角川書店「俳句」の研究のための予備作業 〔中〕
江里昭彦
6 一九九〇年代前半
思いだしてほしい数値がある。ブームの助走期、七〇年代後半の「俳句」誌の厚みが、240ページ(七六年)、260ページ(七七年)などであったことだ。それがブームの最盛期たるこの時代、次に示すまでに膨らむ。
一九九一年 336ページ
一九九二年 344ページ
一九九三年 376ページ
一九九四年 500ページ
一九九五年 374ページ
九四年五月号は「創刊五五〇号記念特別号」であるから例外とみなすとしても、この年の一月号から四月号はそれぞれ432、362、380、370ページとなっており、七〇年代後半を基準とするなら、100ページから130ページ増え、誌の厚みが約1・5倍に膨らむという盛況を呈している。まちがいなく九三年から九五年にかけてのこの時期がブームのピークなのだ。
そう結論づけるいまひとつの根拠は、ライバル誌の相次ぐ創刊である。
ブームが到来する以前、俳句商業誌は「俳句」「俳句研究」「俳句とエッセイ」(七三年創刊)の三誌であった。八四年に「俳句四季」「俳壇」が登場したのはブームにより俳句市場が拡大したからに他ならない。事態はそれにとどまらず、更に、九二年に「俳句あるふぁ」(毎日新聞社)と「俳句文芸」が、九五年には「俳句朝日」(朝日新聞社)と「俳句界」が加わった。俳句人口が増えつづけるのを商機到来とみて、新規参入が相次いだのである。先輩格の「俳句」誌の膨らみをみれば、そう判断するのが至当だろう。それにしても、ある年に二誌ずつ創刊されるという、増え方のリズムがなんとも面白い。
さて、この季節の[「俳句」誌だが、他業種の広告として補聴器メーカー、高級料亭「なだ万」、結婚情報のオーエムエムジー、聖教新聞社の「池田大作全集」、JR東日本などが掲載されているものの、それらを圧して多いのが角川書店の自社広告である。ブームの最盛期ゆえ、わざわざ広告集めに走りまわらなくても、自社の刊行物を宣伝すれば俳人が競って買いもとめ、収益が易く確保できた、ということだろうか(あわせて目立つのが俳句大会の広告であって、雨後の筍のごとく開催されている!)。
バブル経済が崩壊し、世は長期の景気低迷へ足を踏み入れつつあった。しかし、俳句商業誌からまだ広告は逃げだしていない。一例を示すと、「俳句あるふぁ」四号(九三年秋)には以下の広告が見いだせる。大林組、ライオンのボディーソープ、ニッカのウィスキー、大鵬薬品、安田生命、朝日生命、コスモ石油、JA共済など。なんと、一流企業が目白おしである。ビジネスマンむけのオピニオン誌に載ってもおかしくない広告ばかりだ。こうした光景を、だが、もはや誰も奇異に思わなくなっていた。「俳句」誌に載る多彩で消費意欲をそそる広告のかずかず、それが発する「金がある人間は人生を楽しもうじゃないか」というメッセージにどっぶり感化されてしまったのだろう。
7 一九九〇年代後半、そして現在
一九九六年 334ページ
一九九七年 330ページ
一九九八年 368ページ
一九九九年 358ページ
二〇〇〇年 324ページ
こうしたページ数の推移だと、評価がむずかしい。現在からみれば、はや衰えが兆していたと指摘することもできようが、ブームの高揚感に包まれていた当時にあっては、この程度のささいな変動はまるで問題にされなかった(そして、このわたしも問題にしなかった)。
つづく二十一世紀の最初の十年間は省略しよう。緩慢な衰退へと局面が変わったのは確かなのだから。衰えゆく相を念入りにたどることに、さして意味はない。
さて、現在の「俳句」誌である。二〇一〇年におけるページ数は280前後で推移しており、稀に300を超えることがある。つまり、ブーム以前の七〇年代後半の規模へと縮みつつあるわけだ。
落ちぶれたものだと思う。わたしに限らず、全盛期の威勢を覚えている俳人は、正直そう感じるだろう。編集方針を変えることで読者が離れたのではない。ブームの退潮により、読者が減り、売上が落ち、広告が去った結果、誌の厚みが痩せていったのである。
いま、他業種の広告としてみかけるのは、全国共通おこめ券〔全米販〕と聖教新聞社くらいのものである。米は基本食糧だし、信仰は精神の種であろう(こう言ったからといって、わたしのことを創価学会の賛同者だと勘違いしないでほしい、念のため)。なるほど、ここからはもう「金がある人間は人生を楽しもうじゃないか」というメツセージは聞こえてこない。
