2026-09-06
小津夜景 「あいだへん」でいく
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2025-12-14
小津夜景【番外・音楽千夜一夜】ジェドゥ=ブレイ・アンボリーのスープ
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2023-08-20
【小津夜景✕西原天気の音楽千夜一夜】エミール・ロンドニアン「Missing Arrow」
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2022-11-27
小津夜景 川村秀憲・大塚凱著『AI研究者と俳人 人はなぜ俳句を詠むのか』を読みながら、秋の休日をすごした。
川村秀憲・大塚凱著『AI研究者と俳人 人はなぜ俳句を詠むのか』を読みながら、秋の休日をすごした。
川村 人が創作すること、私が『創作をする機械』を創作すること。この両者の関係を考えていくと、もしかしたら、知的な興味、人間だけがもつ『知能』に関わる、きわめて根源的な興味という点で、両者はつながっています。(…)私もそうですが、われわれは何をしているのかを知り、われわれの営みについての解釈をアップデートしたいのだと思います。
大塚 AIで俳句を詠むことに意味があるのか。その問いには、「ない」とも答えられます。なぜかというと、人間が俳句を詠むこと自体に「意味がない」と思っているからです。人間が俳句をつくるのも、AIで俳句を生成するのも、同程度に無意味であるという把握です。しかしながら、これは無駄に虚無的なように聞こえるでしょうし、少々微妙な言い方なので、すこし方向を変えて、私は俳句と関わることにすこしでも意味があるとしたら、なんだろうと考えているうち、「存問」ということに思いが至りました。これ、「あいさつ」という意味で、高浜虚子は「俳句は存問である」といっています。俳句とはつまり、あいさつである、と。
川村 AIが将来、どんな存在になっていくのか。人間がAIに取って代わられるとか、人間と対立するとか、SFが描くディストピアによく出てくるのですが、それはやはり絵空事で、現実には、人工知能と人間が、お互いに不可分な一つのシステムとして存在していくと思います。そのほうが望ましいかたちでしょう。「生きる」意味は、人間側にしかないので、それが人間から人工知能に移っていくことはあり得ません。私の研究室には「調和系工学研究室」という名前が付いています。その「調和」は、人と機械、人間と人工知能の調和です。お互いに必要な存在として調和することで、これまで得られなかったような幸せが生まれると考えています。それは、例えば工場で何かを製造する過程での調和かもしれないし、俳句のような娯楽をともにたのしむことかもしれない。大きな枠組みでいえば、人間の精神的安定や生活の質的向上に、人工知能が寄与するといっていいでしょう。(…)
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2022-09-24
小津夜景〔今週号の表紙〕第805号 ジャダフプール大学
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2022-06-19
小津夜景〔今週号の表紙〕第791号 プラットフォーム
〔今週号の表紙〕第791号 プラットフォーム
小津夜景
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2022-03-06
〔今週号の表紙〕第776号 ヴェネツィア海洋史博物館 小津夜景
〔今週号の表紙〕第776号 ヴェネツィア海洋史博物館
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2022-02-13
〔今週号の表紙〕第773号 段ボールの夜 小津夜景
〔今週号の表紙〕第773号 段ボールの夜
小津夜景
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2021-06-06
【小津夜景✕西原天気の音楽千夜一夜】ジャンゴ・ラインハルト「I'll See You In My Dreams」
【小津夜景✕西原天気の音楽千夜一夜】
ジャンゴ・ラインハルト「I'll See You In My Dreams」
▼今回は『漢詩の手帖:いつかたこぶねになる日』(素粒社/2020年11月)が評判の小津夜景さんをゲストにお迎えしました。
天気●目覚まし時計のかわり? 私も若い頃、カセットデッキにタイマーをセットして、ベートーヴェン「皇帝」やブラジルもので起きてた時期があります。
夜景●「皇帝」は血圧上がりそう。ブラジルものはね、生まれて初めて友だちの家にお泊まりした朝の目覚まし曲がスタン・ゲッツとジョアン・ジルベルトのアルバムでした。朝にぴったりですよね。
天気●ボサノヴァは二度寝しちゃいそうですけどね。私は「実用的」にもう少しアップテンポのサンバっぽいのにしてましたね。
(最終回まで、あと804夜)
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2020-08-16
〔今週号の表紙〕第695号 玄関 小津夜景
小津夜景
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2020-06-21
エスエフの蜜を吸うセキエツ 11の皿でたどる関悦史の世界 小津夜景
エスエフの蜜を吸うセキエツ
11の皿でたどる関悦史の世界
小津夜景
若干の加筆・修正があります
0 皿目【料理の前に】
