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2026-09-06

小津夜景 「あいだへん」でいく

「あいだへん」でいく

小津夜景


句集を出したい。とは思っている。

けれど俳句を整理するのがめんどくさい。寝ているあいだに誰かが句稿を分類して、配列してくれて、朝起きたら、きりっと一冊になっている。そういう都合のよいことは起きないものか。

句集をつくるときいつも困るのは、句を選ぶことだ。

良い句がありすぎて、どれを捨てるか決められない。そういう景気のいい話ではない。

句がない。

正確にいうと、少しはある。しかし連作として並べると、足りない。ひとつの連作として見せるのにちょうどいい数まで、どうしても揃わない。

わたしにとって作句は、ほとんど偶然の産物だ。

「なんかこんなのできちゃったけど?」

だいたいそんな感じ。つまり、ひとつのモチーフをつかまえて、それを右から見たり左から見たり、朝にしたり晩にしたりして、十句、二十句と増やしていくような作り方ではない。一句できる。あ、できた、と思う。思うが、それで終わる。終わってしまう。

そんな自分が、こういう句集をつくりたいなあ、とつねづね思っているのが、佐藤りえ『いるか探偵QPQP』。探偵俳句集だ。探偵ものの句集、という時点でもう面白い。

船越英一郎崖はないかと近寄り來  佐藤りえ

「船越英一郎」の豪快な字余りも、「はないかと」の狂句っぽさも、「近寄り來」の定石で綺麗に収めてしまうところもいい。ずいぶん洒落ている。しかも馬鹿馬鹿しい。なにしろ崖が船越英一郎についてまわるのではなく、船越英一郎のほうが崖を探しているのである。長年まとわりついたイメージが、いつのまにか本人の習性になっている。崖を求めて、頭で考えるより先に身体が寄ってゆく。だから「探しけり」ではなく、「近寄り來」なのだ。

この句集、句の形にもずいぶん幅がある。同じ場所にイーゼルを据えっぱなしにしていない。

怪盜の声ソプラノでありぬべし  同

怪盜の声がソプラノであるかどうか、そんなことは知らないし考えたこともない。しかし「でありぬべし」といわれると、そ、そうかもしれないな、と思う。理は全くないが、もったいぶった言い回しの効果で、さもありなんと説得されてしまう。

怪盜。ソプラノ。

並べてみると、たしかに似合う。黒いマントでバリトンでは、ちょっと重い。ソプラノなら屋根から屋根へ飛んでゆけそうな気がする。

踊るやうにも揉み合つて瀧に消ゆ  同

たいへんなことになっている。二人か三人か知らないが揉み合っていて、そのまま瀧に消えてしまった。

ところが「踊るやうにも」ときた。

人が瀧に落ちるところを見て、踊っているみたいだな、とは普通いわない。けれど、いわれると見える。身体がくるっとして、袖なんかもひらっとして、事件なのに滑稽かつ優雅である。

ご遺体は佛か人か雲の峰  同

「佛」という言葉自体は、刑事ものではおなじみだ。ところが「佛か人か」と問われた途端、ありふれたその語がふっと大きな問いになる。人は死んだら佛なのか、それともなお人なのか。答えの出ないまま、雲の峰が立っている。人ひとりが死んでも、夏はでっかくそこにある。その感じが、深々と無常だ。

さらにこの句集、あとがきのかわりに、最後に「小説」までついている。題して『どどめ色の研究』。副題に「いるか探偵QPQP 最初の事件」とあり、シャーロック・ホームズシリーズの最初の作品『緋色の研究』を丁寧にパロっている。どどめ色は打ち身の青あざだとか、血の気の引いた青紫色の唇などを形容するときに使われる色。緋色よりもずっと事件向きだ。

とまあ、物騒なことがいろいろ起きるのに血なまぐさくはならず、形は端正なのに名句っぽく澄ましてもいない。その「あいだへん」がこの句集の魅力だ。わたしもこういう句集をつくりたい。

そういう句が百句でも二百句でもあれば、話は早い。

ないので困っている。

2025-12-14

小津夜景【番外・音楽千夜一夜】ジェドゥ=ブレイ・アンボリーのスープ

【番外・音楽千夜一夜】
ジェドゥ=ブレイ・アンボリーのスープ

小津夜景



このあいだ新しいレコード屋へ行った。

知り合いに「行け行け」と十年くらい言われつづけ、そのたび「はいはい」とうなずくだけで済ませてきた店である。それが、十年ぶんの面倒くささを一気に払うみたいに急に行く気になった。

店に入ると、通路が一本、細く伸びていた。

うなぎの寝床をさらに半分に折りたたんだような狭さで、もはや寝床ではなくうなぎの神経に入っていく気分である。左右の壁は全部レコード。人がすれ違う余裕はない。突き当たりには店主。その横には老犬がいる。

老犬に見張られながら、知らない音楽ばかり並んでいる棚を神妙な顔つきで眺めていく。ジャケットが気に入ったのでレ・ディアブロタンというガボンのバンドのレコードを買った。

で、家で聴いたら、これがまあ散らかっている。

別に悪口ではなく、散らかった部屋に住んでいる人が、その散らかりを「ちょうどいい」と言っている感じ。いろんな出自の音が置きっぱなしで鳴っていて、誰も片づけようとしない。それでも崩れない。崩れないまま生活が成り立っている。録音が粗いとか技量がどうこうではなく、これはもう趣味性の問題で、整えた瞬間に死ぬタイプの散らかりだ。

ギターはじゃらっとして、ホーンはやや上ずり、ドラムは陽気で、なぜかその陽気さが物悲しい。昼の光がまだけだるくて、なのにそこへ夜の影がそろりと寄ってくる時刻。あれを音にするとたぶんこうなる。好き嫌いではなく、街角の景色として聴くとしっくりくる。ハイライフというジャンルらしい。

この話を知り合いにすると、すぐ食いついてきた。

「アンボリー、聴いたことある? ジェドゥ=ブレイ・アンボリー」

こちらが「ないよ」言う隙を与えずさらに続ける。

「ハイライフに一個乗っけてシミグワ・ドってジャンルをつくった人。まあ、俺ジャンル、の人だな」との由。

俺ジャンル。いい言葉だ。まだ聴いてもいないのに、「ああ、そういう人か」と九割くらい理解したような気になる。

と思ったのだが、いざ聴いてみると、こちらの音楽知識が心もとなさすぎて、どこが「俺」でどこが「ジャンル」なのかさっぱり摑めなかった。それでも、いい。ものすごくいい。軽いハイライフの上にファンクが乗ったり、ジャズが乗ったり。そのあいだをアンボリーのしゃがれた語り歌がマイペースで横断していく。それぞれのタイヤが好き勝手な速度で回っているのに、車は快適に前へと進んでいく。癖になる。

ちなみにレ・ディアブロタンとは別物だ。あっちは「散らかっているけど居心地のいい部屋」。多民族都市の雑踏みたいな、自然発生の寄せ集まり。一方アンボリーは「散らかって見えるようにデザインされた部屋」。おしゃれなアッサンブラージュの手触りがある。

調べてみたところ、アンボリーはガーナではちゃんと巨匠で、七〇年代のハイライフ再編の中核を担っている。ラップを商業音楽に持ち込んだ最初期の人でもあるとか。ただ世界的には巨匠というよりレコード好きが反応する奇才くらいの扱いだ。俺ジャンルの人の宿命なのかもしれない。


「音楽っていうのはアプローチの問題なんだ。うまいスープには、ちゃんとした材料が必要だろう? 俺のスープは、ハイライフとジャズ、カリプソ、ファンクを組み合わせて、それらを全部ひとつに混ぜ込んだものだ。そのやり方がうまくいくんだよ」

スープ、と言われて腑に落ちる。鍋の底で具がおのおのぷかぷか揺れている状態。たしかにそれだ。ちなみにシミグワ・ドはトウィ語で「私は王であり、玉座に座っている」という意味らしいが、アンボリー談なのでどこまで本当かはわからないな、と思いつつ YouTube を開いた。 

すると、つい二ヶ月前の KEXP で、七十八歳のアンボリーが、さらっと立って、さらっと歌っている映像が出てきた。

いや、立つんだ。ライブやるんだ。普通に現役なんだ。

ということは、まだ生で見られる可能性が残っているってこと?

