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2017-12-31

【俳苑叢刊を読む】 第20回 森川暁水『淀』 どうやら私と同じで若布が好きな人みたいだ(後篇) 佐藤文香

【俳苑叢刊を読む】
第20回 森川暁水『淀』

どうやら私と同じで若布が好きな人みたいだ(後篇)

佐藤文香


前回の原稿で「また来週」と書いておいて2週間経ってしまった。新宿駅の中央本線(特急)の9・10番線のホームには、何人かの鉄道オタクらしき人がカメラを構えている。我々が乗る特急スーパーあずさ11号は、12/23に運転を開始した新型車両なのだとわかった。友人の香織さんとの日帰り甲府旅行。行きの特急は隣の席がとれず、香織さんが13C、私が14Cの席に座っている。私の隣の30代男性は鉄道オタクらしく、各席についているコンセントの写真まで撮影している。スーパーあずさは時間になると前触れなく走り出し、後ろを向いた香織さんと「なんかにゅるんと走り出したね」と言い合った。私はピンクのリュックの上に『淀』を開く。
『淀』は、昭和十二年の時「八代」に始まる。田鶴の連作19句だ。

  残月のひかりつ呆(ほ)きつ田鶴のそら
  田鶴舞へりつまうしなひしひとつ鶴も
  とぶ田鶴の羽おとす見えて去ぬ日あり

恍惚としたかんじがある。そして、ぽかんとしたことをよく言う人かと思いきや、案外激しい一面もある。

  羽蟻翔つて憤怒のわれに家がなき
       吉凶譜
  優曇華の咲いて鬼畜の極暑來ぬ

こうやって今スマートフォンで書いていると、西村麒麟さんのことを思い出す。(句を写し一言添えるスタイルはスマートフォンぞ得意なりける、いや、そんなことはどうでもいい)

  梨を剝いて晝のむ酒はわびしいぞ

梨と酒はあうけれども、たしかに昼だとつらい。幸薄さがある。

また、これはほかの句集からもわかるが、砂丘に行く人らしい。

  砂丘ゆくわがまばたきに月荒き
  砂丘寒く折れば乳噴く花黄なり

スーパーあずさは砂丘ではなく立川に着く。
昭和十三年。

  風邪わるく誣言に應ふすべもなし

風邪の句からはじまる。第一句集にも「風邪わるく」の句があったが、風邪といったら大概体調が悪いものなので、重言くさいのが滑稽味になっている。

  鳥交る野を喜捨しつつ妻の里へ
  海市消えてただ烏賊そだつ海ありぬ

こう言われるとこの海では烏賊しか育たなそうである。
ここで和布が出てくる。全部で16句ある。

        焙り食ふもの
  和布とはうれひぐさなりまなうみの

この和語のつらなりはよいなぁ。

  和布焙つて目つぶれなばと思ふ日あり
  この和布われがおもひを千々にさせぬ
  焼いて食ふ和布に骨のあるを知りぬ

和布に思いを添わせすぎていてよい。
私は第一句集を『海藻標本』というタイトルにして、池田澄子に見てもらったら、少し海藻の句もあってもいいんじゃない、と言われて、あわてて二句くらい入れたのが懐かしい。父が海苔を炙る句などはそのとき追加したものだ。
なお、この文章のタイトルは「どうやら私と同じで若布が好きな人みたいだ」だが、作品は「若布」ではなく「和布」であった。ご海容ください。

スーパーあずさは八王子に着く。この原稿を依頼してくれた福田若之は八王子に住んでいる。ここまででも少し旅をした気分なのに。若之は新宿に来るたびに旅をしているのか。

  青梅に夏毛の鹿にそらは雨
  おしろいは日に咲きふえて喪正し
  掛稲は黒く月蝕雲のうち

青梅に、の句は好きだ。この電車は青梅駅には行かない。高尾駅を通過。
車内販売が来て、隣の男性は桔梗信玄餅アイスを購入、販売員に「少し溶かしてからお召し上がりください」と言われている。男性、執拗に信玄餅アイスの写真を撮る。

昭和十四年。「醫にかよふ」四句からはじまる。この人は体が弱いのだ。

  花暮れて葬のもどりの数珠を袂

「数珠を袂」がイカす。
隣の男性、掌で信玄餅アイスを包み溶かしてから蓋を開けるが、カチコチのようでまだ食べられない。信玄餅アイスの薄いフィルムの上にスマホを置き、その上に天然水のペットボトルを置いたりしている。ようやくフィルムを開けた。

  船降りるわれらに桔梗りんりんと

桔梗信玄餅アイスだけに。いや関係ない。信玄餅アイスは真ん中に黒蜜が入っているようだ。日差しがきついのでカーテンを閉めてほしいが、男性は外の景色も楽しんでいる様子なので我慢しよう。

昭和十五年。
  寒禽の嘴(はし)のとがりに手嚙ませつ

飛んでいない鳥の句はだいたいいいなと思ってしまう癖がある。
  海苔に酌めば海苔のちりばむ貝おもしろ
  海苔に酌めば海苔も目刺も海の魚(さかな)

見たことがあると思ったら、さきに読んだ第3句集『澪』に

   結婚記念日二句
  海苔に酌めば海苔の塵浮く盃(はい)おもしろ
  海苔に酌めばさらに目刺は青き魚(さかな)

とあって、それを前回の原稿に書いた。微妙に違う。こちらも結婚記念日の句なのだが。

  梅どつとちりくもるとき淵もくもる
  おほみゆきかしこ緑蔭むかひあふ
  けけと鳴く水の蛙に蛇のびたり

大月を通過。冬の山間部といった景色になってきた。常緑樹と落葉樹がまだらに低い山々を構成する。ここで隣の男性は信玄餅アイスを食べ終わり、『淀』もラストの「黴」抜粋の章にさしかかった。

  凍てめしもまたおもしろく食ひにけり

おもしろく食うとはどういう様子だろうか。よっしゃ飯やでー! 凍てメシやけどな! といったような「おもしろく」ではないと思う。心が凍てめしという素材をおもしろいものとして見ているようなことだろう。おもしろく食わねばやってられないようなところも少しあるのだろう。

  冷凍酒旅にしあれば妻ものむ

本来ならこの甲府日帰り旅も、行きの特急から飲み、昼は蕎麦屋で飲み、ふたつのワイナリー見学で試飲し、夜はほうとうと日本酒、の予定だったが、私がヘルペスで腿を腫らし、医者に食べ飲みすぎぬよう言われたのが昨日、酒は最小限に抑えるべきとの考えから、特急では駅で買ったぬるいほうじ茶しか飲んでいない。
妻の句はほかにもたくさんあるのだが、なかなか書き写す気分にならないのは、今日は女二人旅だからということもあるかもしれない。

  おしろいの夕の食事に犬もあり
  葉づき柿かくもとどきぬ誰ぞ來ずや

『淀』は読み終わった。トンネルを多く通る。耳が詰まる。晴れた外に出る。左は盆地である。盆地の向こう側に、八つ橋を並べたように山が連なる。隣の男性は写真を撮る。右のビニルハウスは果樹園であろうか。今は枯れている。住宅地に入り、山梨市駅を通過。もうすぐ甲府である。

2017-12-17

【俳苑叢刊を読む】 第20回 森川暁水『淀』 どうやら私と同じで若布が好きな人みたいだ(前篇) 佐藤文香

【俳苑叢刊を読む】
第20回 森川暁水『淀』

どうやら私と同じで若布が好きな人みたいだ(前篇)

佐藤文香


随分時間が経ってしまった。句集評ということで、軽い気持ちで引き受けたのだが、ほかの執筆者が熱のこもった評論を書くのを見ていて、絶望した。自分にはこういうのは書けないと思った。

しかしこの依頼、本来なら無料でしか記事を依頼しないはずの週刊俳句が、担当の俳苑叢刊の一冊をくださっている。書かないわけにはいかない。ちなみに私の原稿の本来の〆切は2017年7月2日だった。今日は2017年12月15日。ひどい遅延である。現在私は『〆切本』(左右社)のグッズ「〆切守」をリュックにつけているが、つける前からの遅れである。

書こうとは思っていたのだ。この俳苑叢刊というのは文庫サイズで、『淀』は87ページ。1ページ4句立てではあるが、ハンディな一冊である。空いた時間にちょっと読もうと思って、幾度も鞄に入れて持ち出した。たまにページをめくったり、一度も鞄から出さないまま何日か過ぎたりし、この書物自体は汚れ、仲良くなったが、一向に書き出さなかったのは私の不義理と言うほかない。



火曜日、俳句文学館へ行った。今年の大きな仕事がほとんど終わったので、とうとう曉水を読もうと思った。そして、句集評が書けないのならばせめてエッセイを書こうと思い立った。私のまずい文でだめなら、この『淀』をどなたかに託し書き直してもらえばよかろう。



森川曉水の句集は、この『淀』がはじめ出たのは第二句集としてであって、そのほかに第一句集『黴』と第三句集『澪』、第四句集『砌』があった。すべて一文字のタイトルというところに一貫性がある。また、『黴』、『澪』のあとがきによれば、この二冊の装幀その他発案は曉水自身らしい。表具店に奉公していたのはwikipediaにも書いてあるとおりで、のちに工場に勤め、自営となったようだが、もともとが職人気質なのだろうと思われる。と書いてから「俳句研究」の松崎豊「追悼 森川曉水 境涯の作家森川曉水」を読んだら同じことが書いてあった。「俳句研究」何号かは忘れてしまった。これは書くのを渋る私のために田中惣一郎がコピーをとってくれたものだ。

『黴』の高浜虚子による序文に、
彼は一茶と一脈相通じ、自己の境遇を隠さずに吟詠してをるが、併し一茶は貧を憤り権力に反抗する呪詛の傾向が多分にあつたが、曉水君にあつては常に諦めの心持で静かに自己の境遇を反省し、或は蔑みつつも之を笑つて居る、といふ相違がある。
とあって、これもwikipediaに「貧のなかに哀歓を籠めた作風で、高浜虚子より「昭和の一茶」(『黴』序文)と評された。いわゆる境涯俳句に先だつ作家だった」と書かれているのでわざわざここで言う必要もないだろうが、それはそうとして私は以下のような句に惹かれた。

  夜濯をひとりたのしくはじめけり
  夜なべしにとんとんあがる二階かな
  炭にくる鼠の立つてあるきけり
  凍てめしもまたおもしろく食ひにけり
  おしろいの夕ともなれば犬を相手
  おしろいのはびこり咲いて無事な秋


句集評のなにが苦手かといえば、こうやって句を挙げた途端、いちいち解釈や鑑賞のようなものを付さなければならないことである。これはエッセイなので、各々味わっていただくことにしよう。っていうかふつうに面白くないですかこの人。上田信治『リボン』のなかにも味わいの似た句がある気がする。

生活を詠む人なので奉公についての句も多い。また、ちょうど新婚のころの句集であり、

  自祝結婚
   借りものといへどめでたし金屏風


また、

  われにある妻いとほしやはこべ咲く
  風邪わるき妻のひたへに手やり護る


などの句も見られる。私事ながら今年結婚したので、夫の気持ちになって読んでみると自分が可愛く思えてよかった。

と、ここまで書いてすでに疲れてしまったが、まだ『淀』に至っていない。このままだと全句集書かなければならなくなりそうな勢いなので、さきに『淀』以外の句集について書いておくと、第三句集『澪』では、

  結婚記念日二句
  海苔に酌めば海苔の塵浮く盃
(はい)おもしろ
  海苔に酌めばさらに目刺は青き魚
(さかな)

結婚記念日に詠む句がこれというのがいい。下五の「盃おもしろ」「青き魚」の字余りがよく、「おもしろ」は「おもしろし」でないのが関西弁風でおもしろいし、「魚」は「うお」と読まれないようにわざわざルビを振るのがおもしろい。あとは、