数字は嘘をつかない。しかも雄弁である。「俳句」誌の厚みを観察することで、俳句ブームの盛衰の経過をはっきり証明することができる。
8 なぜ「俳句空間」は必要とされたか
だが、現在へと話をもっていく前に、ブームの最盛期たる九〇年代にこそ、こんにちの俳句を歪め、また悩ませている多くの問題が、初期の姿で見いだせることにわたしは注意を促したい。それらの問題のうち、ここでは以下の三つをとりあげておこう。
第一に、「俳句研究」の基本路線を継承しようとした「俳句空間」の誕生とその撤退が投げかけた意味である。
第二に、結社がブームにゆさぶられ、変質を強いられたことである。
第三に、俳句総合誌が商業誌の本質をむきだしにするなかで誘発した、読者の劣化という事態である。
さて、「俳句空間」であるが、この誌は一九八六年九月に澤好摩を編集発行人として、書肆騏麟から刊行された(富士見書房に版元が移り、角川傘下に吸収された「俳句研究」が、同年の一月号から再登場していることに注意しよう)。そして、八八年九月の第六号から発行所が弘栄堂書店に替わった。姿を消したのは九三年六月。通巻二三号を世に送っている。
ところで、わたしは、高柳重信編集の「俳句研究」と書肆騏麟時代の「俳句空間」から原稿依頼を受けたことがない(人間の記憶はあやふやなもので、あるいは一、二回あったかもしれないが、記憶に残らないほど少なかったのは確かである)。要するに、江里くらいの俳人なら掃いて捨てるほどいると思われていたのだろう、きっと。
けれども、版元が弘栄堂書店へ移ってからは、ほぼ常連執筆者の扱いで、じつによく書かせてもらった。あるとき、夏石番矢に「俳句空間」創刊のいきさつを訊いたところ、「あれは、みんなで金を出しあったんだよ」という話だった。ただし、注釈が必要で、この場合の「みんな」とは、重信の薫陶を得、「俳句」誌の君臨をこころよく思わない面々の意味であって、この範疇に含まれないわたしには資金拠出の呼びかけすらなかった。当時、夏石とわたしの関係は現在と違って良好だったので、夏石が嘘をついたとは考えにくい。富豪ではなく、平均的な市民といえる俳人たちが、それぞれの財力に応じて発行資金を出しあったという内情を知り、わたしは感心するより、かなり暗い気分になったのを覚えている。追いつめられた者同士で支えあう頼母子講という趣ではないか。
弘栄堂書店が発行所となっても、経営が苦しかったようだ。長文の批評をふたつ書いても、原稿料は額面五〇〇円の図書券たった一枚だった(長い時評を書いた齋藤愼爾に届いたのが、同じく五〇〇円の図書券一枚だったので、つくづく呆れたという口調の電話をかけて寄こしたことがあったから、他の執筆者も同じ扱いだったのだろう)。
こうした経営努力にもかかわらず、かつ執筆者の我慢強い協力に支えられていたのに、結局廃刊となったのは、必要経費を安定してまかなえるだけの読者層をもたなかったからである。つまり、あの時代、俳句の文学性を重視する層は、商業誌を支えるには市場規模が小さかった――これが冷厳な結論である。
すでに重信編集の頃から「俳句研究」の売れゆきは芳しくなかったらしい。そう記憶する関係者が多少はいたはずなのに、それでも、志を同じくする面々が資金を寄せあってまで、新総合誌を出したかったのはなぜか――この点が重要なのだ(日本は言論・表現の自由が保障された社会であり、検閲も禁じられている。同人誌という媒体があれば俳句活動は一応おこなえるはずだ。なのに、なぜ新総合誌なのか?)。
わたしの見解は、「俳句」も旧「俳句研究」も、総合誌であると同時に<格づけ機関>としての性格をもっているので、無理をしてでも新総合誌が求められた、というものである。「俳句」と旧「俳句研究」は、それぞれの俳句観に照らして俳人および作品・批評を評価し、格づけし、その格づけをとおして進むべき俳句の道を(対抗的に)明示・教導していたのである。したがって、「俳句研究」が角川の軍門に降ったということは、向後は「俳句」が唯一の<格づけ機関>として君臨し、俳句史の流れを方向づけることになる。そうした見通しに、重信陣営のひとびとは危機感をもったのであろう(そして、実際、「俳句空間」退場の後、俳句界の大勢はそのとおりの流れとなり、現在にいたる)。このことは、この長い論考の核心をなす議論なので、あとでふたたび立ち戻ることにしたい。