すっかりもう伝説人かと思ったら、ぜんぜん違った。

2023-08-20

【小津夜景✕西原天気の音楽千夜一夜】エミール・ロンドニアン「Missing Arrow」

【小津夜景✕西原天気の音楽千夜一夜】
エミール・ロンドニアン「Missing Arrow」


天気●今週はゲストをお招きしています。

夜景●今日持ってきたのはエミール・ロンドニアンの「Missing Arrow」です。

 

夜景●エミール・ロンドニアンはストラスブール出身のジャズ・トリオで、この曲はファーストEP『Jazz Contenders』に収録されています。メンバーはベースギターのテオ・トリッチュ、キーボードのニルス・ボイニー、ドラムのマチュー・ドラゴ。ゲストのサックスはレオン・ファル。全員クラシック育ちのミュージシャンです。

天気●トリオを基本ユニットとして固定して、リード楽器をゲストで迎えるというスタイルは、融通がきいて、とても合理的な組織運営に思えます。

夜景●この曲のサックスが羽を広げて飛んでいるみたいな感じ、めっちゃ好きなんです。疾走するビートの上に、ゆったりとしたムードが乗っかっている。夢の中で、夜の街を彷徨ってるみたい。

天気●のびのびした演奏ですね。ちょっとダンサブルにも思える基本のリフレインに、サックスが乗る。ちょっとしたメロディの機微が、その「夢の中」感なのかもしれません。

夜景●ミュージックビデオもイメージの断片の編集で、なんとなく徘徊に通じる雰囲気がありますよね。

天気●コラージュがいい感じ。ハンディカム的な撮影も、全体を活き活きさせてます。

夜景●あとタイトルも好き。「行方不明」が迷子でしょ。で、「矢」。センスが鋭角。

天気●なにかの寓意とか象徴とかあるんでしょうか。

夜景●うーん、わからない…。

天気●わかんないけど、失われたとか、行方不明って、含意豊かな気がする。たしかにかっこいい曲名です。

夜景●この夏、彼らはいろんな町のジャズ・フェスティバルに出演しているようで、わたしもつい先日、ニースのジャズ・フェスティバルで初めて聴いたんです。彼らのステージは明るい時間帯だったせいか観客が少なくて。あまりに人がまばらだから、リハーサルなのかなと思って眺めていたら、本番だったという。楽しかったけど。

天気●おお! 南仏のジャズフェス! 気持ちよさそう!

夜景●ニースのジャズ・フェスティバルは1948年に世界初の国際ジャズ音楽祭として始まったのですが、規模はこじんまりとしています。大きめの盆踊りくらいな感じ。全4日間で出演するミュージシャンは計24組。先日フジロックがあったので出演者数を見たら、総勢212組とあってびっくりしました。


(最終回まで、あと697夜)

2022-11-27

小津夜景 川村秀憲・大塚凱著『AI研究者と俳人 人はなぜ俳句を詠むのか』を読みながら、秋の休日をすごした。

川村秀憲・大塚凱著『AI研究者と俳人 人はなぜ俳句を詠むのか』を読みながら、秋の休日をすごした。


小津夜景


1.

ワープロというものが出始めたころ、うわ、なんて怖い道具なんだ、と思った。だってそれがあれば、いまだ形にならないもやもやした考えが、いくらでもディスプレイに転写できるんだもの。またその可視化されたもやもやをざっと見渡し、あたりをつけながら自分の考えの核を切り出し、思考として造形してゆく作業も、紙に書いていたときと比較にならないくらいかんたんにできてしまう。

紙にしろ、ワープロにしろ、こうした道具はいわば脳の外付けのハードディスクであり、それが貴重だったり存在しなかったりしたころと比べると、生身の脳にかかる負荷は圧倒的に減った。

逆に言う。考える時、頭の中に形づくられつつあるものをいったん書き出し、それを足掛かりとして何かを導き出そうとするのは編集的発想である。だが考えることそれ自体は編集する/デザインする技術とイコールではない。思考の本領は、思考以前として存在する混沌に身をゆだね、そっと息をひそめて、世界ともいえぬ世界にじっと耳をかたむける曖昧な時間にあるのだ。

2.

とはいうものの、思考以前の混沌を一種の神秘として扱うのはつまらない。そこで川村秀憲、大塚凱著『AI研究者と俳人 人はなぜ俳句を詠むのか』を読んでみた。川村は俳句という切り口から知能とは何かを研究している学者で、研究が進むにつれて「そもそも人間は言語をどのように生成するのか」といったより深い問題につきあたり、混沌たる非線形運動をプログラムによって表現することを試みるようになったという。その欲求を、川村は次のように明快に語る。
川村  人が創作すること、私が『創作をする機械』を創作すること。この両者の関係を考えていくと、もしかしたら、知的な興味、人間だけがもつ『知能』に関わる、きわめて根源的な興味という点で、両者はつながっています。(…)私もそうですが、われわれは何をしているのかを知り、われわれの営みについての解釈をアップデートしたいのだと思います。
われわれは何をしているのかを知る。なんと魅力的な問題設定だろう。ただ「人はなぜ俳句を詠むのか」というタイトルは少し厄介かも。ほかの文芸ジャンルと違って、創作欲以外の動機から俳句をやっている人が少なくないことは、その尋常でない広がり方を見れば一目瞭然なのだから。自然と触れ合え、歳時記や土地の歴史を学べ、仲間ができ、足腰が強くもなれば頭の体操にもなり、さらには日々の歩みを一冊の本として上梓することもできる結構尽くめの趣味。文化活動としての俳句とはこうしたものだ。

そこで俳人・大塚凱の出番となる。大塚は川本のテーマに見合うよう、季語とは効率的に情報を折り畳むためのtips(こつ)であり貨幣のように流通するとか、俳人にはエンコードとデコードの手捌きを楽しむ気質があるとか、知を共有・調整する歳時記の役割とか、言語と創作の面にかかわる俳句の基本設計および俳人的資質をさまざまな言い方で整理し、その上で「俳句とは、その異常な短さという形式と闘い、形式を往なし、形式を味方につけようとした人間たちの『わざ』の蓄積です」とまとめる。

とりわけ興味深かったのは、AI同様、人間にとっても俳句を詠むこと自体には意味がない、それは意味ではなく挨拶、つまり存在を問う営みであるといった大塚の発言だ。もちろん、この考え方自体は俳人にとって周知のものだろう。ところがAIが俳句を読むことの意味とそれを照らし合わせたとき、周知の概念は新たな相貌をもつのである。
大塚 AIで俳句を詠むことに意味があるのか。その問いには、「ない」とも答えられます。なぜかというと、人間が俳句を詠むこと自体に「意味がない」と思っているからです。人間が俳句をつくるのも、AIで俳句を生成するのも、同程度に無意味であるという把握です。
しかしながら、これは無駄に虚無的なように聞こえるでしょうし、少々微妙な言い方なので、すこし方向を変えて、私は俳句と関わることにすこしでも意味があるとしたら、なんだろうと考えているうち、「存問」ということに思いが至りました。これ、「あいさつ」という意味で、高浜虚子は「俳句は存問である」といっています。俳句とはつまり、あいさつである、と。
俳句をつくることには、AIと同じく意味がない。しかしその奥にはAIとは違う欲求がある。それは過去を、未来を、そしてここにいる自分をも含めた「世界という存在」への声かけへと近づいてゆく。あなたはそこにいた。わたしはここにいる。いつかここにくる誰かよ。俳句の異常ともいえる短さが、ただ存在を問うという営みをさらに加速させる。書けば書くほど、自分は存在の徴(しるし)を確かめつづけているのだと気づく。だがそれはなぜだろう。存在の確認が、幸福への願いと重なるのだろうか? 

3.

この本の面白さは、人工知能や俳句の枠を超えて「つまりものをつくるとはどういうことなのか?」をめぐる対話が、それぞれの現場の実感をもってして繰り返し交わされているところにある。多くの場合、その語り口は逡巡的かつ仮説的であり、あくまでも正解を手探りする奥ゆかしさがある。その反面、倫理的な領域にふみこむ箇所は腑に落ちないものがあった。

例えば「AI俳句」と聞くと、おそらく多くの人は「俳句を詠むAI」を想像すると思う。が、川村氏の思い描く「調和系」の未来はもっと彩り豊かで、人が俳句をつくるのを添削したり、推敲を手伝ったりとアシストするようなAIをひとつの理想のモデルとして語る。
川村 AIが将来、どんな存在になっていくのか。人間がAIに取って代わられるとか、人間と対立するとか、SFが描くディストピアによく出てくるのですが、それはやはり絵空事で、現実には、人工知能と人間が、お互いに不可分な一つのシステムとして存在していくと思います。そのほうが望ましいかたちでしょう。
「生きる」意味は、人間側にしかないので、それが人間から人工知能に移っていくことはあり得ません。
私の研究室には「調和系工学研究室」という名前が付いています。その「調和」は、人と機械、人間と人工知能の調和です。お互いに必要な存在として調和することで、これまで得られなかったような幸せが生まれると考えています。それは、例えば工場で何かを製造する過程での調和かもしれないし、俳句のような娯楽をともにたのしむことかもしれない。大きな枠組みでいえば、人間の精神的安定や生活の質的向上に、人工知能が寄与するといっていいでしょう。(…)
個人的な実感では、人間をアシストするものとしてのAIが、生きるために必要ではない些事にまでことごとく介入し、社会と溶け合っている時代はすでに隆盛をきわめ、人間は自力でものを考え抜くポテンシャルを深刻なまでに失っている。しかも川村氏が想定するのは今より格段に進んだモデル、さながら子と話す母や、夫と長年連れ添う妻が、子や夫が自分たちでうまく言語化できないことを本人に成り代わってサジェスチョンしてあげるように、AI先生が俳句を書きたい人の「胸の中の思い」を介助する世界だ。膨大な型・例句・句評を記憶し、指導のノウハウを搭載したAI先生が、利用者からのフィードバックを日々分析し、SNSやネットショッピングの履歴から各自のこだわりのテーマやフィーリングを識別し、洞察をまとめて相手の嗜好に合った、おすすめの添削サーヴィスを提供するわけである。

こうした「人とAIが一体となったシステム観」は、それによって人間を確実にマインドコントロールへと追い込むことが可能なそれと寸分たがわない。政治・宗教・教育・商業、何につけ、人間の心は刷り込みに弱い。有形無形の暴力によって、かんたんに知性を破壊され、「生きる」意味を奪われ、自滅していく。

私は「人工知能と人間が、お互いに不可分な一つのシステムとして存在すること」や「人間と人工知能とがお互いに必要な存在として調和すること」を悪だとは全く思っていない。けれども仮にそのシステムが成立するとして、その是非にかんする考察を一切すっとばして、その状態を「幸せ」と表現したり、人間の知性の壊れやすさに無頓着でいられたりする態度は知的じゃないと思う。来るべきサーヴィスは、おおよそ無私でも公共でもないのだから。

4.