  葉牡丹に飼へば飼ふほど犬小さき

これなんかかわいそうで好きだった。

第四句集『砌』は、かなりの作品の量なのだが、がつんとくるものは少なく、第一句集にあったモチーフ「おしろい」で

  おしろいにこころしづかに居るかなしさ

などがいいと思った。余談だが、

  男女の仲あやにかなしも鴨はそら

という句があり、私の名前「あやか」と私の好きな「男女の仲」と「鴨」が入っていて気に入ったので覚えておきたいと思う。

さて、『淀』である。曉水にはすでにこのとき主宰誌「すずしろ」がある。さきに挙げた松崎豊の追悼の文章によれば、「すずしろ」創刊主宰したのは昭和13年10月、38歳のときであるらしい。っていうかもうみんな松崎さんの文章読めばよくね? いやいや、あくまで『淀』のことを書けという話なのだから松崎さんは一旦忘れるべきだ。しかし疲れたのでここまでにする。編集部からの要請は2000字以上であり、ここまでで2140字だ。しかし実はまだちゃんと『淀』を読んでいない。続きは来週。

2017-07-16

【俳苑叢刊を読む】 第19回 中村草田男『永き午前』 有季俳句と人間の内面の出会い 堀下翔

【俳苑叢刊を読む】
第19回 中村草田男『永き午前』

有季俳句と人間の内面の出会い

堀下翔


中村草田男『永き午前』、昭和一五年一〇月一五日、「俳苑叢刊」の第二一巻として刊行された。この頃草田男はすでに『長子』(沙羅書店、昭和一一年)および『火の島』(龍星閣、昭和一四年)の二冊の序数句集を刊行しており、『永き午前』はこの二冊の句集よりそれぞれ一三一句、一八〇句を再収録した自選句集になる。二冊の序数句集は製作年順に句を収録するが、『永き午前』ではそのうちの『長子』のみが四季別に組みなおされている。作品のほか、自序と自伝を一ページずつ収録。「よき先輩、川端茅舎、松本たかし二氏に伍して、此叢書中の一員となり得ることを、作者は幸福と感ずるものである」(序文より。ただし茅舎は健康を害し、「俳苑叢刊」への収録はかなわなかった)。表題句に相当する作品は存在しないが、草田男に師事した香西照雄は「永い青春彷徨と、『火の島』時代にも保持していた〈精神的青春〉の両方を暗示していると思う」(「中村草田男著書解題」、『中村草田男読本』「俳句」臨時増刊、昭和五五年所収)と推測する。

以上が本句集のあらましである。「俳苑叢刊」には収録句集を序数句集とした作家を少なからず数えることができるが、草田男の場合は既に述べたとおり自選句集である。また草田男には「火長」(『現代俳句』第三巻、河出書房、昭和一五年の一篇)、『火の鳥・萬緑』(スバル書房、昭和二二年)、『中村草田男二百句撰』(榛の木書房、昭和二四年)、『草田男自選句集』(河出書房、昭和二六年)、『中村草田男句集』(角川文庫、昭和二七年)、『定本中村草田男全句集』(集英社、昭和四二年)など夥しい数の自選句集、合本句集類が存在している。そのために『永き午前』という一集には至極地味な刊行物の観がないではない。従来の草田男研究でも詳細に言及しているものは皆無に等しく、筆者自身、本誌より原稿依頼を賜るまで、気に留めたことがなかった。

だが、本句集をひもとき、またこれを草田男の年譜に布置してみたとき、本句集が必ずしも地味な自選句集ではないということに気づかされた。『永き午前』は「ホトトギス」作家としての草田男の到達点を結果的に示すこととなった一冊なのだ。



中村草田男、明治三四年生まれ。昭和四年二月より虚子指導の東大俳句会の会員となり、同年八月より「ホトトギス」の雑詠欄に投句。

大正元年に虚子が「ホトトギス」雑詠欄を再開して以降、この雑詠欄は俳句史の舞台となってきた。『進むべき俳句の道』(実業之日本社、大正七年)で称揚された蛇笏、鬼城、水巴、石鼎、普羅を中心とするいわゆる「主観尊重」の時代ののち、客観写生が唱えられるようになり、泊雲と花蓑の二人が台頭。大正末から昭和初頭にかけては素十、秋櫻子、誓子、青畝からなる「四S」の時代が訪れた。

昭和六年、秋櫻子は「『自然の真』と『文芸上の真』」を「馬酔木」一〇月号に発表し、「ホトトギス」を離脱。新興俳句運動が始まり、俳句史は「ホトトギス」雑詠欄の独擅場ではなくなってゆく。

とはいえ、「ホトトギス」雑詠欄自体が弱体化したわけではもちろんない。たかし、左右、暁水、立子、茅舎、久女、青邨、汀女といった、四S時代と重なる時期および四S時代以降に登場した作家たちが、綺羅星のごとく雑詠欄上位に居並び、巻頭を競った。現在でも愛唱される下記のような句は、この時期の雑詠欄で巻頭を飾ったものだ。

立てひらく屏風百花の縫ひつぶし たかし(昭和四年三月号)
和歌の人花のくもりに海苔とれる 左右(昭和五年六月号)
夜濯ぎのざあ/\水をつかひけり 暁水(昭和六年八月号)
吹かれきし野分の蜂にさゝれたり 立子(昭和六年一一月号)
金剛の露ひとつぶや石の上 茅舎(昭和六年一二月号)
丹の欄にさへづる鳥も惜春譜 久女(昭和八年七月号)
祖母山も傾山も夕立かな 青邨(昭和八年一〇月号)
中空にとまらんとする落花かな 汀女(昭和一〇年六月号)


草田男が「ホトトギス」に投句を開始したのはこのような華やかな時代であり、かつ草田男自身もまた、昭和五年一〇月号において「つばくらめ斯くまで並ぶことのあり」他四句で巻頭を取り、またたく間に頭角を顕していった。昭和一〇年、同人。昭和一一年には「ミヤコ・ホテル」論争に批判派の急先鋒として加わる。昭和一四年には「俳句研究」八月号の座談会「新しい俳句の道」(楸邨、波郷、梵、司会・健吉)に出席し、「人間探究派」という呼称を与えられる。二冊の句集も持ち、草田男は「ホトトギス」の花形作家となるに至った。

『永き午前』とは、そのような幸福な「ホトトギス」作家が出した句集であった。



このような言い方をしなければならないのは、『永き午前』刊行の翌年にあたり、第三句集『萬緑』(甲鳥書林)を六月に刊行した昭和一六年以降、「ホトトギス」における草田男の立ち位置は、急速に変化してゆくからだ。

昭和一六年三月、虚子は、時局を弁えずに放埓な作品を発表している草田男に対する監督責任について、蕪子から釘を刺されていることを、草田男の耳に入れる(田島和生『新興俳人の群像―「京大俳句」の光と影』思文閣出版、平成一七年)。前年に起こった京大俳句事件ののち、表現弾圧は「ホトトギス」陣営にも及んでいたのだ。

七月、先に引いた本句集序文にもあらわれる茅舎が逝去。草田男は茅舎を偲んだ句群「青露変」を「俳句研究」一〇月号に発表した。特高警察と関係し、京大俳句事件の黒幕ともなった蕪子は、「青露変」中の「汝等老いたり虹に頭あげぬ山羊なるか」などの数句を取り上げ、草田男を自由主義者として威嚇指弾した(掲句は時局に協調する「ホトトギス」の諸作家を「虹に頭あげぬ山羊」見たて、揶揄した句とされる)。これに同調する「ホトトギス」の諸作家からの弾圧はやまず、昭和一八年、草田男は「ホトトギス」への投句を中止する。

つまり『永き午前』は、同じく既刊二句集からの再録を含む第三句集『萬緑』と並んで、「ホトトギス」時代の草田男の句業を、本人の意図から外れる形ではあれ、俯瞰する一集となった、ということになる。



では、「ホトトギス」作家としての草田男の達成とは、どのようなものだろうか。一言でいえば、季題の用法の拡張、ということになる。

草田男の最初期の作品といえば、以下のようなものだ。

貝寄風に乗りて帰郷の船迅し 草田男『長子』時代
乙鳥はまぶしき鳥となりにけり 同
家を出て手を引かれたる祭かな 同


鬱屈を感じさせる部分はあるものの、おおむね平明で、のちの草田男を特徴づける文体の詰屈感もない。二句目、「まぶしき鳥」や「となる」という把握に主観の強さが窺われるが、「なりにけり」という下五の処理は、既存の俳句文体を踏襲したものだ。

草田男の作品の真髄といえば、やはりこのような句になるだろう。

蟾蜍長子家去る由もなし 『長子』時代
餅花や不幸に慣るゝこと勿れ 同
降る雪や明治は遠くなりにけり 同


「長子家去る由もなし」「不幸に慣るゝこと勿れ」「明治は遠くなりにけり」という傍白がそのまま一句の表現となり、季題と取り合わせられている。

「蟾蜍…」の句について、戦後の草田男に師事した鍵和田秞子がすぐれた鑑賞をしている。
〈蟾蜍長子家去る由もなし〉はヒキガエルを詠んでいる句ではなくて、「長子だから家を去る由もない」ということを詠むのにヒキガエルに象徴させている。そういうかたちで作っている。それにはヒキガエルなるものの本質を見抜いていないと使えない。そこで、季語の本質とは何かを考える。ヒキガエル、ガマガエルは足を踏ん張ったら動かない。出会うと人間の私のほうが逃げるんです。あのふてぶてしいヒキガエルの本性が分かっている人は、あのヒキガエルの中に昔の長男の姿を見る。長男たる者は家をしっかり受け継がなくてはいけないものだ。そういう感慨をヒキガエルに象徴させて作っているんです。
(櫂未知子・島田牙城編『第一句集を語る』、角川学芸出版、平成一七年、引用部は鍵和田と島田の対談中の鍵和田の発言)
このような俳句のありようは、既存の俳句表現には見られなかった。

ただし、「「長子だから家を去る由もない」ということを詠むのにヒキガエルに象徴させている」という鍵和田の謂いには、注意を払う必要がある。昭和一〇年代に入り、俳論の発表が増えた草田男は、「自然の生命」なるものと「我身の生命」なるものについて、このように書いている。
自然の生命を、素朴に我身の生命の上に、映し出そうとする態度、写生の道を欠くものは、それ以後の問題、作者の芸術的要素の多少などを論ずる資格がない。
(中村草田男「季題と写生」、「俳句研究」昭和一〇年一月号)
この文章が述べているのは、草田男の作品に鑑みる限り、季題と一句の主体の関係性ということになるだろう。「蟾蜍…」の句でいうところの、「蟾蜍」と「長子家去る由もなし」との関係性に当たる。鍵和田はこの関係性を「「長子家去る由もなし」を蟾蜍に象徴させている」としているが、「季題と写生」に従えば、「蟾蜍を「長子家去る由もなし」に映し出している」ということになる。「映し出す」という表現を「象徴させる」と同一視することの妥当性には検討の余地はあるが、少なくとも、「「長子だから家を去る由もない」ということを詠むのにヒキガエルに象徴させている」という捉え方を無条件で是とするわけにもゆくまい。

ここには草田男の「ホトトギス」作家としての自覚を垣間見ることができる。従来の花鳥諷詠の表現領域を逸脱しながらも、同時期に隆盛した新興俳句陣営の無季俳句には反対し、「ホトトギス」にとどまりつづけようとした草田男にとって、言ってみれば、「蟾蜍長子家去る由もなし」は花鳥諷詠の句だったのだろう。従来の有季の枠組みに身を置きつつ、その枠組みの拡張に成功した、それが「ホトトギス」作家としての草田男の達成なのだ。

「自然の生命を、素朴に我身の生命の上に、映し出」す句とは、前出の句のように内面が直截的に言語化したものばかりではない。

あかんぼの舌の強さや飛び飛ぶ雪 『火の島』時代
晩夏光バットの函に詩を誌す 同
萬緑の中や吾子の歯生え初むる 同


日々の哀歓と季題とが深く結びつき合った句だ。単線的な寓意に堕することのない季題の据わりように、草田男の技量を見て取ることができる。「吹雪」という既存の語を避けた「飛び飛ぶ雪」、草田男の造語である「晩夏光」、歳時記には登録されていなかった「萬緑」。こだわり抜いた言葉だ。

