ラベル 中村草田男 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 中村草田男 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023-07-30

草田男の《降る雪や明治は遠くなりにけり》に、類似先行句はあったか? 神保と志ゆき

草田男の《降る雪や明治は遠くなりにけり》に、類似先行句はあったか?

神保と志ゆき


1 はじめに

角川の『俳句』令和5年8月号に、家登みろく氏の「〈降る雪や〉を巡るデマ、その背景」という記事が掲載された。

《降る雪や明治は遠くなりにけり》 中村草田男

という著名句には、

《獺祭忌明治は遠くなりにけり》 志賀芥子

という先行句があったというのは本当か? という問題に関する記事である。

家登氏は、草田男の主宰誌『萬緑』の後継誌である『森の座』同人の方である。同氏は、『俳句四季』令和2年9月号の「忙中閑談」というコーナーにおいて、この問題に取り組みたいとして、

「まずは芥子の句が実際に存在するのか、リファレンスサービス等を利用した全資料の総当たり戦を展開したい。証言を、年代別にまとめ真偽を確認しようじゃないか。噂話に、終止符を打つのだ。」
と熱い思いを述べていた。筆者は、ひそかにその意気込みに期待していたのであった。

もっとも、『俳句』令和5年8月号に書かれた記事は、問題の志賀芥子の句は『ホトトギス』誌上に掲載されていない、だからデマだという、これまでも言われてきたような情報にとどまるものであった。見開き1ページという紙幅の都合もあったのであろうが、読み手であるこちら側の期待値が高かっただけに、正直、もっと“読ませて”ほしかったという気持ちがあった。

そこで、筆者において、ごく簡易的に自分なりの調査を行ってみた。そうしたところ、芥子の「明治は遠くなりにけり」の句が掲載された文献が見つかった。ところが、その句の上五は「獺祭忌」ではなかった。また、その芥子の句の制作時期は、草田男句に遅れる時期のものであった。以下、それらについて報告する。

2 調査とその結果

草田男句に先行して芥子の「獺祭忌」の句がある、と言い出したのは、嶽墨石という俳人であった。それは、旅と俳句発行所の『旅と俳句』昭和36年9月号に「俳壇管見(三)」として掲載され、その抄録が、『俳句』昭和36年11月号「定点観測」欄に掲載され、さらに、『文藝春秋』昭和37年新春特別号の短歌・俳句欄、東京新聞昭和37年1月7日のコラム「大波小波」といった一般紙誌でも取り上げられ、情報が伝播・拡散していった。

今、筆者の手元にあるのは、「定点観測」の記事であるが、墨石の主張の骨子は、

・岩木躑躅(ホトトギス同人)が神戸の菱舟句会〔*1〕を指導していた昭和7、8年頃、志賀芥子は、この句会に「獺祭忌」の句を出した。その句稿はホトトギス社へ送られ、同句は『ホトトギス』の地方俳句会報欄に「登録されることとなった」。

・草田男の「降る雪や」の句は、それより2、3ヶ月後の『ホトトギス』雑詠欄に載った。墨石は芥子から、草田男句についての『ホトトギス』への類句取消要求の相談を受けたが慰留した。

・芥子は、墨石による『旅と俳句』昭和36年9月号の記事執筆の3年前に亡くなったが、その遺句集を編みたい墨石として、釈然としない思いがあり問題提起する。

というものである。

ところで、草田男句であるが、この句の発表時期は明確である。

昭和6年3月の『ホトトギス』34巻6号(通号415号)に、《降る雪や明治は遠くなりにけり》の掲載がある。掲載は、「東大俳句會」欄及び雑詠欄であった。東大俳句会における出句は、昭和6年1月9日であった旨が「東大俳句會」欄に記載されている〔*2〕

したがって、この時点で、草田男句の掲載時期という重要な点につき、昭和7、8年頃という大づかみな言い方ですら齟齬があり、墨石の話の信用性自体、疑う必要がある。

何より、今なお、肝心の『ホトトギス』に芥子の句が確認されていない。家登氏や、香西照雄、横澤放川ら『萬緑』『森の座』関係者も発見できず(家登氏の『俳句』の記事による)、村山古郷、川名大の諸氏も調査したが発見できなかった(『俳句研究』昭和59年3月号「新聞コーナー」)。

『日本古書通信』昭和40年5月15日号5ページの、八木福次郎(『日本古書通信』主宰。ミスター神保町と言われた。)による囲み記事にも、注目すべきことが書かれている。曰く、『旅と俳句』の翌月号(昭和36年10月号)にも、墨石による関連した随筆があり、そこには「獺祭忌」の句が出たのと同じ句会で、岩木躑躅が《故人日々遠く鶏頭赤きかな》という句を作ったとある。そこで八木が調べたところ、躑躅句は『ホトトギス』昭和3年12月号に掲載されていたものの、『ホトトギス』に芥子の「獺祭忌」の句は見当たらなかった、という。

八木の言うとおり、確かに、昭和3年12月の『ホトトギス』32巻3号(通号388号)の雑詠欄(65ページ)には、躑躅の「故人日々」の句が確認できる〔*3〕

しかし、そうすると、この句の掲載時期と、草田男句の掲載時期とでは2年3ヶ月という年単位の隔たりがあり、「2、3ヶ月」後に草田男句が発表されたという点についても、墨石の話には矛盾が生ずる。単純に、昭和7、8年頃を、昭和6年に読み替えれば済むという話では収まらなくなるのである。

なお、「故人日々」の句については、昭和3年に早世した躑躅の弟子・半田鶏肋に対する追悼句との情報もある(尾崎隆吉「西播磨の文学碑巡り(Ⅰ)」)〔*4〕

鶏頭といえば、斎藤茂吉が《鶏頭の十四五本もありぬべし》を喧伝して以降、子規を象徴する印象を与える。もっとも、「故人日々」の句にいう「故人」が子規ではなかったとすれば、「獺祭忌」(=子規忌)の句が出たのと同じ句会で出されたとの点についても、注意を要すると思われる。