おまけ。この本に触発されて、私も自分自身のために、言葉というものが世界に対してどのような位置にあるのかを、ぼんやりと考えてみた。

言語とは、果てしなく広がる非言語領域から、なけなしの一部分を編集的に切り出した粗略な体系にすぎない。さながら音楽が、耳が潜在的に体験している万象にくらべて粗略でしかないように。そしてこの意味で、混沌の領域は確実に存在する。記号は可能性を生み出すとともに、不可能性も生み出すのだ。これからも人は記号の向こう側を想像してやまないだろう。

世界は豊かな原生林であり、私はつつましい庭師である。私は世界を自分好みに剪定できるわけではない。それでも、なんとかして、記号の向こう側にある徴(しるし)を、記号の端にからめとって持ち帰ろうとする。原生林に身をゆだね、そっと息をひそめて、コントロールのきかない空間で17音の連なりができあがるように仕向け、一句が育つのを待つ。できあがった一句を覗き込むと、そこに書かれているのはいつも同じ。「この世界は存在するか?」という問いだ。


川村秀憲・大塚凱著『AI研究者と俳人 人はなぜ俳句を詠むのか』2022年3月/dZERO

2022-09-24

小津夜景〔今週号の表紙〕第805号 ジャダフプール大学

〔今週号の表紙〕第805号 ジャダフプール大学

小津夜景


いまコルカタにいます。

近所にジャダフプール大学があるので行ってみました。


なかなかの古さです。建物がまるごと昔の自治会BOXみたいな感じ。


この大学で働いている人に「学生時代を思い出します」と伝えたら、「ジャダブプール大学はインドでもっとも学生運動が盛んな大学なんですよ」と教えてくれました。


ちなみにジャダフプール大学の公式サイトのトップページには美しいクリケット場の写真が出てくるのですが、それは大学がプロのクリケットクラブに貸し出している練習場で、企業が手入れをしており、学生は使用禁止なのだそうです。


ブログにもインド日記をつけていまして、大学とその周辺の写真があります)


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2022-06-19

小津夜景〔今週号の表紙〕第791号 プラットフォーム

〔今週号の表紙〕第791号 プラットフォーム

小津夜景




さいきんは、新しく出すことになった句集のことを考えています。

いったいなにをどうしたら良いものができあがるのかあって。

で、いつも思うのは、「自分はこの一句が好きだ」とか「この一句を入れたい」などと思ったとして、けれどもそれが「句集」という単位にとって不要なものであるならば、そこは入れないようにする。そういった作業が「考える」ということ、自己分析のセッションであるということです。

一句の中に創作のプロセスがあるように、一冊の句集の中にも制作のプロセスがあります。〈自分の心〉と〈一句の花〉とをじっと見比べながら、句集という庭を生き生きとダイナミックな植生状態にもっていくためにはどうすればいいのか考える。それによって、結果的には私自身が救われる。完全に庭いじりと一緒です。

写真はパリの路面電車のプラットフォーム。行ってきたのは一週間前なのですが、寒くてびっくりしました。そして今日6月17日は39度まで上昇するそうです。


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2022-03-06

〔今週号の表紙〕第776号 ヴェネツィア海洋史博物館 小津夜景

〔今週号の表紙〕第776号 ヴェネツィア海洋史博物館

小津夜景


水の都・ヴェネツィア海洋史博物館を見にいったのは2年前の2月。ちょうどコロナウイルス騒ぎがニュースになりだしたころでした。

海軍にまつわる文化財のほか、航海機器や船乗りの衣装、船の模型、また実際に使われていた漁船やゴンドラ、アジアの亀甲船や藁舟など、さまざまな海と生きるためのコレクションがありました。

個人的に一番たのしかったのは、最上階の貝殻コレクション。貝好きな方にはおすすめ。





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2022-02-13

〔今週号の表紙〕第773号 段ボールの夜 小津夜景

〔今週号の表紙〕第773号 段ボールの夜


小津夜景


いろいろあって引っ越すことになり、去年の夏から古い家と新しい家を行ったり来たりしていた。

で、ついに先週、古い家を引き払った。

こんなに時間をかけて引っ越すんだもの、新しい家での暮らしはさぞスムースに始まるだろう、などと夢を見ていたわたしは浅はかだった。現在、家の中は段ボールだらけ。なんでも物資不足と流通不備とのことで、まったく内装工事が終わらなかったのである。

でも、段ボールに囲まれて眠るのはたのしい。

新しい家は、夜、ものすごく静かだ。

あまりにも静かなので、ふとんに入ってじっとしていると、昼間のいろんな生活音が、ふっと耳に還ってくる。

その音を、段ボールの気配のする闇のまんなかで、聞くともなしに聞いている。

そして思う。幼いころもこうだった、と。

それにしても、音って波だなあ。まるで目のない魚になって、洞窟のなかを泳いでいるみたいだ。


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2021-06-06

【小津夜景✕西原天気の音楽千夜一夜】ジャンゴ・ラインハルト「I'll See You In My Dreams」

【小津夜景✕西原天気の音楽千夜一夜】
ジャンゴ・ラインハルト「I'll See You In My Dreams」

今回は『漢詩の手帖:いつかたこぶねになる日』(素粒社/2020年11月)が評判の小津夜景さんをゲストにお迎えしました。
夜景●朝の目覚まし曲というのがあります。

天気●目覚まし時計のかわり? 私も若い頃、カセットデッキにタイマーをセットして、ベートーヴェン「皇帝」やブラジルもので起きてた時期があります。

夜景●「皇帝」は血圧上がりそう。ブラジルものはね、生まれて初めて友だちの家にお泊まりした朝の目覚まし曲がスタン・ゲッツとジョアン・ジルベルトのアルバムでした。朝にぴったりですよね。

天気●ボサノヴァは二度寝しちゃいそうですけどね。私は「実用的」にもう少しアップテンポのサンバっぽいのにしてましたね。

夜景●それも血圧上げる系ですね。わたしは同じものをしつこく聞く性格で、初代がセロニアス・モンク『ソロ・モンク』、2代目がボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ『ライヴ!』。いまは3代目で、ジャンゴ・ラインハルトの「I'll See You In My Dreams」。ここ10年くらい聞いてます。

 

夜景●邦題は「夢で逢いましょう」です。おめざの曲名としては変ですけど、これが聞こえてくると、毎朝、幸福な気分で起きられるんですよ。素敵な世界と、ぽかーんと出くわしたみたいに。

天気●ああ、それは幸せそう。曲名は夢だけど、「ジャンゴ」って、ロマ語で「私は目覚める」という意味だそうですから、朝にぴったりかもですね。

夜景●なるほど! ジャンゴの演奏というのは正確で、情感豊か。10代のころの大火傷で、親指、人差し指、中指の3本でギターを弾くところ、映像で見るとびっくりします。

天気●これねえ、恥ずかしながら最近知って、吃驚仰天でした。メロディだと、3本どころか、人差し指、中指の2本だけですからねえ。火傷が原因なんですね。それはいま知った。

夜景●ジャンゴのことはウディ・アレン監督の「ギター弾きの恋」で知りました。彼の相方だったステファン・グラッペリのアルバムは、それより前から聴いていたのですけれど、ふしぎとジャンゴに辿りつかなかったんです。「Minor Swing」は二人の相性が本当にいいですよね。

天気●ステファン・グラッペリは一時期よく聴きました。

夜景●グラッペリって、わたしの中ではジョナス・メカスとかぶるんです。すごく泣きが強いのに、ふしぎと乾いている。郷愁に対する冷めた距離感があるというか。亡命者の感性の、ひとつの典型なのかもしれない。

天気●洒脱な感じ。同じジャズ・バイオリンでも、米国黒人、例えばスタッフ・スミスなんかはブルージーで、すいぶんと風合いが違います。

夜景●ノルマンディーに住んでいたころ、電車に乗って、パリのシテ・ドゥ・ラ・ミュージックでやっていたジャンゴの回顧展を観に行ったことがあります。彼のことが好きすぎて。楽器がぼろっぼろでぐっときました。彼の出自はジプシーですけれど、フランスとジプシーとのかかわりについても学ぶところがありました。

天気●ヨーロッパのジャズにはジプシーの要素が混じるのでしょうね。本場アメリカとはまたすこしちがう。

夜景●ちがいますねえ。最初は戸惑いました。わたしの住んでいる町は、ミュージアムショップとかギフトショップとか、そういった観光客の多い場所で、きまってジャンゴのベストアルバムが売っているんですよ。地元の名産品みたいに。