関悦史の一〇〇句を選んでそれについて論ぜよ、との依頼が来た。いったいなんで来たのか。どうかんがえても筆者の手にあまる。しかし引き受けたからには責任を果たさなければならないので、句論という形ではなく、「関悦史の一〇〇句を素材ごとに盛り分け、読者に少しずつ試食してもらう」といったキュレーション方式で対応したい。また枚数の制限もあるため「黙って食えばわかる」的な句は無視して、読者がとっつきにくそうなものを中心に解説する。
なお関の作風については、まずもって『六十億本の回転する曲がつた棒』『花咲く機械状独身者たちの活造り』といった句集のタイトルがその特質をはっきりと物語っている。箇条書きにすると、次の4点だ。
①SF
②生命の変形
③語の束ね技
④笑い
ここから供する11の皿は、これらの特質をたっぷりと味わうコースになっている。ではどうぞよろしく。
1 皿目【古典文学】 5句
虚空イマ蝶ガワガ名ヲ書キヰタリ
カササギト撞着語法(おくしもろん)ノ夜(ヨル)ニ耽ル
深宇宙ノ漁火ニ蟹ニホヒケル
詩ニ老イユキ秋ノ草木モ怪物(べむ)ノ風
アハレ冪乗(ベキジヨウ)尾モ身ニ生リテ咆(ホ)エハジム
1皿目の素材は古典文学。百人一首のパロディ「百人斬首」より選んだ。「百人斬首」は不条理世界、宇宙、変身、憑依といったSF系脱人間中心主義のモチーフで全句をぴしりと揃えた連作で、見た目がこってりしているので尻ごみする人が多いにちがいない。が、実はこれ、往年の『SFマガジン』をめくる気分で読めてしまう。
〈カササギト撞着語法(おくしもろん)ノ夜(ヨル)ニ耽(フケ)ル〉の本歌は大伴家持の〈かささぎのわたせる橋におく霜のしろきをみれば夜ぞふけにける〉。「おく霜の」をオクシモロンにひねることで生まれるポップな幻想性に、物語のイメージと古来近しい〈カササギ〉を添えて、ボルヘス的な雰囲気に仕立てた一句だ。
〈深宇宙(シンウチウ)ノ漁火(イサリビ)ニ蟹ニホヒケル〉の本歌は紀貫之〈人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける〉。平安の春昼の景色から〈深宇宙〉という音を引き出すセンスが関らしい。また〈深宇宙〉と〈蟹ニホイケル〉を橋渡しする語として、銀河とみまがう〈漁火〉をもってきたのも見事である。
〈虚空イマ蝶ガワガ名ヲ書キヰタリ〉の本歌は壬生忠見〈恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか〉。さっぱりとした調理で、俳句としても正統派。
〈アハレ冪乗(ベキジヨウ)尾モ身ニ生リテ咆(ホ)エハジム〉の本歌は藤原伊尹〈あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな〉。人を恋い待つうちに妖怪と化してしまったこの変身譚は本歌の後日篇としても読める。異世界の時空の有無をいわせぬ暴力性を演出する〈アハレ冪乗〉が、フランシス・ベーコンの絵画のように壮絶だ。
〈詩ニ老イユキ秋ノ草木モ怪物(べむ)ノ風〉の本歌は文屋康秀〈吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ〉。大意は「詩を志すうちにこんなにも老いた私よ。いまや妖怪の匂いを秋の野に漂わせるほどだ」。「むべ」から〈怪物(べむ)〉をみちびく機転がいい。〈詩ニ老イユキ〉は「死、匂いゆき」の掛詞で、加藤郁乎〈天命は詩に老いてけり秋の暮〉および李賀〈雨冷香魂弔書客/秋墳鬼唱鮑家詩〉(冷たい雨。亡き詩人の香しき魂が私を弔う。秋の墓原。亡霊たちが葬送の詩を唱う。)が意識されている。
2 皿目【現代文学】 5句
テクストや梨のしづくに蟻溺れ
ロブ=グリエ的明るさや蟻地獄
縛り棄てなる『ノルウェイの森』田に白鷺
少年の括約筋と嚏かな
カフカかの虫の遊びをせむといふ
2皿目は、現代文学を素材とした濃口のエロティシズムである。〈テクストや梨のしづくに蟻溺れ〉は吉岡実〈秋ひらく詩集の余白夜ふかみ蟻のあしおとふとききにけり〉と正岡子規〈梨むくや甘き雫の刃を垂るる〉とがオーバーラップする観念の濡れ場のようだ。〈ロブ=グリエ的明るさや蟻地獄〉は倒錯的エロスを描いて戦後文学および映画の最前線に立ったロブ=グリエという固有名に〈蟻地獄〉の花を添えた、淫らで毒々しい一品である。村上春樹〈縛り棄てなる『ノルウェイの森』田に白鷺〉と稲垣足穂〈少年の括約筋と嚏かな〉は緊縛や肛門を介したフェティッシュを感じさせる。〈カフカかの虫の遊びをせむといふ〉はフランツ・カフカの『変身』を中村苑子〈翁かの桃の遊びをせむといふ〉の鍋に放り込んで、毛色の変わった幽玄を香らせるに至った。
3 皿目【芸術】 5句
皿皿皿皿皿血皿皿皿皿
白蝶に国家(モロク)と市場(ヘル)の翳りかな
死にきらぬゴキブリが聴くクセナキス
二〇世紀の美術はじまる泉かな
ダ・ヴィンチよ真夏なるわが外接円
3皿目の素材は芸術である。〈皿皿皿皿皿血皿皿皿皿〉は新國誠一「血と皿」、高橋新吉「皿」、川上三太郎〈恐山 石石石石 死死死〉につらなるファンキーな挨拶句。血が一つだけ、ちょこん、と混じっているところがキューティー・ホラーだ。
〈白蝶に国家(モロク)と市場(ヘル)の翳りかな〉はドイツ表現主義の大家フリッツ・ラング『メトロポリス』を借景とし、壊れやすい白蝶の羽にかがよう陰影に、国家と資本の暴力が吹き荒れるディストピアを幻視してみせた。
〈死にきらぬゴキブリが聴くクセナキス〉は瀕死のいきものにコンピュータ演算の世界(SFの文脈では宇宙精神=絶対的理性を意味する)を表象するクセナキスをあしらい、人間と権力の相克するサイバーパンクな光景を描いた。