また、草田男句掲載の3号後、昭和6年6月のホトトギス34巻9号(通号418号)の地方俳句会報欄(「各地俳句界」欄)には、芥子や墨石も参加した、神戸ホトトギス俳句會子規忌の幹事報が載る。芥子の句は芙蓉を詠んだ句で、「獺祭忌」の句ではない。この誌面からは、前年昭和5年の子規忌の句稿が『ホトトギス』の「各地俳句界」欄に載ったタイムラグがわかる(昭和5年9月19日頃→昭和6年6月)。「2、3か月」を優に超えるタイムラグの存在も、墨石の話とは整合しないように思われる。

さらに、草田男句の掲載された昭和6年3月を基準に考えると、管見では、昭和5年5月の『ホトトギス』33巻8号(通巻405号)67ページに掲載された昭和4年11月例会の句を最後に、それ以降、「各地俳句界」欄に、菱舟会(菱舟句会)の掲載そのものが確認できず(ただし悉皆調査を行ったわけではなく漏れがあるかもしれない)、この点においても墨石の話は整合しないと思われる。

他方、志賀芥子の句なるものが、もし実際に昭和7、8年頃に作られたものであったならば、それだけで昭和6年の草田男句には遅れ、先行句ではないことになる。草田男自身、
「古い時代の「ホトトギス」誌の一角に「獺祭忌明治は遠くなりにけり」という作品が存在したと穿鑿する人物も現われたが、私の作品の方がそれより以前に創られたものであり」
と述べていた(中村草田男「「明治は遠くなりにけり」の俳句」『国文学 解釈と鑑賞』34巻1号(通号416号)14ページ)。これは、昭和6年と、昭和7、8年とを比較して言ったものであろう。

一方、芥子の句についてである。まずこの話の情報源となった嶽墨石は、『ホトトギス』のほか、『雲母』にも投句していた神戸の俳人であり、芥子も同様であった。そして、昭和13年、雲母神戸支社が刊行した、飯田蛇笏 編『水門 続』という合同句集に、問題の志賀芥子の句が掲載されているのを発見することができた。その句とは、

《菊花節明治は遠くなりにけり》 芥子〔*5〕

というもので、上五は「獺祭忌」ではなかった。

従前、「獺祭忌」の句については、上五と中七以下がつき過ぎだと言われてきた。例えば、角川源義は、「つき過ぎそのもので、月並というより陳腐というほかはない。」とする(角川源義「降る雪や」『角川源義全集 第4巻』429ページ以下(角川書店、昭和63)。初出は『俳句研究』昭和47年6月号)。上五が明治35年に没した子規の忌日で、中七以下が明治への詠嘆であるから、そう評価されて当然である。

そして、今回見つけた、上五が「菊花節」の句である。「菊花節」は、重陽の節句の異称であるが、それとともに、下記の諸文献に見られるように、「明治節」の異称でもある〔*6〕

そうすると、「獺祭忌」の場合にも増して、「菊花節」の句はつき過ぎということになろう。

さて、この合同句集の刊行は昭和13年であるが、句自体の俳誌への初出が、草田男句が発表された昭和6年3月よりも早ければ、なお芥子の句は草田男句の先行句となるため、その点を確認しなければならない。

これに関しては、『水門 続』の凡例に、
「本句集は雲母第二十巻第一號(昭和九年一月)より第二十二巻第十二號(昭和十一年十二月)に至る同誌『春夏秋冬』『支社稿』『寒夜句三昧』及『珠玉抄』中の各自の句より蛇笏先生の再選を經たる千百五十二句を採録したものである。」〔*7〕

とあり、昭和9年1月以降の句であることが分かる。

また、凡例には、「各句の下には作者備忘の爲制作年代を附記した。」とあり、「菊花節」の句の下には「九」とあるから、昭和9年制作というところまでの特定ができる。今回はあくまで簡易な調査であるため、昭和9年の『雲母』自体には当たっていないが、これらの記載から分かる芥子の句の制作年代は、草田男句の発表に遅れるといえる。

なお、この凡例には、本句集の作家名一覧も記載されており、芥子のフルネームである「志賀芥子」や、「嶽墨石」の名が見える。

管見では、志賀芥子の名は、昭和3年6月の『ホトトギス』31巻9号(通号382号)の雑詠欄には見られ(なお、これも悉皆調査を行ったわけではない)、芥子は昭和9年当時、少なくとも6年程度の句歴はあったと見られる。

もし、初案が「獺祭忌」で、この「菊花節」は改案であったとすれば、上記のようにそれなりに句歴のある作者が、《明治節明治は遠くなりにけり》というにも等しい、べたづきと言っていい句への改案をするであろうか、という印象が否めない(とはいえ、蛇笏選に入っているが…)。

「獺祭忌」も「菊花節」も秋の行事の季語であること、まさしく「明治は遠くなりにけり」が詠まれている句形、及び、作者が志賀芥子であることからすると、墨石が言わんとしていた句は、《菊花節明治は遠くなりにけり》であって、「獺祭忌」というのは記憶違いだったのではないだろうか。

以下は1つの推論である。草田男句も初出時点から著名句だったわけではなく、『ホトトギス』投句者も他人の句をみな把握しているわけではない。蛇笏が芥子の「菊花節」の句を選に入れた点からすると、蛇笏すら草田男句を把握できていなかったようにも見える。芥子らにおいて初出の草田男句は、読み飛ばした、一読したが忘れた、見ていないなどで把握しておらず、昭和9年より遅れる媒体、例えば、昭和11年刊の句集『長子』搭載の草田男句との比較で、“芥子の句が先行する”と即断した可能性はないだろうか(『長子』の跋まで読めば「昭和四年九月より同十一年四月に至るホトトギス雑詠句を基とし」云々とはあるが)。そう理解すると、墨石の話と異なってくる点はあるが、墨石の話自体矛盾が多くてそのままでは維持できないのであるし、大筋では出来事の説明がつくように思う。蛇笏選というお墨付きがあればこそ、芥子の句が先行するとの思い込みが生じ、かつ、草田男句の取消要求という強気の話になった、と考えれば平仄も合う。

ところで、『水門 続』は、その名の通り、『水門』に続く句集である。『水門』は、昭和9年、雲母神戸支社 編として、小穴忠実(嶽墨石の本名)が発行者となった句集である。念のため、『水門』も一覧したが、「明治は遠くなりにけり」という句は見当たらなかった。

