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2014-08-31

【今週の五七五】俳句よむ いけてるギャルは このわたし! 西原天気

世界は俳句で出来ている
【今週の五七五
俳句よむ いけてるギャルは このわたし!

西原天気


「今週の」というと毎週のようですが、ぜんぜんそんなことはありません。ずいぶん久しぶりです。

過去記事

なんと4年ぶりです。


さて、

  俳句よむ いけてるギャルは このわたし!  はいくちゃん

「はいくちゃん」は三重県伊賀市のご当地キャラ、ゆるキャラです。


「上半身裸で町を歩く」はツワモノというのとはちょっと違うと思うのですが、そうした奇行・蛮行の以前に、見るからに凶暴そうなところ、人の気持ちを逆なでするような顔つきは、どうなのでしょう? ゆるキャラ的に。




「俳句」といえば「俳都宣言」したとかの松山市、という意見もありますので、そちらの「ご当地キャラ」を見てみますと(≫http://www.city.matsuyama.ehime.jp/shisei/matsuyama/yuru.html)。

8体って多くないですか。

俳句関連は見つかりません。



「ゆるキャラ」は、いわば微笑ましい失敗、悦ばしい奇妙さを着ぐるみのご当地キャラに見出す態度です。前提として「本気」が欲しい。というより、本来は、本気でご当地キャラを仕立てあげようとした、その際に、何を間違ったのか、ゆるく奇妙な失敗作が出来てしまった。しかしながら、そこのところの「ちょっとした間違い具合」をこそ、あえて愛していこうという態度。

ところがブームとなると、ブームを当て込み、はじめから「ゆる」を目指したような着ぐるみが増えてしまった。それでは妙味がありません。

さて、掲句。

「あの、ちょっと、いいですか。あなたさまのどこをもってして『いけてる』と申されているのでしょうか?」などとオトナゲナイことを言ってはいけません。

で、ひとつだけ。繰り返し指摘されているにちがいありませんが、あらためて。

世の中で「俳句」と宣言して無季の五七五であることの、どれだけ多いことか。

「ギャル版松尾芭蕉」の「はいくちゃん」が、こうも堂々と無季俳句をものするわけですから、俳人協会も、方向転換すべきではないでしょうか。


(ウソですよ。冗談ですからね)


なお、「はいくちゃん」は2008年9月23日に誕生。いまでもどこかにいるのでしょうか。

と言ってみたものの、消息その他いっさい興味がありません。


2010-08-08

今週の五七五.06 さいばら天気

世界は俳句で出来ている
今週の五七五  no.06 ……さいばら天気




キリストを信じる人は救われる



弟子おっ、3行分かち書きですね。

師匠いわゆる「キリスト看板」。聖書配布協力会というところが貼り付けているそうだ。

弟子私、最近、ツイッターで知りました(≫こちら)。「世界人類が平和でありますように」とはまた違うんですね。

師匠句意は明解……。

弟子句意?

師匠句だろ?

弟子まあ、そうですけど。

師匠だから解説を要しない。

弟子はい。

師匠ま、これも日本の一風景という……。そんなところで、いいかな?