〈二〇世紀の美術はじまる泉かな〉〈ダ・ヴィンチよ真夏なるわが外接円〉はどちらも下五の着地があざやか。デュシャンの句は知的で涼しげ。ダ・ヴィンチの句はウィトルウィウス的人体図の黄金率からの連想で、〈外接円〉が黄金の満月のイメージを装う。
4 皿目【記号】 5句
π(パイ)の字のみな歩み去る秋の暮
人界窺ふ√(へいほうこん)か蝮蛇草
冷えて浮く∫(インテグラル)のかたちかな
我に∈(げんとしてふくまるる)枯野かな
Ω(おはり)からまたI(われ)を出す尺蠖よ
4皿目の素材は記号。数学イベント「MATH POWER 2016」への出演をきっかけとして作品の数が増えたようだ。数学記号を異星人に見立てたものや、その意味をそのまま利用したものなど手法はさまざま。
5 皿目【BL】 10句
「あいつ綺麗な顔して何食つたらあんな巨根に」風光る
ヤベエ勃つたと屈むお前と春の暮
春水なる汝(な)を抱かんとす大気我(われ)
阿修羅いまさらはれて夜の花吹雪
野郎が何で俺に抱きつく更衣
美少年に水かけて虹生みにけり
アナル既に縦割れの兄紺浴衣
来ちやつたと立つ青年や葱など提げ
フィギュアスケート男子回転(スピン)し肉の花器
万のペニスに一美童投げ冬至とす
5皿目の素材はBL。ご覧のとおりエンターテイナーとしての関の挙動には一ミリのためらいもない。肩の力が抜けきっているのかアホらしいことこの上なく、しかも名句が多い。
6 皿目【暮らし】 10句
逢ひたき人以外とは遇ふ祭かな
赤とんぼ手配写真みな友の如し
昨日ここはセブンイレブン秋茜
木造アパート和姦の悲鳴漏れて秋
「うちの姉です食べてください」袋に柿
防空壕埋まりし庭に冬日の猫
ニンゲンニモドシテと言ふ鸚鵡冬
まだ夢を見てゐる牡蠣を食ひにけり
春の異人よ鳥居は絞首台ではない
くらげに「おーい」と手を振る浪速の女学生
6皿目の素材は暮らし。心象と物象のまじわるところに生じる情趣があふれる、随筆のような句を盛りつけた。ささやかだけれど胸にのこる一コマから香る、ユーモアやペーソスのさじ加減がちょうどいい。
7 皿目【日本景】 10句
女子五人根性焼きの手に氷菓
夏うぐひす廃墟の便器かはきたる
うすごろも落つる高層団地かな
エロイエロイレマサバクタニと冷蔵庫に書かれ
ホーロー看板灼けゐて由美かおるが素足
わが前に立つヤンママの背が裸
空室のいつせいに透く花火かな
ドラえもんうつぶせに浮き秋の雨
AVの自販機ほかは冬の闇
蝋製のパスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ
7皿目の素材は日本景。すべて連作「日本景」から選んだ。森山大道のスナップ写真さながら、路上を撮影する感覚でつぎつぎ被写体をとらえてゆくこの皿は、日常にひそむ虚無がえぐり出されつつも、対象との距離の取り方が冷静なために、陰にこもらず、読後感もけっして難解にならない。関が対象を観念的に操作せず、ありのままに写生する眼と技術をもつことがよくわかる。
8 皿目【家族】 15句
ヘルパーと風呂より祖母を引き抜くなり
入歯ビニールに包まれ俺の鞄の中
祖母がベッドに這ひ上がらんともがき深夜
便始末されゐて夏がかなしからう
死なす話卓をとんぼの影群れゆき
俺のうしろの秋麗を指し誰といふ
起きあがる祖母に深夜の窓紅蓮
祖母やいま帰心の秋蝉となりもがく
亡霊のごとくに筑波秋の暮
世話しぬけば枯木がア・リ・ガ・タ・ウと言ふ
人死ねば書類の多さ十二月
灯らぬ家は寒月に浮くそこへ帰る
春の天界背より吾へとあふれ入る
抱へて遺骨の祖母躁(はしや)ぎつつバス待つ春
寺からもらつた瓦せんべいで一日生きる
8皿目の素材は家族。関の唯一の家族だった祖母の介護句から選んだ。なにげない日々をスケッチするそぶりで、死に向かうにつれて異物と化してゆく祖母の中の異界をじわじわと明るみに晒し、ラストは死後晴れて他界の異物となった祖母が姿を変えて関のかたわらにいる光景が描かれる。つまりこの皿もまた、日常詠でありつつも〈生命の変形〉という関の句の特質をもっている。
またここで描かれた異界が、斎藤史が実母と夫とを介護した折の歌集『ひたくれなゐ』で描いたそれと類似していることにも筆者は注目したい。おそらく介護を詠むときは、俳句側からすると語り手と作者の一致が高まらざるをえず、短歌側からすると私性では片づかない異物と化しつつある他人を描かざるをえないので、それぞれ逆方向から接近することになるのではないかと思う。参考として、両作をいくつかならべる(左が関悦史の句、右が斎藤史の歌)。
〈起きあがる祖母に深夜の窓紅蓮〉〈鬼火よりさびしきいろに眼を燃せば夜のほどろにひらくゆふがほ〉
〈祖母やいま帰心の秋蝉となりもがく〉〈生きものはとり殘されて秋終り熱き焰の舌・水を欲る〉
〈亡霊のごとくに筑波秋の暮〉〈つゆしぐれ信濃は秋の姥捨のわれを置きさり過ぎしものたち〉
〈抱へて遺骨の祖母躁(はしや)ぎつつバス待つ春〉〈おどろなるものあたたかき草枯れの此處に憩ひて行きしものあり〉
9 皿目【震災】 10句
永き日の家のかけらを掃きにけり
春の日や泥からフィギュア出て無傷
テラベクレルの霾る我が家の瓦礫を食へ
出日本記書かるることなし立葵
全国の線量計の御慶かな
うつろへば花かホモ・サピエンスの忌
夢に奇なるトイレが春や原子炉溶け
シテの如立つ百合あまた津波跡
秋やこの将棋倒しの鳥居の赤
月光がガソリンスタンド跡地にゐる
9皿目の素材は震災。2011年、東日本大震災の被災者となった関は、自宅の惨状を句にするとともに、東北被災地への訪問をくりかえしている。被害はおおむね淡々と詠まれ、詩的カタルシスや感情のスペクタクル化といった疎外論的文脈へおちいることを可能なかぎり回避しようとする意思が感じられる。
10 皿目【政治】 5句
安全富裕地帯(グリーンゾーン)に危険貧困地帯(レッドゾーン)接す旱かな
あらゆる夜を書物ら点りつぎ銀浪
