐる抗争にひとびとが熱中しているとき、商業誌は、自分か正しいと信ずる教義を伝道する媒体に見えるのである。「俳句」を購読するとは、一営利企業の商品を買うことを意味するのではない、「健全な」俳句観を擁護する闘いへの参加であり、悪しき傾向を駆逐する「聖戦」に賛意を表明することと同義になる。

これは、戦後俳句に固有の特殊状況である。いわば冷戦の重しである。この重しがずっとのしかかっていたから、「俳句にとって資本主義とはなにか」という命題が意識にのぼることは滅多になかったのだろう。逆に言えば、冷戦が終わったとき――つまり、俳句ブームの到来で遊芸派がどっと押し寄せ、商業主義へ舵をきった角川「俳句」が勝利したとき――やっとこの命題が、強欲資本主義のすがたをとって俳壇を翻弄することになったのである。

しかしながら、あの八〇年代、角川春樹によってさんざん掻きまわされても、ほとんどの俳人はアンチ角川とならなかった。なぜならば、草創期の優れた編集の成果と、冷戦期に守護神として後見した実績とを、まばゆい資産として、「俳句」誌は〈格づけ機関〉としてゆるぎない威信を獲得していたからである。「俳句」誌の優越は、まさに戦後俳句史にしっかりと根を張っている。ましてや、高柳重信編集の「俳句研究」が八六年に角川傘下に吸収されたのち、「俳句」が唯一の〈格づけ機関〉となったのだから、「俳句」に逆らったら、日陰の俳句人生を歩むことを覚悟しなければならない(そうした反抗を試みた気骨のある人間がいなかったわけではないのだが)。

端的に言って、俳壇はずっと「俳句」誌の制御のもとに置かれてきた。だから、時が流れ、俳句ブームが去り、「俳句」が落ちぶれた姿をさらすようになっても、なおも多くの俳人は角川「俳句」に従いつづけるのである。まるで他には選択肢がないかのように――。依然としてこの誌は俳句商業誌のキングたる地位を保っている。


17 王様は裸だ――支配の終わりの始まり

では、「俳句」誌の支配はこれからもずっと続くのだろうか?

この質問は、実は、問い自体が答えを招きよせている。支配が終わると確信するからこそ、わたしはこう問いを設定するのである(いかなアンチ角川派のわたしでも、俳句ブームの最盛期にこの問いを発するのは不可能だ)。

でも、断っておくが、「俳句」誌の支配の終結は、かならずしも「俳句」誌の廃刊を指すのではない。また、他の商業誌が王座を奪う事態を予想しているのでもない。支配を終わらき真の力、それはインターネットだ。――と断言しても、わたし以外のすべての俳人は、この回答を奇抜な思いつきとしか受けとらないだろう。したがって、以下の章においては、わたしがそう考える根拠を述べることにする。俳句の話題を離れた記述が延々とつづくが、角川書店という〈私的資本〉による俳壇支配がついに終幕へと向かうという論旨に納得していただくために、それは是非とも必要なまわり道であることを了承願いたい。


18 インターネットの時代

端的に言おう。商業誌という狭い枠内での興亡により、「俳句」が王座から滑りおちるのではない。事態は〈既存メディア対インターネット〉という、カテゴリー同士の攻防のなかで決着をみる、というのがわたしの見解なのである。そこで、インターネットの伸長が、「俳句」を含む雑誌というカテゴリーをいかに脅かしているか、データをふたつ示そう。

ひとつは、日本の広告費の変遷である。二〇一〇年二月二二日、電通の発表によると、前年(○九年)にインターネット広告が初めて新聞広告を抜き、テレビに次ぐ「第二の広告媒体」となった(二月二三日付朝日新聞)。

日本は市場経済の国であるから、商品やサービスを消費してもらうためには、広告宣伝が欠かせない。そして、広告宣伝はそのときどきの勢いがあるメディアに集まることになる。したがってメディア別の広告費の変遷は、どのメディアが主流か傍流かを示す有力な指標と化す。

長年テレビが一位である(2兆円規模)。二位が新聞(1兆円規模)、三位雑誌、四位ラジオとつづき、もともと存在しなかったインターネットは零からのスタートであった。そのインターネットが、下降線をたどる一方の新聞を蹴落とし、二位に躍りでたのである。記事は「休刊が多かった雑誌は25・6%減って3034億円に縮小した」と、雑誌業界には不吉な分析を記している。

ここでようやく、俳句ブームの検証作業において、わたしが広告に留意して観察をつづけた、その真の意図を理解していただけると思う。「俳句」誌から優良企業の広告がごっそり消えたのは、実はブームの退潮が主因ではない。勢いを増すインターネットヘ広告が移動したのが、根本の動因なのである。よって、将来ふたたび俳句がブームを呼ぶとしても、「俳句」誌に他業種の広告が戻ってくることは断じてない。日本の企業は雑誌広告を時代遅れの媒体とみなしており、それはそのとおりなのだから。

もうひとつのデータは、雑誌販売額の落ちこみである。二○一二年一月二五目、出版科学研究所は、前年の取次ぎルートにおける雑誌の推定販売額を発表したが(一月二六日付け朝日新聞)、その額は問題ではない、「前年を下回るのは14年連続となった」のくだりが重大なのだ。この間、好況も不況もあった。にもかかわらず、一貫して販売額が滅っている。こうなると、あれこれ編集に工夫をこらせば挽回できる退勢ではもはやない、と考えるのが妥当だろう。つまり、雑誌文化そのものが衰退へ向かっていると判断するしかあるまい。

雑誌広告費がインターネットに抜かれたのは○六年である。少したつと、雑誌の終刊が相次ぐようになった。「論座」「現代」「諸君!」の論壇誌から、「小学五年生」などの学習雑誌まで、あらゆる分野にわたる。極めつけは情報誌「ぴあ」(首都圏版)だ。かつて最盛期には53万部に達したこの国民雑誌も、インターネット時代に生き残ることができなかった。いまや、「俳句」誌を含め目本の雑誌は、全滅を避けるにはどうすればよいかを、真剣に検討すべき段階に来ているのが実情である。