その他、この類句問題に関しては、堀辰雄が、昭和8年頃の改造社の座談会で、草田男句は芥子の句の剽窃ではないかと述べた旨をいう言説も散見される。「堀辰雄」「改造社の座談会」など、いかにも具体性があり、それらしい印象を与える。しかし、この点についても、これまでに調査が行われたが、今に至るも該当する堀の発言の存在そのものが確認されていない。次の図書館レファレンスもその1つである〔*8〕

ないことの証明は「悪魔の証明」と言われるように、その立証は困難であるから、可能性ということを言えば、なお、芥子の句には上五を「獺祭忌」とした初案があって、それは草田男句に先行したのではないか、との可能性が絶無とはいえない。筆者としても、念のため並行して調査を行っている。

しかし、これまで諸家が『ホトトギス』を調査したが、誰一人として芥子の「獺祭忌」の句を確認できなかったという事実は重い。「幻想の句ではなかったかとさえ思われる」「虚構の事実に基づく迷妄ではなかったか」(東京新聞昭和59年3月31日村山古郷「類句・類想の問題点」)といわれてもやむを得まい。ホトトギス地方俳句会報欄に「登録されることとなった」旨の墨石の表現からすると、句稿を送ったが掲載に至らなかったとも考えられるが、であれば、そのような未搭載句をもって、草田男句の先行句として論ずべきものであろうか。

墨石の話は、感覚的には相応の具体的もあって意識的な虚偽とまでは断じにくい一方、既述のとおり、草田男句の掲載時期をはじめとした客観的事実との齟齬から信用し難い部分が多い。

さらに、家登氏も『俳句』の記事で述べているが、墨石が、草田男句に類句があると言い出したのは、草田男句の発表から約30年という時間を隔てての後である。墨石は、明治25年2月生まれであり(松井利彦『俳句辞典 近代』348ページ(桜楓社、昭和52))、『旅と俳句』昭和36年9月号のころは、69歳であった。

これらによれば、墨石の話は、相当に程度の重い記憶の混乱があると見ざるを得ず、結論としては、やはりその話には信を措き難い。

3 まとめ

“幻想の句”とまで言われるものが存在するかのような言説が、これ以上拡散されるのを防ぐための一番の処方せんは、それがいかに根拠を欠くかについての実証性を伴った論ではないか、と思う。

現在までに、客観性をもって明らかなのは、

・志賀芥子の「明治は遠くなりにけり」の句は実在したが、確認できる句形は《菊花節明治は遠くなりにけり》である。

・確認できる志賀芥子の句の制作・発表は、昭和9年で、それとの比較では、昭和6年3月のホトトギス34巻6号に掲載された草田男の《降る雪や明治は遠くなりにけり》の方が先行句である。

ということである。少なくとも、「菊花節」の句形や、これが昭和9年制作とされることは、これまで言及されることがなかったとみられる事実であり、ここに紹介をする次第である。

本稿は、『俳句』令和5年8月号が発売された同年7月25日に家登氏の記事に接し、熱の冷めないうちにと、同月29日に脱稿したもので、拙速な点もあるが、ご海容賜りたい。

4 余談

以下は余談である。草田男本人の自句自解(『俳句研究』昭和14年3月号)によると、《降る雪や明治は遠くなりにけり》の初案は、

《雪は降り明治は遠くなりにけり》

というものであった〔*9〕

ところで、明治29年発行の三日月庵春湖 撰『俳諧拾万集 冬の部』77ページ中段には、

《雪降りて世の中遠くなりにけり》〔*10〕

という句が確認できる(作者名の記載なし)。

このような先行句があっても、詩としての草田男句の優位性は揺るがず、「世の中」と「明治」とでは発想において質的に異なることは言うまでもないが、まったく、類句というのは世に尽きないものである。


〔*1〕嶽墨石 編『王石句集』の序によると、墨石はこの句会の主宰であった。「菱舟句会」は、墨石が三菱商事船舶部神戸支部に勤務していたところからの命名と見られる。

(了)

2017-07-16

【俳苑叢刊を読む】 第19回 中村草田男『永き午前』 有季俳句と人間の内面の出会い 堀下翔

【俳苑叢刊を読む】
第19回 中村草田男『永き午前』

有季俳句と人間の内面の出会い

堀下翔


中村草田男『永き午前』、昭和一五年一〇月一五日、「俳苑叢刊」の第二一巻として刊行された。この頃草田男はすでに『長子』(沙羅書店、昭和一一年)および『火の島』(龍星閣、昭和一四年)の二冊の序数句集を刊行しており、『永き午前』はこの二冊の句集よりそれぞれ一三一句、一八〇句を再収録した自選句集になる。二冊の序数句集は製作年順に句を収録するが、『永き午前』ではそのうちの『長子』のみが四季別に組みなおされている。作品のほか、自序と自伝を一ページずつ収録。「よき先輩、川端茅舎、松本たかし二氏に伍して、此叢書中の一員となり得ることを、作者は幸福と感ずるものである」(序文より。ただし茅舎は健康を害し、「俳苑叢刊」への収録はかなわなかった)。表題句に相当する作品は存在しないが、草田男に師事した香西照雄は「永い青春彷徨と、『火の島』時代にも保持していた〈精神的青春〉の両方を暗示していると思う」(「中村草田男著書解題」、『中村草田男読本』「俳句」臨時増刊、昭和五五年所収)と推測する。

以上が本句集のあらましである。「俳苑叢刊」には収録句集を序数句集とした作家を少なからず数えることができるが、草田男の場合は既に述べたとおり自選句集である。また草田男には「火長」(『現代俳句』第三巻、河出書房、昭和一五年の一篇)、『火の鳥・萬緑』(スバル書房、昭和二二年)、『中村草田男二百句撰』(榛の木書房、昭和二四年)、『草田男自選句集』(河出書房、昭和二六年)、『中村草田男句集』(角川文庫、昭和二七年)、『定本中村草田男全句集』(集英社、昭和四二年)など夥しい数の自選句集、合本句集類が存在している。そのために『永き午前』という一集には至極地味な刊行物の観がないではない。従来の草田男研究でも詳細に言及しているものは皆無に等しく、筆者自身、本誌より原稿依頼を賜るまで、気に留めたことがなかった。