9 上田五千石の悩み
第二の問題、結社がブームにゆさぶられ、変質を強いられるという予期せぬ新しい体験については、上田五千石が、新聞時評のなかで率直な感想を述べたことがある。その時評は一九九〇年七月十一日付けの京都新聞に載ったのだが、おそらく共同通信が配付した記事だろう。
発端は、その年の七月号で五〇〇号に達した「俳句」誌が、「編集帖」においてつぎのとおり尊大な口調で訓戒を垂れたことにある。
俳人は何に学びどこで成熟するのか、いうまでもない。結社である。結社がなければ、学ぶことはおろか成熟など一生叶わない。唯一、本物の俳句修業の揚が結社である。今も昔も俳句修業とは歳月のかかるきびしい生活だ。結社はおちょぼ口で物をいう仲良しクラブではない。志を同じくした者の礼節をつくした修業の揚である。上田五千石は、右の主張を、「師弟道のリゴリズム(厳格主義)に徹することの要請の上に立っての立言」であり「見事な識見」と一応評価しているけれど、むしろ彼の本音は、続く以下のくだりに滲んでいるようだ。
だが、雨後の筍のように無定見に主宰誌ができ、結社がつくられていく現状はいかんともしがたいであろう。結社とは、それが在るべき論理と倫理に支えられて必然的に、公に許されて生まれてくるもの、という理念の欠如は、総合誌の指導性をもっても埋められるものではないだろう。俳壇の優等生である上田五千石が、抑えた口調とはいえ、よくぞここまで反駁したものだというのが、当時一読した際のわたしの感想であった。
また現に在る結社にしても、伝統あるものは多く代替わりをして、その創成期のエネルギーを喪失し、その他も俳句観不分明にして存続経営しているのみという慣性を帯びて、活性力を減じているのが多く、しかも結社間交流というより個人的交際の揚が広がった今日、結社の特殊、ことにその厳粛性は著しく褪色している。これを「結社の時代」として鼓舞するのはなかなか困難である。〔下線は江里〕
五千石が語るのは、結社の変質である。かつては、たしかに師弟道のリゴリズム(厳格主義)が貫徹していた。五千石自身それによって鍛えられ、頭角をあらわした領袖のひとりだから、結社のむかしの気風を身をもって知っている。よって、「編集帖」の言いぶんは正論であるといったんは諾うのである。
しかし、現在(一九九〇年)はというと、結社に仲良しクラブの居心地のよさを求める人々が増加しているのが実情なのである。修業の場としての厳しさを強調しようものなら、そっぽを向きかねない連中が、結社にひたひた浸透しつつある。好ましからざるこの動きを、もしリゴリズムの枠内に収めて矯正しようと試みたら、大きく発展した結社はしぼんでゆくだろう。雨後の筍のように結社が簇生する現状では、易きに流れるそうした人々の受け皿はいくらでもみつかるのだから。―――主宰として結社運営に責任をもつ五千石の悩みは、まさにここに起因している。では、どうしたらいいのか、彼はそれ以上語っていないが(たぶん語れなかったであろうが)、ともかく、ブームが結社にもたらした新たな困難について、責重な証言を残した五千石を、わたしは誠実であると評価したい。
さて、五千石に証言を残させる発端となった、さきの「編集帖」のごとき尊大な訓誠を、「俳句」誌はその後も繰り返したのだろうか?興味のあるかたは実地に調べてみたらよろしいが、たとえ繰り返したとしても、主宰連中は堂々と無視したであろう。
なぜなら、俳句ブームとは、数がものをいう時代のことだ。結社の規模が大きいほど、主宰は俳壇で有力者として遇される(そのように遇する筆頭は、他ならぬ「俳句」誌!)。少数精鋭なんて世迷言、ブーム期の結社は大きくすべきものであって、小さければ侮られる。ゆえに、師弟道のリゴリズムによる指導・教育は忌避されることになり、かつてはそうした気風で鳴らした名門結社も、成員を逃がしかねない厳しい方針を、緩め、薄め、ゆっくりと殺してゆかざるをえない。べつに示し合わせたわけでもないのに、ブームの風潮に紛れつつ、有力俳人たちはそれを実行したのである。言い換えると、「時代の空気をたくみに読んだ」のである。KYでなければ主宰は務まらない。
10 鶏が先か、卵が先か?
