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2021-05-16

【空へゆく階段】№41 〔昭和初期の俳人〕 童子 川端茅舎 田中裕明

【空へゆく階段】№41

〔昭和初期の俳人〕
童子 川端茅舎

田中裕明



「晨」1997年5月号

現代俳句文学全集の第四巻「川端茅舎集」(昭和三二年 角川書店)の月報で高濱虚子と星野立子が対談して茅舎の思い出を語っている。茅舎の桐里町の家を訪れたくだり。
虚子 そんなことはさっぱり忘れてしまった。ただ庭石の上に現はれて来る蜥蜴や蟻が茅舎の友達の如く印象された事だけは覺えてゐる。
立子 その庭石ね。茅舎が玉藻に書いた文章に、ある日訪ねて来た和尚さんが髯をそろへて、盥の水をその庭石にかけた……とかいふ。春になると彼岸花の葉が青々とその庭石のまはりにいっぱい出てゐたことを何故かよくおぼえています。
茅舎という人物が、ひとつの庭石を手がかりにして浮びあがってくるような消息である。また虚子の言う、小動物の友達としての茅舎も、我々が作品を通じて描いている俳人茅舎のイメージと見事に一致している。

 白露に阿吽の旭さしにけり(川端茅舎句集)

 露の玉百千萬も葎かな(同)

 金剛の露ひとつぶや石の上(同)

 尾をひいて芋の露飛ぶ虚空かな(華厳)

まずは「露の茅舎」の露の句から。これらの作品に初学の頃より親しんでくると、阿吽や金剛という仏教語が特別な言葉とは思われない。ごく自然な、しかも強い意味を持たない、水のような語彙に感じられる。しかもその結果、生まれてはじめて露の玉に出会ったように鮮明な世界がある。

正直言って茅舎の露の中でもここに掲げたものは、あまりにも完璧で、欠陥がない。息苦しくなるくらい端正である。たとえば四句目を自解して「芋の葉を滑った露が尾をひいて飛んだのである。この時その尾をひいた露は全く廣大無邊の空間を飛過ぎて行くやうにも思へる」と書いている。こういう句が「本門寺裏の芋畑で一時間程突立ってゐて一息で出来て了って全く推敲斧正も加へなかった」のだから始末がわるい。

露の句でも小動物を詠んだものは、読者の想像力をはたらかせる余地がある。

 露の玉蟻たぢ/\となりにけり(川端茅舎句集)

 白露に薄薔薇色の土龍の掌(同)

 露の玉ころがり土龍ひつこんだり(同)

読んで思わず口許がゆるむような俳句だが、これを単にユーモアと呼ぶのはふさわしくない。慈愛と言うほうが近い。虚子が「蜥蜴や蟻が茅舎の友達」と語ったのも、このことだ。小動物を観察して一句にするのではない。その生き物と全く一つになるのである。茅舎が土龍となって露の玉に掌を合わせているのだ。歳時記を繰れば、虻や蛙など小動物の季語は数多いが、こういう俳句は誰も作らなかった。

 一瞬の露りん/\と糸芒(川端茅舎句集)

 たら/\と日が真赤ぞよ大根引(同)

 蜂の尻ふわ/\と針をさめけり(同)

 翡翠の影こんこんと溯り(同)

 ひら/\と月光降りぬ貝割菜(華厳)

オノマトペは声喩・擬音語。これらの句は音を表現したものではないから擬態語である。しかしながら読後の印象は、あたかもオノマトペのように思える。落日がたらたらと音をたてているようだし、月光が何かの花びらのようにひらひらとかすかな音をたてて降ってくるようだ。もともと擬態語はもののかたちやうごきを音で表現しようとした言語だからそういう性質はあるけれども、茅舎の句の擬態語はそのもっとも本質的なところを垣間見せてくれる。

茅舎は童子のように純粋に自然や小動物に対した。

 大空へ鳩らんまんと風車(華厳)