だが、本句集をひもとき、またこれを草田男の年譜に布置してみたとき、本句集が必ずしも地味な自選句集ではないということに気づかされた。『永き午前』は「ホトトギス」作家としての草田男の到達点を結果的に示すこととなった一冊なのだ。



中村草田男、明治三四年生まれ。昭和四年二月より虚子指導の東大俳句会の会員となり、同年八月より「ホトトギス」の雑詠欄に投句。

大正元年に虚子が「ホトトギス」雑詠欄を再開して以降、この雑詠欄は俳句史の舞台となってきた。『進むべき俳句の道』(実業之日本社、大正七年)で称揚された蛇笏、鬼城、水巴、石鼎、普羅を中心とするいわゆる「主観尊重」の時代ののち、客観写生が唱えられるようになり、泊雲と花蓑の二人が台頭。大正末から昭和初頭にかけては素十、秋櫻子、誓子、青畝からなる「四S」の時代が訪れた。

昭和六年、秋櫻子は「『自然の真』と『文芸上の真』」を「馬酔木」一〇月号に発表し、「ホトトギス」を離脱。新興俳句運動が始まり、俳句史は「ホトトギス」雑詠欄の独擅場ではなくなってゆく。

とはいえ、「ホトトギス」雑詠欄自体が弱体化したわけではもちろんない。たかし、左右、暁水、立子、茅舎、久女、青邨、汀女といった、四S時代と重なる時期および四S時代以降に登場した作家たちが、綺羅星のごとく雑詠欄上位に居並び、巻頭を競った。現在でも愛唱される下記のような句は、この時期の雑詠欄で巻頭を飾ったものだ。

立てひらく屏風百花の縫ひつぶし たかし(昭和四年三月号)
和歌の人花のくもりに海苔とれる 左右(昭和五年六月号)
夜濯ぎのざあ/\水をつかひけり 暁水(昭和六年八月号)
吹かれきし野分の蜂にさゝれたり 立子(昭和六年一一月号)
金剛の露ひとつぶや石の上 茅舎(昭和六年一二月号)
丹の欄にさへづる鳥も惜春譜 久女(昭和八年七月号)
祖母山も傾山も夕立かな 青邨(昭和八年一〇月号)
中空にとまらんとする落花かな 汀女(昭和一〇年六月号)


草田男が「ホトトギス」に投句を開始したのはこのような華やかな時代であり、かつ草田男自身もまた、昭和五年一〇月号において「つばくらめ斯くまで並ぶことのあり」他四句で巻頭を取り、またたく間に頭角を顕していった。昭和一〇年、同人。昭和一一年には「ミヤコ・ホテル」論争に批判派の急先鋒として加わる。昭和一四年には「俳句研究」八月号の座談会「新しい俳句の道」(楸邨、波郷、梵、司会・健吉)に出席し、「人間探究派」という呼称を与えられる。二冊の句集も持ち、草田男は「ホトトギス」の花形作家となるに至った。

『永き午前』とは、そのような幸福な「ホトトギス」作家が出した句集であった。



このような言い方をしなければならないのは、『永き午前』刊行の翌年にあたり、第三句集『萬緑』(甲鳥書林)を六月に刊行した昭和一六年以降、「ホトトギス」における草田男の立ち位置は、急速に変化してゆくからだ。

昭和一六年三月、虚子は、時局を弁えずに放埓な作品を発表している草田男に対する監督責任について、蕪子から釘を刺されていることを、草田男の耳に入れる(田島和生『新興俳人の群像―「京大俳句」の光と影』思文閣出版、平成一七年)。前年に起こった京大俳句事件ののち、表現弾圧は「ホトトギス」陣営にも及んでいたのだ。

七月、先に引いた本句集序文にもあらわれる茅舎が逝去。草田男は茅舎を偲んだ句群「青露変」を「俳句研究」一〇月号に発表した。特高警察と関係し、京大俳句事件の黒幕ともなった蕪子は、「青露変」中の「汝等老いたり虹に頭あげぬ山羊なるか」などの数句を取り上げ、草田男を自由主義者として威嚇指弾した(掲句は時局に協調する「ホトトギス」の諸作家を「虹に頭あげぬ山羊」見たて、揶揄した句とされる)。これに同調する「ホトトギス」の諸作家からの弾圧はやまず、昭和一八年、草田男は「ホトトギス」への投句を中止する。

つまり『永き午前』は、同じく既刊二句集からの再録を含む第三句集『萬緑』と並んで、「ホトトギス」時代の草田男の句業を、本人の意図から外れる形ではあれ、俯瞰する一集となった、ということになる。



では、「ホトトギス」作家としての草田男の達成とは、どのようなものだろうか。一言でいえば、季題の用法の拡張、ということになる。

草田男の最初期の作品といえば、以下のようなものだ。

貝寄風に乗りて帰郷の船迅し 草田男『長子』時代
乙鳥はまぶしき鳥となりにけり 同
家を出て手を引かれたる祭かな 同


鬱屈を感じさせる部分はあるものの、おおむね平明で、のちの草田男を特徴づける文体の詰屈感もない。二句目、「まぶしき鳥」や「となる」という把握に主観の強さが窺われるが、「なりにけり」という下五の処理は、既存の俳句文体を踏襲したものだ。

草田男の作品の真髄といえば、やはりこのような句になるだろう。

蟾蜍長子家去る由もなし 『長子』時代
餅花や不幸に慣るゝこと勿れ 同
降る雪や明治は遠くなりにけり 同


「長子家去る由もなし」「不幸に慣るゝこと勿れ」「明治は遠くなりにけり」という傍白がそのまま一句の表現となり、季題と取り合わせられている。

「蟾蜍…」の句について、戦後の草田男に師事した鍵和田秞子がすぐれた鑑賞をしている。
〈蟾蜍長子家去る由もなし〉はヒキガエルを詠んでいる句ではなくて、「長子だから家を去る由もない」ということを詠むのにヒキガエルに象徴させている。そういうかたちで作っている。それにはヒキガエルなるものの本質を見抜いていないと使えない。そこで、季語の本質とは何かを考える。ヒキガエル、ガマガエルは足を踏ん張ったら動かない。出会うと人間の私のほうが逃げるんです。あのふてぶてしいヒキガエルの本性が分かっている人は、あのヒキガエルの中に昔の長男の姿を見る。長男たる者は家をしっかり受け継がなくてはいけないものだ。そういう感慨をヒキガエルに象徴させて作っているんです。
(櫂未知子・島田牙城編『第一句集を語る』、角川学芸出版、平成一七年、引用部は鍵和田と島田の対談中の鍵和田の発言)
このような俳句のありようは、既存の俳句表現には見られなかった。