第三の問題は、俳句総合誌が商業誌の本質をむきだしにするなかで誘発した、読者の劣化という事態である。だが正直いって、これは検証がむずかしい向題だ。
ここには二つの項目がある。ひとつは、俳句ブームによって参入したのが、俳句を楽しむことをめざす遊芸派が圧倒的多数であったこと。ふたつめの項目は、「俳句」誌がそうした遊芸派向けに編集方針の舵をきったということ。この二項目の関係をどう把握するかが難題なのである。まさに「鶏が先か、卵が先か」の水かけ論であって、ブームによる参入者の大勢が遊芸派であると「俳句」誌が見抜いたからこそ、編集方針の舵をきったのか(この場合だと、時代の動向をいちはやく察知した企業経営者としての炯眼が、むしろ賞賛されよう)、それとも、読者の変容に押されるかたちで、角川源義の敷いた学究路線を棄てたのか(つまり、商業主義への強いられた傾斜)、なんとも見きわめにくい。
というのも、既にみたとおり、八〇年代前半の「俳句」誌は、角川春樹の強引な覇権主義によって社内がギクシャクしており、しかしそのギクシャクが誌面に反映しているわけではないからだ。角川春樹はれっきとしたエンタテイメント志向の経営者だが、亡父の路線がそんなにあっさりと葬られるわけでもなかろう。
結果論を述べるなら、「芸術派」の闘将・高柳重信が編集長をつとめていた「俳句研究」が、一九八五年に敗退した時点では、ブームの主潮が遊芸派であることが明白になったとは言えよう。
そして、いまのわたしに指摘できるのは、八六年以降において、先に記したふたつの項目が、あざなえる縄のごとく密接に絡みあいながら、俳句界の流れを導いていったということである。だから、「鶏が先か、卵が先か」と問いを立てるのはやめて、とりあえず八六年に着目しよう。
八六年一月号は「飯田龍太特集」を組む。334ページのうち95ページを当てており、読本と呼ぶにふさわしい陣立てであるが、短い文をたくさん集める方式を採っている。それだけに、角川春樹の文章が16ページと他を圧しているのがめだつ(恥の観念をもたない人間にむけて恥を知れと叫ぶのは徒労だから、ただ事実を記すにとどめよう)。大岡信が6ページ、山本健吉が3ページ、水上勉と永井龍男が各2ページの文を寄せている。
三月号の「原石鼎特集」は注目したい。81ページを当てる。構成は、論考、一〇〇句選、一句評、石鼎語録、略年譜、著書解題という組立てである。
これを、十年後の九六年五月号「川端茅舎特集」と比較しよう。なんと38ページだけ。構成は、論考、一〇〇句選、秀句鑑賞、略年譜となっている。語録を欠くので資料性が薄れているし、書誌の力量が問われる著書解題を省いたのは、編集部の水準が落ちている証拠だろう。
同様の比較を句集特集でもしてみようか。八六年四月号に清崎騎敏郎『系譜』の小特集がみつかる。24ページ。六月号では波多野爽波『骰子』の小特集に23ページ。
爽波の場合、5ページの書評を二人に書かせ、2ページの感想(書評とは呼べまい)を二人に執筆させている。加えて、1ページの一句評を九名に依頼している。
ところが、九六年五月号の沢木欣一『白鳥』の小特集は11ページに後退している。沢木ほどの大家でも、敏郎・爽波と比較して半減という扱いである。内容も首をかしげたくなる代物である。新作十一句はいいとして、略年譜がたった1ページ(沢木のキャリアに対する侮辱ではあるまいか)、2ページの感想を一人に書かせ、一句評は半ページに縮めたうえで十二人に依頼している。