天気●きっとフランスの誇りなのでしょう。

夜景●イヴ・モンタン、セルジュ・ゲンスブール、ジャンゴ・ラインハルトが男性部門の三大ギフト・ショップ・ミュージシャンなんです。


(最終回まで、あと804夜)

2020-08-16

〔今週号の表紙〕第695号 玄関 小津夜景

〔今週号の表紙〕 
第695号 玄関

小津夜景




写真は近所のお宅の玄関。カラーで見るとすごく鄙びている。

北フランスの住居の床は絨毯のことが多く、たまに木の床があるというのが一般的だ。

これが南フランスに来ると、大理石とタイルが主流となる。

南フランスではこれまで4軒の家に住み、そのうち3軒が白の大理石だった。床が白いと室内の光の量が増えて気分が明るくなる。けれども、たまに古いタイルの家に行くと、これはこれで住みやすそうだなあと思う。



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2020-06-21

エスエフの蜜を吸うセキエツ 11の皿でたどる関悦史の世界 小津夜景

エスエフの蜜を吸うセキエツ
11の皿でたどる関悦史の世界

小津夜景

『翻車魚』vol.3(2019年11月16日)より転載
若干の加筆・修正があります

0 皿目【料理の前に】

関悦史の一〇〇句を選んでそれについて論ぜよ、との依頼が来た。いったいなんで来たのか。どうかんがえても筆者の手にあまる。しかし引き受けたからには責任を果たさなければならないので、句論という形ではなく、「関悦史の一〇〇句を素材ごとに盛り分け、読者に少しずつ試食してもらう」といったキュレーション方式で対応したい。また枚数の制限もあるため「黙って食えばわかる」的な句は無視して、読者がとっつきにくそうなものを中心に解説する。

なお関の作風については、まずもって『六十億本の回転する曲がつた棒』『花咲く機械状独身者たちの活造り』といった句集のタイトルがその特質をはっきりと物語っている。箇条書きにすると、次の4点だ。

①SF

②生命の変形

③語の束ね技

④笑い

ここから供する11の皿は、これらの特質をたっぷりと味わうコースになっている。ではどうぞよろしく。


1 皿目【古典文学】 5句

虚空イマ蝶ガワガ名ヲ書キヰタリ

カササギト撞着語法(おくしもろん)ノ夜(ヨル)ニ耽ル

深宇宙ノ漁火ニ蟹ニホヒケル

詩ニ老イユキ秋ノ草木モ怪物(べむ)ノ風

アハレ冪乗(ベキジヨウ)尾モ身ニ生リテ咆(ホ)エハジム

※括弧内はルビ。これ以降の引用句も同様。

1皿目の素材は古典文学。百人一首のパロディ「百人斬首」より選んだ。「百人斬首」は不条理世界、宇宙、変身、憑依といったSF系脱人間中心主義のモチーフで全句をぴしりと揃えた連作で、見た目がこってりしているので尻ごみする人が多いにちがいない。が、実はこれ、往年の『SFマガジン』をめくる気分で読めてしまう。

カササギト撞着語法(おくしもろん)ノ夜(ヨル)ニ耽(フケ)〉の本歌は大伴家持の〈かささぎのわたせる橋におく霜のしろきをみれば夜ぞふけにける〉。「おく霜の」をオクシモロンにひねることで生まれるポップな幻想性に、物語のイメージと古来近しい〈カササギ〉を添えて、ボルヘス的な雰囲気に仕立てた一句だ。

深宇宙(シンウチウ)ノ漁火(イサリビ)ニ蟹ニホヒケル〉の本歌は紀貫之〈人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける〉。平安の春昼の景色から〈深宇宙〉という音を引き出すセンスが関らしい。また〈深宇宙〉と〈蟹ニホイケル〉を橋渡しする語として、銀河とみまがう〈漁火〉をもってきたのも見事である。

虚空イマ蝶ガワガ名ヲ書キヰタリ〉の本歌は壬生忠見〈恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか〉。さっぱりとした調理で、俳句としても正統派。

アハレ冪乗(ベキジヨウ)尾モ身ニ生リテ咆(ホ)エハジム〉の本歌は藤原伊尹〈あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな〉。人を恋い待つうちに妖怪と化してしまったこの変身譚は本歌の後日篇としても読める。異世界の時空の有無をいわせぬ暴力性を演出する〈アハレ冪乗〉が、フランシス・ベーコンの絵画のように壮絶だ。

詩ニ老イユキ秋ノ草木モ怪物(べむ)ノ風〉の本歌は文屋康秀〈吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ〉。大意は「詩を志すうちにこんなにも老いた私よ。いまや妖怪の匂いを秋の野に漂わせるほどだ」。「むべ」から〈怪物(べむ)〉をみちびく機転がいい。〈詩ニ老イユキ〉は「死、匂いゆき」の掛詞で、加藤郁乎〈天命は詩に老いてけり秋の暮〉および李賀〈雨冷香魂弔書客/秋墳鬼唱鮑家詩〉(冷たい雨。亡き詩人の香しき魂が私を弔う。秋の墓原。亡霊たちが葬送の詩を唱う。)が意識されている。


2 皿目【現代文学】 5句

テクストや梨のしづくに蟻溺れ

ロブ=グリエ的明るさや蟻地獄

縛り棄てなる『ノルウェイの森』田に白鷺

少年の括約筋と嚏かな

カフカかの虫の遊びをせむといふ

2皿目は、現代文学を素材とした濃口のエロティシズムである。〈テクストや梨のしづくに蟻溺れ〉は吉岡実〈秋ひらく詩集の余白夜ふかみ蟻のあしおとふとききにけり〉と正岡子規〈梨むくや甘き雫の刃を垂るる〉とがオーバーラップする観念の濡れ場のようだ。〈ロブ=グリエ的明るさや蟻地獄〉は倒錯的エロスを描いて戦後文学および映画の最前線に立ったロブ=グリエという固有名に〈蟻地獄〉の花を添えた、淫らで毒々しい一品である。村上春樹〈縛り棄てなる『ノルウェイの森』田に白鷺〉と稲垣足穂〈少年の括約筋と嚏かな〉は緊縛や肛門を介したフェティッシュを感じさせる。〈カフカかの虫の遊びをせむといふ〉はフランツ・カフカの『変身』を中村苑子〈翁かの桃の遊びをせむといふ〉の鍋に放り込んで、毛色の変わった幽玄を香らせるに至った。


3 皿目【芸術】 5句

皿皿皿皿皿血皿皿皿皿

白蝶に国家(モロク)と市場(ヘル)の翳りかな

死にきらぬゴキブリが聴くクセナキス

二〇世紀の美術はじまる泉かな

ダ・ヴィンチよ真夏なるわが外接円

3皿目の素材は芸術である。〈皿皿皿皿皿血皿皿皿皿〉は新國誠一「血と皿」、高橋新吉「皿」、川上三太郎〈恐山 石石石石 死死死〉につらなるファンキーな挨拶句。血が一つだけ、ちょこん、と混じっているところがキューティー・ホラーだ。

白蝶に国家(モロク)と市場(ヘル)の翳りかな〉はドイツ表現主義の大家フリッツ・ラング『メトロポリス』を借景とし、壊れやすい白蝶の羽にかがよう陰影に、国家と資本の暴力が吹き荒れるディストピアを幻視してみせた。

死にきらぬゴキブリが聴くクセナキス〉は瀕死のいきものにコンピュータ演算の世界(SFの文脈では宇宙精神=絶対的理性を意味する)を表象するクセナキスをあしらい、人間と権力の相克するサイバーパンクな光景を描いた。

二〇世紀の美術はじまる泉かな〉〈ダ・ヴィンチよ真夏なるわが外接円〉はどちらも下五の着地があざやか。デュシャンの句は知的で涼しげ。ダ・ヴィンチの句はウィトルウィウス的人体図の黄金率からの連想で、〈外接円〉が黄金の満月のイメージを装う。


4 皿目【記号】 5句

π(パイ)の字のみな歩み去る秋の暮

人界窺ふ√(へいほうこん)か蝮蛇草

冷えて浮く∫(インテグラル)のかたちかな

我に∈(げんとしてふくまるる)枯野かな 

Ω(おはり)からまたI(われ)を出す尺蠖よ

4皿目の素材は記号。数学イベント「MATH POWER 2016」への出演をきっかけとして作品の数が増えたようだ。数学記号を異星人に見立てたものや、その意味をそのまま利用したものなど手法はさまざま。


5 皿目【BL】 10句

「あいつ綺麗な顔して何食つたらあんな巨根に」風光る

ヤベエ勃つたと屈むお前と春の暮

春水なる汝(な)を抱かんとす大気我(われ)

阿修羅いまさらはれて夜の花吹雪

野郎が何で俺に抱きつく更衣

美少年に水かけて虹生みにけり

アナル既に縦割れの兄紺浴衣

来ちやつたと立つ青年や葱など提げ

フィギュアスケート男子回転(スピン)し肉の花器

万のペニスに一美童投げ冬至とす

5皿目の素材はBL。ご覧のとおりエンターテイナーとしての関の挙動には一ミリのためらいもない。肩の力が抜けきっているのかアホらしいことこの上なく、しかも名句が多い。