ただし、「「長子だから家を去る由もない」ということを詠むのにヒキガエルに象徴させている」という鍵和田の謂いには、注意を払う必要がある。昭和一〇年代に入り、俳論の発表が増えた草田男は、「自然の生命」なるものと「我身の生命」なるものについて、このように書いている。
自然の生命を、素朴に我身の生命の上に、映し出そうとする態度、写生の道を欠くものは、それ以後の問題、作者の芸術的要素の多少などを論ずる資格がない。
(中村草田男「季題と写生」、「俳句研究」昭和一〇年一月号)
この文章が述べているのは、草田男の作品に鑑みる限り、季題と一句の主体の関係性ということになるだろう。「蟾蜍…」の句でいうところの、「蟾蜍」と「長子家去る由もなし」との関係性に当たる。鍵和田はこの関係性を「「長子家去る由もなし」を蟾蜍に象徴させている」としているが、「季題と写生」に従えば、「蟾蜍を「長子家去る由もなし」に映し出している」ということになる。「映し出す」という表現を「象徴させる」と同一視することの妥当性には検討の余地はあるが、少なくとも、「「長子だから家を去る由もない」ということを詠むのにヒキガエルに象徴させている」という捉え方を無条件で是とするわけにもゆくまい。

ここには草田男の「ホトトギス」作家としての自覚を垣間見ることができる。従来の花鳥諷詠の表現領域を逸脱しながらも、同時期に隆盛した新興俳句陣営の無季俳句には反対し、「ホトトギス」にとどまりつづけようとした草田男にとって、言ってみれば、「蟾蜍長子家去る由もなし」は花鳥諷詠の句だったのだろう。従来の有季の枠組みに身を置きつつ、その枠組みの拡張に成功した、それが「ホトトギス」作家としての草田男の達成なのだ。

「自然の生命を、素朴に我身の生命の上に、映し出」す句とは、前出の句のように内面が直截的に言語化したものばかりではない。

あかんぼの舌の強さや飛び飛ぶ雪 『火の島』時代
晩夏光バットの函に詩を誌す 同
萬緑の中や吾子の歯生え初むる 同


日々の哀歓と季題とが深く結びつき合った句だ。単線的な寓意に堕することのない季題の据わりように、草田男の技量を見て取ることができる。「吹雪」という既存の語を避けた「飛び飛ぶ雪」、草田男の造語である「晩夏光」、歳時記には登録されていなかった「萬緑」。こだわり抜いた言葉だ。

思ひ出も金魚の水も蒼を帯びぬ 『長子』時代
父となりしか蜥蜴とともに立ち止る 『火の島』時代
蝌蚪見れば孤児院思ふ性を棄てよ 同
瞬間は蜥蜴追想尾に在りて 同


一物仕立てか、それに近い形の句だ。「思ひ出」と「金魚」、「父」となった自分と「蜥蜴」、「蝌蚪」と「孤児院」への思い、「瞬間」「追想」と「蜥蜴」。人間の内面が季題と肉薄し、融合している。一句目、青がかった色をしているという読み方もできるが、「古色蒼然」という表現も透けている。思い出が古びるという感傷は、金魚という具体物と出会うことで俳句となり、また金魚という季題は、思い出が古びるという人間の内面と出会うことで、立体的な存在感を獲得した。

『永き午前』に収められている句は、有季俳句が人間の内面と遭遇したばかりのういういしさを放っている。そのういういしさが、この一集の最大の魅力だ。

(草田男の引用句はすべて『永き午前』収録句。また本稿の事実関係は、断りのない限り『中村草田男読本』所収の年譜(池上樵人編、『中村草田男全集』別巻(みすず書房、平成三年)の年譜の基礎にもなっている)に準拠した)

2016-06-05

名句に学び無し、 なんだこりゃこそ学びの宝庫(25)中村草田男 今井聖

名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (25)
今井 聖

 「街」119号より転載

蟾蜍長子家去る由もなし 
中村草田男 『長子』(1936年)

なんだこりゃ。

ヒキガエルチョウシイエサルヨシモナシ

変な句ですよ、これは。

草田男三十五歳の時の作品。

下句の奥歯にもののはさまったような言い方が特に変だ。

この句、高校の教科書にも出ていたような。いや、草田男の教科書句は「校塔に鳩多き日や卒業す」だったかな。

とにかく、草田男の第一句集の題にもなった句だからこの句に対する本人の思い入れのほどがうかがわれる。

草田男の俳人としての出自とか、成果という論点は置いておいてここではこの一句のみに焦点を絞る。

蟾蜍をまず置いて、下句は、家父長制の確固とした「家」の長男が、その家を去る理由がない。ここにはこう書いてあるのであって、鑑賞の上の興味は、

一に、蟾蜍が上五に置かれた意味。
二に、なぜ、長男なのか。自分が長男だからか。長男というものはという概説なのか。
三に、家を出ないとか、家を出たくないとか、家に無理矢理押し込められると言わずに、なぜ、家を去る理由がないと感情を抑制したクールな言い方をするのか。

この三点が読み解く目的の全てだ。

第一の点について。

グロテスクな蟾蜍が因習的な「家」意識の象徴であるというような鑑賞が主流だ。あまりにもわかりやすい象徴。
しかし、一般性を持つことも啓蒙的草田男の特徴だからこの読みが間違っているとは言えない。

だからといって、この蟾蜍が唯一絶対のごとく嵌った「季語」であるとは思わない。下句が季節に関係の無い述懐である以上、季語は四季折々の事物、事象が当てはまる可能性が考えられる。

