角川書店「俳句」の研究のための予備作業 〔前〕
江里昭彦
「夢座」第166号(2011年7月)より転載
【昭彦の直球・曲球・危険球】40
【昭彦の直球・曲球・危険球】40
1 満を持して
この長い文章を書くきっかけをつくったのは、今年の春に届いた一冊の句集である。石川青狼の『幻日』(緑鯨社刊)。石川は私と同じ一九五〇年生まれで六〇歳であるから、すでに句集を二、三冊持っていてもおかしくない。なのに『幻日』が第一句集である。
石川の俳句は、喩えるなら、豊かな声量を要するオペラでも、エネルギーと反骨精神が欠かせないロックでもなく、唱歌や歌曲の世界である。近年、唱歌や歌曲も手がけるシャンソン歌手の美輪明宏は、これらを「魂のお行儀がよくなる歌」と評したが、言い得て妙である。石川の作品も魂のお行儀がよくなる俳句といえよう。オペラあるいはロックに似た俳句に接すると、魂があらぬ方向へ走りだしそうになるが、石川の書く句は、落ち着いた明瞭な抑揚と、無理のない旋律の変化が基調であるから、読者はじっくり味わうことができる。彼も怒り・批判・混迷などを扱うが、こちらを脅かす声域に達することはない。
生活苦支える肩のみぞるるや
空蝉の踏み砕かれし大樹陰
青湿原吾子双翼を擡げたり
初雪のあらゆるものにふれながら
トラックに折り重なって案山子の足
霧岬この身放らば鷗の気流
脛に毛のない君たちのクロールなり
川底の飯粒白く鮭番屋
青年白鳥を抱き夜明けの葬
白鳥や幻日いまも蝦夷照らす
強霜や弓引くヘラクレス像のふぐり
青鬼灯祖父を捕えたくなった
糸遊やゆたにたゆたになんにょの去勢
螢火の暗や人體横たわり
骨を砕けば桜雲たなびくさようなら
この国の遠い派兵の海市かな
寒波来てふるさと合併するという
梟の面構えして新生児
友は手で首切るしぐさ雪しずか
集中の代表作はやはり「白鳥や幻日いまも蝦夷照らす」であって、風土の刻印を帯びた宇宙論的世界を現前させることに成功した。だが、それと極めて対照的な「初雪のあらゆるものにふれながら」のあえかな口調も、「脛に毛のない君たちのクロールなり」の洒脱な口吻も捨てがたい。そして「この国の」の句、「派兵の海市かな」の〈の〉が担う絶妙な屈折と転回! イラク戦争を扱った秀作として記憶にとどめたい。
さて、あとがきによると、『幻日』は一九八二年から二〇〇九年までの作品をまとめたという。
俳句ブームの時期にほとんど重なる。ブームの波にのって新人がつぎつぎに登場していくのを(彼と同世代の若者も多かったのに)、石川はどのような思いで見つめ、ざわつく心を宥めていたのだろうか。『幻日』を通読しながら、そのことを私はずっと想像していた。なぜ、デビューを急がなかったのか、なぜ句集を世に問おうとしなかったのか?
