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2025-02-09

叶裕【週俳10月11月の俳句を読む】神の國 関灯之介「橋」を読む

【週俳10月11月の俳句を読む】
神の國
関灯之介」を読む

叶裕 


木仏の手粗々と夜を束ねたる  関灯之介(以下同)

木仏とは文字通り装飾もない素朴な木彫りの仏像だ。 はじめは仏陀の遺骨を収めた舎利塔を崇めたものが、ヘレニズムの影響で仏像彫刻が始まり現在に至るのだと云う。国宝クラスの荘厳なる仏像も勿論だが、円空仏を代表とするプリミティヴな木仏はアニミズムを始原とする神道と仏教の融合するわが国の祈りの対象として今も愛されている。反面この語は感情の冷ややかな情の薄い人間に対して「木仏のような人」などと使われもする。 
掲句、普通なら闇夜に強いコントラストで浮かび上がる仏の荒々しく彫られた手がまるで夜を束ねるように見えると読むべきところ、ぼくは不夜城のような繁華街を統べる冷酷なるヴィラン(悪漢)を想起した。本当の悪とは穏やかな、人を魅了してやまないように見える人物なのだ。 


千の繭浮かぶ蔟(まぶし)の格子中

「蔟」とは「蚕蔟(さんぞく)」ともいい、蚕が繭を作りやすいように藁や竹、紙で作った仕掛けの事である。たくさんの仕切の中に一つずつ繭が作られる様は生命の持つある種の迫力を感じるものだ。掲句からはマンションなどの巨大集合住宅が想起され、無数の部屋それぞれにある人生に思いを馳せている。

少し偏った見方をすればぼくの地元に暗然と屹立する東京拘置所にも見え、格子一つ一つに囚われとなっている罪人達から感じる物言わぬ圧を覚えるのである。 


われらの夢を集めし塔のうすけむり

憧れの人物が火葬され、灰になるまでの待ち時間、ふと見上げた煙突から薄い煙が見え感慨に耽っているさま、つまりこの「塔」とは火葬場の煙突なのではないだろうか。 そして掲句に画家熊谷守一の名画「ヤキバノカエリ」が重なるのだ。

結核で21の若さで亡くなった長女・萬を荼毘に付し、骨壷を収めた小箱を抱え帰る熊谷一家の姿をシンプルな構成で描いたものだが、シンプルだからこそ熊谷の激痛のような絶望が伝わってくる。「われらの夢」が死によって断たれたこの時の作者の嘆きが聞こえてくるようだ。


鹿の皮被りて鹿の姿なす

先日、弘理子監督の映画「鹿の国」を観た。日本のヘソと呼ばれる長野県諏訪に御座す諏訪大社。ここでは年間二百を越える祭事が行われるが、その中でも謎とされる古神「ミシャクジ」を降ろす秘事「御室神事」を再現するドキュメンタリーだ。ここで生き神の少年に捧げられる七十五頭もの鹿の首に思わず息を呑む。古来よりこの地方の四季と豊年を司る神のつかいであり、貴重なタンパク源でもある鹿と人間の関係は現代の価値観では計り知れぬ深さがある。

御室神事では鹿狩を模した舞を神前に供するのだが、掲句はまるでそれを見てきたかのようなリアリティがある。プリミティヴな、しかし生命力を感じさせる儀式はぼくらの深いところを揺らして止まない。


鬼迫り来芒薙ぎ倒し薙ぎ倒し

大陸で死者を意味する「鬼」がわが国へ渡り、初めは自然を司る畏怖の対象として崇められ、時代の趨勢に合わせ人間の内部にある欲望や罪、葛藤を表す「悪」を象徴する存在に変じ現代に至るとされる。(馬場あき子著「鬼の研究」より) 超常の者としての鬼は今も恐怖と畏怖の対象としてぼくらの潜在意識に刻まれている。 掲句の白土三平の忍者漫画のようなダイナミックな描写力は白眉といって良い。句意がどのようなものか知る由もないが、ぼくには四季を連れ、豊穣をもたらす荒神「鬼」の本来の姿が垣間見えるような一句であった。 氏の句にはぼくらの遺伝子に刻まれた祈りのありかを句の形に抽出した手触りがある。モダン、ポストモダンを経て、更なる激動期に入ろうとする今、最も大切なものとは何かを見せてもらった気分となった事を特記したい。 