6 皿目【暮らし】 10句

逢ひたき人以外とは遇ふ祭かな

赤とんぼ手配写真みな友の如し

昨日ここはセブンイレブン秋茜

木造アパート和姦の悲鳴漏れて秋

「うちの姉です食べてください」袋に柿

防空壕埋まりし庭に冬日の猫

ニンゲンニモドシテと言ふ鸚鵡冬

まだ夢を見てゐる牡蠣を食ひにけり

春の異人よ鳥居は絞首台ではない

くらげに「おーい」と手を振る浪速の女学生

6皿目の素材は暮らし。心象と物象のまじわるところに生じる情趣があふれる、随筆のような句を盛りつけた。ささやかだけれど胸にのこる一コマから香る、ユーモアやペーソスのさじ加減がちょうどいい。


7 皿目【日本景】 10句

女子五人根性焼きの手に氷菓

夏うぐひす廃墟の便器かはきたる

うすごろも落つる高層団地かな

エロイエロイレマサバクタニと冷蔵庫に書かれ

ホーロー看板灼けゐて由美かおるが素足

わが前に立つヤンママの背が裸

空室のいつせいに透く花火かな

ドラえもんうつぶせに浮き秋の雨

AVの自販機ほかは冬の闇

蝋製のパスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ

7皿目の素材は日本景。すべて連作「日本景」から選んだ。森山大道のスナップ写真さながら、路上を撮影する感覚でつぎつぎ被写体をとらえてゆくこの皿は、日常にひそむ虚無がえぐり出されつつも、対象との距離の取り方が冷静なために、陰にこもらず、読後感もけっして難解にならない。関が対象を観念的に操作せず、ありのままに写生する眼と技術をもつことがよくわかる。


8 皿目【家族】 15句

ヘルパーと風呂より祖母を引き抜くなり

入歯ビニールに包まれ俺の鞄の中

祖母がベッドに這ひ上がらんともがき深夜

便始末されゐて夏がかなしからう

死なす話卓をとんぼの影群れゆき

俺のうしろの秋麗を指し誰といふ

起きあがる祖母に深夜の窓紅蓮

祖母やいま帰心の秋蝉となりもがく

亡霊のごとくに筑波秋の暮

世話しぬけば枯木がア・リ・ガ・タ・ウと言ふ

人死ねば書類の多さ十二月

灯らぬ家は寒月に浮くそこへ帰る

春の天界背より吾へとあふれ入る

抱へて遺骨の祖母躁(はしや)ぎつつバス待つ春

寺からもらつた瓦せんべいで一日生きる

8皿目の素材は家族。関の唯一の家族だった祖母の介護句から選んだ。なにげない日々をスケッチするそぶりで、死に向かうにつれて異物と化してゆく祖母の中の異界をじわじわと明るみに晒し、ラストは死後晴れて他界の異物となった祖母が姿を変えて関のかたわらにいる光景が描かれる。つまりこの皿もまた、日常詠でありつつも〈生命の変形〉という関の句の特質をもっている。

またここで描かれた異界が、斎藤史が実母と夫とを介護した折の歌集『ひたくれなゐ』で描いたそれと類似していることにも筆者は注目したい。おそらく介護を詠むときは、俳句側からすると語り手と作者の一致が高まらざるをえず、短歌側からすると私性では片づかない異物と化しつつある他人を描かざるをえないので、それぞれ逆方向から接近することになるのではないかと思う。参考として、両作をいくつかならべる(左が関悦史の句、右が斎藤史の歌)。

起きあがる祖母に深夜の窓紅蓮〉〈鬼火よりさびしきいろに眼を燃せば夜のほどろにひらくゆふがほ

祖母やいま帰心の秋蝉となりもがく〉〈生きものはとり殘されて秋終り熱き焰の舌・水を欲る

亡霊のごとくに筑波秋の暮〉〈つゆしぐれ信濃は秋の姥捨のわれを置きさり過ぎしものたち

抱へて遺骨の祖母躁(はしや)ぎつつバス待つ春〉〈おどろなるものあたたかき草枯れの此處に憩ひて行きしものあり


9 皿目【震災】 10句

永き日の家のかけらを掃きにけり

春の日や泥からフィギュア出て無傷

テラベクレルの霾る我が家の瓦礫を食へ

出日本記書かるることなし立葵

全国の線量計の御慶かな

うつろへば花かホモ・サピエンスの忌

夢に奇なるトイレが春や原子炉溶け

シテの如立つ百合あまた津波跡

秋やこの将棋倒しの鳥居の赤

月光がガソリンスタンド跡地にゐる

9皿目の素材は震災。2011年、東日本大震災の被災者となった関は、自宅の惨状を句にするとともに、東北被災地への訪問をくりかえしている。被害はおおむね淡々と詠まれ、詩的カタルシスや感情のスペクタクル化といった疎外論的文脈へおちいることを可能なかぎり回避しようとする意思が感じられる。


10 皿目【政治】 5句

安全富裕地帯(グリーンゾーン)に危険貧困地帯(レッドゾーン)接す旱かな

あらゆる夜を書物ら点りつぎ銀浪

抗議の文言投影(プロジェクション)されビルが夜涼

議事堂前秋霖ホモ・サケルとして犇(ひしめ)

マスメディアがchoros(ころす)四万人スマホ灯し

10皿目の素材は政治。〈安全富裕地帯(グリーンゾーン)に危険貧困地帯(レッドゾーン)接す旱かな〉はナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』から。〈あらゆる夜を書物ら点りつぎ銀浪〉は、まず書物が灯し火になるという着想が素晴らしく、しかもその燃える書物が焚書と啓蒙、あるいは弾圧と連帯といった相反するイメージを奇策のようにかがよわせながら〈銀浪〉すなわち天の川へと止揚するようすが圧巻である。〈抗議の文言投影(プロジェクション)されビルが夜涼〉〈議事堂前秋霖ホモ・サケルとして犇(ひしめ)〉〈マスメディアがchoros(ころす)四万人スマホ灯し〉は関が参加したデモの光景のようだ。光と闇の対置、張りのある長律が生みだすドラマチックな臨場感、言葉の大胆なとりあわせなどをていねいに味わいつつ、これらの特徴を一句に束ね上げる力強い技を堪能したい。


11 皿目【SF】 8+7+5=20句

11皿目の素材はSF。これは関の創作のメインにあたり、またすべての皿を包みこむ原型でもある。最も影響の色が濃いのは日本SF第一世代、とりわけ少年時代に洗礼を受けたと予想される小松左京、筒井康隆、眉村卓の三人だ。具体的にいうと、小松の主体の問題と管理への抵抗という政治的主題は関の中でサイバーパンクを中心とした社会派ロマンへと発展し、筒井の超虚構宣言(1974年)に始まるスペクタクル理論、メタフィクション、ヌーヴォー・ロマン、マジック・リアリズムなどをふまえた諸作品は関の認識的異化作用を求める態度となり、そして眉村の日常を基盤とした不条理、寂寥感、異物との共生は、関の内省的な心臓部分を涵養したのではないかと思われる。

〔a〕

小UFOが家通り抜け春と思ふ

うすらひやさはられてゐるうらおもて

はつなつといふものうすく目をひらく

水母が分母の仮分数にて憩ふかな

無我いまやアンドロメダは冷索麺

シュレディンガー音頭は夏を「Ψ(プサイ)にΦ(ファイ)

小鳥来て姉と名乗りぬ飼ひにけり

カットグラスに信長のやうなものけむり

〔a〕には関の十八番であるショートショート風の作品を盛りつけた。屈指のハチャハチャ句〈シュレディンガー音頭は夏を「Ψ(プサイ)にΦ(ファイ)〉はアホらしすぎて胸が熱くなる。


〔b〕

カミアツテ螺旋ニ透ケル生者死者

弦樂四重奏團(クワルテット)互ヒノ肉ヲ裂ク調ベ

軍需産業ノ商品ノ僕ラ空ヲ翔ケル

不死ノ僕ニ魂ノアル夕立カナ

汝ガ遺書ノ如ク首都アリ黴ビ始ム

国境越えクチャ地区に昼の変形菌

転生後の皮膚秋風として来たる

〔b〕には混成主体(クレオール)のモチーフを盛りつけてみた。念のために書き添えると、今回別の皿にした「古典文学」および「記号」は、この混成主体の範疇に入る。

カミアツテ螺旋ニ透ケル生者死者〉〈弦樂四重奏團(クワルテット)互ヒノ肉ヲ裂ク調ベ〉は連作「マクデブルクの館」より。腐った生気が魅力的なこの連作は、ミステリ系語彙で土台を固めたSFスラップスティック・ホラーで、作品の始めから終わりまで登場人物たちの血やら手足やら正体不明のなにやらが時空を越えて飛びまくる。他作品からの引用も随所に織りこまれ、あえもの感きわまる怪作である。

軍需産業ノ商品ノ僕ラ空ヲ翔ケル〉〈不死ノ僕ニ魂ノアル夕立カナ〉〈汝ガ遺書ノ如ク首都アリ黴ビ始ム〉は連作「飛ぶ影、歩く影」より。学徒出陣にサイバーパンクの文脈におけるポスト・ヒューマニズムの世界を接合し、死の美化と命に対する責任放棄との響きあいを描く。