19 なぜインターネットは雑誌を侵食するのか

遠くない未来において、たぶんこんな会話がかわされるだろう。

「どうして、二十世紀の日本では、あんなに雑誌が繁盛したんだろうね?」
「インターネットがなかったからさ」

冗談を言っているのではない。これは本質をついた指摘なのだ。

そもそもの話をしよう。われわれは結社誌や同人誌に所属している。でも、いわゆる総合誌はこれらより上の層にあって君臨していると、みな考えている。では、総合誌が、結社誌・同人誌に優越する強みはなにか。それは、「月刊誌を全国的な販売網によって万単位の読者に届けることができる」からだ。同じことを結社か同人組織が試みたら、たちまち息がきれてヘトヘトになるに決まっている。(月刊で結社誌を出しているところは、数百部でも、それがいかに大変な作業であるかを痛感しているはずだろう)。

しかるに、角川書店は、社屋を構え、編集部員を雇い、諸経費を潤沢に使いながら、月刊誌を六十年も作りつづけている。大資本を有するからこそ可能な事業である。総合誌は、資本主義に基づく商業出版が成熟した段階においてあらわれる種類なのであり、それゆえ戦後俳句史は、おのずと角川「俳句」の軌跡というもうひとつの顔をもつことになった(もし、戦後の早い時期に参入したのが新潮社や文藝春秋であっても、似た結果になったと思う)。

ところが、インターネットの普及で革命が始まった。まず、インターネットは、個人であっても、安いコスト(資金・時間・労力)でもって言葉を全国の読者に向けて発信することを可能にした。インターネット上にサイトを設けたからといって、「俳句」なみに万単位のアクセスがあるわけではない。それでも、総合誌に載らないと万単位のひとびとに届かなかった作品や評論を、総合誌の介在なしに、個人が直接届けることができる条件が整ったのである。これは、まさに革命と呼ぶに値する巨大な進歩だ。

進歩の第二段階は、動画(動く映像)の配信が可能となったことでもたらされた。

例えば、料理のレンピを動画で公開するサイトがたくさんみつかる。炒めていた食材の色がどう変わったときに、別の食材をフライパンに入れるか、映像をみただけで作り方がわかる――これだと、料理雑誌はいらなくなる。

また、海外旅行で訪れた観光地の最新の情報を、動画をまじえて詳しく紹介する個人のサイトもたくさん見つかる。現地の情報はこまめに更新してこそ役立つ――これだと、旅行雑誌を買うひとは滅るだろう。

事態はもはやこれにとどまらない。「ニコニコ動画」というサイトでは、テレビ局のむこうを張って「生放送」を行っている。(二〇一一年九月一三日付け朝日新聞)。小沢一郎・民主党元代表が出演した自主制作番組は、とりわけ話題を呼んだ。小沢バッシングを前提にしたテレビ局の報道に不信感を強める小沢氏は、主張をそのまま放映してくれるから「ニコニコ動画」への出演を了承したのだと言われている。震災後の五月には「これが福島原発の実態だ!東電現場からの告発」という番組も制作。また、東京電力の会見をまるごと中継することで、会見でなにがやりとりされているか、つぶさに把握できる場を提供するなど、意欲的な番組づくりを展開している。

公式生放送は月に六〇〇本、会員は二〇〇〇万人を超えたというから、侮りがたい勢力に成長したわけである。各テレビ局が視聴率の低迷に苦しむはずだ。

(わたしが疑問に思うのは、こうした動画投稿サイトを利用して、なぜ自主制作の俳句番組が放送されないのか、ということだ。NHKのなまぬるい退屈な俳句番組を駆逐するほどの、内容が濃く、切れ昧の鋭い番組が、どうして登場しないのか?)


20 みんなで言おう「王様は裸だ」と

インターネットは既存メディアのすべてをゆさぶっている。ひとびとは、既存メディアがやっていることのほとんどがインターネット上に〈置き換える〉ことができる事実を発見したのだ。インターネットの普及と雑誌文化の衰退とのあいだには、はっきりした因果関係がある。

新聞の〈置き換え〉作業も進行している。朝日新聞の電子版はその先駆であって、――朝日新聞社の首脳は口が裂けても認めないだろうが――八〇〇万の紙媒体の新聞が近未来に消滅することを見通して、いまのうちに、電子空間のなかでビジネスモデルとして生き残ることを目指したのだと推測される。実際に、インターネット先進国のアメリカでは、新聞の廃刊が相次いでいるのだから。

それならば、角川「俳句」に立ち戻って考えてみよう。「俳句」の誌面はインターネット上に〈置き換える〉ことができるのかどうか、と。答えは、ほとんど置き換え可能じゃないか!

つまり、今後も雑誌形態で総合誌が発行されつづける必要性はない、という結論になる。くどいようだが、インターネットの普及は、そこまで雑誌存立の基盤と根拠を食い荒らしているのである。だから、みんなで声を揃えて言おうではないか、「王様は裸だ」と。


21 六十周年記念という生前葬

今年(二〇一二年)は、一九五二年に「俳句」が創刊されて六十周年に当たる。

五月号が「創刊六十周年記念号1」と称して「60歳からの俳句入門」なる特集を組んでいる。これを見て、編集部なりに事態の深刻さがわかっているのだなと、わたしは可笑しくなった。六十歳以上の高齢者から新規読者を獲得しようというこの戦略は正しい。というのも、高齢者はおおむねインターネットの操作が苦手であり、雑誌に依存せざるをえないからだ。対して、それより若い世代はインターネットを自在に駆使して活発に発信している(俳句のサイトはここ一両年のうちに急増した)。

これは、考えようによっては、現代俳句協会と俳人協会の分裂よりも由々しき事態かもしれない。インターネットと無縁な高齢者層と若い世代とでは、接する俳句の世界が異なるのだから。サイトで話題になる作品・批評にアクセスしない(できない)老人は、他の世代と次第に話が通じなくなるだろう。つまり、共通の俳壇というものが成立しなくなり、割れていくのだ。

六十歳以上を安定した購読層と期待する「俳句」誌は、だから、それ以外の年代を、支配の及ばない領域として放棄せざるをえなくなる。唯一の〈格づけ機関〉として威信が及ぶ範囲も、じわじわと確実に狭まるだろう。

「俳句」誌があと何年もつか、誰にもわからない。六十歳以上から相当の読者を吸収できるなら、ほそぼそとであれ、二十年つづくかもしれない。(目本の老人は長生きだから)。でもそれは、いつ終刊になるか、脅えつづけねばならない歳月でもある。なによりもそれは、かつて俳壇を一元的に支配した尊大な威容とはまったく別の、みじめな老残の姿である。流浪のリア王に従うがごとく、臣従する俳人が必ずいるにしても。

さすれば、創刊六十周年記念を盛大に祝うがよい。いまなら、大方の俳人が王は健在だとまだ錯覚しているから。七十周年記念の頃にはインターネットが俳句メディアの主流になっているから、そうは問屋かおろさないだろう。