思ひ出も金魚の水も蒼を帯びぬ 『長子』時代
父となりしか蜥蜴とともに立ち止る 『火の島』時代
蝌蚪見れば孤児院思ふ性を棄てよ 同
瞬間は蜥蜴追想尾に在りて 同


一物仕立てか、それに近い形の句だ。「思ひ出」と「金魚」、「父」となった自分と「蜥蜴」、「蝌蚪」と「孤児院」への思い、「瞬間」「追想」と「蜥蜴」。人間の内面が季題と肉薄し、融合している。一句目、青がかった色をしているという読み方もできるが、「古色蒼然」という表現も透けている。思い出が古びるという感傷は、金魚という具体物と出会うことで俳句となり、また金魚という季題は、思い出が古びるという人間の内面と出会うことで、立体的な存在感を獲得した。

『永き午前』に収められている句は、有季俳句が人間の内面と遭遇したばかりのういういしさを放っている。そのういういしさが、この一集の最大の魅力だ。

(草田男の引用句はすべて『永き午前』収録句。また本稿の事実関係は、断りのない限り『中村草田男読本』所収の年譜(池上樵人編、『中村草田男全集』別巻(みすず書房、平成三年)の年譜の基礎にもなっている)に準拠した)

2017-06-25

【俳苑叢刊を読む】 第18回 竹下しづの女『䬃』 かたくな 工藤玲音

【俳苑叢刊を読む】
第18回 竹下しづの女『䬃』

かたくな

工藤玲音


竹下しづの女の「颯」を、お願いします。と言われ、すぐに検索した。「先駆的女性としての宿命を生きた俳人」「意志力、行動力、包容力、元気印の元祖のように喧伝されている」と知り、わたしに担当が回ってきたことも、なにか意味があるような気がして背筋が伸びた。

短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまをか)

しづの女の代表句である。「保育園落ちた日本死ね」、が流行った現代の日本であっても、一歩下がってしまうほどの言いようだ。ましてや育児は女の仕事、と子供を愛する母親が女神のように美徳とされていた大正時代、この句のインパクトは物議を醸しただろう。『ホトトギス』の巻頭にこの作品が選ばれたことが、どれだけの決断か思いを馳せる。それにしても、ものすごい剣幕である。そんな、そこまで言わなくても……と思う。しかし、この句の前には

短夜を乳足らぬ兒のかたくなに

とある。母としての感情の波が読み取れる。ただでさえ蒸して寝苦しい短夜に、子の授乳のために泣いて起こされる。はじめは、頑なだなあ、と思い弱弱しく起き上がるも、度重なるうちに、「ああ、もう、捨ててやろうか!」と一瞬頭に血が上ったのだろう。子を育てる母の苦労を私はまだ知らないが、相当の覚悟が必要だと思う。

處女二十歳に夏痩がなにピアノ彈け

ひい、勘弁してほしい。二十歳の女に喝を入れている。「夏痩がなんだ、まだ二十歳でしょうが」。しかし夏痩は、ダイエットとか、スリムとか、そういう次元ではなく、栄養不足などでふらふらだったわけだから結構きつい叱咤である。

夏痩の肩に喰ひこむ負兒紐

を見ると、しづの女自身もそのつらさを経験していることがわかる。だからこそ、だ。二十歳の女が甘えたことを言うのが許せなかったのかもしれないし、つらくてもやらなければいけないのだ、とおしりを叩かなければならなかったのかも知れない。ごちゃごちゃ言うんじゃないよ、若いだろ、わがまま言うな、働け!

夏痩もせずたゞ眠き怖しゝ

だからこそ、老いてからのこの句が切なく響く。夏痩が恋しいとすら思える。

しづの女は夫が急逝したのち、働きながら5人の子を女手一つで育てた強い母だ。男性社会の中で働きながら生きていくためには、強気でびしばしいかなければ、負けてしまったのかもしれない。どうしてもしづの女の句は「喝!」というイメージがあり気圧されるが、そのような背景を考えるとめそめそなんてしていられなかったのだろう。 

ことごとく夫の遺筆や種子袋

夫を亡くした悲しみに触れる瞬間でさえ、働いているときなのだ。種子袋に遺された直筆は、遺書よりも濃く、かつての生をひしひしと思い知らされるだろう。それも、ことごとく。手に取る種子袋どれをとっても夫の字。種子袋の軽さが切なく、胸に迫る。

父のなき子に明るさや今日の月
おもむろに月の腕を相搦み
妻が守る防空の夜の露けさよ


子のことを「父のなき子」であると思い悩む夜もあったのだろう。しかしそれでも月光の下で、しづの女が「母」として「妻」として、しっかりと立っている句が美しい。大丈夫、大丈夫よ。と言い聞かせているようにも見える。

凍て疊に落ちてひろごる涙かな
大いなる弧を描きし瞳が蝶を捉ふ


ふとした瞬間をスローモーションのように切り取ることにも長けている。涙を吸う畳、ふわりと浮いたまま止まる筆。しづの女の一瞬は俳句となって永遠になる。

窓しめて魂ぬけ校舎干大根
書庫暗し若葉の窓のまぶしさに


しづの女は教員や図書館司書として働く中で、学校を詠んだ句も多く作っている。魂のぬけたような校舎と干大根のひょろっとした姿が妙に合っている。書庫の句は特に多い。書庫の窓から四季を見つめ、俳句を見つめていたようだ。

遠の灯の名ををしへられ居て涼し
灯りぬ花より艶に花の影
孵卵器もnoteも春の寝に委ね


読み心地よく、やさしい句も多い。歳を取るごとにしづの女の句から怒りや勢いが抜け、祈りに変わってゆく。眼光の鋭さが、柔らかい「まなざし」に変化してゆく。老い、あるいは若さのことを考えてしまう。

しづの女の「須可捨焉乎」は一時の育児のヒステリック、あるいは母のつらさを大胆に示したパフォーマンスだったのだろうか。

痩せて男肥えて女や走馬燈
汗臭き鈍の男の群に伍す
苺ジャム男子はこれを食う可らず


これらの句を作る原動力と、それを声に出して世に出す勇気は並のものではないだろう。男性社会の中で負けじと努力したしづの女は、そもそも根っこにものすごい強さ、明るさを持っていたからこそ、負けず嫌いで、「男勝り」で、迸る気概があったのではないだろうか。その猛烈な思いの矛先こそが男尊女卑の風潮であり、立ち向かうために強い母で居続けたのだろう。

かたくなに日記を買はぬ女なり

冒頭の授乳の句以外にも、「かたくな」という言葉が詠み込まれた句がいくつかあり、しづの女らしいと思う。しづの女をひとことで表すとき、「かたくな」はぴったりくるように思う。仕事に、子育てに、暮らしに、頑なであり、その力強さが俳句にももれなくあふれている。後記には「藝術に進歩はない。あるのは變遷ばかりである。といふのが私の主張である。」とある。すがすがしいほどにきっぱりとしていて、かたくなな人だったのだろう。

ここまで書き終え、「捨てちまおうか、と思ったことある?」と母に聞いてみた。「なにを?」と聞き返される。わたしを、と答える前に「はやくお皿洗って」と言われた。母は強い。お皿、洗います。

2017-06-18

【俳苑叢刊を読む】 第17回 阿波野青畝『花下微笑』 ぼんやりとしたほほ笑み 安里琉太

【俳苑叢刊を読む】
第17回 阿波野青畝『花下微笑』

ぼんやりとしたほほ笑み

安里琉太


青畝について書いてあるものをあれこれ捲っていると、あらきみほ著の『図説・俳句』(日東書院・2011)を見つけた。

「ホトトギス第二次黄金期」の頁には、4S、風生、青邨などの昭和初期の俳人が紹介されていて、彼らの特徴が端的に一言で書いてある。他の4Sと共に挙げると、秋桜子が「新鮮な抒情」、誓子が「即物具象」、素十が「純客観写生」、青畝が「関西特有の飄逸」といった具合である。その数頁後に青畝の生涯が記され、作風として「関西言葉の滑らかな調子から古語や雅語を駆使した独特の美と飄逸さがある」ことが書かれている。

こうした青畝の句の調子については、『現代俳句の世界5 富安風生 阿波野青畝 集』(朝日文庫・1984)の窪田般彌の序文「口調の美」でも述べられるところである。般彌は、青畝が幼少のころに耳を患ったことを念頭において、「そうした人たちのほうが、かえって音に敏感な場合もある」と述べ、「詩歌はつねに声調を主にする。金塊集は万葉調を復活して朗々と吟じられる。これは俳句においても変りないはずである」という青畝の自句自解の文言を引用し、句の調べに言及する。それから、以前、髙柳重信と話した際の「4Sのなかで本当に新しかったのは青畝先生じゃないかな」という言葉を想起しながら、次のような結論に至る。
白魚のまことしやかに魂ふるふ
「ものを見る」というのは、俳人にとって最も重要なことだろうが、私はこの句に、幻視者特有の鋭い感性を認めないではいられない。ものを見ているうちに、本質的な何かが見えてくる―この感性こそは、耳を患っていても美しい句調を奏でることができた「音楽家」の感性と同質なものであって、それ以外の何物でもない。
般彌は、青畝の作品における句調とものの見え方という二つの特徴を、「耳を患っていても美しい句調を奏でることができた「音楽家」の感性」という身体から獲得された「感性」を根拠にして、接続しようと試みている。

その一方で、般彌の印象にちらっと登場した重信も、青畝の雑誌であった『かつらぎ』(1973・4)にて、「阿波野青畝小論」を書いている。以下、その引用である。

青畝には、

水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首

のような、まずは同一時間と同一空間の枠の中で、見事な眼前の景をとらえている作品も少なくない。たとえば、

見えてゐて砧の槌のあがりけり

などもそうだが、青畝の俳句には、それを読んだ者が、あたかも、その光景を前にして、青畝の隣に立って一緒に見ているような錯覚を起こすほど、印象鮮明な作品がある。当然ながら、この句の場合、「見えてゐて」とあるから、よく見えるのではない。そういう同じ言葉があっても、読者にはまったく何も見えてこないことが多いのである。よく見えてくるのは、この一句を緊密に構築している一切の言葉が、それぞれの微妙な関係の中で、鮮明な光景を浮きあがらせているからである。
この鳳凰堂へ泳ぐ蛇も、普通ならば「泳ぐ」という、いわば日常の常識的な情報のみちびくままに、平凡に見せられてしまうところを、遂に言葉の中で何もかも見抜いてしまったように、もっとも確かに「蛇の首」が見えている。そして、これほど確かに見られてしまったからには、この「蛇の首」が、また、ある日ある時、鳳凰堂へ泳いだ蛇として、まもなく姿をかくしてしまうわけにはいかなくなり、青畝の作品の中で、したがって読者たちの心の中でも、永遠に泳ぎ続けるより他はないのである。すなわち、この蛇も、いつしか、自由な時間と空間の間を自然に泳ぐ「言葉の蛇」となりきったのである。

長い引用となってしまったが、重信も青畝の作品におけるものの見え方について言及している。句の調べという類の用語こそ用いていないが、「この一句を緊密に構築している一切の言葉が、それぞれの微妙な関係の中で」は、それらの働きを静かに示唆しているだろう。

引用した二つの論は、青畝の句の調べとものの見え方とを挙げながら、対立している。般彌が作家へ帰ってゆく論であるのに対して、重信の論が作品へ帰ってゆく論であることに留意しても、それでも、やはり両者の意見は青畝の句を読むという地点で対立してしまう。

決定的なのは、読む際の位置である。般彌が幻視者特有の感性として見られた本質を追体験的に見るべく青畝の位置に鎮座する一方で、重信はあくまで「青畝の隣に立って見ているような」、しかもそれが「錯覚」であると述べる。

寧ろ、ここで般彌に起きていることは、青畝の情報からかりそめに創造した身体を青畝と名付けておいて、その位置から幻視者特有の鋭い感性という、やはりこれもかりそめに創造した感性を据えつけて読んでいる。般彌の場合、こうした身体のイメージに有機的な印象を付与すべく用いられているのが句の調べであって、般彌自身が舌頭に千転する行為を通して、自らの身体の体験をかりそめに創造した身体へと接続する、いわば積極的に倒錯する契機として用意してあるに過ぎないのであった。