〔c〕

 WTCビル崩落
かの《至高》見てゐしときの虫の声

プラハにカフカの何から何までを知りし笑ひ

人類に空爆のある雑煮かな

多くの死苦の引掻傷(エクリチュール)のある夏天

注意すれど注意すれど字の読めぬものにほかならず

〔c〕はアメリカ同時多発テロ事件からイラク侵攻までの流れをあつかった連作部分より選んだ。エンタメ性のきわだつ先ほどの(b)に対して(c)は思弁性が高い。

かの《至高》見てゐしときの虫の声〉は《至高》の目撃者である語り手に、じーんと耳をしびれさせるような虫の声が貼りついている光景である。この《至高》はアメリカ或いはイスラムのイデオロギーのみならず至高存在、特にカバラ的文脈でいう無限性=無性が暗示されているのだけれど、面白いのはこの感覚が〈プラハにカフカの何から何までを知りし笑ひ〉でも反復されることだ。すなわち、前の句では無限と無を同時に見てしまった語り手が難聴に陥るのに対し、後の句では全知という空虚に達した語り手がついに狂気の笑いに溺れるのである。

多くの死苦の引掻傷(エクリチュール)のある夏天〉では初期のデリダがフロイトを援用して根源的(無意識的)エクリチュールが引っ掻き傷であると述べたことを背景に、〈死苦の引掻傷〉と「詩句のエクリチュール」が掛詞となる。そして落書きじみたその傷をまぶしい夏空に眺めるのだが、そのとき語り手は何も理解していない。まさに〈注意すれど注意すれど字の読めぬものにほかならず〉との告白どおり、語り手は「死苦=詩句の引っ掻き傷」を読むことができないのだ。

人類に空爆のある雑煮かな〉は関の代表句とされ、人類の危機と平凡な日常との屈託なき同居を描いたと評されることが多い。しかしこの評は関の俳句の特質を考慮していない上に、連作の流れとも噛み合っていない。では他にどう読めるかというと、筆者はこの句の〈雑煮〉を〈空爆〉で伸び爛れてしまった人類の姿だと思って読んでいる。そう思う理由はシンプルで、関には餅を変幻自在のエイリアンとして描いた連作「餅」のほか〈餅の事故や無人爆撃機や孤死待つ〉〈銀河と銀河の衝突思ふ餅雑炊〉〈鏡餅は人撲ち終へし天女のさま〉〈「ルクス・エテルナ」聴き餅食へば吾も切餅〉〈レンジの餅ら伸び来て綾波レイの声〉といった餅の句があるのだけれど、ご覧のとおりいつでも平凡な日常とは真逆の、不条理・事故・破損・死といった連想を含んでいるからだ。そんなわけで掲句も、ふだんの関の調理法にしたがって読めば、空爆をきっかけとして日常を死が侵蝕するイメージ、もっといえば触れえないはずの世界が主体に食い込んでしまったイメージが〈雑煮〉によって暗示されていると考えるのが自然である。


【おわりに】

セキエツを味わうための11のメニュウはいかがだったろうか。質・量ともにひとかたならぬ力量をもつこの作家の味が少しでも伝わったなら案内役としてこれほどうれしいことはない。

さて最後に語りたいのが8皿目「家族」の中の〈世話しぬけば枯木がア・リ・ガ・タ・ウと言ふ〉という句のことだ。実は筆者は、この句を初めて読んだとき、死にゆく老人を〈枯木〉に喩える手法に批評を拒絶するたぐいのロマン主義を感じて全く良い印象をもたなかった。ところが関の作品をすべて読み終え、あたらめてこの句に戻ってくると、「ア・リ・ガ・タ・ウ」という書きぶりが露骨にSF的であることに気がついた。そしてこの「ア・リ・ガ・タ・ウ」は異界のものへと成り果てつつある祖母がかろうじて発したさいごの人間の言葉であり、つまり関が見ていたのは比喩ではなく本物の枯木=エイリアンだったことを理解したのだ。

かつて関はテレビのインタビューで「祖母の介護を終えたあとこの世界すべてが異界となった」と語ったことがある。たしかに関が心に抱く人間への渇望は、この世の異界性を描くことによって逆説的に語られ、また歪んだ、だが時空を超えうる生命を描くことによっても追い求められているようだ。とはいえこの興味をそそる話は、今日のメニュウとはまた別のコース。いつかまた別の機会に提供することにしよう。


  ガイコツノ    見よ!骸骨どもだ
ウエヲヨソーテ  祝日の晴着をきて
サクラカナ    花を眺めているぞ
鬼貫(1661~1738)
ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』(早川書房)より


2020-06-14

〔今週号の表紙〕第686号 ニース天文台 小津夜景

〔今週号の表紙〕第686号 ニース天文台

小津夜景


ニース天文台(Observatoire de Nice)はモン・グロ(Mont Gros)の頂上にあります。街の中心から市バスで20分の距離です。

週に数回、森の小道を通る2時間のガイド付きツアーがあり、モン・グロの建築(天文台はパリ・オペラ座のシャルル・ガルニエの設計、メインドームはギュスターヴ・エッフェル)と地中海の植生、そして弧を描くような海岸線をもつアンジェ湾のパノラマを鑑賞できます。

ウッディ・アレン「マジック・イン・ムーンライト」予告編の最後(1分50秒あたり)にこの天文台の屋根をひらくシーンがあります。ウッディ・アレンの映画の中で見ると、星と月までがウッディ・アレンっぽいのがすごい。




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2020-03-08

〔今週号の表紙〕第672号 空を飛ぶ道具 小津夜景

〔今週号の表紙〕第672号 空を飛ぶ道具

小津夜景



ヴェネチアのレオナルド・ダ・ ヴィンチ博物館で見た、空を飛ぶ道具。後ろのポスターは戦車です。

ここを訪れたのは2月の初めで、新型コロナウイルスのニュースはもう聞こえていたけれど、町の雰囲気はのんびりしていました。まさかカーニヴァルが中止になるとは誰も思っていなかったと思います。



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2019-11-17

【句集を読む】祝祭的迷子、あるいは中嶋憲武『祝日たちのために』に捧げる小さな覚書 小津夜景

【句集を読む】
祝祭的迷子、あるいは中嶋憲武『祝日たちのために』に捧げる小さな覚書

小津夜景


1
「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ」と、ヘミングウェイは書いた。

2
このエピグラフから始まる彼の著書『移動祝祭日』には、彼がガートルード・スタイン、エズラ・パウンド、スコット・フィッツジェラルドをはじめ、数多くの芸術家たちと交流しながらパリで過ごした日々が甘美な郷愁に満ちた筆致で描かれていて、彼にとってのパリ時代がどれだけかけがえのないものだったのかが手に取るようにわかる。

3
ヘミングウェイに限らず、誰にとっても青春はかけがえのないもので、その時代の経験は重要なピースとしておのおのの肉体に深く組み込まれている。ある人が青春時代になにがしかの幸福な時間を過ごしたならば、どこへゆこうとも、その一片の思い出は祝祭のように心躍るものとして生涯ついて回るだろうーーそれがパリであろうとなかろうと。

4
中嶋憲武『祝日たちのために』に収められた言葉は、それぞれに奇妙な祝祭性を帯びている。ページをめくるたびに出会う、でたらめ風を装った一句。まるで移動祝祭日のスクリーンショット集みたいに。

 迷宮へ靴取りにゆくえれめのぴー

えれめのぴー、すなわちLMNOPという描写から、私は、作者が靴を取りに行った迷宮とは「文字の迷宮」なのではないだろうかと空想する。この句集の基本的構図はおおむねシュルレアリスムだから、それを「文字の迷宮」であるという風に思い描くと、全体の雰囲気ともしっくりくるのだ。

 自分より孤独春風へハロー

構図がシュルレアリスムだとすれば、色彩はポップである。とりわけ切なさと軽さの二色が基調であるとおぼしい。

5
17種の散文も載っている。

北の風が夜会服を身に纏い、私の前に立つ。アラベスクの低く流れる夕方。電柱の陰に宴が始まると、招待客は皆一列の楽譜だ。私と北風は南へ渡るペリカンのように、遠い星を一つ落とす。
ヘミングウェイが遭遇した1920年代のパリの言語空間は、まさにこうした華麗なる錯乱そのものだったに違いない。

6
中嶋憲武『祝日たちのために』もまた、混迷や錯乱を生きることが、おそらく幸福の意味を担っている。迷子になれる靴を履いて、言葉と言葉の間をさまようこと。それは人生における一つの流儀であるとともに、あの祝祭の日々のロスト感覚にくりかえし出会う方法でもあるのだ。




2019-09-29

【句集を読む】とかくこの世は 小川軽舟『朝晩』の二句 小津夜景

【句集を読む】
とかくこの世は
小川軽舟朝晩』の二句

小津夜景


食べたり飲んだり吸ったり嗅いだりにまつわる好き嫌いは人前で話すのが難しい。だいたいその種のことに興味があり、かつ日々楽しんでいる人は、本当のところを他人に明かしたくなんてないだろう(とかくこの世は言うにはばかられる話が多いのだ)。そんな中、ニコチン愛好は隠している人が少ないという意味でたわいない嗜好にちがいない。

八月や古書にしふねき煙草の香    小川軽舟

〈しふねき〉という文語の趣きが〈古書〉や〈煙草〉に似つかわしい。また〈しつこい〉と口語で書くよりもヤニの執念ぶかさがよく伝わって、なんだか典雅な愛念すらも醸し出している。なかなか効果的な文語の挿し入れ方だ。