 風車赤し仁王の足赤し(同)

この句に自解して「多くの人達も屹度少年の日に若い母といっしょにかういふ風景の中に嬉々と立つ自分自身を見出す思ひ出を持つと思ふ。かういふ思ひ出を少年の日に持たぬ人達を僕は気の毒だと思ふ。全くそれは魂の故郷のやうである。その魂の故郷はひしがれた僕をいつも起上らせ力附ける。」と書いている。

画家を志し挫折した茅舎は、より純粋な意味での芸術家だった。童子の心を持たぬ人を気の毒だと思うと茅舎は言うが、世の多くの人達は忘れてしまっているのだ。それだけに茅舎の露の句が、小動物の句が、オノマトペの句が光を放つ。

 芋腹をたゝいて歓喜童子かな(川端茅舎句集)

 秋風にわれは制吒迦童子かな(白露)

セイタカ童子は金剛棒を持つ怒りの相の従者である。いつも長い杖を携えている自分をその童子に擬したものか。はじめに掲げた虚子立子の対談でも立子が「時たま丸ビルの発行所に現はれた時もその長い杖はいつも突いていた。お父さんが佛蘭西からお帰りになった時、横濱の港に出迎へに出て來た時も、例のマントと帽子姿でその杖を突いてブリッジを上って行きました。」と語っている。


2016-01-10

名句に学び無し、 なんだこりゃこそ学びの宝庫(21) 今井聖

名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (21)
今井 聖

 「街」第115号より転載

約束の寒の土筆を煮て下さい 川端茅舎  『白痴』(1941)

なんだこりゃ

と思っただろうな。この句を初めて見た読者は。

 ヤクソクノカンノツクシヲニテクダサイ

昭和十六年に四十四歳で亡くなった茅舎の没年に作られた句。

この有名な句、例によって茅舎がいつどこで誰に向かって「煮てください」と頼んだのかなどという評釈が定番化している。

つまらない。そういう論議はわざと本質を避けているような意図さえ感じる。

そんなことより虚子から「花鳥諷詠真骨頂漢」と呼ばれた茅舎である。その教祖認定の真打が作った口語、命令文(祈願文?)である「下さい」を考える必要がある。

茅舎には、

金剛の露ひとつぶや石の上
蛙の目越えて漣又さゞなみ
金輪際わりこむ婆や迎鐘
百合の蘂皆りんりんとふるひけり
ひらひらと月光降りぬ貝割菜
ぜんまいののの字ばかりの寂光土
咳き込めば我火の玉のごとくなり
花杏受胎告知の翅音びび
朴散華即ちしれぬ行方かな

などの喧伝される名句がある。

金剛の句の非科学の造型力や蛙の目の文体の新鮮さ。この句から鈴木六林男さんの「暗闇の目玉濡らさず泳ぐなり」を思うけど、比較すると蛙の目の句の方が隠喩としてどこまでも跳べる。優れた写生句は凝視がそのまま隠喩になるんだな。

ただ、順序としては凝視の結果としていうのが重要。この順序を外して隠喩への意図を優先させると「実るほど頭を垂れる稲穂かな」のごとき箴言や警句になる。

六林男さんのは後者に近い。最初から隠喩を意図して書かれている。戦後派の暗い内部意識、荒地派の手法だ。パクリとは言わないが自由詩のモダンに対する憧憬が根っこにある。その憧憬こそ「卑屈」ではないか。

これはまあ僕の意見。

りんりん、ひらひらのオノマトペの絶妙。直喩や想像力の深さ、鋭敏さ。どれをとっても一級。今日見てもいっこうに古さを感じない。花鳥諷詠かどうかは別にしても俳句の「真骨頂漢」であることは間違いない。