結果として、ブームの消滅が明白となった後に上梓された『幻日』は、「満を持して」という形容がぴったりの登場となったのである。このことが、俳句ブームに関して、その賑やかな演出の舞台となった俳句商業誌に即しつつ考えてみたい、という気を私に起こさせた。
2 俳句総合誌か俳句商業誌か
「俳句」「俳句研究」などの定期刊行物をほとんどの俳人は俳句総合誌と呼んでいるが、わたしは俳句商業誌という言い方をしている。資本主義社会において、商品として生産され、流通し、そして消費される出版物という、身も蓋もない本質規定によってそう称するのである。
そんな私であるが、俳句総合誌なる呼び名が一般的であるのは、俳句史にそれなりの根拠をもっていることを、素直に認めておこう。一九三四年に改造社から「俳句研究」が創刊されて以来、これらの文芸誌の(商業誌という)本質がほとんど意識されることのない時期が永らく続いたのである。「俳句研究」も後発の「俳句」も、見識ある意欲的な編集で時代をリードしようとした。だから、俳人たちは、営利企業がだす出版物という醒めた視線ではなく、俳句を考える新しい型のメディアとして信頼を寄せるとともに、己の活躍の舞台としたいという願望のまなざしを熱く向けたのである。
とりわけ、俳句理念をめぐる対立が俳句界を分断したとき、俳句総合誌の働きは決定的に重要だった。飯田龍太はこう記している。(講談社『日本近代文学大事典』第五巻、「俳句」の項)
戦後まもなく発足した現代俳句協会が、その協会賞審査に当たって伝統栽と前衛派、ないしは既成作家と新興作家の新旧の思想対立から、三四年(江里注:一九五九年)を境に分裂。伝統既成派があらたに俳人協会を設立するにおよんで、「俳句」は俳人協会側の伝統支持に、「俳句研究」は前衛新興栽支持の色彩を強めるにいたった。(江里注:俳人協会の設立は六一年である)たとえばの話、新興俳句や前衛俳句の伸長を苦々しく思う俳人は、そんな俳句をのさばらせないためにも、角川「俳句」を積極的に応援するだろう。このとき「俳句」を購読するとは、一営利企業の商品を買うことを意味するのではなく、理念をめぐる抗争における闘いのひとつの形態となる。少なくとも、当人の意識においてはそうである。「俳句」も「俳句研究」もそれぞれの旗幟をはっきり掲げていたこの時期、俳人は、理念をめぐる争いに加わるために支持するメディアを購入するのであり、商品という本質を意識することはほとんどなかったであろう。したがって、俳句総合誌なる呼称が通用し、各種の事典にもそう記されたのである。
事態は、俳句ブームのうねりのなかで変化した。俳句理念をめぐる争いが低調となり、うやむやになり、いつしか消失したのである。その結果、あいかわらず文芸誌の表皮を保ったままであるが、商業詰という本質がせりあがってくる。しかも、明暗を分けるかたちで――。「俳句研究」は八五年に休刊、要するに、売れゆきのよくない商品は市場から撤退を迫られたのである。(翌八六年、富士見書房に版元が移り、角川傘下に吸収された)。対して、「俳句」は商業主義へと舵をきり、大成功を収める。
だから、俳句ブームとは、俳句総合誌なる皮膚のしたで、商業誌という本質への体質変化が確実にすすんだ季節であった、という見方もできよう。
俳句ブームと、理念をめぐる抗争の消失と、「俳句」誌の勝利とは、三位一体のできごととして考察しようというのが私の意見である。けれど、俳句ブームとか理念をめぐる抗争の消失という論題は、解釈によっていかようにも論点をずらすことができるから、迷路や隘路を生みやすい。なら、「俳句」誌という具体的なモノの外形上の変化を観察して見えてくることがらを記述するほうが得策だ、と考えて、はなはだ唯物論的(?)なアプローチを採ることにした。
この場合、留意する指標はふたつある。一つは、誌の厚み(実際には編集後記が載ったページのこと)。二つめは、広告である。広告は以下の三種に大別できる。
A 自社広告(角川春樹は映画にも進出したので、その宣伝もここに含めるのが妥当だ)
B 同業他社の広告(俳書出版をてがける他社の広告。「俳句四季」などライバル詰のものも含める)
C 他業種の広告
私が注目するのはCの動向である。AとBは載るのがあたりまえの風景であって、ブームの盛衰を示す指標にはならない。まえもって言っておくと、ブーム到来以前の「俳句」にCとして見いだせるのは、「新ノーソ(脳素)」という医薬品くらいのものである。それが、八〇年代のブームの本格化とともに、優良企業の広告が続々と登場するようになる。みどころの一つである。
3 七〇年代後半