思えば、般彌自身が引用した青畝の調べの意識である「詩歌はつねに声調を主にする。金塊集は万葉調を復活して朗々と吟じられる。これは俳句においても変りないはずである」という文言も、句の調子というテクストに対するテクストの影響を前提とした調べの話であって、限りなく言葉の上の話であった。而して、かりそめに創造された身体は遂に青畝自身に帰ることがなく、腹を食い破って表れた「言葉の蛇」に、到頭食いつくされてしまうのである。であるから、これから本稿が連呼する「青畝」は、青畝自身を呼び出すことがないことを先に断っておく。

さて、『花下微笑』は、第一句集『萬両』(1931年)と第二句集『國原』(1942年)の間に発刊された番外句集であり、1931年から1937年までのホトトギス雑詠欄に入選した句を集めたものである。第二句集『國原』は、『花下微笑』から再録した句を多く含んでいる。

この句集のタイトルである『花下微笑』は、虚子が青畝に宛てた「聾青畝ひとり離れて花下に笑む」の句によるもので、虚子は「花下微笑」と墨書した額装を青畝に贈っている。前掲した句の印象を青畝に対して持っている虚子の読みが、ホトトギスの選句を基にした『花下微笑』の構成単位に織り込まれていることは念頭に置いておきたい。また、序文には、紀元2600年の祝賀のつもりで出版したとあり、刊行当時である1940年の歴史に対するパラダイムもテクストに関連していることを留めておきたい。

青畝は、1899年に生まれ1992年に鬼籍に入るまで11冊の句集を編んでいる。第1句集『萬両』には、「なつかしの濁世の雨や涅槃像」、「葛城の山懐に寝釈迦かな」などの句が収載されていて、すでに青畝の詠みぶりとして記憶される句がある。言うまでもなく「涅槃」は青畝の諸作に溢れかえらんばかりあって、『季題別 阿波野青畝全句集』(角川書店・1998年)に拠れば63句も残している。いくら11句集も刊行していると言っても、単純計算で1冊ごとに10句程度だと考えると、これはかなりの量である。

日照るとき金を横たふ寝釈迦かな
日照るとき魚介交り来涅槃像
哭いてゐる舌が真赤で涅槃変
涅槃変大きな顔をまん中に
大いなる幅解けて来て涅槃変
穴を出し虫の如くに涅槃変
かなたより賓頭盧に寄り寝釈迦まで
一の字に遠目に涅槃したまへる
涅槃図をしまふべけんに僧の留守


『花下微笑』にある涅槃の句を並べてみた。「涅槃変大きな顔をまん中に」は、後に詠まれる『甲子園』の「初夢の大きな顔が虚子に似る」を彷彿とするが、これはまあ余談である。

こうして列挙して見た時、あらためて重信の「いつしか、自由な時間と空間の間を自然に泳ぐ「言葉の蛇」となりきったのである。」という評を思い出すのである。

ビルヂングより立ちのぼる雲の峯
バルーンのへこみてそこも片かげり
夜業人に調帯たわたわたわたわす
村叟の酔ひこぞりたる除隊かな


『花下微笑』は、これらの句を含みながら、生活や現実を克明に確かにはっきりくっきりと書き留めることを志向しようとはしていない。

例えばそれは物の見え方に顕著である。前掲した「日照るとき金を横たふ寝釈迦かな」、「哭いてゐる舌が真赤で涅槃変」の二句は、同じく色を言っているが、前者が「金を横たふ」とぼやけて見せるのに対して、後者は「舌が真赤で」と一点に焦点を絞る。ただ、焦点を絞ったことによって、真赤な舌以外はぼやけてしまうので、前者と同じくぼやけてしまうことに他ならない。

涅槃変大きな顔をまん中に」、「大いなる幅解けて来て涅槃変」の「大いなる」、「かなたより賓頭盧に寄り寝釈迦まで」の「かなたより」、「一の字に遠目に涅槃したまへる」の「遠目に」、「涅槃図をしまふべけんに僧の留守」の「留守」、これらの言葉は位置や距離を内包しながら、並べて茫漠としてぼんやりとしている。

日照るとき~」、「哭いてゐる~」も、幅のある時間のうちの一瞬をストップモーション的に見せているのだが、その止まっている時間に対して、相対的に計り知れない茫漠としてぼんやりとした時間間隔が立ち現れる。「茫漠としてぼんやりとした」言葉が、青畝の超越的な空間と時間を立ち上げる装置として機能している。

池の梅氷雨をほしいままにせり
春の水獺の潜れば黄となんぬ
ひだるくてしどみ掘る根なかりけり
金色の虻もがきをり壺の許
蝸牛や降りしらみては降り冥み
なにも居ぬごときが時の金魚玉
はつきりと鵆の数のめでたさよ
狐火や幼ごころの山かずら


もちろん、すべての句にそういった機能が備わっているというわけではない。寧ろ、そうした機能がある句が、『花下微笑』のあらゆる言葉を触発し、なだれ込むように作用し、そして遂には上記の句が、空間と時間から超越するような虚の詠みぶりに読めてくる。句集全体を取り込みながら肥大していくことに、強靭な機能性を感じ得ない。

ただ、こうした超越的な空間と時間を立ち上げる言葉の装置は、紀元2600年というパラダイムと結びついて機能してしまう。紀元節とは、『古事記』や『日本書紀』に拠る神武天皇が日本の天皇として即位した日のことだが、そもそも神武天皇は、『古事記』によると137歳、『日本書紀』によると127歳まで生きたとされていて、凡そ神話的な存在である。こうした神話的な起源から連なる国史の内側に置かれた『花下微笑』というテクストは、次のような句を収載することとなる。

御帷の御裾長や初詣
下向にも神神坐す山の藤
御成とぞ蟻の道だになかりけり
どこまでもつづく神苑鹿の子立つ
けさ晴れてお花畠や天が下
天の原雪渓の襞そろひたる
志賀や昔天智天皇船あそび
鹿をらぬところはなしや日曜日
この神のもと佛なり神無月


神話と睦み合った『花下微笑』は、茫漠としてぼんやりとした超越的な時間と空間を機能させ、遂にはあらゆる言葉を召しとって、あらゆるかりそめに創造された領域で、殆ど自己生成的に補完し続ける。

しかし、それも初めから決まっていたことのように思う。花の下のほほ笑みが誰のものかさえ言い留められなかったのだ。今や顔を離れたほほ笑みだけが、不易の概念の許にぼんやりと浮かんでいる。




2017-05-28

【俳苑叢刊を読む】 第16回 片山桃史『北方兵團』 戦争という日常 竹岡一郎

【俳苑叢刊を読む】
第16回 片山桃史『北方兵團』

戦争という日常

竹岡一郎


北方兵團」は、片山桃史が昭和12年、日中戦争に応召された時の、いわば俳句による記録。尤も、「戰爭以前」と「戰場より」の二部に分けられ、句集のほぼ半分は戦争以前の、平時のモダンな句である。句集の題は、「戰場より」中の

北望すれば北方兵團の眼玉

による。この直前に「南京陷つ輜重默々と雨に濡れ」とある。昭和12年12月、南京陥落の際、日本中が戦勝の喜びに湧き、東京では奉祝の提灯行列が40万人に達したという。桃史の部隊が南京陥落の際、その場に居合わせたかどうか定かでないが、少なくとも大陸の戦場には居た。掲句においては輜重(しちょう)、即ち、食料品、武器、弾薬等、長い行軍に必要な諸々の物品、それらを運ぶ輜重兵たちが黙々と雨に濡れている。(或いは桃史自身も輜重兵か。)桃史の眼玉が見た風景に、勝利の興奮も正義の確信も反映されてはいない。ただ沈黙と重荷に満ちている。それが現場の目線であろう。「黙して」ではなく、「黙々と」と、中八にしてまで表したかったのは、蜿蜒と続く隊列の沈黙、この先も蜿蜒と続くと予感される沈黙の行軍だ。

「北望」の句に戻ると、北を望んでいるのは桃史だろう。では、北方兵団とは何か。南京陥落の直後だから、敵部隊とは考えにくい。自分たちの部隊よりも北方に居る味方の部隊か、桃史の属している部隊か。もし自分たちの部隊なら、桃史は部隊の只中にありながら、第三者(いわゆる神の視点か)のように、自分も含めた部隊を眺めていることになる。もし北方に居る部隊を眺めているなら、それはやはり日本の軍隊の動きを遠望しているに等しい。

なにもない枯原にいくつかの眼玉

斥候」と前書きのある掲句は、枯原を行く斥候の眼玉とも、また斥候が発見した敵兵の眼玉とも取れようが、前書きを外すと、空虚な枯原に眼球だけが、てんでバラバラに転がっているような印象を受ける。戦争の中でじっと瞬かない個人たちの眼だけを描いたようにも見え、その方がこの句集の本意に沿った読み方のような気さえしてくる。なぜなら、この句集は、聖戦賛美とも戦意高揚とも程遠いと思われるからだ。その代わりに、先の眼玉の句に象徴される如く、能う限りの客観性を以て戦争を描こうとしたのではないか。

北方兵團」の序に、桃史は言う。

戰場俳句に於ける僕の射擊は激情の速射を戒しめ、距離の測定、照準の正確、引鐵を落す指先ばかりに囚はれたため、彈著は槪ね對象の足許で土煙をあげた。本當はそれらを統べる精神の問題だつた。俳句と云ふ銃に裝塡される激しい作家精神の彈は、射擊敎範に云ふ「暗夜に霜の下りる如く」狙ひ擊つとき對象の心臟部を強く貫通するに違ひない。

一見、聖戦に従事する兵の本分に忠実な印象を受ける。しかし、桃史の正直な「作家精神の彈」は時代のどんな制約も受けずに、「對象の心臓部」、つまり、この句集においては、「ある特定の国家に属する兵」という立場抜きに、戦争という人類普遍の本能を貫通し暴きたいと欲する筈だ。そして貫通した結果が、この名句集なのだと思う。

この頃、大陸へ赴いた兵隊の感想を聞いたことがある。「戦闘よりも行軍の方が辛かった。戦闘が始まると、地面に臥せられるので、ほっとした。」この句集でも、同じような感慨が見受けられる。

冷雨なり眼つむり步く兵多し
秋風よ追擊兵は疲れたり


行軍中、あまりの疲れに歩いたまま眠っているのだ。「冷雨」が容赦ない置き方だ。二句目では、「秋風よ」という呼びかけが切ない。「追撃」と勇まし気な言葉であっても、その実態はひたすら歩いてゆくのだろう。風にでも呼びかけるほかなき疲れだ。

我を擊つ敵と劫暑を俱にせる

正直な感慨だろう。「不倶戴天の敵」というが、戦場で撃ち合うのは相手に恨みがあるわけではない。兵の義務だから、撃ち合い、殺し合う。あちらも暑いだろうと思い、敵兵と俱(とも)に炎天を戴き、奇妙な幻の共感をふと抱くのだ。

空爆の衝動快く憩へり

味方が敵を空爆しているのだが、それが勝利の幻想を抱かせるわけでも敵への憎悪或いは憐れみを掻き立てるわけでもない。敵が空爆されている間は、休める。神経を尖らせることも引鉄を引くことも無く、物陰に隠れて只休める。休める事が何よりありがたい、それだけだ。

「空爆の衝動」とは、空爆によって五感に突き刺さる衝迫、大気の振動であり地響きであろう。それすらも快い。束の間の休息を保証してくれるからだ。果てもなく行軍してきた兵士にとって、戦争は日常だ。