長い文章になった。わたしは「俳句」誌の支配が終わると確信している。そう信じる根拠を、資料とデータを示しながら述べてきた。そんなわたしの眼には、六十周年記念の祝宴は、華やかな生前葬のようにみえる。

いやいや、そんな皮肉を洩らすより、予備作業を踏まえて本格的な研究にどう着手するかを考えるべきかもしれない。角川「俳句」の研究とは、一商業誌の内容の変遷をたどる表層的なものに終わってはならない。核心には「俳句にとって資本主義とはなにか」という命題が坐っており、それゆえ〈私的資本〉による俳壇支配がなぜ可能となったのかを、俳句のこれまでの歴史過程を参照しながら、解明するという営為でなければならない。この課題に挑戦するのがわたし自身なのか、それとも三十年後、あるいは五十年後の知性なのかは、問わないでおこう。〔完〕 

〔完〕 二〇一二年四月

2012-11-25

角川書店「俳句」の研究のための予備作業〔中〕 江里昭彦

角川書店「俳句」の研究のための予備作業 〔中〕

江里昭彦


「夢座」第167号(2011年10月)より転載
【昭彦の直球・曲球・危険球】41

6 一九九〇年代前半

思いだしてほしい数値がある。ブームの助走期、七〇年代後半の「俳句」誌の厚みが、240ページ(七六年)、260ページ(七七年)などであったことだ。それがブームの最盛期たるこの時代、次に示すまでに膨らむ。

  一九九一年  336ページ
  一九九二年  344ページ
  一九九三年  376ページ
  一九九四年  500ページ
  一九九五年  374ページ

九四年五月号は「創刊五五〇号記念特別号」であるから例外とみなすとしても、この年の一月号から四月号はそれぞれ432、362、380、370ページとなっており、七〇年代後半を基準とするなら、100ページから130ページ増え、誌の厚みが約1・5倍に膨らむという盛況を呈している。まちがいなく九三年から九五年にかけてのこの時期がブームのピークなのだ。

そう結論づけるいまひとつの根拠は、ライバル誌の相次ぐ創刊である。

ブームが到来する以前、俳句商業誌は「俳句」「俳句研究」「俳句とエッセイ」(七三年創刊)の三誌であった。八四年に「俳句四季」「俳壇」が登場したのはブームにより俳句市場が拡大したからに他ならない。事態はそれにとどまらず、更に、九二年に「俳句あるふぁ」(毎日新聞社)と「俳句文芸」が、九五年には「俳句朝日」(朝日新聞社)と「俳句界」が加わった。俳句人口が増えつづけるのを商機到来とみて、新規参入が相次いだのである。先輩格の「俳句」誌の膨らみをみれば、そう判断するのが至当だろう。それにしても、ある年に二誌ずつ創刊されるという、増え方のリズムがなんとも面白い。

さて、この季節の[「俳句」誌だが、他業種の広告として補聴器メーカー、高級料亭「なだ万」、結婚情報のオーエムエムジー、聖教新聞社の「池田大作全集」、JR東日本などが掲載されているものの、それらを圧して多いのが角川書店の自社広告である。ブームの最盛期ゆえ、わざわざ広告集めに走りまわらなくても、自社の刊行物を宣伝すれば俳人が競って買いもとめ、収益が易く確保できた、ということだろうか(あわせて目立つのが俳句大会の広告であって、雨後の筍のごとく開催されている!)。

バブル経済が崩壊し、世は長期の景気低迷へ足を踏み入れつつあった。しかし、俳句商業誌からまだ広告は逃げだしていない。一例を示すと、「俳句あるふぁ」四号(九三年秋)には以下の広告が見いだせる。大林組、ライオンのボディーソープ、ニッカのウィスキー、大鵬薬品、安田生命、朝日生命、コスモ石油、JA共済など。なんと、一流企業が目白おしである。ビジネスマンむけのオピニオン誌に載ってもおかしくない広告ばかりだ。こうした光景を、だが、もはや誰も奇異に思わなくなっていた。「俳句」誌に載る多彩で消費意欲をそそる広告のかずかず、それが発する「金がある人間は人生を楽しもうじゃないか」というメッセージにどっぶり感化されてしまったのだろう。


7 一九九〇年代後半、そして現在

  一九九六年  334ページ
  一九九七年  330ページ
  一九九八年  368ページ
  一九九九年  358ページ
  二〇〇〇年  324ページ

こうしたページ数の推移だと、評価がむずかしい。現在からみれば、はや衰えが兆していたと指摘することもできようが、ブームの高揚感に包まれていた当時にあっては、この程度のささいな変動はまるで問題にされなかった(そして、このわたしも問題にしなかった)。

つづく二十一世紀の最初の十年間は省略しよう。緩慢な衰退へと局面が変わったのは確かなのだから。衰えゆく相を念入りにたどることに、さして意味はない。

さて、現在の「俳句」誌である。二〇一〇年におけるページ数は280前後で推移しており、稀に300を超えることがある。つまり、ブーム以前の七〇年代後半の規模へと縮みつつあるわけだ。

落ちぶれたものだと思う。わたしに限らず、全盛期の威勢を覚えている俳人は、正直そう感じるだろう。編集方針を変えることで読者が離れたのではない。ブームの退潮により、読者が減り、売上が落ち、広告が去った結果、誌の厚みが痩せていったのである。

いま、他業種の広告としてみかけるのは、全国共通おこめ券〔全米販〕と聖教新聞社くらいのものである。米は基本食糧だし、信仰は精神の種であろう(こう言ったからといって、わたしのことを創価学会の賛同者だと勘違いしないでほしい、念のため)。なるほど、ここからはもう「金がある人間は人生を楽しもうじゃないか」というメツセージは聞こえてこない。

数字は嘘をつかない。しかも雄弁である。「俳句」誌の厚みを観察することで、俳句ブームの盛衰の経過をはっきり証明することができる。


8 なぜ「俳句空間」は必要とされたか

だが、現在へと話をもっていく前に、ブームの最盛期たる九〇年代にこそ、こんにちの俳句を歪め、また悩ませている多くの問題が、初期の姿で見いだせることにわたしは注意を促したい。それらの問題のうち、ここでは以下の三つをとりあげておこう。