抗議の文言投影(プロジェクション)されビルが夜涼
議事堂前秋霖ホモ・サケルとして犇(ひしめ)き
マスメディアがchoros(ころす)四万人スマホ灯し
10皿目の素材は政治。〈安全富裕地帯(グリーンゾーン)に危険貧困地帯(レッドゾーン)接す旱かな〉はナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』から。〈あらゆる夜を書物ら点りつぎ銀浪〉は、まず書物が灯し火になるという着想が素晴らしく、しかもその燃える書物が焚書と啓蒙、あるいは弾圧と連帯といった相反するイメージを奇策のようにかがよわせながら〈銀浪〉すなわち天の川へと止揚するようすが圧巻である。〈抗議の文言投影(プロジェクション)されビルが夜涼〉〈議事堂前秋霖ホモ・サケルとして犇(ひしめ)き〉〈マスメディアがchoros(ころす)四万人スマホ灯し〉は関が参加したデモの光景のようだ。光と闇の対置、張りのある長律が生みだすドラマチックな臨場感、言葉の大胆なとりあわせなどをていねいに味わいつつ、これらの特徴を一句に束ね上げる力強い技を堪能したい。
11 皿目【SF】 8+7+5=20句
11皿目の素材はSF。これは関の創作のメインにあたり、またすべての皿を包みこむ原型でもある。最も影響の色が濃いのは日本SF第一世代、とりわけ少年時代に洗礼を受けたと予想される小松左京、筒井康隆、眉村卓の三人だ。具体的にいうと、小松の主体の問題と管理への抵抗という政治的主題は関の中でサイバーパンクを中心とした社会派ロマンへと発展し、筒井の超虚構宣言(1974年)に始まるスペクタクル理論、メタフィクション、ヌーヴォー・ロマン、マジック・リアリズムなどをふまえた諸作品は関の認識的異化作用を求める態度となり、そして眉村の日常を基盤とした不条理、寂寥感、異物との共生は、関の内省的な心臓部分を涵養したのではないかと思われる。
〔a〕
小UFOが家通り抜け春と思ふ
うすらひやさはられてゐるうらおもて
はつなつといふものうすく目をひらく
水母が分母の仮分数にて憩ふかな
無我いまやアンドロメダは冷索麺
シュレディンガー音頭は夏を「Ψ(プサイ)にΦ(ファイ)」
小鳥来て姉と名乗りぬ飼ひにけり
カットグラスに信長のやうなものけむり
〔a〕には関の十八番であるショートショート風の作品を盛りつけた。屈指のハチャハチャ句〈シュレディンガー音頭は夏を「Ψ(プサイ)にΦ(ファイ)」〉はアホらしすぎて胸が熱くなる。
〔b〕
カミアツテ螺旋ニ透ケル生者死者
弦樂四重奏團(クワルテット)互ヒノ肉ヲ裂ク調ベ
軍需産業ノ商品ノ僕ラ空ヲ翔ケル
不死ノ僕ニ魂ノアル夕立カナ
汝ガ遺書ノ如ク首都アリ黴ビ始ム
国境越えクチャ地区に昼の変形菌
転生後の皮膚秋風として来たる
〔b〕には混成主体(クレオール)のモチーフを盛りつけてみた。念のために書き添えると、今回別の皿にした「古典文学」および「記号」は、この混成主体の範疇に入る。
〈カミアツテ螺旋ニ透ケル生者死者〉〈弦樂四重奏團(クワルテット)互ヒノ肉ヲ裂ク調ベ〉は連作「マクデブルクの館」より。腐った生気が魅力的なこの連作は、ミステリ系語彙で土台を固めたSFスラップスティック・ホラーで、作品の始めから終わりまで登場人物たちの血やら手足やら正体不明のなにやらが時空を越えて飛びまくる。他作品からの引用も随所に織りこまれ、あえもの感きわまる怪作である。
〈軍需産業ノ商品ノ僕ラ空ヲ翔ケル〉〈不死ノ僕ニ魂ノアル夕立カナ〉〈汝ガ遺書ノ如ク首都アリ黴ビ始ム〉は連作「飛ぶ影、歩く影」より。学徒出陣にサイバーパンクの文脈におけるポスト・ヒューマニズムの世界を接合し、死の美化と命に対する責任放棄との響きあいを描く。
〔c〕
WTCビル崩落
かの《至高》見てゐしときの虫の声
プラハにカフカの何から何までを知りし笑ひ
人類に空爆のある雑煮かな
多くの死苦の引掻傷(エクリチュール)のある夏天
注意すれど注意すれど字の読めぬものにほかならず
〔c〕はアメリカ同時多発テロ事件からイラク侵攻までの流れをあつかった連作部分より選んだ。エンタメ性のきわだつ先ほどの(b)に対して(c)は思弁性が高い。
〈かの《至高》見てゐしときの虫の声〉は《至高》の目撃者である語り手に、じーんと耳をしびれさせるような虫の声が貼りついている光景である。この《至高》はアメリカ或いはイスラムのイデオロギーのみならず至高存在、特にカバラ的文脈でいう無限性=無性が暗示されているのだけれど、面白いのはこの感覚が〈プラハにカフカの何から何までを知りし笑ひ〉でも反復されることだ。すなわち、前の句では無限と無を同時に見てしまった語り手が難聴に陥るのに対し、後の句では全知という空虚に達した語り手がついに狂気の笑いに溺れるのである。
〈多くの死苦の引掻傷(エクリチュール)のある夏天〉では初期のデリダがフロイトを援用して根源的(無意識的)エクリチュールが引っ掻き傷であると述べたことを背景に、〈死苦の引掻傷〉と「詩句のエクリチュール」が掛詞となる。そして落書きじみたその傷をまぶしい夏空に眺めるのだが、そのとき語り手は何も理解していない。まさに〈注意すれど注意すれど字の読めぬものにほかならず〉との告白どおり、語り手は「死苦=詩句の引っ掻き傷」を読むことができないのだ。