九六年である。依然としてブームの最盛期である。「俳句」誌もぶあつい。しかるに、批評文はぐっと短く、かつ薄くなっている。
そして、八六年十二月号に特集「現代俳句、挨拶と季のいのち」が登場する。このあたりがハウツーものの走りだろうか。「季の実例」「挨拶の実例」と称する短文で句作のてほどきを示している。
11 読者の劣化
八六年と九六年を対比すると、一年ごとの変化をたどる作業では見過ごしがちな段差が、はっきり浮かびあがる。
八六年あたりで設定された編集項目が、以後は反復されるばかりで、しかも次第に規模が縮み、水準が落ちてゆくのだ。建築に喩えるなら、屋敷の間取りは先代が決めたとおりに継承されているけれど、個々の部屋は漸次小さくなり、そこに投入される資材の資も見劣りがする、といえば判りやすいだろうか。
九〇年代、夥しい句集が刊行された。「俳句」誌でも毎号のように小特集を組んでいる。でも、型どおりの(型どおりでしかない)そうした小特集を眺めていると、わたしは中学校か高校の身体検査の光景を連想してしまう。身長・体重・胸囲・握力など決められた検査項目をたんたんと測定し、「はい、次のかた」と呼び入れる、あの光景を、である。句集を論評するとは、その業績を史的展望のなかに置いたうえで、さまざまな角度から光をあて、達成と限界の相貌を描出することではないのか。ブームの時期にみるべき句集が少ないからといって、型どおりの身体検査でお茶を濁してよいことにはならない。
こうしたことを続けていると、どうなるか。とうとう次のような嘆きが聞かれるようになった。二〇〇二年十一月二四日付け毎日新聞の「俳句時評」において、片山由美子が「俳句雑誌に望むこと」と題し、苦言と注文を呈したのである。
月刊俳句雑誌は年々増加し、現在、書店に並ぶものだけでも八誌を数える。しかし、それぞれが独自の編集方針にしたがって個性的な誌面作りをしているかというと、必ずしもそうではない。現状認識としては片山が述べるとおりである。しかし、わたしは途方に暮れる。「俳句」誌が遊芸派向けの編集方針を長年貫いてきたがゆえに、読者がここまで劣化したのか、それとも格段に膨らんだ俳句市場に呑みこまれて「俳句」誌のほうが易きに流れる読者に引きずられているのか、どちらだろう。
雑誌にも常に流行があるが、昨今目立つのは座談会、誌上句会、アンケート特集といったところである。そこに共通するのは、気楽に読んで楽しめるということである。本格評論などはおよそ見かけない。ある程度の長さになれば、書く側のエネルギーを要することはいうまでもないが、読む側も集中力と多少の忍耐を要求される。これが一般の読者にはなかなか受け入れられないのだという。特集の中の句集評や作品鑑賞など、一人が二分の一ページというのも珍しくなくなっている。その程度でなければ読んでもらえないということらしい。〔下線は江里〕
もし、後者ならば、「俳句」誌は軌道修正しようにも、もはやできないということになる。なぜなら、そのそぶりをみせた途端に、読者は雪崩をうって離れ、ライバル誌に流れるかもしれないから。まさに自縄自縛である。
鶏が先か、卵が先か、いずれにせよ状況が混沌としたまま、ブームはようやく終末を迎えるのである。
(つづく)
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