第一に、「俳句研究」の基本路線を継承しようとした「俳句空間」の誕生とその撤退が投げかけた意味である。

第二に、結社がブームにゆさぶられ、変質を強いられたことである。

第三に、俳句総合誌が商業誌の本質をむきだしにするなかで誘発した、読者の劣化という事態である。

さて、「俳句空間」であるが、この誌は一九八六年九月に澤好摩を編集発行人として、書肆騏麟から刊行された(富士見書房に版元が移り、角川傘下に吸収された「俳句研究」が、同年の一月号から再登場していることに注意しよう)。そして、八八年九月の第六号から発行所が弘栄堂書店に替わった。姿を消したのは九三年六月。通巻二三号を世に送っている。

ところで、わたしは、高柳重信編集の「俳句研究」と書肆騏麟時代の「俳句空間」から原稿依頼を受けたことがない(人間の記憶はあやふやなもので、あるいは一、二回あったかもしれないが、記憶に残らないほど少なかったのは確かである)。要するに、江里くらいの俳人なら掃いて捨てるほどいると思われていたのだろう、きっと。

けれども、版元が弘栄堂書店へ移ってからは、ほぼ常連執筆者の扱いで、じつによく書かせてもらった。あるとき、夏石番矢に「俳句空間」創刊のいきさつを訊いたところ、「あれは、みんなで金を出しあったんだよ」という話だった。ただし、注釈が必要で、この場合の「みんな」とは、重信の薫陶を得、「俳句」誌の君臨をこころよく思わない面々の意味であって、この範疇に含まれないわたしには資金拠出の呼びかけすらなかった。当時、夏石とわたしの関係は現在と違って良好だったので、夏石が嘘をついたとは考えにくい。富豪ではなく、平均的な市民といえる俳人たちが、それぞれの財力に応じて発行資金を出しあったという内情を知り、わたしは感心するより、かなり暗い気分になったのを覚えている。追いつめられた者同士で支えあう頼母子講という趣ではないか。

弘栄堂書店が発行所となっても、経営が苦しかったようだ。長文の批評をふたつ書いても、原稿料は額面五〇〇円の図書券たった一枚だった(長い時評を書いた齋藤愼爾に届いたのが、同じく五〇〇円の図書券一枚だったので、つくづく呆れたという口調の電話をかけて寄こしたことがあったから、他の執筆者も同じ扱いだったのだろう)。

こうした経営努力にもかかわらず、かつ執筆者の我慢強い協力に支えられていたのに、結局廃刊となったのは、必要経費を安定してまかなえるだけの読者層をもたなかったからである。つまり、あの時代、俳句の文学性を重視する層は、商業誌を支えるには市場規模が小さかった――これが冷厳な結論である。

すでに重信編集の頃から「俳句研究」の売れゆきは芳しくなかったらしい。そう記憶する関係者が多少はいたはずなのに、それでも、志を同じくする面々が資金を寄せあってまで、新総合誌を出したかったのはなぜか――この点が重要なのだ(日本は言論・表現の自由が保障された社会であり、検閲も禁じられている。同人誌という媒体があれば俳句活動は一応おこなえるはずだ。なのに、なぜ新総合誌なのか?)。

わたしの見解は、「俳句」も旧「俳句研究」も、総合誌であると同時に<格づけ機関>としての性格をもっているので、無理をしてでも新総合誌が求められた、というものである。「俳句」と旧「俳句研究」は、それぞれの俳句観に照らして俳人および作品・批評を評価し、格づけし、その格づけをとおして進むべき俳句の道を(対抗的に)明示・教導していたのである。したがって、「俳句研究」が角川の軍門に降ったということは、向後は「俳句」が唯一の<格づけ機関>として君臨し、俳句史の流れを方向づけることになる。そうした見通しに、重信陣営のひとびとは危機感をもったのであろう(そして、実際、「俳句空間」退場の後、俳句界の大勢はそのとおりの流れとなり、現在にいたる)。このことは、この長い論考の核心をなす議論なので、あとでふたたび立ち戻ることにしたい。


9 上田五千石の悩み

第二の問題、結社がブームにゆさぶられ、変質を強いられるという予期せぬ新しい体験については、上田五千石が、新聞時評のなかで率直な感想を述べたことがある。その時評は一九九〇年七月十一日付けの京都新聞に載ったのだが、おそらく共同通信が配付した記事だろう。

発端は、その年の七月号で五〇〇号に達した「俳句」誌が、「編集帖」においてつぎのとおり尊大な口調で訓戒を垂れたことにある。
俳人は何に学びどこで成熟するのか、いうまでもない。結社である。結社がなければ、学ぶことはおろか成熟など一生叶わない。唯一、本物の俳句修業の揚が結社である。今も昔も俳句修業とは歳月のかかるきびしい生活だ。結社はおちょぼ口で物をいう仲良しクラブではない。志を同じくした者の礼節をつくした修業の揚である。
上田五千石は、右の主張を、「師弟道のリゴリズム(厳格主義)に徹することの要請の上に立っての立言」であり「見事な識見」と一応評価しているけれど、むしろ彼の本音は、続く以下のくだりに滲んでいるようだ。
だが、雨後の筍のように無定見に主宰誌ができ、結社がつくられていく現状はいかんともしがたいであろう。結社とは、それが在るべき論理と倫理に支えられて必然的に、公に許されて生まれてくるもの、という理念の欠如は、総合誌の指導性をもっても埋められるものではないだろう。

また現に在る結社にしても、伝統あるものは多く代替わりをして、その創成期のエネルギーを喪失し、その他も俳句観不分明にして存続経営しているのみという慣性を帯びて、活性力を減じているのが多く、しかも結社間交流というより個人的交際の揚が広がった今日、結社の特殊、ことにその厳粛性は著しく褪色している。これを「結社の時代」として鼓舞するのはなかなか困難である。〔下線は江里〕
俳壇の優等生である上田五千石が、抑えた口調とはいえ、よくぞここまで反駁したものだというのが、当時一読した際のわたしの感想であった。

五千石が語るのは、結社の変質である。かつては、たしかに師弟道のリゴリズム(厳格主義)が貫徹していた。五千石自身それによって鍛えられ、頭角をあらわした領袖のひとりだから、結社のむかしの気風を身をもって知っている。よって、「編集帖」の言いぶんは正論であるといったんは諾うのである。