俳句ブームの助走期、七〇年代後半から見てゆこう。示したのは、各年の五月号の厚みである(以下、すべて同様)。各年一冊とはいえ、時系列の変化を追うにはこれで足りると考える。
一九七六年 240ページ
一九七七年 260ページ
一九七八年 268ページ
一九七九年 368ページ
一九八〇年 300ページ
年を追うにつれ、詰が厚みを増してゆく(七九年五月号は富安風生追悼という事情でとりわけ厚くなっている。参考までに六月号は284ページ)。ブームの潮がひたひたと押し寄せつつあるのが感じとれるではないか。
既に七五年、角川源義の死去にともない、子息春樹が角川書店を継承している。だが、この時期の「俳句」誌に春樹カラーの浸透はみられない。
編集方針は従前の路線を踏襲するものであって、俳人協会に傾いた訪面づくりという印象は否めないものの、俳句をまじめに考える者への導きと支援を企図した、手堅い学究風の論考を多く載せている。七八年五月号の「特集・大正秀句鑑賞」はその顕著な一例であり、六〇ページを充て、自由律もとりあげるなど、総合性をめざした多角的な検証をこころかけている。一方で、高柳重信周辺の人材にも場を提供しており(中村苑子・川名大など)、八〇年五月号の「特集・新興俳句吟味」では、論考に二八ページ、平畑静塔・三橋敏雄・川名大の鼎談に三七ページを割くという力のいれようである。
八〇年は、やはり画期とみなすべきだろう。筑摩書房『俳句の本』全三巻、朝日新聞社『季寄-草木花』全七巻など、俳書専門店ではない社の広告が出現する。つまり、俳句の本は売れるという認識のひろまりとともに、出版業界の各方面から注目を浴びるようになったのだ。また、見逃せないのが、「森澄雄先生と俳句で訪ねる」を惹句にした海外旅行の企画「ヨーロッパ奥の細道」の広告が登場したこと〔日本通運(株)〕。金と時間にゆとりのある俳人を標的にした企画であり、時代の変化を象徴するものであろう。なにかが始まりつつある、という陽性の予感が誌全体を包んでいる。
4 八〇年代前半
ところが、八〇年代に入るや、一転してページが滅るという奇妙な現象が現れた。
一九八一年 264ページ
一九八二年 264ページ
一九八三年 264ページ
一九八四年 264ページ(だが六月号は280)
一九八五年 294ページ(だが六月号は324)
ブームが明瞭なうねりとして現れていたこの時期に、なぜそれと背反するようなページ減が生じたのだろうか。
私の憶測を述べると、角川春樹の覇権と関係があるのではないか。七九年に春樹は、原義の創刊した「河」の副主宰となり、にわかに活発な(自己顕示的な)俳句活動を展開するにいたる。八一年に第一句集『カエサルの地』を、翌八二年に『信長の首』を、さらに八三年には『流され王』を上梓し、その露出と突出は、さながら俳壇に猛々しい風神が闖入したかのようであった。
その春樹が専権的に利用したのが「俳句」誌である。八一年五月号で彼を囲む特別座談会「野性とロマン」を開き(石原八束・古舘曹人らが参集)、また八二年五月号では金子兜太と並んで五〇句を発表しているのが、その一例である。キャリアの浅い俳人にはどうみても不釣り合いな大きな扱いだ。
しかし、これは一種の職権濫用であって、社内に摩擦をひき起こしたのではないかと想像される(源義がかくもあからさまな誌面の私物化をしたことはなかった)。亡父が定着させた手堅い学究路線、それに沿う良心的な企画を、春樹はたびたび一蹴したかもしれない。つまり、春樹カラーが角川書店を制圧しきるまでの過渡期の軋みが、一時的なページ減というかたちで現れたのではなかろうか。じじつ、この季節を現に、「俳句」はレイアウトも含めて大幅に変わっていく。
『信長の首』で芸術選奨文部大臣賞と俳人協会新人賞を、『流され王』で読売文学賞をそれぞれ受賞して、春樹が自分を大物俳人として飾りたてることに〈成功〉したあたりから、ふたたび「俳句」は増ページに転じる。彼の覇権が確立し、その意向におもてだって異を唱える社員がいなくなったのだろう。
春樹にとって目のうえのたんこぶであった高柳重信が八三年に他界したことは、俳壇の覇者への途をつき進むにあたって大きな妨げが消えたことを意味した。しばらくたって「俳句研究」は八五年九月号で休刊、富士見書房に身売りされる。要するに角川傘下に吸収されたのである。
俳句ブームの高揚、春樹の覇権主義、対抗勢力の失速、こうした力学が交差するなかで、「俳句」誌はぐんぐんと肥えふとり、血色がよくなっていく。それは掲載される広告に如実にみてとれる。高級ライターのザイマ、三菱信託銀行、ニチレイのグルメソース〔日本冷蔵(株)〕、赤倉ホテル(山形・赤倉温泉)、そしてついにはオリエンタルゴールドのクルーガーランド金貨までが登場する! 俳人に富豪はいないかもしれない、しかし小金ならもっている、それを狙え、といわんばかりである。