一方で茅舎には、

破芭蕉猶数行をのこしけり
秋風や袂の玉はナフタリン
牡丹雪林泉鉄のごときかな
白雪を冠れる石のかわきをり
寒月や穴の如くに黒き犬
暖かや飴の中から桃太郎
梅咲いて母の初七日いゝ天気
横たはる西瓜の号はツエペリン
尾をひいて芋の露飛ぶ虚空かな
誰が懐炉涅槃の足に置きわすれ
秋風に浴衣は藍の濃かりけり
糞壺の糞の日に寂び霜に寂び
雪の原犬沈没し躍り出づ
朝靄に梅は牛乳より濃かりけり
春の土に落とせしせんべ母は食べ
落葉掃了へて今川焼買ひに
栗の花白痴四十の紺絣
また微熱つくつく法師もう黙れ
咳かすかかすか喀血とくとくと

等のヘンテコ句がある。

破芭蕉の句は芭蕉の葉が破れた形を文章の行に喩えた。

寒蝉のただ数行を鳴きしのみ 誓子
雪の日暮れは幾度も読む文のごとし 龍太

これらの句の原型をみる思い。

ナフタリンや桃太郎やツエペリンの句は現代の機智俳句と並べても十分四つに組める。
牡丹雪、尾をひいて、誰が懐炉、糞壺、春の土、落葉の句などは即物非情緒で俳句スポーツ説の波多野爽波やヘンテコ博士田川飛旅子も真青の写生句だ。

そして冒頭の句に並んで、梅咲いて、また微熱、もう黙れ、の内容もさることながら独自の融通無碍なリズム、韻律、文体。

今の「伝統」俳人はやたら前例があるかどうかに神経質になっているような気がする。前例があるから避けて通るというのが本来創作者の矜持と思うがまったく逆。前例が無いものは認めないという方向である。

切れ字「や」を使うと意味も切れなければならないという思い込み。蛇笏の「流燈や一つにはかにさかのぼる」のような主格の「や」もあるのに。
季語が必ず要るという思い込み。季語というのは季節を表す言葉ではなく虚子編の歳時記に記載されているかどうかという基準になっている。ものすごくヘン。
季語は一句に一つが望ましいという秀句製作ノウハウの効率を重視した思い込み。
季語の本意という印籠をかざしての類型的情緒の肯定。
文体の前例、先例を踏むこと。

過日、現存する有名俳人の句で「下さい」で終わる俳句の鑑賞の依頼があった。

僕は内容云々よりも、そもそも茅舎の文体をそのまま用いるところが作家意識の低さというか、志が足りないという意味のことを書いたのだった。

十七音定型の枠にはさまざまな定番慣用文体があって、それを用いるのはまあ仕方がない。そこを否定すると書けなくなる。

しかし、その俳人が編み出した奇跡のような独自の表現を先例として借用するのは鋳型だけの拝借として済ませる問題ではないだろう。

或るときその話を若手の人たちの前で話した。

「下さいじゃなくて、くだせえとか、くれよとか、くださらんかくらい言ってくれれば認めるんだけど」

みんな笑った。

でもオリジナルとはそういう問題ではないのか。一字に細心で大胆な冒険を意図すること。

一字違えば別もんだ。

僕は「くだせえ」をおちゃらけの受け狙いで出したわけではない。発言の背景には、大好きなシンガーソングライター友部正人さんの歌「乾杯」があった。


いまだにクリスマスのような新宿の夜一日中誰かさんの小便の音でもきかされてるようなやりきれない毎日北風は狼のしっぽをはやしああそれそれってぼくのあごをえぐる誰かが気まぐれにこうもり傘を開いたように夜は突然やって来て君はスカートをまくったりくつ下をずらしたり
おお せつなやポッポー500円分の切符をくだせえ

500円分の切符をくだせえ。茅舎の句に「下さい」があるから俺はくだせえって言う。そんなちょっとの勇気さえ無いのかよ、俳人よ、てめえは。


なんだこりゃこそ学びの宝庫。