しかし、現在(一九九〇年)はというと、結社に仲良しクラブの居心地のよさを求める人々が増加しているのが実情なのである。修業の場としての厳しさを強調しようものなら、そっぽを向きかねない連中が、結社にひたひた浸透しつつある。好ましからざるこの動きを、もしリゴリズムの枠内に収めて矯正しようと試みたら、大きく発展した結社はしぼんでゆくだろう。雨後の筍のように結社が簇生する現状では、易きに流れるそうした人々の受け皿はいくらでもみつかるのだから。―――主宰として結社運営に責任をもつ五千石の悩みは、まさにここに起因している。では、どうしたらいいのか、彼はそれ以上語っていないが(たぶん語れなかったであろうが)、ともかく、ブームが結社にもたらした新たな困難について、責重な証言を残した五千石を、わたしは誠実であると評価したい。

さて、五千石に証言を残させる発端となった、さきの「編集帖」のごとき尊大な訓誠を、「俳句」誌はその後も繰り返したのだろうか?興味のあるかたは実地に調べてみたらよろしいが、たとえ繰り返したとしても、主宰連中は堂々と無視したであろう。

なぜなら、俳句ブームとは、数がものをいう時代のことだ。結社の規模が大きいほど、主宰は俳壇で有力者として遇される(そのように遇する筆頭は、他ならぬ「俳句」誌!)。少数精鋭なんて世迷言、ブーム期の結社は大きくすべきものであって、小さければ侮られる。ゆえに、師弟道のリゴリズムによる指導・教育は忌避されることになり、かつてはそうした気風で鳴らした名門結社も、成員を逃がしかねない厳しい方針を、緩め、薄め、ゆっくりと殺してゆかざるをえない。べつに示し合わせたわけでもないのに、ブームの風潮に紛れつつ、有力俳人たちはそれを実行したのである。言い換えると、「時代の空気をたくみに読んだ」のである。KYでなければ主宰は務まらない。


10 鶏が先か、卵が先か?

第三の問題は、俳句総合誌が商業誌の本質をむきだしにするなかで誘発した、読者の劣化という事態である。だが正直いって、これは検証がむずかしい向題だ。

ここには二つの項目がある。ひとつは、俳句ブームによって参入したのが、俳句を楽しむことをめざす遊芸派が圧倒的多数であったこと。ふたつめの項目は、「俳句」誌がそうした遊芸派向けに編集方針の舵をきったということ。この二項目の関係をどう把握するかが難題なのである。まさに「鶏が先か、卵が先か」の水かけ論であって、ブームによる参入者の大勢が遊芸派であると「俳句」誌が見抜いたからこそ、編集方針の舵をきったのか(この場合だと、時代の動向をいちはやく察知した企業経営者としての炯眼が、むしろ賞賛されよう)、それとも、読者の変容に押されるかたちで、角川源義の敷いた学究路線を棄てたのか(つまり、商業主義への強いられた傾斜)、なんとも見きわめにくい。

というのも、既にみたとおり、八〇年代前半の「俳句」誌は、角川春樹の強引な覇権主義によって社内がギクシャクしており、しかしそのギクシャクが誌面に反映しているわけではないからだ。角川春樹はれっきとしたエンタテイメント志向の経営者だが、亡父の路線がそんなにあっさりと葬られるわけでもなかろう。

結果論を述べるなら、「芸術派」の闘将・高柳重信が編集長をつとめていた「俳句研究」が、一九八五年に敗退した時点では、ブームの主潮が遊芸派であることが明白になったとは言えよう。

そして、いまのわたしに指摘できるのは、八六年以降において、先に記したふたつの項目が、あざなえる縄のごとく密接に絡みあいながら、俳句界の流れを導いていったということである。だから、「鶏が先か、卵が先か」と問いを立てるのはやめて、とりあえず八六年に着目しよう。

八六年一月号は「飯田龍太特集」を組む。334ページのうち95ページを当てており、読本と呼ぶにふさわしい陣立てであるが、短い文をたくさん集める方式を採っている。それだけに、角川春樹の文章が16ページと他を圧しているのがめだつ(恥の観念をもたない人間にむけて恥を知れと叫ぶのは徒労だから、ただ事実を記すにとどめよう)。大岡信が6ページ、山本健吉が3ページ、水上勉と永井龍男が各2ページの文を寄せている。

三月号の「原石鼎特集」は注目したい。81ページを当てる。構成は、論考、一〇〇句選、一句評、石鼎語録、略年譜、著書解題という組立てである。

これを、十年後の九六年五月号「川端茅舎特集」と比較しよう。なんと38ページだけ。構成は、論考、一〇〇句選、秀句鑑賞、略年譜となっている。語録を欠くので資料性が薄れているし、書誌の力量が問われる著書解題を省いたのは、編集部の水準が落ちている証拠だろう。

同様の比較を句集特集でもしてみようか。八六年四月号に清崎騎敏郎『系譜』の小特集がみつかる。24ページ。六月号では波多野爽波『骰子』の小特集に23ページ。

爽波の場合、5ページの書評を二人に書かせ、2ページの感想(書評とは呼べまい)を二人に執筆させている。加えて、1ページの一句評を九名に依頼している。

ところが、九六年五月号の沢木欣一『白鳥』の小特集は11ページに後退している。沢木ほどの大家でも、敏郎・爽波と比較して半減という扱いである。内容も首をかしげたくなる代物である。新作十一句はいいとして、略年譜がたった1ページ(沢木のキャリアに対する侮辱ではあるまいか)、2ページの感想を一人に書かせ、一句評は半ページに縮めたうえで十二人に依頼している。

九六年である。依然としてブームの最盛期である。「俳句」誌もぶあつい。しかるに、批評文はぐっと短く、かつ薄くなっている。

そして、八六年十二月号に特集「現代俳句、挨拶と季のいのち」が登場する。このあたりがハウツーものの走りだろうか。「季の実例」「挨拶の実例」と称する短文で句作のてほどきを示している。


11 読者の劣化

八六年と九六年を対比すると、一年ごとの変化をたどる作業では見過ごしがちな段差が、はっきり浮かびあがる。

八六年あたりで設定された編集項目が、以後は反復されるばかりで、しかも次第に規模が縮み、水準が落ちてゆくのだ。建築に喩えるなら、屋敷の間取りは先代が決めたとおりに継承されているけれど、個々の部屋は漸次小さくなり、そこに投入される資材の資も見劣りがする、といえば判りやすいだろうか。

九〇年代、夥しい句集が刊行された。「俳句」誌でも毎号のように小特集を組んでいる。でも、型どおりの(型どおりでしかない)そうした小特集を眺めていると、わたしは中学校か高校の身体検査の光景を連想してしまう。身長・体重・胸囲・握力など決められた検査項目をたんたんと測定し、「はい、次のかた」と呼び入れる、あの光景を、である。句集を論評するとは、その業績を史的展望のなかに置いたうえで、さまざまな角度から光をあて、達成と限界の相貌を描出することではないのか。ブームの時期にみるべき句集が少ないからといって、型どおりの身体検査でお茶を濁してよいことにはならない。