彈ひとつ壁刺ししのみ長閑なる

ここでは、そんな日常が皮肉に詠われている。平時なら、只一発の弾で忽ち非日常だが、ここでは一発程度の弾は、のどかな部類に入るのだ。

一線は射ち我れ飯を喰ひ梅を嚙む

一線では戦闘が行われている。作者は、そこから少し下がった所に居る。「衞生隊」という章にある事から、作者自身はこの時、衛生兵なのかもしれない。いつ負傷者が出るかもしれないし、いつ呼ばれるかもわからない。何よりも、一線がこちらへと下がってくることだってあり得る。ともかく眼前の飯を喰ってしまわねばならない。梅を嚙んだのは、慌てて種を嚙み砕いてしまったのか、それとも少しでも栄養を取るためにあえて嚙み砕こうとしているのか。戦友が戦っているときに自分は飯を喰っているという黒いユーモアだが、作者のひそかな罪悪感も含まれているだろう。

戰場の動物たち」という章に「」と題された句がある。

食ひあかずかなしきかなや天に風

眼前の豚を詠っただけではなく、いつも飢えて行軍している自嘲でもあろう。風ならば飯を喰わなくとも良いので、自由に天までも行ける。同じ章に「驢馬」と題された句、「愚かなる瞳(め)は戰爭の拔けし孔」と合わせ読む時、戦争という行為に絶えずかきたてられる人類の一員としての自嘲かもしれない。「黃天」の章にある「死の夏天驢馬に愚かな縞ありぬ」も同じ感慨であろう。

葬り火か飯を焚かむと來て禮す

戦友を火葬しているのだろう。それとは気づかずに、飯盒を火に掛けようと近寄った。「禮す」には哀悼の意の他に、自らは生き延びて飯を喰う事への、死者に対する恥じらいが含まれているだろう。

冷雨なり二三は遺骨胸に吊る」の句から、火葬した遺骨は兵士たちが可能な限り持ち歩いていたと思われる。

胃を照らす月光圍りには寢息

腹が空き過ぎて眠れぬのだ。月光は我が胃の空洞を照らしているようにさえ思えてくる。個人の飢えを照らしているのだ。周囲はみんな寝息を立てている。この状況で「胃を照らす月光」と洒落たことを言える作者を眠らせないのは、肉体の飢えだけではなかろう。
次の句はいずれも「戰爭以前」に収められた句である。

タイピストすきとほる手をもつ五月
透明な紅茶輕快なるノック
雨がふる戀をうちあけようと思ふ
雨はよし想出の女みな橫顏


本当は、澄んだもの、優しいもの、清純なるものに精神が飢えているのだ。戦闘も取り敢えず果て、皆が寝静まった夜中、澄んだ月光に照らされて、美しい数々が浮かび上がる。大陸でも日本でも、同じ月光であろう。雨が降ればよいのに、と密かに思ったかもしれぬ。

擔架舁けりちきしやう狙擊してやがる
軍醫の灯つゝしみぶかき手に蓋はれ
水を欲(ほ)り重傷者なりやるべきか
水欲し亢奮の掌にのみこぼす


いずれも「擔架中隊」という章の句。担架を支えている最中も弾が飛んでくる。弾を潜り抜け、何とか味方の陣に転がり込む。軍医の傍らで、指図のままに灯を手で覆い、或いは灯の方向を調整している兵の、困惑と冷静さと沈痛な面持ちを「つつしみぶかい」と表現している。戦友は水、水と呻く。「やるべきか」とは、腹に被弾しているのか。もし腸が裂けているのに水をやれば、死ぬ。だが、やらなくとも死ぬかもしれぬ。末期の水と思って、渇きを癒してやるべきか。結果、水は与えられたのだ。「亢奮の手にのみこぼす」という表現に、負傷兵の切迫した息遣いが顕れる。

雷雲の上に臥しなほ擊ちあへり
もりあがり地平のしかゝりくる苦熱


超現実の描写がなされているが、実感だろう。一句目では、砲撃か空爆の地響きが、この身にとっては雷雲そのものの上に臥しているように伝わるのだ。二句目では、爆風が土煙が、地平の起き上がり我が身へとのしかかるように熱く、息を詰まらせるのだ。

穴ぐらの驢馬と女に日ぽつん

女は唯一残った財産である驢馬を連れて、穴ぐらに避難していたのだろう。陽が差し込む程度だから、隠れるには浅すぎる。「ぽつん」とは、女の、明日の見えない心でもあろう。

殺戮の涯し風ふき女睡れり

殺戮の漸く果てた後で、硝煙や血や呻きの匂う風の中で、女はひと時の眠りに落ちる。疲労が限界に達したゆえの眠りであって、安らかでもないし深くもない。

暴河かの一點の灯に棲む人は

氾濫の多い河の向こうに棲む人も、やはり不安な夜に、希望とはとても言えぬ灯をともす。こちら側から見れば、あえかな一点に過ぎない。「暴河」の語には河の氾濫のみならず、戦争の暴虐も重なるだろう。

ここに詠われる人々は、作者の味方側ではない。大陸の、いわば敵側の民である。敵味方や正義という概念を超えて、見知らぬ一人の女を、誰のものとも知れぬ一灯を思っている。帝国でも軍でもない一個人として、同じく一個人の抱えている不安と絶望と一時の休息に寄り添っている。だからこそ、次の句群で作者は儚い希望を詠う。

難民の駱駝秋風より高し
天上に颶風童女を載せ駱駝


駱駝の上が秋風より高いのは実景のように見えて、実は作者の密かな願いである。二句目では、童女(当然、難民の子であろう)は、駱駝ごと大風に乗り、天上を馳せる如く見える。そうあって欲しいと祈る作者には、罪責感情があるだろう。どうしても兵になりきれない桃史である。

うすあかうほとりは春の唇死ねり

死んだのは戦友だろうか。或いは敵の兵士か。民間人の女子供かもしれない。死せる唇以外、時間も場所も状況もおぼろげだ。「うすあかう」とは暁なのか、夕暮れなのか、それとも地の色か、或いは飛び散り沁み込んだ血か。

「ほとり」とは、「我が身のそば」の意かもしれず、「大河の水際」の意かもしれず、「片田舎」の意に取れば「都(東京)から遠く離れた戦場」の意かもしれず、或いは「極み」と取れば、「戦闘の果てにおいて」の意かもしれない。

死ぬのは「春の唇」、笑ったり食べたり言葉を発したり口づけたりする器官だ。「春」というからには、まだ若い唇が想起される。死の、取り返しのつかなさを、茫洋と抱きしめているようだ。

ひと死ねり御勅諭を讀む日課なり

御勅諭とは、「軍人勅諭」だろう。「日課」とあるから、兵の義務として課せられた口誦の景かもしれない。それとも束の間の個人的な時間に、国家の兵とは何か、その本質を、勅諭の悲愴な文体から探ろうとしているのかもしれない。

「ひと死ねり」の際に読み、想い湧き乱れる箇所は、「世論に惑わず政治に拘らず只々一途に己が本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」ではなかったろうか。いずれ自分も無残な死を遂げるかもしれぬ、その時の為に「死は鴻毛よりも軽し」と、日々己が心に叩き込まなくてはならぬ。しかしそれならば、

ひと死にて慰問袋の獨樂まひ澄む
ひと死にて色盲の子の圖畫とどく
氣輕に死に一箱の煙草匿(かく)しゐき


これらの死の状況は、御勅諭の外にある。御勅諭を以て納得する事の出来ぬ死である。鴻毛よりも軽く、気軽に死んでゆく兵の、一箱の煙草に託していた密かな休息よりも、御勅諭はかけがえがないのか。遥か故郷から海を渡り来て、眼前に舞い澄む独楽よりも、御勅諭は清らかであるのか。色盲の子の描いた、全面戦争へ傾いてゆく世相を体現したような色の図画よりも、御勅諭は切実であるのか。

黃天にキリストのごと落伍せり

行軍について行けなくなった瞬間であろうか。或いは、落伍したのは友かもしれぬ。自らであれ、友であれ、行軍からの落伍者を敗者とは視ず、キリストと観たのだ。(キリストは、勝者こそが正義である糞のような世の只中にあって、勝ち負けという二元対立を遥かに超えて輝く義か。)つくづく軍隊に向いていない作者だ。

この「キリスト」の句の直前には、「いつしんに飯くふ飯をくふはさびし」と、動詞の繰り返しの句が置かれ、直後には「旗をふり旗をふり城壁より墜ちし」と、同じく動詞の繰り返しの句が置かれている。生きるため喰う事を反復する句と、死に至るまで正義の旗を振り続ける句の間に、キリストは挟まれているのだ。この配置に秘められた作者の眼差し。

戰爭以前」にはこんな句がある。

雨ぬくし神をもたざるわが怠惰
紫雲英野をまぶしみ神を疑はず
蝶ひかる風ふき神は寢たまへり


行軍中には次のような句を作っている。

叱られてられてありたりし神よ
花の上に神々を見失ふ勿れ


戰爭以前」よりも神の立場は一層切実となっているように思える。「哀悼」という章の冒頭に置かれた、この二句の後に、先に挙げた「ひと死にて慰問袋の獨樂まひ澄む」「ひと死にて色盲の子の圖畫とどく」が置かれている。

「叱られて叱られて」は、童謡「叱られて」(作詞・清水かつら、作曲・弘田龍太郎。大正九年四月、少女雑誌「少女号」に発表)の冒頭部分をそのまま思い出す。戦後に至るまで人口に広く膾炙している歌だ。小間使いや子守として遠く奉公に出された子供たちの哀しみを詠った詞で、桃史の少年時代には、巷に良く唄われたであろう。

哀悼」とあるから、戦友の死を悼んでいるのだが、桃史がこの童謡の歌い出しの部分を使ったのは、桃史と同年代の兵に捧げるためではないか。陸軍の初年兵は、怒鳴られ殴られ続ける日々であった。

恐らく「叱られて叱られてありたりし」で一度、句は切れる。そのあと「神よ」と嘆くのは、桃史であり、死んだ戦友であろう。

二句目も、死んだ戦友に語りかけていると同時に、自らに言い聞かせている筈だ。惨たらしい死を遂げた友に、せめて花という慰撫を捧げている。「神々を見失ふ勿れ」の意味を、「神」という語から本来想像されるべき、優しく穏やかな気高い雰囲気に即して思い、かつこれが戦場から発せられたと考える時、胸が詰まる。

(「神」の二句により死者の童心を、「ひと死にて」の二句により遺児の童心を描き、二つの童心を並列させることにより、戦争から死者を解き放とうとする、桃史の祈りも読むことが出来よう。どちらの童心もあまりに哀しい。)

戦場においても神を見失わなかった桃史が、「燃ゆる街」という章において記した句群を、ここでどうしても挙げねばならぬ。(無念を詠うとは、むごたらしさを詠う事か。多分、そうだろう。では、無念に寄り添うとは、怨念を背負って立つ事か。)

生きの身燃えひとりいや二人だ燃えつゝ擊つ

敵兵が飛び出してきたのだろう。「ひとりいや二人だ」、敵兵の身は炎に包まれて、個人単独の肉体という領域を無くしつつあるように見える。そもそも戦争がそういうもの、個人の領域を踏みにじるものだ。炎に包まれて撃つ動作は、指の肉が焼け縮む結果に過ぎないのかもしれない。こちらが何もせずとも直ぐ倒れ、肉塊となるだろう。その敵兵の、瀕死の痙攣的なあがきを、大幅な字余りとギクシャクとしたリズムによって写生している。写生されているのは死ではない。いつ果てるとも知れぬ地獄だ。

燃ゆる街犬あふれその舌赤き   
犬あふれ屋根の上にも人死ねり


犬は炎に囲まれて、その舌もまた炎を吐き出すごとく赤い。人は地に死ぬのみではない。銃撃と炎に追われて、あらゆる場所で、屋根の上でさえ死ぬ。犬なら、燃える街でも生き延びるだろう。犬は殺戮の対象ではないからだ。兵は人間をこそ殺さねばならない。殺さなければ兵ではない。生きるために殺すのか、いや、殺すのは義務らしい。いつの間にか義務となった。では、生きるのは殺すため、殺すために飯を喰うのか。