〈人類に空爆のある雑煮かな〉は関の代表句とされ、人類の危機と平凡な日常との屈託なき同居を描いたと評されることが多い。しかしこの評は関の俳句の特質を考慮していない上に、連作の流れとも噛み合っていない。では他にどう読めるかというと、筆者はこの句の〈雑煮〉を〈空爆〉で伸び爛れてしまった人類の姿だと思って読んでいる。そう思う理由はシンプルで、関には餅を変幻自在のエイリアンとして描いた連作「餅」のほか〈餅の事故や無人爆撃機や孤死待つ〉〈銀河と銀河の衝突思ふ餅雑炊〉〈鏡餅は人撲ち終へし天女のさま〉〈「ルクス・エテルナ」聴き餅食へば吾も切餅〉〈レンジの餅ら伸び来て綾波レイの声〉といった餅の句があるのだけれど、ご覧のとおりいつでも平凡な日常とは真逆の、不条理・事故・破損・死といった連想を含んでいるからだ。そんなわけで掲句も、ふだんの関の調理法にしたがって読めば、空爆をきっかけとして日常を死が侵蝕するイメージ、もっといえば触れえないはずの世界が主体に食い込んでしまったイメージが〈雑煮〉によって暗示されていると考えるのが自然である。
【おわりに】
セキエツを味わうための11のメニュウはいかがだったろうか。質・量ともにひとかたならぬ力量をもつこの作家の味が少しでも伝わったなら案内役としてこれほどうれしいことはない。
さて最後に語りたいのが8皿目「家族」の中の〈世話しぬけば枯木がア・リ・ガ・タ・ウと言ふ〉という句のことだ。実は筆者は、この句を初めて読んだとき、死にゆく老人を〈枯木〉に喩える手法に批評を拒絶するたぐいのロマン主義を感じて全く良い印象をもたなかった。ところが関の作品をすべて読み終え、あたらめてこの句に戻ってくると、「ア・リ・ガ・タ・ウ」という書きぶりが露骨にSF的であることに気がついた。そしてこの「ア・リ・ガ・タ・ウ」は異界のものへと成り果てつつある祖母がかろうじて発したさいごの人間の言葉であり、つまり関が見ていたのは比喩ではなく本物の枯木=エイリアンだったことを理解したのだ。
かつて関はテレビのインタビューで「祖母の介護を終えたあとこの世界すべてが異界となった」と語ったことがある。たしかに関が心に抱く人間への渇望は、この世の異界性を描くことによって逆説的に語られ、また歪んだ、だが時空を超えうる生命を描くことによっても追い求められているようだ。とはいえこの興味をそそる話は、今日のメニュウとはまた別のコース。いつかまた別の機会に提供することにしよう。
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2020-06-14
〔今週号の表紙〕第686号 ニース天文台 小津夜景
小津夜景
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2020-03-08
〔今週号の表紙〕第672号 空を飛ぶ道具 小津夜景
〔今週号の表紙〕第672号 空を飛ぶ道具
小津夜景
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2019-11-17
【句集を読む】祝祭的迷子、あるいは中嶋憲武『祝日たちのために』に捧げる小さな覚書 小津夜景
【句集を読む】
祝祭的迷子、あるいは中嶋憲武『祝日たちのために』に捧げる小さな覚書
小津夜景
1
「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ」と、ヘミングウェイは書いた。
2
このエピグラフから始まる彼の著書『移動祝祭日』には、彼がガートルード・スタイン、エズラ・パウンド、スコット・フィッツジェラルドをはじめ、数多くの芸術家たちと交流しながらパリで過ごした日々が甘美な郷愁に満ちた筆致で描かれていて、彼にとってのパリ時代がどれだけかけがえのないものだったのかが手に取るようにわかる。
3
ヘミングウェイに限らず、誰にとっても青春はかけがえのないもので、その時代の経験は重要なピースとしておのおのの肉体に深く組み込まれている。ある人が青春時代になにがしかの幸福な時間を過ごしたならば、どこへゆこうとも、その一片の思い出は祝祭のように心躍るものとして生涯ついて回るだろうーーそれがパリであろうとなかろうと。
4
中嶋憲武『祝日たちのために』に収められた言葉は、それぞれに奇妙な祝祭性を帯びている。ページをめくるたびに出会う、でたらめ風を装った一句。まるで移動祝祭日のスクリーンショット集みたいに。
迷宮へ靴取りにゆくえれめのぴー
えれめのぴー、すなわちLMNOPという描写から、私は、作者が靴を取りに行った迷宮とは「文字の迷宮」なのではないだろうかと空想する。この句集の基本的構図はおおむねシュルレアリスムだから、それを「文字の迷宮」であるという風に思い描くと、全体の雰囲気ともしっくりくるのだ。
自分より孤独春風へハロー
構図がシュルレアリスムだとすれば、色彩はポップである。とりわけ切なさと軽さの二色が基調であるとおぼしい。
5
17種の散文も載っている。
北の風が夜会服を身に纏い、私の前に立つ。アラベスクの低く流れる夕方。電柱の陰に宴が始まると、招待客は皆一列の楽譜だ。私と北風は南へ渡るペリカンのように、遠い星を一つ落とす。ヘミングウェイが遭遇した1920年代のパリの言語空間は、まさにこうした華麗なる錯乱そのものだったに違いない。
6
中嶋憲武『祝日たちのために』もまた、混迷や錯乱を生きることが、おそらく幸福の意味を担っている。迷子になれる靴を履いて、言葉と言葉の間をさまようこと。それは人生における一つの流儀であるとともに、あの祝祭の日々のロスト感覚にくりかえし出会う方法でもあるのだ。
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2019-09-29
【句集を読む】とかくこの世は 小川軽舟『朝晩』の二句 小津夜景
【句集を読む】
とかくこの世は
小川軽舟『朝晩』の二句
小津夜景
食べたり飲んだり吸ったり嗅いだりにまつわる好き嫌いは人前で話すのが難しい。だいたいその種のことに興味があり、かつ日々楽しんでいる人は、本当のところを他人に明かしたくなんてないだろう(とかくこの世は言うにはばかられる話が多いのだ)。そんな中、ニコチン愛好は隠している人が少ないという意味でたわいない嗜好にちがいない。