こうしたことを続けていると、どうなるか。とうとう次のような嘆きが聞かれるようになった。二〇〇二年十一月二四日付け毎日新聞の「俳句時評」において、片山由美子が「俳句雑誌に望むこと」と題し、苦言と注文を呈したのである。
 月刊俳句雑誌は年々増加し、現在、書店に並ぶものだけでも八誌を数える。しかし、それぞれが独自の編集方針にしたがって個性的な誌面作りをしているかというと、必ずしもそうではない。
 雑誌にも常に流行があるが、昨今目立つのは座談会、誌上句会、アンケート特集といったところである。そこに共通するのは、気楽に読んで楽しめるということである。本格評論などはおよそ見かけない。ある程度の長さになれば、書く側のエネルギーを要することはいうまでもないが、読む側も集中力と多少の忍耐を要求される。これが一般の読者にはなかなか受け入れられないのだという。特集の中の句集評や作品鑑賞など、一人が二分の一ページというのも珍しくなくなっている。その程度でなければ読んでもらえないということらしい。〔下線は江里〕
現状認識としては片山が述べるとおりである。しかし、わたしは途方に暮れる。「俳句」誌が遊芸派向けの編集方針を長年貫いてきたがゆえに、読者がここまで劣化したのか、それとも格段に膨らんだ俳句市場に呑みこまれて「俳句」誌のほうが易きに流れる読者に引きずられているのか、どちらだろう。

もし、後者ならば、「俳句」誌は軌道修正しようにも、もはやできないということになる。なぜなら、そのそぶりをみせた途端に、読者は雪崩をうって離れ、ライバル誌に流れるかもしれないから。まさに自縄自縛である。

鶏が先か、卵が先か、いずれにせよ状況が混沌としたまま、ブームはようやく終末を迎えるのである。

(つづく)

2012-11-18

角川書店「俳句」の研究のための予備作業〔前〕 江里昭彦

角川書店「俳句」の研究のための予備作業 〔前〕

江里昭彦


「夢座」第166号(2011年7月)より転載
【昭彦の直球・曲球・危険球】40

1 満を持して

この長い文章を書くきっかけをつくったのは、今年の春に届いた一冊の句集である。石川青狼の『幻日』(緑鯨社刊)。石川は私と同じ一九五〇年生まれで六〇歳であるから、すでに句集を二、三冊持っていてもおかしくない。なのに『幻日』が第一句集である。

石川の俳句は、喩えるなら、豊かな声量を要するオペラでも、エネルギーと反骨精神が欠かせないロックでもなく、唱歌や歌曲の世界である。近年、唱歌や歌曲も手がけるシャンソン歌手の美輪明宏は、これらを「魂のお行儀がよくなる歌」と評したが、言い得て妙である。石川の作品も魂のお行儀がよくなる俳句といえよう。オペラあるいはロックに似た俳句に接すると、魂があらぬ方向へ走りだしそうになるが、石川の書く句は、落ち着いた明瞭な抑揚と、無理のない旋律の変化が基調であるから、読者はじっくり味わうことができる。彼も怒り・批判・混迷などを扱うが、こちらを脅かす声域に達することはない。

生活苦支える肩のみぞるるや
空蝉の踏み砕かれし大樹陰
青湿原吾子双翼を擡げたり
初雪のあらゆるものにふれながら
トラックに折り重なって案山子の足
霧岬この身放らば鷗の気流
脛に毛のない君たちのクロールなり
川底の飯粒白く鮭番屋
青年白鳥を抱き夜明けの葬
白鳥や幻日いまも蝦夷照らす
強霜や弓引くヘラクレス像のふぐり
青鬼灯祖父を捕えたくなった
糸遊やゆたにたゆたになんにょの去勢
螢火の暗や人體横たわり
骨を砕けば桜雲たなびくさようなら
この国の遠い派兵の海市かな
寒波来てふるさと合併するという
梟の面構えして新生児
友は手で首切るしぐさ雪しずか

集中の代表作はやはり「白鳥や幻日いまも蝦夷照らす」であって、風土の刻印を帯びた宇宙論的世界を現前させることに成功した。だが、それと極めて対照的な「初雪のあらゆるものにふれながら」のあえかな口調も、「脛に毛のない君たちのクロールなり」の洒脱な口吻も捨てがたい。そして「この国の」の句、「派兵の海市かな」の〈の〉が担う絶妙な屈折と転回! イラク戦争を扱った秀作として記憶にとどめたい。

さて、あとがきによると、『幻日』は一九八二年から二〇〇九年までの作品をまとめたという。

俳句ブームの時期にほとんど重なる。ブームの波にのって新人がつぎつぎに登場していくのを(彼と同世代の若者も多かったのに)、石川はどのような思いで見つめ、ざわつく心を宥めていたのだろうか。『幻日』を通読しながら、そのことを私はずっと想像していた。なぜ、デビューを急がなかったのか、なぜ句集を世に問おうとしなかったのか?

結果として、ブームの消滅が明白となった後に上梓された『幻日』は、「満を持して」という形容がぴったりの登場となったのである。このことが、俳句ブームに関して、その賑やかな演出の舞台となった俳句商業誌に即しつつ考えてみたい、という気を私に起こさせた。


2 俳句総合誌か俳句商業誌か

「俳句」「俳句研究」などの定期刊行物をほとんどの俳人は俳句総合誌と呼んでいるが、わたしは俳句商業誌という言い方をしている。資本主義社会において、商品として生産され、流通し、そして消費される出版物という、身も蓋もない本質規定によってそう称するのである。

そんな私であるが、俳句総合誌なる呼び名が一般的であるのは、俳句史にそれなりの根拠をもっていることを、素直に認めておこう。一九三四年に改造社から「俳句研究」が創刊されて以来、これらの文芸誌の(商業誌という)本質がほとんど意識されることのない時期が永らく続いたのである。「俳句研究」も後発の「俳句」も、見識ある意欲的な編集で時代をリードしようとした。だから、俳人たちは、営利企業がだす出版物という醒めた視線ではなく、俳句を考える新しい型のメディアとして信頼を寄せるとともに、己の活躍の舞台としたいという願望のまなざしを熱く向けたのである。