垂水文弥 両の壁と五十の塔、そしてそのかなしき王たち 52 読む 912

関灯之介 橋 30 読む 914

三宅桃子 溶けたあと 10 読む 915

2025-02-02

叶裕【週俳10月11月の俳句を読む】Parfait 三宅桃子「溶けたあと」を読む

【週俳10月11月の俳句を読む】
Parfait
三宅桃子溶けたあと」を読む

叶裕


つくつくし紙人形の溶けたあと  三宅桃子(以下同)

紙コップの紙の香強き秋燕

父斜めに写りて犬の墓を指す

くつしたの裏を表にする花野

息白く糸を漏らさず立っており

おそらく作者は日頃からカメラを持ち歩いているのではないか?そんな感触のある句が並ぶ事から一句一句を取り上げるのではなく、ベタ焼きを眺めるように連作全体を眺め、この文を書いている。

いま流行りの淡い色調にふわりとした輪郭、明るいレンズのもたらすボケ感の美しい写真を思わせるスタイルに見えるが、すこし距離をとって眺めているとその奥から悲や哀の涙の味がして来る。

そんな作者の句に日常を切り取ることで生の脆さと厳然とそこに横たわる死を写す写真家、川内倫子の写真が重なる。これは中々の曲者だぞと、写真家でもあるぼくは気を引き締めて拝読した。

よく読めば、師系や伝統などといういかめしさを感じさせず、しかししっかりと基本を踏まえた句風はすれっからしの目にも優しく映る。しかし噛み締める内に甘かったり、酸っぱかったりしてまるで一度に様々な味を楽しめるパフェのようにも感じる。そう、作者はただ読まれるだけでなく、一つの作品として観られる事を意識しながら慎重に材料を選び、調合し、シンプルながら美しい器に盛っているのだ。

優しく美しい。そして美味しい。もうそれだけで読者は嬉しくなる。そんな三宅氏の連作を堪能出来た事を嬉しく思う。

ごちそうさまでした。ありがとう。


垂水文弥 両の壁と五十の塔、そしてそのかなしき王たち 52 読む 912

関灯之介 橋 30 読む 914

三宅桃子 溶けたあと 10 読む 915

2025-01-26

叶裕【週俳10月11月の俳句を読む】くぐもる慟哭 垂水文弥「両の壁と五十の塔、そのかなしき王たち」を読む

【週俳10月11月の俳句を読む】
くぐもる慟哭
垂水文弥両の壁と五十の塔、そのかなしき王たち」を読む

叶裕


 これは、明確な弔辞である 
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい けふを鶴の忌とする  垂水文弥(以下同)

俳句だけでなく、芸術や音楽も含め、鑑賞とは予備知識や先入観を入れず、まず作品を丸呑みすべきだと考えている。スルリと喉越しの良い句、イガイガと引っかかる句、濃厚、淡麗、さながら唎酒を愉しむようにぼくは句を読む。そしてその時感じた直感をこそ信じている。 

この前書き付きの句には恋に逸るあまり、勇み足をしてしまった青年の、戻れるのなら事前に戻りたいという悔悟と羞恥心が早口で述べられている。そこに建てられた「鶴の忌」の墓碑に向けられた弔辞は一つの恋への訣別ともとれ、かつて自分がそうであった頃のような「初心(うぶ)」を思わせる、拙い性急さを覚えるのだ。 


進級してゆく眼(まなこ)の海を搔き出して

海で発生した生物を祖に持つぼくらは海水に近い成分である羊水の中で育まれ、眼球の中に「房水」という最小の海を持って生まれ落ちる。ぼくらは生きている限り、海から離れる事はできない。人生の折々に流す涙はきっと海の最果てなのだろう。

進級をするたび、恋を実らせてゆく友人たちが水面を目指し煌めく泡のように見え、忸怩が積もる海底に息を潜める自分を半ば憎む作者の低い叫びに触れた気分だが、初老のぼくにはそれすら眩しくてならない。