秋風の遺影煙草をうまさうに    小川軽舟

〈秋風〉の漂白性と〈遺影〉にかがよう過去への憧憬。この流れで登場する一服はたしかに格別に〈うまさう〉である。

「あのさ、軽舟さんの秋風の煙草の句、あるじゃん」
「うん」
「あの句の遺影って誰だろう」
「市川崑がオツじゃない?  僕はそう想像したよ」

昨日、ある人とこんな会話を交わした。さっそく市川崑の遺影を見てみると、なんともいえず強そうで、優しく、茶目っ気たっぷりの表情をしている。

ああ。私にとって、軽舟さんのあの句の良さは、たばこはおしゃれとか、たばこはカッコいいといった価値観が通用した昭和の記憶の愛惜にあるのではなく、「人間とはくだらないものだ、だがそのくださなさのどこが悪いのか」という声がどこかから聞こえてくるところにあるのだ。そんなこと、ひとことも書いてはいないのだけれど……。市川崑の表情を眺めつつ、私はそう思った。

人間のおろかさやくだらなさとは、ただシンプルにおろかさやくだらなさであって、善や悪のあずかりしらない襞をもつ。もちろん背徳性に興奮をおぼえるといった世間依存型の快楽もありはするけれど、ほんらい趣味嗜好にまつわる人間の感性は道徳と一切関係がない。



小川軽舟『朝晩』はいわゆる「標準世帯」を守りつつ、横浜の自宅を離れて関西の鉄道会社に単身赴任する著者が、日々の暮らしをていねいに綴った句集である。

私の人生は私の世代の標準的なものである。あえて境涯俳句と呼べるような特色はない。しかし、平成も終わろうとする今、かつての標準がもはや標準でなくなっていることに気づいた。私の平凡な人生は、過ぎ去ろうとする時代の平凡だった。だからこそ書き留める意味もあるだろう(小川軽舟『朝晩』あとがきより)。
作者が書くのだから、おおむね本当なのだろう。けれどもこの句集はそんな「おおむね」からこぼれおちる趣味嗜好をちらりと感じさせもして、そこに私は興味をおぼえた。もちろんその部分を作者がはっきりと詠んでいるわけではない。とかくこの世は言うにはばかられる話が多いのである。




2019-08-04

〔今週号の表紙〕第641号 裏口 小津夜景

〔今週号の表紙〕
第641号 裏口

小津夜景



修道院の裏口。自分で塗ったようです。正面口および内部空間はこちら

この修道院は、昔の修行僧の生活をそのまま保存した部屋があって、誰でも見学できるようになっていました。昔の修道院というと超ストイックなイメージですが、実際に見た部屋は居心地がよかったです。食器も使いやすそう。



週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

2019-04-14

【句集を読む】 深さの図学をめぐるスケッチ 岡田一実『記憶における沼とその他の在処』を読む  小津夜景

【句集を読む】
深さの図学をめぐるスケッチ
岡田一実記憶における沼とその他の在処』を読む

小津夜景

初出:『らん』第84号(2019年1月)

ごく限られた素材によって、作者の小宇宙が図案化された句集。岡田一実『記憶における沼とその他の在処』(以下『記憶沼』)を読んで、そんなことを思った。

なかでも目につくのが句集のタイトルとも関係する「水」にまつわる句と、陽/火/灯などの様々な「ひ」をあしらった句である。が、今回触れるのはそのどちらでもなく、次のような作品群だ。

  蟻の上をのぼりて蟻や百合の中

  万緑の内側に幹ありにけり

  その中に倒木を組む泉かな

  みづうみの芯の動かぬ良夜かな

  根を通ふ水も深雪の底ひかな

中/内/奥/底/芯。『記憶沼』では、この種の把握によって世界の〈深さ〉を図案化してみせた句が、ゆるやかなペースでくりかえしあらわれる。

  森の中森の茂りを透かし見る

  木を叩くことも朧の影の内

  玻璃越しに雨粒越しに虹立つよ

  蠛蠓の芯を残さず失せにけり

  花菜売る店の奥処に暮しの灯

こうした、なにげない日常を解きほぐし〈深さ〉の図案へと整序し直す〈世界の捉え直し〉はどうして起こるのか。どうやらそれは、作者が何かを見るとき、対象と同時におのれの意識をも見る(=何を見ているのかをおのれに問う)ためのようだ。

  細胞に核の意識や黴の花 

  目の合へば思惟の光れる金魚かな

  口中のちりめんじやこに目が沢山

  見るつまり目玉はたらく蝶の昼

前半2句では「意識」と「核」、「思惟」と「光」など、認識の哲学にまつわる語が同居する。後半2句では自分の口の「中」に「ちりめんじやこ」の目を発見したり、「目玉」そのものを掘り下げつつ「見る」ことの定義を思い巡らす作者がいる。このように『記憶沼』においては、見ることと内省とのかかわりが激しく明からさまだ。

  芯のなき赤子の首の昼寝かな

  首といふ支へ長しや死人花

  端居して首の高さの揃ひけり

  飛ぶ鴨に首あり空を平らかに

「首」への目線も面白い。どうやら首は、作者の深層の水準器と共鳴する「芯」のようなもので、それによって世界を整序的に把握し得る可能性をいつもさぐってしまうらしい。

  火蛾は火に裸婦は素描に影となる

『記憶沼』における様々な「ひ」が知性の光(=見る力)の喩を内包するのではないかといった想像をここで詳しく検討する余裕はないけれど、この句の「裸婦」が「火」のモチーフと並ぶことで、まるで光明に照らされて「影」(深層)をあらわにしたかのように演出されていることは疑いない。

このように、作者の目は〈深さ〉の図学を探究することにいささかの余念もない。とはいえ見ることは、本来割り切ることのできない曖昧で不分明な経過だ。見れば見るほど世界はその目をのがれ、見る者の立つ場所さえも危うくする。その意味で私は、次のような句をいっそう興味ぶかく感じた。

  夢を木の咲いて軋めく籐寝椅子

  海を浮く破墨の島や梅実る

日常語であれば、掲句の助詞「を」はどちらも「に」となるだろう。だがそれを「を」とするとき、見るという内省的行為が、対象の図案を万華鏡のように変容させつつ自己の中に不断に生起する運動であることが思い起こされる。つまり、掲句の「を」には、見ることの不分明な経過が痕跡化しているのである。

夢幻と現実は対立するものでなく、お互いを織りなすものであるというあたりまえの事実。そのことがおのずと呼び覚まされる、奥深い記憶の沼の光景にとても似つかわしい句だと思った。


2018-11-11

〔今週号の表紙〕第603号 哲人 小津夜景

〔今週号の表紙〕
第603号 哲人

小津夜景

この世界には、行動派の猫と、観察派の猫とが、存在します。

写真の猫は観察派。いつもこうして窓枠から外を眺めています。道路をほっつき歩いている姿は目撃したことがありません。そして優雅で気高い雰囲気なのにわがままではなく、いやむしろ非常に忍耐強い性格で、手を出すと黙って触らせてくれます。

哲人。

哲人といえば、私の一番好きな猫小説は、保坂和志の『猫に時間の流れる』です。


小誌『週刊俳句』ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

2018-10-21

日曜のカンフー いつかたこぶねになる日 小津夜景

日曜のカンフー
いつかたこぶねになる日

小津夜景


沖を眺めながら、タコについて考えている。

午前の海はがらんとしている。子供とおじいさんのカップルが干潟でちいさな穴を探しては、その穴に塩をふりかけて砂から顔を出す馬刀貝をとっているくらいだ。今朝コーヒーを飲みつつ満干表を見たら、今日は今年最後の潮干狩り日和とあったから、もっとたくさん人がいるかと思ったのに。

ゆうべからタコのことが頭から離れない。タコの映像をまとめて観たせいだ。タコはかわいい。しかも非凡だ。さらにはきわめて孤独を愛するライフスタイルを貫いている。なんでもタコは巣穴で一人暮らしをし、毎日単独で遊びにゆく。道具をつかって巣穴を自分好みに飾りつける。椰子の実をカプセル住居として常にたずさえるタコもいる。そういえば、たこぶねという種類のタコは、地中海の宮殿のような貝殻を住居にしていた。A・M・リンドバーグ『海からの贈物』にも登場するあのタコだ。

浜辺で見られる世界の住人の中に、稀にしか出会わない、珍しいのがいて、たこぶねはその貝と少しも結び付いていない。貝は実際は、子供のための揺籃であって、母のたこぶねはこれを抱えて海の表面に浮び上がり、そこで卵が孵って、子供たちは泳ぎ去り、母のたこぶねは貝を捨てて新しい生活を始める。私はこのたこぶねのそういう仮の住居を専門家の収集でしか見たことがないが、その生き方が提供する影像に非常な魅力を感じる。半透明で、ギリシャの柱のように美しい溝が幾筋が付いているこの白い貝は、昔の人たちが乗った舟も同様に軽くて、未知の海に向かっていつでも出帆することができる。(リンドバーグ「たこぶね」)
この本は、リンドバーグがいっとき家庭を離れて島の家を借り、浜辺で拾った貝殻を材料として毎夜思いめぐらしたことをまとめた随筆集で、各章には「浜辺」「ほら貝」「つめた貝」「日の出貝」「牡蠣」「たこぶね」「幾つかの貝」「浜辺を振返って」と題がついている。簡素の美しさを告げる「ほら貝」、孤独の大切さを教える「つめた貝」、結婚当初のつかのまの完璧な自足を思わせる「日の出貝」、そのあとの長い涵養の時間を手ほどきする「牡蠣」、そして涵養の果てにその殻を捨て去って、ふたたび身一つで海へと泳ぎだす「たこぶね」。こうした、貝から与えらえるイメージを連ねることによって、女性が自由に生きるためには何が必要なのか、その暮らし方をリンドバーグは見つめ直すのだ。