とりわけ、俳句理念をめぐる対立が俳句界を分断したとき、俳句総合誌の働きは決定的に重要だった。飯田龍太はこう記している。(講談社『日本近代文学大事典』第五巻、「俳句」の項)
戦後まもなく発足した現代俳句協会が、その協会賞審査に当たって伝統栽と前衛派、ないしは既成作家と新興作家の新旧の思想対立から、三四年(江里注:一九五九年)を境に分裂。伝統既成派があらたに俳人協会を設立するにおよんで、「俳句」は俳人協会側の伝統支持に、「俳句研究」は前衛新興栽支持の色彩を強めるにいたった。(江里注:俳人協会の設立は六一年である)
たとえばの話、新興俳句や前衛俳句の伸長を苦々しく思う俳人は、そんな俳句をのさばらせないためにも、角川「俳句」を積極的に応援するだろう。このとき「俳句」を購読するとは、一営利企業の商品を買うことを意味するのではなく、理念をめぐる抗争における闘いのひとつの形態となる。少なくとも、当人の意識においてはそうである。「俳句」も「俳句研究」もそれぞれの旗幟をはっきり掲げていたこの時期、俳人は、理念をめぐる争いに加わるために支持するメディアを購入するのであり、商品という本質を意識することはほとんどなかったであろう。したがって、俳句総合誌なる呼称が通用し、各種の事典にもそう記されたのである。

事態は、俳句ブームのうねりのなかで変化した。俳句理念をめぐる争いが低調となり、うやむやになり、いつしか消失したのである。その結果、あいかわらず文芸誌の表皮を保ったままであるが、商業詰という本質がせりあがってくる。しかも、明暗を分けるかたちで――。「俳句研究」は八五年に休刊、要するに、売れゆきのよくない商品は市場から撤退を迫られたのである。(翌八六年、富士見書房に版元が移り、角川傘下に吸収された)。対して、「俳句」は商業主義へと舵をきり、大成功を収める。

だから、俳句ブームとは、俳句総合誌なる皮膚のしたで、商業誌という本質への体質変化が確実にすすんだ季節であった、という見方もできよう。

俳句ブームと、理念をめぐる抗争の消失と、「俳句」誌の勝利とは、三位一体のできごととして考察しようというのが私の意見である。けれど、俳句ブームとか理念をめぐる抗争の消失という論題は、解釈によっていかようにも論点をずらすことができるから、迷路や隘路を生みやすい。なら、「俳句」誌という具体的なモノの外形上の変化を観察して見えてくることがらを記述するほうが得策だ、と考えて、はなはだ唯物論的(?)なアプローチを採ることにした。

この場合、留意する指標はふたつある。一つは、誌の厚み(実際には編集後記が載ったページのこと)。二つめは、広告である。広告は以下の三種に大別できる。

A 自社広告(角川春樹は映画にも進出したので、その宣伝もここに含めるのが妥当だ)
B 同業他社の広告(俳書出版をてがける他社の広告。「俳句四季」などライバル詰のものも含める)
C 他業種の広告

私が注目するのはCの動向である。AとBは載るのがあたりまえの風景であって、ブームの盛衰を示す指標にはならない。まえもって言っておくと、ブーム到来以前の「俳句」にCとして見いだせるのは、「新ノーソ(脳素)」という医薬品くらいのものである。それが、八〇年代のブームの本格化とともに、優良企業の広告が続々と登場するようになる。みどころの一つである。


3 七〇年代後半

俳句ブームの助走期、七〇年代後半から見てゆこう。示したのは、各年の五月号の厚みである(以下、すべて同様)。各年一冊とはいえ、時系列の変化を追うにはこれで足りると考える。

一九七六年 240ページ
一九七七年 260ページ
一九七八年 268ページ
一九七九年 368ページ
一九八〇年 300ページ

年を追うにつれ、詰が厚みを増してゆく(七九年五月号は富安風生追悼という事情でとりわけ厚くなっている。参考までに六月号は284ページ)。ブームの潮がひたひたと押し寄せつつあるのが感じとれるではないか。

既に七五年、角川源義の死去にともない、子息春樹が角川書店を継承している。だが、この時期の「俳句」誌に春樹カラーの浸透はみられない。

編集方針は従前の路線を踏襲するものであって、俳人協会に傾いた訪面づくりという印象は否めないものの、俳句をまじめに考える者への導きと支援を企図した、手堅い学究風の論考を多く載せている。七八年五月号の「特集・大正秀句鑑賞」はその顕著な一例であり、六〇ページを充て、自由律もとりあげるなど、総合性をめざした多角的な検証をこころかけている。一方で、高柳重信周辺の人材にも場を提供しており(中村苑子・川名大など)、八〇年五月号の「特集・新興俳句吟味」では、論考に二八ページ、平畑静塔・三橋敏雄・川名大の鼎談に三七ページを割くという力のいれようである。

八〇年は、やはり画期とみなすべきだろう。筑摩書房『俳句の本』全三巻、朝日新聞社『季寄-草木花』全七巻など、俳書専門店ではない社の広告が出現する。つまり、俳句の本は売れるという認識のひろまりとともに、出版業界の各方面から注目を浴びるようになったのだ。また、見逃せないのが、「森澄雄先生と俳句で訪ねる」を惹句にした海外旅行の企画「ヨーロッパ奥の細道」の広告が登場したこと〔日本通運(株)〕。金と時間にゆとりのある俳人を標的にした企画であり、時代の変化を象徴するものであろう。なにかが始まりつつある、という陽性の予感が誌全体を包んでいる。


4 年代前半

ところが、八〇年代に入るや、一転してページが滅るという奇妙な現象が現れた。

一九八一年 264ページ
一九八二年 264ページ
一九八三年 264ページ
一九八四年 264ページ(だが六月号は280)
一九八五年 294ページ(だが六月号は324)

ブームが明瞭なうねりとして現れていたこの時期に、なぜそれと背反するようなページ減が生じたのだろうか。

私の憶測を述べると、角川春樹の覇権と関係があるのではないか。七九年に春樹は、原義の創刊した「河」の副主宰となり、にわかに活発な(自己顕示的な)俳句活動を展開するにいたる。八一年に第一句集『カエサルの地』を、翌八二年に『信長の首』を、さらに八三年には『流され王』を上梓し、その露出と突出は、さながら俳壇に猛々しい風神が闖入したかのようであった。

その春樹が専権的に利用したのが「俳句」誌である。八一年五月号で彼を囲む特別座談会「野性とロマン」を開き(石原八束・古舘曹人らが参集)、また八二年五月号では金子兜太と並んで五〇句を発表しているのが、その一例である。キャリアの浅い俳人にはどうみても不釣り合いな大きな扱いだ。