八月や古書にしふねき煙草の香 小川軽舟
〈しふねき〉という文語の趣きが〈古書〉や〈煙草〉に似つかわしい。また〈しつこい〉と口語で書くよりもヤニの執念ぶかさがよく伝わって、なんだか典雅な愛念すらも醸し出している。なかなか効果的な文語の挿し入れ方だ。
秋風の遺影煙草をうまさうに 小川軽舟
〈秋風〉の漂白性と〈遺影〉にかがよう過去への憧憬。この流れで登場する一服はたしかに格別に〈うまさう〉である。
「あのさ、軽舟さんの秋風の煙草の句、あるじゃん」
「うん」
「あの句の遺影って誰だろう」
「市川崑がオツじゃない? 僕はそう想像したよ」
昨日、ある人とこんな会話を交わした。さっそく市川崑の遺影を見てみると、なんともいえず強そうで、優しく、茶目っ気たっぷりの表情をしている。
ああ。私にとって、軽舟さんのあの句の良さは、たばこはおしゃれとか、たばこはカッコいいといった価値観が通用した昭和の記憶の愛惜にあるのではなく、「人間とはくだらないものだ、だがそのくださなさのどこが悪いのか」という声がどこかから聞こえてくるところにあるのだ。そんなこと、ひとことも書いてはいないのだけれど……。市川崑の表情を眺めつつ、私はそう思った。
人間のおろかさやくだらなさとは、ただシンプルにおろかさやくだらなさであって、善や悪のあずかりしらない襞をもつ。もちろん背徳性に興奮をおぼえるといった世間依存型の快楽もありはするけれど、ほんらい趣味嗜好にまつわる人間の感性は道徳と一切関係がない。
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小川軽舟『朝晩』はいわゆる「標準世帯」を守りつつ、横浜の自宅を離れて関西の鉄道会社に単身赴任する著者が、日々の暮らしをていねいに綴った句集である。
私の人生は私の世代の標準的なものである。あえて境涯俳句と呼べるような特色はない。しかし、平成も終わろうとする今、かつての標準がもはや標準でなくなっていることに気づいた。私の平凡な人生は、過ぎ去ろうとする時代の平凡だった。だからこそ書き留める意味もあるだろう(小川軽舟『朝晩』あとがきより)。作者が書くのだから、おおむね本当なのだろう。けれどもこの句集はそんな「おおむね」からこぼれおちる趣味嗜好をちらりと感じさせもして、そこに私は興味をおぼえた。もちろんその部分を作者がはっきりと詠んでいるわけではない。とかくこの世は言うにはばかられる話が多いのである。
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2019-08-04
〔今週号の表紙〕第641号 裏口 小津夜景
小津夜景
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2019-04-14
【句集を読む】 深さの図学をめぐるスケッチ 岡田一実『記憶における沼とその他の在処』を読む 小津夜景
【句集を読む】
深さの図学をめぐるスケッチ
岡田一実『記憶における沼とその他の在処』を読む
小津夜景
ごく限られた素材によって、作者の小宇宙が図案化された句集。岡田一実『記憶における沼とその他の在処』(以下『記憶沼』)を読んで、そんなことを思った。
なかでも目につくのが句集のタイトルとも関係する「水」にまつわる句と、陽/火/灯などの様々な「ひ」をあしらった句である。が、今回触れるのはそのどちらでもなく、次のような作品群だ。
蟻の上をのぼりて蟻や百合の中
万緑の内側に幹ありにけり
その中に倒木を組む泉かな
みづうみの芯の動かぬ良夜かな
根を通ふ水も深雪の底ひかな
中/内/奥/底/芯。『記憶沼』では、この種の把握によって世界の〈深さ〉を図案化してみせた句が、ゆるやかなペースでくりかえしあらわれる。
森の中森の茂りを透かし見る
木を叩くことも朧の影の内
玻璃越しに雨粒越しに虹立つよ
蠛蠓の芯を残さず失せにけり
花菜売る店の奥処に暮しの灯
こうした、なにげない日常を解きほぐし〈深さ〉の図案へと整序し直す〈世界の捉え直し〉はどうして起こるのか。どうやらそれは、作者が何かを見るとき、対象と同時におのれの意識をも見る(=何を見ているのかをおのれに問う)ためのようだ。
細胞に核の意識や黴の花
目の合へば思惟の光れる金魚かな
口中のちりめんじやこに目が沢山
見るつまり目玉はたらく蝶の昼
前半2句では「意識」と「核」、「思惟」と「光」など、認識の哲学にまつわる語が同居する。後半2句では自分の口の「中」に「ちりめんじやこ」の目を発見したり、「目玉」そのものを掘り下げつつ「見る」ことの定義を思い巡らす作者がいる。このように『記憶沼』においては、見ることと内省とのかかわりが激しく明からさまだ。
芯のなき赤子の首の昼寝かな
首といふ支へ長しや死人花
端居して首の高さの揃ひけり
飛ぶ鴨に首あり空を平らかに
「首」への目線も面白い。どうやら首は、作者の深層の水準器と共鳴する「芯」のようなもので、それによって世界を整序的に把握し得る可能性をいつもさぐってしまうらしい。
火蛾は火に裸婦は素描に影となる
『記憶沼』における様々な「ひ」が知性の光(=見る力)の喩を内包するのではないかといった想像をここで詳しく検討する余裕はないけれど、この句の「裸婦」が「火」のモチーフと並ぶことで、まるで光明に照らされて「影」(深層)をあらわにしたかのように演出されていることは疑いない。
このように、作者の目は〈深さ〉の図学を探究することにいささかの余念もない。とはいえ見ることは、本来割り切ることのできない曖昧で不分明な経過だ。見れば見るほど世界はその目をのがれ、見る者の立つ場所さえも危うくする。その意味で私は、次のような句をいっそう興味ぶかく感じた。