街燃ゆる劫暑のにがき舌に飯

苦いのは、街に燃える瓦礫や焼ける屍や炭となる未来の味かもしれぬ。それでも、飯は何としても喰わねばならぬ。

頭あり我あり發射彈快調

撃つべき頭がある。相手にとってはやはり撃つべきわが頭がある。恨みはない。名も顔も、その家族も知らない。敵兵だから撃つだけだ。発射弾は日常の如く快調である。快調に気軽に死は飛び交っている。

喇叭ふき人ら岩攀づ墜ちては攀づ
あるひは墜ち墜ちしまゝ手榴彈の音
人をめき岩攀づ鐵火そこに裂け
屍らに天の喇叭が鳴りやまず
雷電と血の兵が這ひゐたる壕


この連作において、初め兵が吹いていた喇叭は、人体と共に炸裂する手榴弾の音や、岩もろとも人体を抉る銃弾の閃光を経て、いつか天に何者かが吹く喇叭と化す。やがて雷となって地をおびやかす。生者が死者へと変化するにつれ、喇叭は地を離れ、天に属するものとなる。

ここに戦場の興奮と幻視が存する事は否めない。何としても生き残るために、肉体が、脳が高揚するのは自然の摂理である。この世の終わりに立ち会っているような、恐ろしい血の滾りであり、実際、戦闘する当事者たちにとっては、この世の終わりに等しい。この滾りと恐怖と絶望を、遥か東京の指令部で、飢えず凍えず焼かれず、大陸の地図を広げている者達は、味わう事がない。なぜ終末の、黙示録の喇叭は、我々の上にばかり鳴り止まぬのか。

一齊に死者が雷雨を驅け上る
屍なほ鬪へり月の炎あげ


「死者」とは霊であろう。死して尚、戦争の激情の最中にあり、その激情の具現化であるかのような雷雨を駆け上る。雷雨は高みから、避けられぬ運命の如く地上を打ち、死者達は地上からの逆襲のように、雷雨と同じ烈しさで、天を叩きつけんと駆け上る。だが、掲句における「死者」とは、本当に死者なのだろうか。彼らは実は生者であり、生きながら既に死者として疾駆しているのではないか。

では、二句目の「屍」とは何だろう。未だ戦いの意志を顕わし、力み、ねじくれ、見開いたまま息絶えた肉体を描いたとも取れよう。もう一つは精神の無い肉体、思考も感情も絶えた肉体だけが動き、殺し合う様を詠ったとも考えられる。それは理想の兵かもしれぬが、すでに人外のものだ。月光であり陰性の光である冥府の光源は、「屍」を照らすのだが、地上の生き物が太陽の光に活かされるように、彼らは月の光によって活かされ、全身から月の冷たい炎を上げ、炎を呼吸する。

兵は、もはや生きているのでも死んでいるのでもない。生にも死にも如何なる安らかさも見出せぬゆえに、生と死の区別がつかない。この二句が集中の白眉であり、絶唱である。何と痛ましい白眉であるか。

陽炎よ耳盲ふるは花の光か

戰爭に捧ぐ」の章にある、この奇妙な句を、砲撃爆撃の為に耳が聞こえ辛くなった様と読んでも良いが、戦争によって五感が互いに入り交じり常のものではなくなったと見ても良い。陽炎の中で、何もかも霞んで見えるのだ。それは聴覚の減退によって生じているのかもしれぬ。言葉通りに読めば、耳が聞こえなくなったのは花の光ゆえ、あるいは耳が聞こえないこともまた「花」である光だ、とも読めそうだ。

しかし、これは戦闘果てた後の、まるで生きながら彼の世にいるかのような静寂を表現したかったのだと思う。戦闘の極度の緊張からまだ回復していない五感に、世界は陽炎のように揺らぎ、静寂は聾(みみし)いたように思え、無残な戦を経た目には花の色は余りに眩しく、光そのものから形作られているように思えたのではなかろうか。戦禍と、あまりに美しい花や風景との、激しい落差が人を狂わせる、その例を、沖縄の地上戦において聞いたことがある。

(尤も、「戰爭以前」の句に「いんいんと耳鳴りわれに時亡ぶ」がある。平時よりふっと彼の世に心跳ぶ作者であったかもしれぬ。または自らの運命を予感していたのだろうか。)

秋風部落」と題された一群は、占領した部落のさまであろう。

頑是なき人に銃擬す秋風裡
女去る秋風の兵を眼に視ざる
紅の鞋(くつ)手榴彈秋の土間に蠅


ここに勝利の実感は皆無なのだ。この期に及んで銃を突きつけねばならない遣る瀬無さ。恐怖からか怒りからか、決してこちらを見ない現地の女、その寄る辺ない後姿。女か子供かの美しい靴と、手榴弾が、同じ空間に転がっている。屍の空虚な眼にたかるように、かつて生活の在った土間に居る蠅。

生きてくふ飯荒寥とひとりびとり

それでも飯を喰い、次に進んでゆく。まだ生きてまだ行軍するために、飯は食わねばならぬ。「荒寥」とは兵士の心情でもあり、眼前の大地でもあろう。勝ち残った筈なのに、栄えある皇軍兵士として意気軒高と食うのではない。暴力の果てた後、暴力の当事者として、「ひとりびとり」、個人の孤独の中で飯を喰うのだ。

片山桃史は日中戦争から帰還して、昭和15年10月、この句集を出した。昭和16年、再び応召、その年の12月8日、太平洋戦争勃発。各地を転戦し、昭和19年1月21日、飢餓とマラリアの蔓延するニューギニアにて戦死。享年33歳。

戰爭以前」の中から二句引こう。

夕燒けてマストの十字架(クルス)ひとおりる

船の十字型マストから人が降りたと読める。しかし「クルス」とルビを振っているから、まるでキリストが磔刑から解放されたようにも見える。先に「黃天にキリストのごと落伍せり」を引いた。十字架(クルス)から降りたのも、やはり片山桃史ではなかったか。

身のまはり靑き濕度の手紙書く

「靑き濕度」に片山桃史の憂愁と詩性を見る。戦争以前にそうであったように、大陸の乾いた戦場にあっても、彼は青き湿度を以て句を作ろうとしたのだと思う。生きて帰れば、戦後俳句にどれほどの色彩と清澄が、何よりもどれだけの良心が加わったことだろう。

2017-05-14

【俳苑叢刊を読む】 第16回 細谷源二『塵中』 直截を貫く 西川火尖

【俳苑叢刊を読む】
第16回 細谷源二『塵中』

直截を貫く

西川火尖


細谷源二は明治39年生まれ、12歳から工員生活を送る傍ら、内藤辰雄のプロレタリア文芸誌「労働芸術家」の編集同人を務め、口語短歌にも活躍の場を広げるなど文学への興味は強かった。そして昭和8年、源二27歳のときに「句と評論(のちの廣場)」の松原地蔵尊選に一句入選したことをきっかけに、本格的に句作を開始する。昭和13年、中台春嶺と共に工場労働者として生活を詠む「工場俳句」を提唱し、プロレタリア俳句の可能性を模索していった。その後、昭和15年、精密螺子工場の経営を始めるが、翌16年、新興俳句弾圧事件に連座し2年余り勾留された。

今回取り上げる「塵中」は昭和15年刊行、昭和13年から逮捕前年の15年の句を収録した第二句集である。

夕日が射すと機械油(オイル)の光る俺達かな
帽子を振つてもあしたこうばでまた會ふ人ら
さしこむ朝日にどの職工も染まらうとする


「塵中」はこの三句を冒頭に始まる。どの句にも直截的な口語表現と、大盛りの字余りでもって、労働者のシーンをのびのびと描映している。終業、退社、出社のサイクルを「夕日が射す」「さしこむ朝日」など労働者を光で演出することで、工場労働の日々を力強く印象付けている。

起重機の老工碧き空を背負ふ
つとめ長ければ誰か靑空に汽車を描け
白き初夏工女に菓子をすすめ食ふ
工場旅行少年工の帽靑き
鐵かつぐ黄いろき首を肩へ嵌め
鐵工葬をはり眞赤な鐵うてり


源二は「句と評論」に加わる以前、新鮮な表現と素材の広さに感銘を受け、馬酔木によっていた時期がある。当時の馬酔木は秋桜子のホトトギス離脱をきっかけに、新しい俳句を目指す若者たちが大挙しておしかけていた時期で、彼らが起こした新興俳句運動は白や青、赤などのカラーコードを積極的に用いて、都市生活者のモダンな心理的描写を可能にしたところに一つの特長があった。これらの句もその影響を色濃く受けており、モノクロの写真に着色したような鮮やかな色で工場生活を捉えてみせたところに、源二の詩的感覚の新しさがある。
 
しかし、源二は初期新興俳句のモダニズムを取り入れつつも傾倒しきることはできなかった。源二の自伝、「泥んこ一代」に当時のエピソードがある。

馬酔木の句会に「夕焼に油まみれの手を洗う」という句を出したところ、秋桜子は「夕焼の」と直せば採ったと答えた。源二は同行の俳人に次のように漏らした。
僕はうぬぼれているわけじゃあないけれど、あの夕焼の句はそんなに悪いと思ってないんだ。先生の言う「夕焼の」としたら、あの句は生活が主ではなくて、夕焼という自然現象が主になった句になってしまう。僕のような生活をしているものの感慨を強く伝えるには、「夕焼に」としなければ駄目だ。〔*1〕
同行の俳人の同意は得られなかったが、源二は俳句を始めてからかなり早い段階で、新興俳句運動初期の鮮やかな色彩の句に惹かれつつ、自身の置かれた環境や志向とは違うことを自覚していたことが伺える。句集には以下のような句もある。

勘定日さびしい西日が背に煮えて
赤き夕日へ無事に勤めし心を捧ぐ
悲しい過去をもつた常雄は鐵かつぐ
鐵かつぐ寒さでかけさうな鼻を曲げ
夕日背に機械油の手を洗ふ    


四句目までは当時も今も例えば句会などでは決して評価される類の句ではないだろうが、源二にとって譲ることのできない生活者としての証のような句だったのではないだろうか。そして最後の「夕日背に機械油の手を洗ふ」は前述の句会に出した「夕焼に油まみれの手を洗う」の推敲句と思われるが、源二の強いこだわりと表現の精錬が見られ非常に面白いと思う。

やや分析的な言い方をすれば、細谷源二は口語短歌的な情緒(詩質)と、新興俳句的な手法(方法論)、工場労働者としてのアイデンティティを融合させた点に彼の工場俳句の成果があるように思う。そのような句を少し抜き出してみると

ぼけた冬日を窓にかざつて働きます
工場帽そっぽにかぶり海の話
こぼした水がのびのび流れ職工冬
つとめ長し鐵より他に蹴るものなく
五月たのしおのおの赤き鐵をうち
公傷の指天にたて風の中
鐵工葬をはりクランクろんとめぐる
職工の洗面器ならぶ鐵製なり
そらあをく古き機械と肩ならべ


これらは、厳しい労働の現実に根を張り、そこに現れる悲喜を直截的に掴み取って句になったものである。工場労働の内側から労働者の感情を描出する試みは自然、字余りの多用、無季俳句へとなっていくのであるが、その感情の機微をいきいきと映し出すことができているのは、前述の詩質、方法論によるところが大きい。

新興俳句運動が俳句にモダニズム的価値観を付与した初期から、生活俳句や社会的感覚を標榜した後期へ移行していくなかで、細谷源二の存在が大きくなっていったのは、まさしく時代が彼の志向に合致してきたという点もあるが、それ以上に彼の「工場俳句」が、初期新興俳句が獲得してきた成果を損なわずに社会的感覚と融合を遂げられた点にあるのだと思う。

職工出征ばんざいの帽そらをたたく
人征きて馬征きて村に雪降れり
百姓ぞくぞく出征す太き眉を張り
百姓のさむき猪首のならび征く
職工面會所招集令を母がもちくる


これら戦時下を詠んだ句でも源二は他の句と同じスタンスで直截的に臨むことを貫いた。「ばんざい」なら「ばんざい」を、人も馬もでて征く村があればそれをそのまま詠んだ。少なくとも彼は無口ではいられなかった。