弟子はい。まだ、実際には見たことがないので、見てみたい気がしてきました。


画像提供:キリスト看板展示室 ※必見。キリスト看板画像の宝庫。

2010-07-18

今週の五七五05 さいばら天気

世界は俳句で出来ている
今週の五七五  no.05 ……さいばら天気


栃木県那須塩原市遅野沢


大きな地図で見る


弟子ネタがないんなら、連載、もう終わればいいのに。

師匠そんな言い方せんでも。


2010-07-04

今週の五七五04 さいばら天気

世界は俳句で出来ている
今週の五七五  no.04 ……さいばら天気


此の町に此の娘あり薬あり  星胃腸薬


弟子なに、この、ロマンチック。

師匠「此の町に此の娘あり」なんて、ちょっとグッとくる。

弟子広告コピーですね。

師匠そ。この文案は、筑紫磐井『標語誕生!』(p231)に大正14年の正路喜社編『広告文化』から引かれている。

弟子大正年間ですか。

師匠星製薬は、SF作家、星新一の実父、星一(ほし・はじめ)が1910年(明治43年)に創業。いまも続いている。(≫星製薬株式会社ホームページ

弟子あ、この赤い缶、なんだか見覚えがあります。

師匠うん。いまも、このデザイン。「此の町」という感じ。「娘あり」という感じ。

弟子どんな感じですか、それ。

師匠

弟子まあ、なんとなく、しますね、そう言われてみれば。

師匠では、また。

弟子はい、ありがとうございました。


2010-06-20

今週の五七五 03


世界は俳句で出来ている
今週の五七五  no.03 ……さいばら天気


たった今、我慢のドスを抜きやした  映画「緋牡丹博徒 一宿一飯」


弟子緋牡丹博徒シリーズの第2作。1968年、鈴木則文監督作品の惹句です。

師匠おっ、惹句ね。今はキャッチコピーとかキャッチフレーズとか、ぺらぺらちゃらちゃした言い方が多いけれど、やはりここは「惹句」じゃないと、感じが出ない。

弟子「たった今、」という入り方、いいですね。

師匠藤純子、いいなあ。

弟子今は富司純子ですね。って、そうじゃくて、「たった今、」。

師匠うん、なかなかシャープ。その次の「我慢の」というところが重要でね。この頃の東映任侠映画、とりわけ高倉健主演の映画は、我慢に我慢を重ねて、最後にドスを抜く、というのが基本構造。

弟子ひどい仕打ちに堪えて堪えて、クライマックスはなぐり込み、というやつですね。

師匠で、悪役は新興勢力。つまり「近代」なわけ。「近代」の横暴に、「伝統」が立ち向かうという図式。だから、任侠映画の惹句には、「七五調」という伝統がよく似合う。

弟子ほかのポスターも見てみましたが、だいたいは「七五」が基本です。右の画像はクリックすると大きくなりますが、「昭和残侠伝 死んで貰います」(1970年)。

行くなと言われて なお行きたがる
任侠気質
(やくざかたぎ)はとめられませぬ
どこへ!?…と聞くだけヤボな殴り込み

8(44)で入って、7で押さえて、77。「どこへ!?…」以降は、「!?…」を一音の休符とすれば、575です。

師匠どこへ?と/きくだけやぼな/なぐりこみ。みごとだな。

弟子「日本侠客伝 雷門の決斗」(1966年)。

浅草(エンコ)が俺を呼んだから
ドスを抱えてきたんだぜ

こちらはスパッと歯切れよく、75/75の2行で決めてます。エンコは浅草の古い俗称ですね。

師匠浅草公園の公園を逆さ読み。上野を「ノガミ」と呼ぶに同じく。

弟子ギロッポンみたいなものですね。

師匠まあ、近い。

弟子ほとんどは浅草が舞台になってます。

師匠それも近代vs伝統の二元論だな。浅草は古い遊興地で江戸趣味が残る地域。近代の遊興地は丸の内とか日比谷。そういう地域的な対照(例えば「コモエスタ三鬼 第9回 東京スペクタクル」参照)。

弟子次は「日本侠客伝 刃(ドス)」(1971年)です。東京から離れました。

男の意地と無情のドスが
さびしく散らした恋の花

渡世一匹 返り血浴びる北陸路

77/8(44)5/775。これも調子がいいです。

師匠おお! 十朱幸代!

弟子いや、惹句の話です。

師匠まんなかの字余り「さびしく散らした」も、ここですこし間(ま)をゆったりとる感じで、なかなかの技巧。

弟子次はまた藤純子です。「日本女侠伝 真赤な度胸花」(1970年)は、77と78で決めてます。

知らぬ他国の夕日を浴びて
真ッ赤に咲いた女侠一匹!

師匠ポスターがマカロニウェスタンみたいだ。

弟子これは色遣いがもう「和」ではないですね。すごい。

師匠「北海道長期ロケ敢行!」とあるから、ちょっと無国籍っぽいんだろう。

弟子北海道といえば、網走番外地シリーズです。「網走番外地 大雪原の対決」(1966)。

女抱くよに
ドス抱いて!
また来たぜ!
雪のふるふる北の果て

師匠これは7音に調整してるところが、たいへん興味深い。

弟子あ、ほんとですね。「抱くように」じゃなくて「抱くよに」。「雪のふる」じゃなくて「雪のふるふる」。

師匠いろいろと苦心や工夫がある。

弟子次は「新網走番外地 流人岬の決斗」(1969年)。

親の、親のない子が生きるには
こうなるほかに
何がある
無理か、この世のはぐれ鳥
男 網走番外地

師匠これは惹句というより歌詞かな?