人生の後半を、時の年輪がつくりあげた美しい殻を惜しげもなく脱ぎ捨てて、たこぶねのように、さらなる未知の世界へ泳ぎだしたいという願い。一介のタコとして生きたいという願い。ちょっとないくらい深い話である。

ふいに潮の香り。白い大きな船が、ゆっくりと沖を通り過ぎる。鉄製の編み籠に、ナイフみたいな馬刀貝をほうり込んだ子供が、おじいさんに向かって歓喜の声を上げた。

© Veronidae


2018-07-08

器に手を当てる 宮本佳世乃「ぽつねんと」における〈風景〉の構図 小津夜景

器に手を当てる
宮本佳世乃「ぽつねんと」における〈風景〉の構図

小津夜景

『豆の木』第19号(2018年5月20日)より
転載(改稿あり)

俗に「オルガン調」と言われる俳句がある。

この呼称はきわめて気分的なもので、実際どれほどの内実があるのか検証されてもいないが、多くの場合、同人誌「オルガン」の中心的人物と見做されている鴇田智哉の作品との類像性ないし影響関係が感じられる句をそう呼ぶようだ。具体的な特色についてはいくつか考えられるが、その中でも確実と思われる一例を宮本佳世乃「ぽつねんと」から引用してみよう。

 くちなはに枝の綻びつつまはる

 ふくろふのまんなかに木の虚のある

もしも上の句が〈くちなはの枝に綻びつつまはる〉〈木の虚のまんなかにふくろふのある〉であれば話はかんたんだ。しかし宮本はそうは書かない。

ここでまず確認したいこと、それは文法上・論理上の語順を入れ替えることによって詩趣を生み出すこの技法が鴇田智哉の考案ではないという基本的事実である。この種のレトリックは俳諧の成立過程においてすでに存在し、具体的には杜甫の倒装法を芭蕉が真似たことに由来している〔*〕

 香稲啄余鸚鵡粒  香稲、啄み余す鸚鵡の粒、
 碧梧棲老鳳凰枝  碧梧、棲み老ゆ鳳凰の枝。
 (杜甫「秋興」)

 鐘消えて花の香は撞く夕べかな  芭蕉
 吹き飛ばす石は浅間の野分哉  〃
 海暮れて鴨の声ほのかに白し  〃

仮に杜甫「秋興」の頷聯「香稲、啄み余す鸚鵡の粒/碧梧、棲み老ゆ鳳凰の枝」を実際の光景である「鸚鵡、啄み余す香稲の粒/鳳凰、棲み老ゆ碧梧の枝」に戻すと、句の中心となる名詞が「鸚鵡」「鳳凰」に固定されてしまい、人間の目に世界が立ち上がる際の動態性が失われることがわかる。加えて句の内容が〈風景〉ではなく〈景観〉にすぎなくなるため感興にも乏しい。

〈風景〉とは体験である。それは客観的・科学的な〈景観〉や〈環境〉と異なり、心と感覚の働きに起因する個人的かつ一回性の出来事として文学および美学の領域で論じられてきた。ここで杜甫が行ったことも、読者の知性を前提とした上で語順を錯綜させて、意味における虚と実との大胆な共存を図りつつその交じわる点に一回性としての〈風景〉を出現させる試みとして捉えることができる。そしてまた芭蕉もこれに倣い、通常ならば〈鐘撞いて花の香消ゆる夕べかな〉〈石を吹き飛ばす浅間の野分哉〉と書くところを倒装法によって語の位置をアクロバティックに入れ換えたのだ。

また倒装法は「鍵となる語の交錯」と「修飾語の交錯」とのパターンに大きく分類されるが、芭蕉における後者の例としては〈海暮れて鴨の声ほのかに白し〉がわかりやすい。これを実際の光景に戻すと〈海暮れてほのかに白し鴨の声〉となる。ただしそれは「実」の景であっても「真」の景であるとは言いがたく、なにより現象を把握する折々に生じる五感の分かちがたさといった〈真に生きられた体験〉が抜け落ちている。そんなわけで芭蕉は〈海暮れて鴨の声ほのかに白し〉と書いた--のかどうかは今となっては正直推し量り難いけれども、少なくとも残された句は、理屈によって世界が整理されてしまう以前の純粋経験を描いたそれとなった。共感覚的風景を産み出すのにも便利な--ときに便利すぎることも否めない--この類の代換法(=転移修飾語)は漢詩文以外でも珍しくないレトリックの構文である。

話を最初に戻すと、俗に「オルガン調」と言われる方法の内のひとつはこの倒装法のヴァリエーションであり、その意味で冒頭に引用したふたつの句も俳諧の伝統をすこやかに受け継いでいる。すなわち、ここにおいて宮本が描こうとしたのは、風景が生成する過程における意識の動き、つまり作者が実際に生きた時空そのものの描写であるため、あのような語順が妥当であったのだ。

その他「ぽつねんと」で目につく特徴といえば切れ字の少なさで、全30句のうち〈雪晴や器械から音楽の出て〉と〈十六夜の髪にこぼるる鋏かな〉の2句にあらわれるのみである。代わりに宮本は切れ字以外の方法で一句を構造化することを目指すのだが、そのひとつが今説明した倒装法によって句に〈虚実の奥行き〉を付与する方法と、もうひとつが〈器〉ないし〈扉〉のイメージによって句の〈内外の奥行き〉を演出する方法だ。

 うすばかげろふおとうとの肺に棲む

 こゑ新しくあぢさゐに閉ざさるる

 湧いてくる闇武蔵五日市のダリア

 蜥蜴一本かほより岩へ入る

 ふくろふのまんなかに木の虚のある

ここでは「うすばかげろふ」「こゑ」「闇」「蜥蜴」「ふくろふ」がそれぞれ「肺」「あぢさゐ」「ダリア」「岩」「木の虚」といった〈器〉を出入りする様子が描かれており、後の語群と前の語群との間には包含の構図が存在する。〈ふくろふのまんなかに木の虚のある〉については「ふくろふ」という〈器〉の中に「木の虚」があると読んでも差し支えない(今重要なのはふたつの語が包含関係にあるということだから)。こうした構図は「ぽつねんと」のいたるところに溢れている。

 ふれてみし冬の泉の割れて櫛

 ゆふがたを紋白蝶の溜まる息

 雪晴や器械から音楽の出て

 瓶を持つ手のふたたびの霧の中

 金網のおほかた錆びてかひやぐら

ここでは「泉」が「櫛」を、「息」が「紋白蝶」を、「器械」が「音楽」をそれぞれ包みこんでおり、なかでも〈ゆふがたを紋白蝶の溜まる息〉は紋白蝶をたくわえた息の質感がえもいわれぬ詩趣を発して心地よい。またまた「霧」や「かひやぐら」は、先の〈湧いてくる闇武蔵五日市のダリア〉において「闇」が「ダリア」から湧いたように、「瓶」や「金網」から湧いていると読むこともできる。さらに、

 古代より来し青鷺の部屋の前

 遊びたる鶴うつりたる自動ドア

ここにも「青鷺」が「部屋」を、また「鶴」が「自動ドア」を出入りする構図が隠されている。この2句については「古代より来し/遊びたる」および「部屋の前/うつりたる自動ドア」など意味も似通っており、共通の構図のみならず共通の機微の下で書かれていることがわかる。「ぽつねんと」にただよう沈潜的な香りは、こうした〈内外の奥行き〉によって生み出される潜在的領域を一句がさりげなく隠し持つことで実現されているようだ。

 手を当てるとき数学はからすうり

「数学」とは形而上学、すなわち純粋経験そのものであり、掲句ではその「数学」が「からすうり」という小さな〈器〉に包含される(あるいは全く同等である)と語られる。このささやかな神秘。そのひっそりと奥深い美しさ。思うに「からすうり」に「手を当てる」とは、おそらく〈真に生きられた体験〉としての〈風景〉がそのつど〈器〉の中に潜在していることを祈りつつ信じる仕草なのだろう。


【註】
〔*〕芭蕉以外の俳人による倒装法として、蕪村〈夜やいつの長良の鵜飼かつて見し〉を例に挙げる。この句の実の形は〈いつの夜や長良の鵜飼かつて見し〉となる。

【参考文献】
・佐藤信夫『レトリックの意味論―意味の弾性』 講談社学術文庫
・芥川龍之介「芭蕉雑記」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/23_15267.html
・久保忠夫「芭蕉の発句と倒装法」 『連歌俳諧研究』1956年1956巻12号p. 61-68 https://doi.org/10.11180/haibun1951.1956.12_61