「塵中」の読後、改めて見回してみた現在の俳句は、「俳句に政治を持ち込まない」ことで純粋さと楽園性を得た代わりに、川を流れる盥のように黙って時代に流されていく存在に思えてならない。

〔*1〕細谷源二「泥んこ一代」春秋社, 1967年, p.117

2017-05-07

【俳苑叢刊を読む】 第15回 栗林一石路『行路』 春の花屋になって 山田露結

【俳苑叢刊を読む】
第15回 栗林一石路『行路』

春の花屋になって

山田露結


春の花屋も遮断機に堰かれ犇(ひし)とゐる
遮断機はね上ると春の雲もあらず人崩る
春の人屑へがくりと遮断機が鰓(あぎと)をあけた
(踏切春景)

栗林一石路句集「行路」冒頭の「踏切春景」と題された三連作です。
一句目はこの文脈通りに読めば「花屋も」→「犇とゐる」なのですから花屋ばかりが踏切の前でかたまっているわけです。配達途中ならみな春の花を両手いっぱいに抱えているはずです。きっと花屋の集団の隣にはパン屋の集団が、そのまた隣には酒屋の集団が、その後ろには魚屋の集団が、そのまた後ろには八百屋の集団が「犇」といるかもしれません。え?違うって?作者はそうは言ってないって?大勢の中に混じって一人だけ、「花屋も」いるということだろうって?いや~、でも、花屋の集団が「犇」といると解釈した方が楽しいでしょう?可愛いでしょう?シュールでしょう?こんな素敵な景色を遮断機の反対側から僕は眺めてみたい。

二句目。電車が通過し遮断機が上がった途端に花屋が、パン屋が、酒屋が、魚屋が、八百屋が、どどっと踏切内になだれ込む。

三句目は二句目と時間的にやや前後しますが、そのことがかえって花屋、パン屋、酒屋、魚屋、八百屋の集団がぐちゃぐちゃに入り混じって「犇」といた人の塊が文字通り「人屑」となって移動していく感じを演出しています。遮断機の擬人化も楽しい。まるで三コマ漫画のような、なんともコミカルな春の景色ではないでしょうか。

今回、週刊俳句からの依頼を受けて僕は栗林一石路という俳人の句をはじめて読みました。彼の経歴についてもまったく知らなかったのでとりあえずネットで調べてみると1894年長野県生まれ、プロレタリア俳句を提唱しその運動の中心的存在であった、とのことです。1941年にはいわゆる新興俳句弾圧事件で検挙、投獄されています。

シャツ雑草にぶっかけておく

ネット上で見つけた彼の代表句のひとつですがこの句は知っています。どこで目にしたのか記憶はありませんが、たしかに知っています。ああ、この句の作者が栗林一石路なんですね。

さて、しかし、プロレタリア俳句っていったいどんな俳句なのでしょう。

これが勞働者の胸か骨が息づいてゐる(「昭和十二年夏、機械工山田正吉君死す」と前書き)
いくつ機械を組立てた骨の手が伸びてゐるばかり
もう吸ふ血がない死顔をはなれてゆく蚊
(勞働者の死)

これらの句にはまるで映画のスクリーンを見ているかのようにこの時代の労働者の有様が生々しく描かれています。こうした句の無骨な雰囲気はもしかしたら定型俳句では表現しきれなかったかもしれません。プロレタリアであることと一石路が自由律を選んだことには必然的な関係性があったのかもしれません。

まあ、でも、プロレタリアという言葉はまことに前時代的な感じがするのですが、どうなんでしょう。現代でも使われるんですかねぇ、この言葉は。プロレタリア俳句というのはプロレタリア文学の系譜なんでしょうか。よくわかりません。しかし、そのようにカテゴライズされると僕なんかはどうしてもある種の色メガネをかけて句を鑑賞してしまうのですが。

月光は顔をまた顔を照しだして兵隊
船にゆられつつ敵近くなる星座を青く
黙つて夕日に影二人何を敵前上陸の前
おどろに砲弾の炸裂の赤きくらい山肌
緑星二つそこに生き死にの兵たちをおもふ(註、緑星は上陸成功の信號)
(敵前上陸)

戦地詠です。一石路には戦争に関連する句が多くあるのですが、どれも情景描写がやや報告的な感じがします(良い意味でも悪い意味でも)。俳句でいういわゆる「客観写生」からも遠いようです。戦争という特殊な状況を前にして、はたして俳句の言葉が俳句の言葉として機能するのかどうか、あるいは機能させることが出来るのかどうか、というのは興味深いところではありますが、こうした報告的な詠まれ方は彼がジャーナリストであったことと無関係ではないかもしれません。

ふるさとの水はうましのみたしと病みたまふ母は
これや水筒にふるさとの水みたし来むに母よ
故里は夏山病む母の水ゆたかにと念(おも)
病む母へゐなかの水取りに汽車の片隅にゐる(「怱惶として汽車に乗る」と前書き)
母に代りて米磨ぎし頃のこの月にてくらき
(水取り)

灯取虫ばかり母はひとりで死んでゐる
糸屑なんどもこんなに始末してあつて母は亡(な)
箸にかろきこれが母の骨かさかさと音する
芒や百合やふるさとに母の骨壺を置く
女衆の声々がみな母の知つてゐる奥の間の母の骨(「近所の人々集ふ」と前書き)
(母の骨)

この句集の中でたぶん一番多いのが病死した母親を詠んだ句です。これらの句からは作者の母親を慕う気持ちが、作者にとって母親がどれだけ特別な存在だったかがひしひしと伝わってきます。非常に直截的な印象を受けます。

そうなんです。この句集に収められた彼の俳句表現の多くがずいぶん直截的なんです。これはプロレタリアだからでしょうか、自由律だからでしょうか、僕にはわかりませんが、母を思う彼の句は、母を思う彼の姿以外には行き着くところがない感じがするんですよね。ゴールがそこにしか見えないというか。

はげしい感情を戦争へゆく君に笑つてゐる
紙旗をふられ愛情のおさへがたくゐる
たばこに火をつけ君とのみ何もいへぬ訣れぞ
(夢道出征)

お前のすべてが終つた瞬間を正しく指してゐる時計
死顔に化粧するその歯が笑つてゐるやうで
ひろびろ秋めく陽のいろがもうお前のゐない世界で
(けさ子の死)

戦地へ赴く友人を見送る際に詠まれたであろう「夢道出征」、そして病死した妹を詠んだ「けさ子の死」とそれぞれ題された連作から引きましたが、これらの句も作者の思いばかりが強調されて読みの幅がかなり限定されている感じがします。

これは、彼の句が、僕が普段親しんでいる俳句作品とはずいぶん違う趣旨で作られているからじゃないかなぁと思ったりするんですよね(こういうのを社会性俳句って言うんでしょうか)。

思想が氷結したやうな月夜のビルヂングが直角
(幻想)

無機質な近代的ビルディングを前に彼は思想の氷結(ちょっとカッコいい表現です)を憂いているのでしょうか(どうなんでしょう)。平和ボケ世代ど真ん中の僕にはあまりピンとこない感傷ですが、いや、しかし、今後世の中の情勢がどんどん不安定になって行って、貧困やら戦争やらといったムードが日に日に身に迫ってくるようなことにでもなれば、もしかしたら再びプロレタリア俳句なるものを詠む人が増えるなんてことになるのかもしれません。いやぁ、そんな憂鬱な世の中にならないことを切に願っていますよ。だって、時代に俳句を詠まされるなんて僕はまっぴらゴメンですから。

大砲が巨きな口をあけて俺に向いてゐる初刷
(一九三七年)

ええ、もしそんなことになれば、僕は真っ先に春の花屋になって遮断機の前で「犇」と決め込むしかありません。





※引用句の旧字体は一部、新字体にあらためました。


2017-04-30

【俳苑叢刊を読む】 第14回 岩田潔『東風の枝』 水平線と、雲と、そのほか。 小津夜景

【俳苑叢刊を読む】
第14回 岩田潔『東風の枝』

水平線と、雲と、そのほか。

小津夜景

.
岩田潔『東風の枝』を一読してまず思ったのが、読みやすい、ということ。  
ギヤマンに葡萄溢れつ祭宿
巻頭句。ギヤマンの縁をすべる輝きと、宿の内部にわだかまる翳り。路上の喧噪と、室内の静寂。こうした〈光と闇〉や〈動と静〉のコントラストは、西洋絵画のパースペクティヴにすんなりと収まるものだ。またギヤマンの表出する精神性、溢れる葡萄の豊穣性、祭という俗世の愉悦といったモチーフも単純明快。解釈の罪を犯すより先に、存在そのものの鮮烈な印象を読者へと開示する。

句集の纏う雰囲気を巻頭の一句でもって定めたあとは、流れるように西欧の風物を感じさせる句を口ずさんでゆく作者。
狭路の空におぼろの塔の灯れる
薫風や上着を腕に行く広場
酒場寝て夜霧渦巻く街の辻
南吹く道を馬車ゆき夕さりぬ 
街は秋フランス國旗煙草屋に
裏町の木沓の音も島の秋

.
岩田潔の俳句の特徴のひとつは、モダンからドラマツルギーを差し引いたところにある。道具立てが時にバタ臭くみえながら決して演出過多ではなく、自己をめぐる感傷とも無縁。あくまでも平明な美を好み、一句を書き上げる際は、自身の教養あるいは嗜好のツボ(それはしばしば甘い)だけを残してあとはさっぱりと片付けてしまう。この平明好み  どうやらこの点が、岩田に俳句を書かせる理由かと思われる  は、ときに遊俳の香を漂わせもする。
梅干してとなりの二時はやや遅く 
新刊書手にしてわれも春の人
入海の見えてゐる露地金魚賣り

.
岩田潔は俳誌「天の川」に所属しながら〈目=観念〉の人ではなかった。もちろん彼は目で見る。とはいえ彼の見明かそうとするものは意味ではなくマチエールの質感であり、言い換えればそれは〈確かに此処に在りつつ、それでいて記憶に触れるごとき光景〉としての〈存在〉である。
朝刊と牛乳〔ちち〕に夏めく日光〔ひかげ〕かな
麺麭燒くや桃は廚の窓に熟れ 
ジャム作る夕餉の洋燈またたくに
北郊の踏切番に冬の虹

.
岩田句のまた別の特徴は、その構成意識の高さにある。平明を真に好む者は、その句の置かれる空間的なバランスにも気を配るものなのだ。例えば、ロシア風ショットのつづく次の箇所。
蒼天に露旗ひるがへり橇の宿 
橇の犬旭〔ひ〕にかがやきつ丘越ゆる
橇を止む馴鹿〔トナカイ〕群るる丘見ゆと
眞日照れば疎林ゆく橇ゆるめつつ
原始林のほとりゆきつつ橇夕べ
居酒屋の灯に雪降れり橇をやる
一片の壁の冬日に酒場出る
靴下をかがりて冬日野に去りぬ
枯野ゆく二枚の銅貨ポケットに
オリオンに粉雪ふりつつ夜會果つ
雪の野の別れきし窓灯を消しぬ 
寒燈の陸橋見えてキネマ裏
寢臺に霜しづくせる枝の影
混石土に日は褪せゆけり冬深く
締めの一句の、全体から適度に距離をとった余韻。その理知的な美しさ。

.
岩田潔が新興俳句を懐疑していたことは、ちょうど『東風の枝』の刊行と同時期に書かれた彼のさまざまな評論から知ることができる。さらにそこでは自らの句集も次のように自己批判される。
いきなり妙なことを書き出すやうであるが、こんど私は自分の小句集を編んで、その文學的な噓に滿ちた句々にしそぞろに飽き飽きする念ひがした。自分の歩いて來た文學的道といふものがこんなにも空々しいものかと何がなし糞いまいましいやうな感じさへしたのである。「文學は繪空事か」とのきは屢々文學者たちの衝き當る壁らしいが、この壁の感じさせるうそ寒さといふものは、所謂「冩生」を忠実に遵奉している人たちには恐らく理解の出来ぬ性質のものではないかと思ふのである。*1