例えば夏季だけで見ても
卯の花腐し長子家去る由もなし
誘蛾燈長子家去る由もなし
蛍籠長子家去る由もなし
線香花火長子家去る由もなし
青葉木菟長子家去る由もなし

或いは蟾蜍と同趣のグロテスクな形態の生物などのように時期や外形や声に屈折感があるものなら、そこそこ代用が効くのではないか。もちろん異論はあろうが。

一度、季語がそこに当てはめられ、それが一句にとって有効なものであれば、他に有効なものがある可能性を論じること自体が作品に対して不遜なことになるという印象がある。

季語がその一句にとって取り替えのきかないものであるのが秀句の条件という先入観があるからだ。歳時記は死んだ言葉の陳列棚だと楸邨は言ったが、大方は陳列棚から見合うものを選んでくる。或いは季語の本意を主題にして上塗りをする。それで「成功」したものは、見合結婚をして幸せに暮らしているようなもの。その人に、別の人とでもうまくいったかも知れないと発案するようなものだ。言われた側は怒り出すに違いない。でも試しに入れ替えてみるくらいはいいではないか。季語が唯一絶対の神話は、そこから本意をテーマとする俳句論議が生じ、ひいては俳句の可能性を限定することに繫がる。

この季語伝説は改めた方がいい。

この句にとっての蟾蜍はそんなところだろう。

第二点目について。

長子は自分のことである。句集題にしたのも自分が長子としての宿命を負っていることの表明である。

草田男が実際に両親の長男であるかどうかはこの句や句集題に関係ない。長子は喩えである。家父長制の中での長男というものの苦しみや哀しみなどに限定するのは俗に過ぎる鑑賞。家を出たいなら出たいと書かれているはずだ。

つまり出る理由がないと言っているだけで出たいわけではないのだ。

第三点目について。

家を去る理由が無いと書くのは、宿命だからである。家とは俳句形式のことである。自分はまったく新しい「俳句」を生み出して世に提示する。俳句の概念を変える。

そういう意味での空前の改革者。それが「長子」としての自覚である。

この自覚は自己の能力への確信に基づいての天賦の「権利」などではない。自分の責務。「義務」と言ってもいい。

『長子』跋文に、自らこう書く。
責任上、私の俳句的立場だけを一應明らかにして置かうならば、私はこゝに於いても亦、「負ふべきもの」を全体から負ひ、「為すべきこと」を全体の中に為さうとする者であると言はざるを得ない。(中略)縦に、時間的・歴史的に働きつづけてきた「必然(ことはり)」、即ち俳句の伝統的特質を理解し責務として之を負ふ。
「言はざるを得ない」。二重否定による強烈な肯定。「責務として之を負ふ」の「責務」これがこの句の背景だ。

この句には自解がある。

ほんとうは自分の俳句を自分で解説する「自解」など、作品と作者の距離という原理を放棄する論外の仕業。自分で自分の首を絞めるようなものだと僕は思うが、まあ、草田男のこの句に対する「自解」を参考までに見てみよう。
此句全体の暗示しているものは「宿命の中の決意」に近いものである。家族制度とか、新憲法とか、そういう観念や事実と、此想念は勿論関係を持ち得ないとは断言しない。しかし、此想念は、それらが結びつく範囲よりもつと奥深い、人間的紅血の通った私のこころの奥処(おくど)において誕生した。
案の定草田男は奥歯にもののはさまったような自作解説に終始している。一般の人々には不遜であるとして誤解を受けかねない自己の「長子」認識だからお茶を濁したのだ。

草田男の「宿命」は俳句の歴史の長子となる「避けられない」責務である。

つまり草田男は「やる権利と能力を有する」のではなく、「やらねばならぬ。他にやれる人は誰もいないから嫌でも仕方がない。やるしかない」のだ。

こんな小さな俗に根ざす小形式への殉教者。自分が死ぬことで世界の全員を救うキリスト。言葉を換えれば、「神」からの呪縛を解くことで新しい「人間」の出発を説いたニーチェその人。聖書の中のキリストと、反聖書の『ツァラツストラかく語りき』の両者が草田男に同居する。

草田男は初めて覚醒した「俳人」として新しい俳句を世に示す「義務」を負った。それが「由もなし」なのだ。

でもこんなこと自解では言えないでしょ。そのまま書くと単なる傲慢な自己肯定と誤解される。

世に威張る人はゴマンといる。俳句の世界でも「阿呆どもよ、教えてやろう」と睥睨して語りかける人は今でも多い。特に「新興俳句」系に多いな。

人の上に立つ権利ではなくて、導かねばならない義務を負っている。その認識が、ニーチェが憑依した草田男の「由もなし」だ。

少し話が飛ぶが、僕のシナリオの師、馬場さんが言っていたことがある。

谷崎潤一郎などの高名な文学者の小説を脚本化しようとするが、どのライターに頼んでもうまくいかない。映画化への段取りの期日が迫ってくる。プロデューサーから馬場さんのところに電話がかかってくる。

「みんな脚本化に失敗した。もうあなたしかいない。頼みます」と拝み倒される。

「頼まれて打ち合わせに向う夜の駅のホームに月が出てたりしてだな。大利根河原だよ。誰もやれないなら、俺が行かなきゃ仕方ないと思うんだな。平手造酒(ひらてみき)の心境だ」

平手造酒。

実在の人物であった。

幕末の仙台藩士あるいは紀州藩士(実際のところは不明)。腕の立つ剣客であった。(講談では千葉道場の俊英だったが酒乱のため破門になる)造酒は肺病病みでもあった。
流浪の末、下総の博徒の親分笹川繁蔵と知り合い用心棒となる。

天保五年(一八四四年)繁蔵一家と、対峙する飯岡助五郎一家との大利根河原の決闘に笹川方の助っ人として参加し闘死した。享年は三十。全身に十一ヶ所の傷を受けていたと今も残る死体検視書にある。

講談や浪曲では「天保水滸伝」として語られている。

また、三波春夫の歌謡浪曲「大利根無情」もヒット。

中で歌われる、「止めて下さるな妙心殿。落ちぶれ果てても平手は武士じゃ。男の散りぎわだけは知って居り申す。行かねばならぬそこをどいて下され、行かねばならぬのだ。妙心殿」。