夢を木の咲いて軋めく籐寝椅子
海を浮く破墨の島や梅実る
日常語であれば、掲句の助詞「を」はどちらも「に」となるだろう。だがそれを「を」とするとき、見るという内省的行為が、対象の図案を万華鏡のように変容させつつ自己の中に不断に生起する運動であることが思い起こされる。つまり、掲句の「を」には、見ることの不分明な経過が痕跡化しているのである。
夢幻と現実は対立するものでなく、お互いを織りなすものであるというあたりまえの事実。そのことがおのずと呼び覚まされる、奥深い記憶の沼の光景にとても似つかわしい句だと思った。
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2018-11-11
〔今週号の表紙〕第603号 哲人 小津夜景
第603号 哲人
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2018-10-21
日曜のカンフー いつかたこぶねになる日 小津夜景
日曜のカンフー
いつかたこぶねになる日
小津夜景
沖を眺めながら、タコについて考えている。
午前の海はがらんとしている。子供とおじいさんのカップルが干潟でちいさな穴を探しては、その穴に塩をふりかけて砂から顔を出す馬刀貝をとっているくらいだ。今朝コーヒーを飲みつつ満干表を見たら、今日は今年最後の潮干狩り日和とあったから、もっとたくさん人がいるかと思ったのに。
ゆうべからタコのことが頭から離れない。タコの映像をまとめて観たせいだ。タコはかわいい。しかも非凡だ。さらにはきわめて孤独を愛するライフスタイルを貫いている。なんでもタコは巣穴で一人暮らしをし、毎日単独で遊びにゆく。道具をつかって巣穴を自分好みに飾りつける。椰子の実をカプセル住居として常にたずさえるタコもいる。そういえば、たこぶねという種類のタコは、地中海の宮殿のような貝殻を住居にしていた。A・M・リンドバーグ『海からの贈物』にも登場するあのタコだ。
浜辺で見られる世界の住人の中に、稀にしか出会わない、珍しいのがいて、たこぶねはその貝と少しも結び付いていない。貝は実際は、子供のための揺籃であって、母のたこぶねはこれを抱えて海の表面に浮び上がり、そこで卵が孵って、子供たちは泳ぎ去り、母のたこぶねは貝を捨てて新しい生活を始める。私はこのたこぶねのそういう仮の住居を専門家の収集でしか見たことがないが、その生き方が提供する影像に非常な魅力を感じる。半透明で、ギリシャの柱のように美しい溝が幾筋が付いているこの白い貝は、昔の人たちが乗った舟も同様に軽くて、未知の海に向かっていつでも出帆することができる。(リンドバーグ「たこぶね」)この本は、リンドバーグがいっとき家庭を離れて島の家を借り、浜辺で拾った貝殻を材料として毎夜思いめぐらしたことをまとめた随筆集で、各章には「浜辺」「ほら貝」「つめた貝」「日の出貝」「牡蠣」「たこぶね」「幾つかの貝」「浜辺を振返って」と題がついている。簡素の美しさを告げる「ほら貝」、孤独の大切さを教える「つめた貝」、結婚当初のつかのまの完璧な自足を思わせる「日の出貝」、そのあとの長い涵養の時間を手ほどきする「牡蠣」、そして涵養の果てにその殻を捨て去って、ふたたび身一つで海へと泳ぎだす「たこぶね」。こうした、貝から与えらえるイメージを連ねることによって、女性が自由に生きるためには何が必要なのか、その暮らし方をリンドバーグは見つめ直すのだ。
人生の後半を、時の年輪がつくりあげた美しい殻を惜しげもなく脱ぎ捨てて、たこぶねのように、さらなる未知の世界へ泳ぎだしたいという願い。一介のタコとして生きたいという願い。ちょっとないくらい深い話である。
ふいに潮の香り。白い大きな船が、ゆっくりと沖を通り過ぎる。鉄製の編み籠に、ナイフみたいな馬刀貝をほうり込んだ子供が、おじいさんに向かって歓喜の声を上げた。
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| © Veronidae |
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2018-07-08
器に手を当てる 宮本佳世乃「ぽつねんと」における〈風景〉の構図 小津夜景
器に手を当てる
宮本佳世乃「ぽつねんと」における〈風景〉の構図
小津夜景
転載(改稿あり)
俗に「オルガン調」と言われる俳句がある。
この呼称はきわめて気分的なもので、実際どれほどの内実があるのか検証されてもいないが、多くの場合、同人誌「オルガン」の中心的人物と見做されている鴇田智哉の作品との類像性ないし影響関係が感じられる句をそう呼ぶようだ。具体的な特色についてはいくつか考えられるが、その中でも確実と思われる一例を宮本佳世乃「ぽつねんと」から引用してみよう。
くちなはに枝の綻びつつまはる
ふくろふのまんなかに木の虚のある
もしも上の句が〈くちなはの枝に綻びつつまはる〉〈木の虚のまんなかにふくろふのある〉であれば話はかんたんだ。しかし宮本はそうは書かない。
ここでまず確認したいこと、それは文法上・論理上の語順を入れ替えることによって詩趣を生み出すこの技法が鴇田智哉の考案ではないという基本的事実である。この種のレトリックは俳諧の成立過程においてすでに存在し、具体的には杜甫の倒装法を芭蕉が真似たことに由来している〔*〕。
香稲啄余鸚鵡粒 香稲、啄み余す鸚鵡の粒、
碧梧棲老鳳凰枝 碧梧、棲み老ゆ鳳凰の枝。
(杜甫「秋興」)
鐘消えて花の香は撞く夕べかな 芭蕉
吹き飛ばす石は浅間の野分哉 〃
海暮れて鴨の声ほのかに白し 〃