しかし、これは一種の職権濫用であって、社内に摩擦をひき起こしたのではないかと想像される(源義がかくもあからさまな誌面の私物化をしたことはなかった)。亡父が定着させた手堅い学究路線、それに沿う良心的な企画を、春樹はたびたび一蹴したかもしれない。つまり、春樹カラーが角川書店を制圧しきるまでの過渡期の軋みが、一時的なページ減というかたちで現れたのではなかろうか。じじつ、この季節を現に、「俳句」はレイアウトも含めて大幅に変わっていく。

『信長の首』で芸術選奨文部大臣賞と俳人協会新人賞を、『流され王』で読売文学賞をそれぞれ受賞して、春樹が自分を大物俳人として飾りたてることに〈成功〉したあたりから、ふたたび「俳句」は増ページに転じる。彼の覇権が確立し、その意向におもてだって異を唱える社員がいなくなったのだろう。

春樹にとって目のうえのたんこぶであった高柳重信が八三年に他界したことは、俳壇の覇者への途をつき進むにあたって大きな妨げが消えたことを意味した。しばらくたって「俳句研究」は八五年九月号で休刊、富士見書房に身売りされる。要するに角川傘下に吸収されたのである。

俳句ブームの高揚、春樹の覇権主義、対抗勢力の失速、こうした力学が交差するなかで、「俳句」誌はぐんぐんと肥えふとり、血色がよくなっていく。それは掲載される広告に如実にみてとれる。高級ライターのザイマ、三菱信託銀行、ニチレイのグルメソース〔日本冷蔵(株)〕、赤倉ホテル(山形・赤倉温泉)、そしてついにはオリエンタルゴールドのクルーガーランド金貨までが登場する! 俳人に富豪はいないかもしれない、しかし小金ならもっている、それを狙え、といわんばかりである。


5 八〇年代後半

一九八六年 316ページ
一九八七年 320ページ
一九八八年 284ページ(だが六月号は358)
一九八九年 320ページ
一九九〇年 350ページ

見てのとおり、300ページを越えるのが常態と化している。広告も、ホームサウナ〔サニーペット(株)〕、ホテルパシフィック(港区高輪)、焼酎「蕪村」など優良企業から順調に集まり、多彩となる一方だ。

たかが広告と見くびってはいけない。投資信託に金貨、ライターに酒、ホームサウナにグルメソース、高級ホテルに海外旅行――これらの広告は揃いも揃ってひとつの声を発している。それは「金がある人間は人生を楽しもうじゃないか」という、露骨といえるくらいはっきりしたメッセージである。このメッセージが、本来は文芸誌である「俳句」に充満していたのはどうしてか。私なりの見解を示しておこう。

かつて私は「夢座」のこの連載において、俳句ブームを「高度経済成長の成功がもたらした、さまざまな社会現象のひとつだった」と断じたうえで、こう記した。

かくして、七〇年代後半から各種世論調査において、自らを中流とみなす者が七割から八割を占めるようになる。この巨大な「中流層」の一部が参入することによって、八〇年代の俳句ブームが花開いた。

高度経済成長をなし遂げた日本社会に大量に登場した新中間層は、高畠通敏の言葉を借りるなら、「生活上の〈安楽〉を求めることが新たな国民的イデオロギーになった現代」の主流派なのである(二〇〇三年六月九日付け朝日新聞夕刊「思想史家・藤田省三氏を悼む」より)。

ブームによる新参者のおおかたは、求道的な文学志向を嫌い、なによりも俳句を楽しむことをめざすから、その意識のなかで、俳句を学ぶことと〈安楽〉を求めるその他の消費行動とは、矛盾するどころかしっくり折りあっている。だからこそ、投資信託や金貨や高級ホテルの広告がしばしば載っても、読者は違和感をもたず、ましてや物議を醸すことなどなかったのである。――でも、詩歌の他の分野ではどうだったのだろう。「現代詩手帖」や「詩学」に投資信託や金貨の広告が登場したのか?

この問題との関連でみるとき、八六年五月号の「特集・現代俳句の現況と未来」に寄せた一文で、波多野爽彼の述べる意見は異色である(「現代俳句の活性化とは」)。

昨今の驚くべき俳句の隆盛。それは俳誌の増大やカルチャー教室花盛りなどに端的に現われているのだが、これは大きな時代の流れとも云うべきもので今後も益々その勢いを増してゆくに違いない。

これは何も俳句ばかりに限ったことではなくて、産業界に於いても「シルバー産業」こそ将来の成長分野として各社競ってこの分野への参入を図り、それら新商品が相次いで開発され企業の収益に現実に貢献し始めているのが現状である。

カルチャー教室花盛りの現象もまさにこの一端を担うものであり、有名俳人クラスもこれに参画することにより商業主義に積極的に手を貸し奉仕しているとも云える現況であろう。(下点は江里)

引用のこの部分に関するかぎり、私は爽彼の見解にもろ手をあげて賛成する。日本を代表する都市銀行である三和銀行に長年勤務し、資本主義メカニズムの一端にふかく関与した爽波は、俳句ブームの歴史的性格とその経済効果を過たず見抜いているのだ。これは、専業主婦やフリーターなどの俳人にはなかなか育ちにくい観点であって(むろん例外はあるが)、職業が社会をみる眼を養うことを示す好箇の例であろう。

俳句は、むろん表現として語らねばならない。しかし、俳句ブームは商業主義という概念を導入すると、多くのことがくっきり説明できるのだ。商業主義のパワーがもたらす結果を予見したのか、爽波はこう警告を発している。

この恐るべき時代の流れはそう簡単に変えられそうもないのだから、その中で真剣に現代俳句の在り方を考え、また現代俳句の平準化や衰微を真に嘆き憂うる人達の立場もまことに危ういと云わざるを得ない。

実際、ブームの滔々たる潮のなかで、平準化や衰微を危惧する声はとかくかき消されがちであった。遂に九三年、旧「俳句研究」の衣鉢を継ぐ「俳句空間」が部数が伸びないまま撤退、俳句の文学性を重視する層は、商業誌を支えるには市場規模が小さいことを証明する結果となった。対抗誌の挫折は、俳句の大衆化・遊芸化と商業主義との二人三脚をすすめる「俳句」誌こそ時代の勝者である、という強烈な(じつに強烈な)教訓を、少なからぬ俳人の頭脳に刻みつけたのであった。

そして、九〇年代、ブームは最盛期を迎える。

(つづく)