最後の「行かねばならぬのだ。妙心殿」は流行語にもなった。(平手造酒は食客をしていたとき釣をしていて知り合った尼の妙心に、出入りに駆けつけようとして止められる。その時の台詞)平手造酒は、やくざ映画の高倉健とは違う。

健さんは義理を背負って己を馬鹿と知りつつドスを片手に殴り込みにいく。一宿一飯の恩義や倫理にもとる相手への憤りがその動機。つまり健さんの場合は相手と同じレベルに自分を置いての善悪の比較の上に立っている。

やくざの用心棒の「センセイ」は違う。

かつて体制側(武士)の家に生まれ剣客として将来を嘱望されながら病と酒のためにそれを棒に振り、金をもらってやくざ風情の用心棒になり果てている。

その親分から、「センセイ、お願げえしやす」と促され腰を上げる。

大利根河原の出入りでは、繁蔵側は死者は造酒一人。

切り傷の多さから言っても、造酒は助五郎側を一手に引き受けての斬り死にと思われる。

俳句はやくざだ。

小説家でさえ、文弱、売文家と揶揄された時代の俳句である。俳句は俗の極み。俳人は行乞の世捨て人。

帝大を出た超エリートが俳句に志を立てる。余技ならいざしらず。

そこに自らを腐った男(草田男)と称した俳人の屈折と強烈な矜持があった。「長子」という旗印がいかなる思いを背負っていたかがうかがえる。
落ちぶれ果てても平手は武士じゃ。のところを、俳句のような小さな形式でも俺はその宿命を与えられたのだからやらねばならないと言い換えると平手造酒と同じ。

草田男は平手造酒だ。

なんだこりゃこそ学びの宝庫。



「街」俳句の会サイト ≫見る

2015-07-26

俳句にとってあなたとは何か 福田若之



俳句にとってあなたとは何か

福田若之


火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ    能村登四郎
愛されずして沖遠く泳ぐなり          
藤田湘子
玫瑰や今も沖には未来あり   
       中村草田男
 
こうして、今、あなたはこれらの句をひとまず読み終えたところだ。「あなた」というのは、まず第一に、今、俳句にとってあなたとは何かをここに読みつつあるあなたである。だが、あなたは、「あなた」というこの言葉が古くは時空の彼方を指し示すものでもあったことを知っている。「あなた」という言葉が、その古い用法において、過去の方を指し示し、未来の方を指し示し、空間的な遠くを指し示していたこと、それをあなたは知っている。すなわち、あなたはいま、「あなた」という語が過去のあなたにおいて様々に使われていたことを知っている。
 


それゆえ、「あなた」という言葉をこれから繰り返し読むことになるあなたは、そのたびに、この文章の全体が、これらすべての意味合いにおいて、あなたに向かって書かれているのだということを理解するだろう。すなわち、この文章は、この文章自体から見た過去――あなた――のある時にここからは遠い場所――あなた――で書かれた沖――あなた――についての三つの句に向かって書かれていると同時に、この文章から見た未来――あなた――のある時に、ここからは遠い場所――あなた――でこれを読むあなたに向かって、書かれているのだということ。あなたは、そのことを理解するだろう。そして、あなたはそのとき、登四郎や草田男や湘子もまた、それぞれの時と場所において、まぎれもないあなたへ向かって彼らの言葉を書いたのではなかっただろうかと、考える。

あなたは今、こんなふうにして、この文章が、登四郎や草田男や湘子の句について語りながら、まさしく俳句にとってのあなたを主題とするだろうということを目の当たりにしている。だから、あなたはこの文章を読みながら、この三句を、少なくとも一度は読み返すことになるだろう。あなたは、ひとまず、登四郎の句から読み返すことになる。

語り手が火を焚いている。そのとき、枯野の沖を誰かが通り過ぎる。

あなたは、この句の「沖」という言葉を、枯野のあなたの隠喩として読んだはずだ。すると、あなたはすでに、「沖」はある海域ではなく、空間的に遠い場所、すなわち、あなたを指し示していることに気づいていることになる。登四郎のほかならぬこの隠喩が、沖とはすなわちあなたのことだという考えをあなたにもたらしたのだった。

この句の語り手は火を焚いている。火を焚けば煙が立つ。その火と煙を、おそらく、枯野の沖を通り過ぎる誰かがきっと見るだろう。だが、語り手の心身を温めるその熱は、あの遠いあなたにいる誰かに届くことはない。届くのは、目で見えるものだけだ。

それでも、語り手は火を焚いている。枯野の沖を通り過ぎる誰かが、その火を見た人が、火の記憶が発する熱を自身の心のうちに思い起こすことを願いながら。

語り手にはその誰かがいったい誰なのかはっきり分かってはいない。読み手であるあなたにも、それが誰なのか、まだ、はっきりしていない。枯野の沖を通り過ぎていく人の顔までは見えない。その誰かは、遠くから火を見ることしかできず、そのまま別のほうへ歩いていくほかはないような誰かである

寒々しい枯野の広がりを隔てて、ただ火と煙だけが火を焚く語り手と遠くあなたを過ぎ去る誰かとをつないでいる。あなたは、この頼りなく儚いつながりを、過去のはるかあなたにいる語り手と一緒になりながら、あたかも語り手のこなたにいるようにして、感じる。

するとあなたは、この誰かが誰なのか、語り手がけっして問いかけていないということに気づく。「誰か過ぐ」は「誰か過ぐる」ではないからだ。誰が通り過ぎるのか、と問われることなく、この誰かは通り過ぎる。この誰かは、こうして、語り手によって句に迎え入れられている。

ところで、登四郎から見た読み手のあなたは、充分すぎるほど、あなたである。というのも、あなたは、時間としては登四郎の未来において、場所としては登四郎の遠くにおいて、登四郎の句を見、それによっていままさに登四郎に語りかけられている二人称のあなただからだ。あなたは、登四郎にとってのあなたであり、登四郎から見て枯野のあなたにいるのである。