仮に杜甫「秋興」の頷聯「香稲、啄み余す鸚鵡の粒/碧梧、棲み老ゆ鳳凰の枝」を実際の光景である「鸚鵡、啄み余す香稲の粒/鳳凰、棲み老ゆ碧梧の枝」に戻すと、句の中心となる名詞が「鸚鵡」「鳳凰」に固定されてしまい、人間の目に世界が立ち上がる際の動態性が失われることがわかる。加えて句の内容が〈風景〉ではなく〈景観〉にすぎなくなるため感興にも乏しい。
〈風景〉とは体験である。それは客観的・科学的な〈景観〉や〈環境〉と異なり、心と感覚の働きに起因する個人的かつ一回性の出来事として文学および美学の領域で論じられてきた。ここで杜甫が行ったことも、読者の知性を前提とした上で語順を錯綜させて、意味における虚と実との大胆な共存を図りつつその交じわる点に一回性としての〈風景〉を出現させる試みとして捉えることができる。そしてまた芭蕉もこれに倣い、通常ならば〈鐘撞いて花の香消ゆる夕べかな〉〈石を吹き飛ばす浅間の野分哉〉と書くところを倒装法によって語の位置をアクロバティックに入れ換えたのだ。
また倒装法は「鍵となる語の交錯」と「修飾語の交錯」とのパターンに大きく分類されるが、芭蕉における後者の例としては〈海暮れて鴨の声ほのかに白し〉がわかりやすい。これを実際の光景に戻すと〈海暮れてほのかに白し鴨の声〉となる。ただしそれは「実」の景であっても「真」の景であるとは言いがたく、なにより現象を把握する折々に生じる五感の分かちがたさといった〈真に生きられた体験〉が抜け落ちている。そんなわけで芭蕉は〈海暮れて鴨の声ほのかに白し〉と書いた--のかどうかは今となっては正直推し量り難いけれども、少なくとも残された句は、理屈によって世界が整理されてしまう以前の純粋経験を描いたそれとなった。共感覚的風景を産み出すのにも便利な--ときに便利すぎることも否めない--この類の代換法(=転移修飾語)は漢詩文以外でも珍しくないレトリックの構文である。
話を最初に戻すと、俗に「オルガン調」と言われる方法の内のひとつはこの倒装法のヴァリエーションであり、その意味で冒頭に引用したふたつの句も俳諧の伝統をすこやかに受け継いでいる。すなわち、ここにおいて宮本が描こうとしたのは、風景が生成する過程における意識の動き、つまり作者が実際に生きた時空そのものの描写であるため、あのような語順が妥当であったのだ。
その他「ぽつねんと」で目につく特徴といえば切れ字の少なさで、全30句のうち〈雪晴や器械から音楽の出て〉と〈十六夜の髪にこぼるる鋏かな〉の2句にあらわれるのみである。代わりに宮本は切れ字以外の方法で一句を構造化することを目指すのだが、そのひとつが今説明した倒装法によって句に〈虚実の奥行き〉を付与する方法と、もうひとつが〈器〉ないし〈扉〉のイメージによって句の〈内外の奥行き〉を演出する方法だ。
うすばかげろふおとうとの肺に棲む
こゑ新しくあぢさゐに閉ざさるる
湧いてくる闇武蔵五日市のダリア
蜥蜴一本かほより岩へ入る
ふくろふのまんなかに木の虚のある
ここでは「うすばかげろふ」「こゑ」「闇」「蜥蜴」「ふくろふ」がそれぞれ「肺」「あぢさゐ」「ダリア」「岩」「木の虚」といった〈器〉を出入りする様子が描かれており、後の語群と前の語群との間には包含の構図が存在する。〈ふくろふのまんなかに木の虚のある〉については「ふくろふ」という〈器〉の中に「木の虚」があると読んでも差し支えない(今重要なのはふたつの語が包含関係にあるということだから)。こうした構図は「ぽつねんと」のいたるところに溢れている。
ふれてみし冬の泉の割れて櫛
ゆふがたを紋白蝶の溜まる息
雪晴や器械から音楽の出て
瓶を持つ手のふたたびの霧の中
金網のおほかた錆びてかひやぐら
ここでは「泉」が「櫛」を、「息」が「紋白蝶」を、「器械」が「音楽」をそれぞれ包みこんでおり、なかでも〈ゆふがたを紋白蝶の溜まる息〉は紋白蝶をたくわえた息の質感がえもいわれぬ詩趣を発して心地よい。またまた「霧」や「かひやぐら」は、先の〈湧いてくる闇武蔵五日市のダリア〉において「闇」が「ダリア」から湧いたように、「瓶」や「金網」から湧いていると読むこともできる。さらに、
古代より来し青鷺の部屋の前
遊びたる鶴うつりたる自動ドア
ここにも「青鷺」が「部屋」を、また「鶴」が「自動ドア」を出入りする構図が隠されている。この2句については「古代より来し/遊びたる」および「部屋の前/うつりたる自動ドア」など意味も似通っており、共通の構図のみならず共通の機微の下で書かれていることがわかる。「ぽつねんと」にただよう沈潜的な香りは、こうした〈内外の奥行き〉によって生み出される潜在的領域を一句がさりげなく隠し持つことで実現されているようだ。
手を当てるとき数学はからすうり
「数学」とは形而上学、すなわち純粋経験そのものであり、掲句ではその「数学」が「からすうり」という小さな〈器〉に包含される(あるいは全く同等である)と語られる。このささやかな神秘。そのひっそりと奥深い美しさ。思うに「からすうり」に「手を当てる」とは、おそらく〈真に生きられた体験〉としての〈風景〉がそのつど〈器〉の中に潜在していることを祈りつつ信じる仕草なのだろう。
【註】
〔*〕芭蕉以外の俳人による倒装法として、蕪村〈夜やいつの長良の鵜飼かつて見し〉を例に挙げる。この句の実の形は〈いつの夜や長良の鵜飼かつて見し〉となる。
【参考文献】
・佐藤信夫『レトリックの意味論―意味の弾性』 講談社学術文庫
・芥川龍之介「芭蕉雑記」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/23_15267.html
・久保忠夫「芭蕉の発句と倒装法」 『連歌俳諧研究』1956年1956巻12号p. 61-68 https://doi.org/10.11180/haibun1951.1956.12_61
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