弟子そんな感じですね。冒頭、「親の、」の3音、繰り返しで入るやり方が。なんだかとてもいいですね。

師匠あとのほうの「無理か」「男」に呼応させたのかもしれない。

弟子では最後に、ちょっと七五調が崩れた例を見てください。「仁義の墓場」(深作欣二監督・1975年)。

俺が死ぬ時は
カラスだけが鳴く

七五調のリズムから遠いです。高倉健のシリーズとは違って、任侠映画というよりもヤクザ映画という括りだからでしょうか。

師匠それはある。威勢のいい七五調ではしっくりこない。短いフレーズが七五から崩れると、ちょっとした虚無の空気も醸すみたいだ。

弟子なるほど。しかし映画の惹句、なかなかおもしろいです。今のものも調べてみたいです。

師匠惹句といえば、関根忠郎、山田宏一、山根貞男の対談・鼎談で映画ポスターの惹句を語る『惹句術』(講談社1986)の冒頭で山田宏一と山根貞男がこんなふうに言ってる。

山田 映画が作品として存在するのは、フィルムがスクリーンに上映されたときからなわけだけど、映画ファンとしてのわれわれの映画体験は実は映画を作品として見る以前から始まっていると思うんですね。(…略…)そこの部分は永遠に批評の死角になっていると思うし、映画ジャーナリズムにも含まれない。(…略…)
山根 映画を生きもののようにとらえると、その生きものは、たしかにスクリーンに接する以前から、ぼくらのなかに棲みついていますね。映画館に入る前の段階、もっと漠然とした社会環境において、生きものが息づいていて、そいつの気配をぼくらは呼吸している。社会環境というと堅苦しいけど、巷ですよね。映画はもともと、まず巷にあったんじゃないかと思う。例えば巷で、電柱とか塀に貼られた映画ポスターを見るとき、その雰囲気がすでにもう映画でね。
まあ、映画ポスターが近年はすでに失われつつあるわけなんだが。

弟子電柱に貼ってあるって、見ないですね。昭和の感じ。

師匠社会のなかの映画はだいぶ変わった。その変化は近年、というよりももっと前。1970年代を思い出してみると、ポスターを見て映画を見に行くという行動はすでになくて、情報誌をめくっていた。

弟子『ぴあ』創刊は1972年ですから。

師匠映画ポスターに、惹句に存在感があったのは1960年代までかもしれない。

弟子五七五の話からずいぶん逸れちゃいましたけど?

師匠うん。でも、むりやりこじつければ、五七五が社会環境や人の心情のなかで存在感をもっていたのも、50年以上昔のことかもしれない。

弟子もしそうなら、俳句や川柳、短歌は?

師匠社会の支えをなくして、いかに社会に届けるかというのは、ひとつのテーマかも。「五七五で調子がいい」というだけではね。民謡の世界、演歌カラオケの世界じゃないんだから。

弟子そういえば、七五調が、ものすごく恥ずかしいときがありますね。

師匠日本人の血(笑)に染みついた韻律ということはいえても、そうだからこそ恥ずかしいということはあるだろう。土俗って、そんなもんよ。

弟子なるほど。今回も勉強になったような、ならないような。ありがとうございました。



2010-06-13

今週の五七五 02


世界は俳句で出来ている
今週の五七五  no.02

布施明「君は薔薇より美しい」  作詞:門谷憲二


季語:薔薇(夏)



弟子:いかがでしょう、この句。

師匠:まず上五。固有名詞は、よろしくない。人名など、もってのほか

弟子:はあ。

師匠:という人もいる。

弟子:じゃあ、使ってもいいんですか?

師匠:いや、そうは言ってない。

弟子:どっちなんですか。

師匠:それから、この「君」というのは、どうもねえ。

弟子:はあ。

師匠:「わたし」とか「きみ」とかを気軽に使うのは、あまり感心しない。

弟子:はあ。

師匠:ような気がする。

弟子:はっきりしないですねえ。

師匠:「美しい」というのも、どうだろう。

弟子:言っちゃいけない、と?

師匠:いや、まあ、だいたいにして、薔薇より美しい女性なんて、そうはいない。

弟子:あ、そっちですか。

師匠:うん、そっち。

弟子:でも、持ち上げるなら、とことん、が、口説くときのコツだと、むかし、先生が。

師匠:そんなこと言ったっけ?

弟子:言いました。

師匠:カギ括弧も、なんだか気になる。

弟子:でも、カギ括弧がないと、布施明が薔薇より美しいみたいじゃないですか。

師匠:それもそうだ。じゃあ、要る。

弟子:いいかげんですねえ。

師匠:ともかく、俳句としては、傷が多い、ということは言えると思う。

弟子:なるほど。勉強になりました。


2010-06-06

今週の五七五 01



世界は俳句で出来ている

今週の五七五 no.01

町長がコンパニオンと野球拳  サンケイスポーツ

無季。

議会で問い詰められた町長さんは、「場をしらけさせないようにと思ってやった」とおっしゃっています。愉快な町長さんだと思うのですが、どうなんでしょう?

(さいばら天気)