だから、あなたは気づく。登四郎の枯野の遠くあなたを通り過ぎていくのは、他ならぬあなただったのだということに。だからこそ、語り手は、それが誰なのか、あなたには問いかけなかったのだということに。あなたは、問いに答えてもらうには語り手から見てあまりにも遠かったのだ。あなたは、あまりにも、あなただったのだ。

句のなかで語り手と誰かを火が結んでいるありようが、登四郎とあなたをこの句が結んでいるありようを体現している。こうして、今、あなたは枯野の沖に迎え入れられている。登四郎の句は、すなわち、このひとつの言葉の火は、あなたから見て遠くあなたに眺められている。あなたには、その火が見えているはずだ。

たしかに、登四郎の焚くこの火の発する熱をあなたが直接に感じとることはないかもしれない。それでも、火がなにかをあなたの心に呼び起こしているのをあなたは現に感じているはずだ。あなたの心に、あなたが登四郎の句を読むことで生じたなにかがあるはずだ。あなたはそのとき、句の遠くあなたにおいて、句のあなたそのものとして、たしかに迎え入れられている。

こうして句に迎え入れられたあなたは、しかしながら、この句に留まることはできない。あなたは先へ進まなければならないし、一句はそこに居座るには短すぎる。あなたは、登四郎にとってはあいまいな誰かのまま、ここを過ぎ去るほかはない。あなたは、過ぎる。

そして、あなたは登四郎の句から湘子の句へと読み進める。あなたはこのとき、ほんとうの海へ出ることになる。あなたは沖へ、陸から遠くあなたの場所へ、枯野から遠くあなたの場所へと出る。

湘子の句の語り手は、いかなる愛も授かることなく、沖遠く、泳いでいく。

この「沖遠く」については、大きく分けて二通りの読みがありうるだろう。第一に、「愛されずして沖遠く」という言葉のつながりを強く捉えるのであれば、沖は語り手から見て遠くあなたであるということになる。第二に、「沖遠く泳ぐなり」という言葉のつながりを強く捉えるのであれば、語り手がすでに沖の遠いところを泳いでいるのだと読める。

おそらく、どちらも正しいのであって、語り手はすでに陸からかなり離れたところを泳いでいるのだが、さらにずっと遠い沖まで泳ごうとしているのだ。すでに陸から遠くあなたの場所に到達しながら、さらに遠くあなたの場所へ向かって、いまだ愛を知らずに泳ぎ続けているのである。語り手の目指すあなたは、果てしなく遠い。

そんな風にして、湘子の句は、すでにあなたに到達している。けれど、この句は、語り手とまさしく一体となって、さらにこの先のあなたへ向かって泳ぎ続けるだろう。あなたに愛があると信じて、どこまでも泳ぎ続けるだろう。

登四郎の句においては、あなたが句を通り過ぎるのだった。湘子の句においては、句があなたを通り過ぎるのである。

この二句は、読み手としてあなたが句とふれあう仕方を、あなたに示してくれている。あなたは、そのどちらも正しいと考えることができる。あなたに向けて書かれた俳句を、あなたは通り過ぎるだろう。そしてそのとき、あなたに向けて書かれた俳句は、あなたを通り過ぎるのだ。

ここで、あなたは不意に疑問に思う。それは前からあなたの頭にあったひとつの疑問だ。あなたはあなたの問いを、すなわち、いまから見て時間的にあなたである過去において、また、ここから見て空間的にあなたであるこの文章の冒頭において、読み手であるあなたに提示された問いであり、同時にあなた自身のものであるひとつの問いを、思い出す。

俳句にとってあなたとは何か。

この文章を読みながら、あなたは、おそらくそれを端的に述べてくれているのが草田男の句なのだろうという予感を抱いたかもしれない。いずれにせよ、あなたは今ついにそれを読み返すだろう。

草田男の句の語り手は、はまなすの実った浜辺から、沖を見据えている。この語り手は、登四郎の句の語り手や湘子の句の語り手とは違って、沖に何があるのか、はっきりと分かっている。そこには未来がある。しかも、まさしく今、それがあるのだ。すなわち、語り手がこの句を語るその瞬間から、この句のあなたに、未来があるのだ。

草田男の句には、読み手のあなたが今何であるのか、あるいは、過去のあなたにおいて何であったのが書かれている。草田男の句にとって、読み手であるあなたは、この未来そのものなのである。

俳句にとって、読者とは、つねに、今この時点において未来にほかならないところの何かである。俳句がつねに読者に向けて書かれるということは、俳句がつねに誰か個人ないしは複数の個人に向けて書かれるという意味ではなく、俳句がつねに何らかの未来に向けて書かれるということなのである。そして、この意味でなら、俳句はいつでもあなたに向けて書かれるのだ。

沖には、あなたには、今もなお未来がある。過去のあなたの時に、遠くあなたの場所で書かれた句に、今も未来がある。しかも、その未来とは、時間の進行方向のあなたにつねに現に在りつづける未来そのものなのである。句がもはや泳ぐことをやめてしまうまで、火が消えてしまうまで、あなたに未来が現在しつづけるだろう。読者は果てしないだろう。

過去のあなたで書かれた沖についての三句は、こんな風に、あなたに向かって書かれていた。これらの句は、俳句にとってあなたとは未来そのものであるということを、あなたに向かって、今もなお語りかけている。

ただし、このとき、これらの三句はただ未来に向かって書かれているというだけではない。これらの三句はまた、過去のあなたに向かって書かれている。なぜならそれは書かれることによって歴史の一部をなすのであり、その限りで、かつて書かれたあらゆる句と同じ列に置かれるのであるから、そこでこれらの句は過去のあなたにおいて書かれたあらゆる句と向き合うことになる。そして、これらの句自体も、書かれることによって、歴史となり、かぎりなく過去のほうへ向かっていく。過去のあなたへと向かっていく。

俳句を並べると、これらの三句がそうであったように、個々の俳句が確かにつながりあっているのを感じることができる。だが、それらの俳句はお互いを沖のあなたにしか見ることがない。
愛されず、火を焚く。今も……

個々の俳句は、あらゆるかたちであなたのほうを向いているのだが、まさしくそのあなたが遠くあなたでしかないという限りにおいて、必然的に孤独なのである。