煙草てふさびしき塔を持ちあるく

いまや喫煙は社会悪のごとく嫌われているが、沈思するとき、孤独を噛み締めるとき、煙草は佳き友となる事を非喫煙者は知らない。

イヤホンで耳を埋め、隙あらばスマホを覗き、常に心ここに在らずの現代人は過去どの時代よりも孤独でありながら孤独を恐れている。「ぼっち」「キョロ充」。孤独を現す多くのネットスラングが生まれては消費されてゆく現代、作者はそれを自覚しながらさみしさの象徴である煙草を持ち歩く。

もしかしたら作者は非喫煙者なのかもしれないとふと思った。 掲句はなにより句の姿が良い。作者の卓抜した言語センスが味わえる一句だ。 


何にあこがれ少年はきつねをころす 

この句を眺め、「きつね」が何を示しているのか考えていた。我が国における狐の比喩表現は狡賢さの他に性的に魅力的な女性を表しているとされる。だいぶ偏った見方かもしれないが、少年たる作者は恋に破れるたびに憧憬の対象である女性を「きつね」として悪魔化し、想像の上で「ころす」事で次のステージへ転生するのではないか?これは少年から大人へ成長するための儀式なのかもしれない。 


 そして産声
われらみなしごすすめ誰が忌かもわからず 

疎開のための飛行機が墜落し、子供だけが生き残った南洋の孤島。そこはミルトンの描いた理想的楽園のようであったが、自由を謳歌するうち少年たちの中に獣性が芽生え、小さなホモソーシャルが崩壊してゆくというゴールディングの『蝿の王』を掲句に重ねる。 
すでに21世紀だというのに経済格差や社会的分断、戦争は止まず、扇動者のペテンに無辜の民草が殺されてゆくこの世界を構成する大人達への強い怒り、そして生き辛さを実感しながらもどうにも出来ない不甲斐なさへの失望を強く感じた。 

前書きから察するに作者は子供を授かったのかもしれない。この絶望の時代に子をなすことがどれだけ勇気の要ることか。応援しよう。ぼくはきみらの味方だ。ぼくもまたみなしごなのだから。 


垂水文弥。

普段、俳壇に無縁のぼくは若手俳人の動静に疎く、作者について何も知らない。しかし俳人にとって句こそが顔であり、履歴書であると思っているので、これでよいのだ。氏はアウトプットがとても巧い。静かに狂ってゆく我が国で、無数に積もる様々なレイヤーにより隔離され、ゆっくり窒息してゆく若者たちのくぐもった慟哭が聞こえて来るようであった。 

全く違う!と怒られるかもしれないが、それはそれ。どんな俳人なのか興味が出て来た。是非氏と飲みながら話がしたいと思ったのだった。 

良いものに触れた。

垂水さん、これからもがんばってね。

どうもありがとうございました。


垂水文弥 両の壁と五十の塔、そしてそのかなしき王たち 52 読む 912

関灯之介 橋 30 読む 914

三宅桃子 溶けたあと 10 読む 915


2022-07-24

叶裕〔今週号の表紙〕第796号 Côte du matin(明けの汀)

〔今週号の表紙〕第796号
Côte du matin(明けの汀)

叶 裕




美しいものが好きだ
美を見る事が何より好きだ
けれど
次第につまらなくなる
次第に虚しくなってくる
ある時
美を享受するだけでなく
自分ならどう表すか考え始めた
その時
絵筆ではなく
たまたまカメラがあったのだ


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2022-07-10

叶裕〔今週号の表紙〕第794号 白鷺 Monochrome egret

〔今週号の表紙〕第794号

白鷺 Monochrome egret

叶 裕

ニエプスの発明したカメラ・オブスクラによる世界初の写真「ル・グラの窓からの眺め(View from the Window at Le Gras)(1827年)」以降写真はぼくらを魅了し続けている。以降さまざまな発明がなされ現在に至るわけだが、中でもモノクローム写真の魅力は格別だ。写真史に残るカメラマン、マン・レイ、ブレッソン、ユージン・スミス、アヴェドン、ロバート・フランク、キャパ、中平卓馬、森山大道、荒木経惟、、彼らのモノクローム写真は例外なくカラフルで饒舌だ。ぼくは動画全盛のこの時代にモノクロームの饒舌を信じている。

この写真はご覧の通り白鷺(egret)だが、ぼくは短律自由律句にも似た隔離空間に彼女を封じてしまったのだ。


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