.
視点を少しずらして。

桑原武夫「第二芸術」には、初出に存在していたのに、そのわずか半年後桑原自身の手によって削除されてしまった重要な箇所があった。長谷部文孝「消された俳句 第二芸術論争の空白」によるとそれは《俳句に新しさを出さうとして、人生をもり込まうといふ傾向があるが、人生そのものが近代化しつゝある以上、いまの現實的人生は俳句には入り得ない。俳諧修業は人格の完成であり『俳句に人格の光あれ!』などといつてみても、今日の世に風雅などに遊んでゐる者からの光のさしやうはないのである。たとへば俳壇の名家の世界認識とはどういふものであるか。》といった桑原自身の文章につづく次の一節である。
言挙げぬ国や冬濤うちかへす   かけい

岩田潔氏の解釋がある。「……はつきりと言挙げせぬ國日本が浮び上つて來る。禪にしろ、茶道にしろ、俳句にしろ、すべて批評よりも實踐を尊ぶ日本文化を物語るものである。理論無用の國日本をめぐつて冬濤はたゞ默々と打ち寄せてゐる、云々。」これ以上付け加へる必要はないが、たゞ冬濤が何の象徴であるかが解釋されてをらず(恐らく、小うるさい西洋合理主義であらうか。聯合國ととるとあまりに不穏だから)、また「踐」といふ文字があまりにも輕みをもつて使はれてゐることに注意するにとゞめる。*2

.
岩田潔は桑原武夫の「象徴読み」を気の毒に思ったようだ。『宿雲』昭和23年2月号に寄稿した論文では、上掲の一節を指して曰く《この一節は、『現代日本文化の反省』に収録した「第二芸術」の中では削除してあるが、これは氏のために賢明な処置であったと言はざるを得ない。事は私に関することなので気がひけるが、「第二芸術」の主旨には殆ど賛成である私にも、この部分は拙く、氏のためにとらない。かけい氏の句の『冬濤』を『小うるさい西洋合理主義』の象徴とみるなど、俳句の『読み』方を知らぬと言われても仕方あるまい(……)冬濤は冬濤として、それのみで鑑賞していたゞきたい。俳句は象徴の芸術だからといって、何でも象徴と結びつけて考へようとするのは、それこそ『小うるさい西洋合理主義』に災ひされてゐるのではなからうかと書いた。*3

.
また「俳句には近代的精神を盛り込めない」という桑原の思いつきに対してはこのように書く。
芭蕉の傑作と云つても、當時の、西鶴や近松が素材としたところの「現實」や「社會」は、直ちに素材とは爲し得なかつたのである。*4

.
詩人でもあった岩田潔は「意味を求める若者は詩を書け」と言う
生活探究派が意圖するやうな「動物的生」或ひは「動物生」を詠ひたいのであれば、何故、十七音定型と季題といふやうな窮屈千萬な殻の中に自らを閉ぢこめてゐるのであらう(……)親の遺言でこの窮屈な俳句を作つてゐる釋でもあるまい(……)自分の心の中に湧きたぎつ詩的感動(詩精神)が大事か、偶々自分の擇んだ俳句といふ詩形式が大事か、生活探究派は大いに熟考してみる必要があると思ふ。*5

10.
閑話休題。弟を戦地へ送り、父親を失った岩田潔は、この句集の後の章で父親のふるさとに戻って来る。表面上はなにもかわらない毎日。
秋風の町行けば會ふ人親し 
日記にはけふも落葉とあるばかり
波寄せて冬あたたかき乳母車 
春を待つこころよ砂に身を起す
囀りや紅茶の後の支那煙草 
手にとりてみなみかぜ吹くメニューかな

11.
しかしまた、次のような句集中の記述も。
毎日、眞青なを眺めながら生の憂愁にされてゐた。死の誘惑と闘ひつゝ、懸命に生きてゐた當時の私の面影が、句に現はれてゐないことを、人は非難するだらうか。

障子張りて雲あたたかき日なりけり
三月のマントさびしき砂丘かな 
木蓮の散りて裏町朝闌けぬ 
松かげに歸帆遠のく墓参かな
鯉のぼり見えて街道海に沿ふ

12.
『東風の枝』は1933(昭和8)年から1940昭和15年夏までの句をあつめた岩田潔の処女句集。岩田は1911(明治44)年函館生まれ。父の職業(船員)の関係で横浜、神戸、大阪に住む。中学卒業後は大阪伊勢名古屋の税関につとめ1939 年(昭和14年には碧南市で煉炭会社役員に。「青垣」「詩風土「コギト」などの詩誌の同人を経て昭和初期の山本梅史主宰の俳誌に投句し以後「天の川」「雲母などに参加戦後は無所属。大浜練炭会社に勤務中ガス中毒にて50歳で死亡。
春惜しむ人に水平線と雲


*1岩田潔高野素十論『俳句静思』臼井書房, 1946, p.43
*2桑原武夫「第二藝術」世界1巻第11,  岩波書店, 1946, p.62
*3長谷部文孝「消された俳句 第二芸術論争の空白」『炎環』1998年1月号,p.86 なお引用箇所の仮名遣い表記は当論文ママ。
*4岩田潔俳句の運命『現代俳句論』, 潮社, 1947, p.143
*5同上, p.133

2017-04-23

【「俳苑叢刊」を読む】 第13回 石塚友二『百萬』 粗雑と純粋 村上鞆彦

【俳苑叢刊を読む】
第13回 石塚友二『百萬』

粗雑と純粋

村上鞆彦


句集『百萬』は、「昭和四――六年」の章より始まる。石塚友二が二十代前半の頃である。ここには〈秋山の懐深き岩瀬かな〉など十句が収められている。

続いて「昭和十年」の章。〈夏星にヒマラヤ杉の秀は昏れず〉など五句を収める。

ここまでは明朗な自然詠といった印象の句が並ぶ。この頃の友二は、雑誌編集の仕事を通して水原秋桜子や石田波郷と知り合い、「馬醉木」に投句をしていたという。

次が「昭和十一年」の章。このあたりから単なる自然詠とは異なり、自らの生活に材を得た句が混じり始める。〈蚊帳吊るやわがひとり寝の白蚊帳を〉〈蜩に徹夜の窓の白みつつ

そして「昭和十二年」の章。冒頭に次の句が置かれている。

  わが恋は失せぬ新樹の夜の雨

友二は三十一歳。失恋を詠ってはいるが単に暗いだけではない。夜の雨が打つものが「新樹」である点に、瑞々しさや生命感が滲んでいる。悲哀に浸りきることなく、前を向いた健やかな意志が息づいている。友二はこの句を得たことで自ら感じるところがあったという。生活と俳句との一致。この句を境に、『百萬』には友二の体臭が濃密に漂う句が並ぶようになる。以下、注目作を挙げつつ、『百萬』の世界を見てゆきたい。

  金餓鬼となりしか蚊帳につぶやける

昭和十三年作。「金餓鬼」とはつまり金の亡者ということ。こんなナマな言葉を躊躇なくぶつけてくるのは、当時では異色だっただろう。一句全体には、自嘲かつ嘆息の気分が色濃い。

生活に金は欠かせない。生活と俳句とを一枚に重ねようとするとき、金のことから目を逸らしていては嘘になる。その点、友二は正直だった。〈金借るべう汗しまはりし身の疲れ〉〈為替手に一瞬嗤ふマスク中〉〈凍坂を下り来て長し尽日苦〉等、金を巡る喜怒哀楽はこの句集の重要な主題のひとつである。

  酔ひ諍かひ森閑戻る天の川

昭和十四年作。酒場で俳句論を戦わせているうちに感情的な喧嘩になったのだろうか。帰路、天の川を仰ぎつつ、我が身を反省する一方で、どこかまだ納得のゆかぬ蟠りも少々抱えている。「森閑戻る」には、自らの内面を見つめる静謐な眼差しがある。この句に続く〈方寸に瞋恚息まざり秋の蚊帳〉にも同じ眼差し。胸中に吹きすさぶ怒りの嵐を作者はじっと見つめ、耐えている。

  鳥渡る着のみの肩や聳えしめ

昭和十四年作。着流し姿で肩を吹かれて立つ一人の男の姿がイメージされる。「着のみの肩」は、「着のみ着のままの肩」を略した語と解するが、こういうやや強引なところに却って作者の気概がのぞく。「鳥渡る」が一句の境涯性をより濃やかなものにしている。

  焚火すやわれ焼かる夜もかうぞ澄め

昭和十四年作。闇のなかの焚火の炎を見つめているうちに、いつしか思いは自らの死の上へ。中七下五には、全き死を希求する強い意志が感じられる。やや感情が高ぶり過ぎて空転している感もなきにしもあらずだが、しかし一句の底に流れる純粋さには打たれるものがある。同じく死を詠んだ作としては〈死の怖れ夜寒の闇にくわつと覚め〉もある。こちらは死の怖れ方の表現が、やや類型的。

  たかんなの疾迅わが背越す日かな

昭和十五年作。友二はあまり背が高くなかったようだ。長身の波郷と並んで映った写真があるが、仲良し凸凹コンビのようでちょっと可笑しい。友二の右手は、波郷の左の肘のあたりを抱えるようにしている。肩を組みたいが、届かないので仕方なく、といった具合だ。それはさておきこの句、成長の早い筍はすぐに友二の背丈を越えたことだろう。そのスピード感を「疾迅」という漢語が強調している。また筍の成長を素直に讃嘆する気持ちが「かな」の詠嘆にこもっている。〈冬の蠅具足の翅をひるがへし〉という句もあるが、壮健なものに即座に応じる真率さを友二は持っていたようである。

  一疋の雄の夜明けぬ冬薔薇

昭和十五年作。「一疋」といい、「雄」という。自らを人間というよりは動物として把握している点が特異だ。朝日に向かってやおら咆哮を上げそうな荒々しい気配がある。「冬薔薇」の取り合わせは、可憐でいじらしい。この取り合わせの味わいが、波郷の〈初蝶やわが三十の袖袂〉を思い出させるが、こちらはあくまでスマートな詠み振り。対して友二の句には男臭さが漂う。

  裔いまだ体中の微塵枯木星

昭和十五年作。「裔」とは自らの子孫のこと。それがまだ形をなさず、体の中に「微塵」として散在しているという。『百萬』のなかでも発想のユニークさでは随一の句。この上五中七は扱いようによっては生々しくもなり得るが、ここでは「枯木星」の静謐さがそれを抑制し、一句を引き締めている。いつ子どもを持つのだろうかと我が身の未来へ思いを馳せ、粛然と心の澄んでいる作者である。

  肩かけの臙脂の滑り触れしめよ

昭和十五年作。なめらかな臙脂の肩かけをしたその肩に触らせよと呼びかけている。相手は当然女性。この句の後に〈言いはず触れず女の被布の前〉〈寒灯下交みに弱き笑のみ〉と続く。女性や恋愛に関する句は『百萬』にいくらか出てくるが、ほとんどが憂愁の色合いを帯びている。〈胸の火を敢へてわが掻き短夜寝ず

今回この『百萬』を読んだことで、私は初めて石塚友二の作品にまとめて接した。これまで友二といえば、波郷の縮小版(大変に失礼な言い方だが)くらいにしか考えていなかったのだが、実際の作品に触れてみると、両者は「生活即俳句」を信条としながらも、やはり作品の相貌が随分異なることに気付いた。波郷の生活詠はその表現に切字を多用した簡潔さと古典に範を仰いだ落ち着きがあるが、友二の作品は饒舌で押し出しが強く、なりふり構わぬ粗雑さがある。〈汗と拭く柱鏡の脂顔〉なる句もあるが、この男臭さ、暑苦しさが『百萬』の随所から立ちのぼってくる。

しかしそれでもなお『百萬』の頁を次々と繰ってしまうのは、句の奥にちらりとのぞく純粋さやまっすぐな意志に惹かれるからだ。そのことを象徴的に物語るのが〈夜店行く白菊を挿す壺もがな〉という句。雑多な夜店の喧噪を分けて「白菊を挿す壺」という何とも可憐なものを求めて歩いていくひとりの男の姿。ここに愛すべき石塚友二の素顔がのぞいてはいないだろうか。