5 八〇年代後半
一九八六年 316ページ
一九八七年 320ページ
一九八八年 284ページ(だが六月号は358)
一九八九年 320ページ
一九九〇年 350ページ
見てのとおり、300ページを越えるのが常態と化している。広告も、ホームサウナ〔サニーペット(株)〕、ホテルパシフィック(港区高輪)、焼酎「蕪村」など優良企業から順調に集まり、多彩となる一方だ。
たかが広告と見くびってはいけない。投資信託に金貨、ライターに酒、ホームサウナにグルメソース、高級ホテルに海外旅行――これらの広告は揃いも揃ってひとつの声を発している。それは「金がある人間は人生を楽しもうじゃないか」という、露骨といえるくらいはっきりしたメッセージである。このメッセージが、本来は文芸誌である「俳句」に充満していたのはどうしてか。私なりの見解を示しておこう。
かつて私は「夢座」のこの連載において、俳句ブームを「高度経済成長の成功がもたらした、さまざまな社会現象のひとつだった」と断じたうえで、こう記した。
かくして、七〇年代後半から各種世論調査において、自らを中流とみなす者が七割から八割を占めるようになる。この巨大な「中流層」の一部が参入することによって、八〇年代の俳句ブームが花開いた。
高度経済成長をなし遂げた日本社会に大量に登場した新中間層は、高畠通敏の言葉を借りるなら、「生活上の〈安楽〉を求めることが新たな国民的イデオロギーになった現代」の主流派なのである(二〇〇三年六月九日付け朝日新聞夕刊「思想史家・藤田省三氏を悼む」より)。
ブームによる新参者のおおかたは、求道的な文学志向を嫌い、なによりも俳句を楽しむことをめざすから、その意識のなかで、俳句を学ぶことと〈安楽〉を求めるその他の消費行動とは、矛盾するどころかしっくり折りあっている。だからこそ、投資信託や金貨や高級ホテルの広告がしばしば載っても、読者は違和感をもたず、ましてや物議を醸すことなどなかったのである。――でも、詩歌の他の分野ではどうだったのだろう。「現代詩手帖」や「詩学」に投資信託や金貨の広告が登場したのか?
この問題との関連でみるとき、八六年五月号の「特集・現代俳句の現況と未来」に寄せた一文で、波多野爽彼の述べる意見は異色である(「現代俳句の活性化とは」)。
昨今の驚くべき俳句の隆盛。それは俳誌の増大やカルチャー教室花盛りなどに端的に現われているのだが、これは大きな時代の流れとも云うべきもので今後も益々その勢いを増してゆくに違いない。
これは何も俳句ばかりに限ったことではなくて、産業界に於いても「シルバー産業」こそ将来の成長分野として各社競ってこの分野への参入を図り、それら新商品が相次いで開発され企業の収益に現実に貢献し始めているのが現状である。
カルチャー教室花盛りの現象もまさにこの一端を担うものであり、有名俳人クラスもこれに参画することにより商業主義に積極的に手を貸し奉仕しているとも云える現況であろう。(下点は江里)
引用のこの部分に関するかぎり、私は爽彼の見解にもろ手をあげて賛成する。日本を代表する都市銀行である三和銀行に長年勤務し、資本主義メカニズムの一端にふかく関与した爽波は、俳句ブームの歴史的性格とその経済効果を過たず見抜いているのだ。これは、専業主婦やフリーターなどの俳人にはなかなか育ちにくい観点であって(むろん例外はあるが)、職業が社会をみる眼を養うことを示す好箇の例であろう。
俳句は、むろん表現として語らねばならない。しかし、俳句ブームは商業主義という概念を導入すると、多くのことがくっきり説明できるのだ。商業主義のパワーがもたらす結果を予見したのか、爽波はこう警告を発している。
この恐るべき時代の流れはそう簡単に変えられそうもないのだから、その中で真剣に現代俳句の在り方を考え、また現代俳句の平準化や衰微を真に嘆き憂うる人達の立場もまことに危ういと云わざるを得ない。
実際、ブームの滔々たる潮のなかで、平準化や衰微を危惧する声はとかくかき消されがちであった。遂に九三年、旧「俳句研究」の衣鉢を継ぐ「俳句空間」が部数が伸びないまま撤退、俳句の文学性を重視する層は、商業誌を支えるには市場規模が小さいことを証明する結果となった。対抗誌の挫折は、俳句の大衆化・遊芸化と商業主義との二人三脚をすすめる「俳句」誌こそ時代の勝者である、という強烈な(じつに強烈な)教訓を、少なからぬ俳人の頭脳に刻みつけたのであった。
そして、九〇年代、ブームは最盛期を迎える。
(つづく)
0 comments:
コメントを投稿