名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (21)
今井 聖
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (21)
今井 聖
「街」第115号より転載
約束の寒の土筆を煮て下さい 川端茅舎 『白痴』(1941)
なんだこりゃ
と思っただろうな。この句を初めて見た読者は。
ヤクソクノカンノツクシヲニテクダサイ
昭和十六年に四十四歳で亡くなった茅舎の没年に作られた句。
この有名な句、例によって茅舎がいつどこで誰に向かって「煮てください」と頼んだのかなどという評釈が定番化している。
つまらない。そういう論議はわざと本質を避けているような意図さえ感じる。
そんなことより虚子から「花鳥諷詠真骨頂漢」と呼ばれた茅舎である。その教祖認定の真打が作った口語、命令文(祈願文?)である「下さい」を考える必要がある。
茅舎には、
金剛の露ひとつぶや石の上
蛙の目越えて漣又さゞなみ
金輪際わりこむ婆や迎鐘
百合の蘂皆りんりんとふるひけり
ひらひらと月光降りぬ貝割菜
ぜんまいののの字ばかりの寂光土
咳き込めば我火の玉のごとくなり
花杏受胎告知の翅音びび
朴散華即ちしれぬ行方かな
などの喧伝される名句がある。
金剛の句の非科学の造型力や蛙の目の文体の新鮮さ。この句から鈴木六林男さんの「暗闇の目玉濡らさず泳ぐなり」を思うけど、比較すると蛙の目の句の方が隠喩としてどこまでも跳べる。優れた写生句は凝視がそのまま隠喩になるんだな。
ただ、順序としては凝視の結果としていうのが重要。この順序を外して隠喩への意図を優先させると「実るほど頭を垂れる稲穂かな」のごとき箴言や警句になる。
六林男さんのは後者に近い。最初から隠喩を意図して書かれている。戦後派の暗い内部意識、荒地派の手法だ。パクリとは言わないが自由詩のモダンに対する憧憬が根っこにある。その憧憬こそ「卑屈」ではないか。
これはまあ僕の意見。
りんりん、ひらひらのオノマトペの絶妙。直喩や想像力の深さ、鋭敏さ。どれをとっても一級。今日見てもいっこうに古さを感じない。花鳥諷詠かどうかは別にしても俳句の「真骨頂漢」であることは間違いない。
一方で茅舎には、
破芭蕉猶数行をのこしけり
秋風や袂の玉はナフタリン
牡丹雪林泉鉄のごときかな
白雪を冠れる石のかわきをり
寒月や穴の如くに黒き犬
暖かや飴の中から桃太郎
梅咲いて母の初七日いゝ天気
横たはる西瓜の号はツエペリン
尾をひいて芋の露飛ぶ虚空かな
誰が懐炉涅槃の足に置きわすれ
秋風に浴衣は藍の濃かりけり
糞壺の糞の日に寂び霜に寂び
雪の原犬沈没し躍り出づ
朝靄に梅は牛乳より濃かりけり
春の土に落とせしせんべ母は食べ
落葉掃了へて今川焼買ひに
栗の花白痴四十の紺絣
また微熱つくつく法師もう黙れ
咳かすかかすか喀血とくとくと
等のヘンテコ句がある。
破芭蕉の句は芭蕉の葉が破れた形を文章の行に喩えた。
寒蝉のただ数行を鳴きしのみ 誓子
雪の日暮れは幾度も読む文のごとし 龍太
これらの句の原型をみる思い。
ナフタリンや桃太郎やツエペリンの句は現代の機智俳句と並べても十分四つに組める。
牡丹雪、尾をひいて、誰が懐炉、糞壺、春の土、落葉の句などは即物非情緒で俳句スポーツ説の波多野爽波やヘンテコ博士田川飛旅子も真青の写生句だ。
そして冒頭の句に並んで、梅咲いて、また微熱、もう黙れ、の内容もさることながら独自の融通無碍なリズム、韻律、文体。
今の「伝統」俳人はやたら前例があるかどうかに神経質になっているような気がする。前例があるから避けて通るというのが本来創作者の矜持と思うがまったく逆。前例が無いものは認めないという方向である。
●切れ字「や」を使うと意味も切れなければならないという思い込み。蛇笏の「流燈や一つにはかにさかのぼる」のような主格の「や」もあるのに。
●季語が必ず要るという思い込み。季語というのは季節を表す言葉ではなく虚子編の歳時記に記載されているかどうかという基準になっている。ものすごくヘン。
●季語は一句に一つが望ましいという秀句製作ノウハウの効率を重視した思い込み。
●季語の本意という印籠をかざしての類型的情緒の肯定。
●文体の前例、先例を踏むこと。
過日、現存する有名俳人の句で「下さい」で終わる俳句の鑑賞の依頼があった。
僕は内容云々よりも、そもそも茅舎の文体をそのまま用いるところが作家意識の低さというか、志が足りないという意味のことを書いたのだった。
十七音定型の枠にはさまざまな定番慣用文体があって、それを用いるのはまあ仕方がない。そこを否定すると書けなくなる。
しかし、その俳人が編み出した奇跡のような独自の表現を先例として借用するのは鋳型だけの拝借として済ませる問題ではないだろう。
或るときその話を若手の人たちの前で話した。
「下さいじゃなくて、くだせえとか、くれよとか、くださらんかくらい言ってくれれば認めるんだけど」
みんな笑った。
でもオリジナルとはそういう問題ではないのか。一字に細心で大胆な冒険を意図すること。
一字違えば別もんだ。
僕は「くだせえ」をおちゃらけの受け狙いで出したわけではない。発言の背景には、大好きなシンガーソングライター友部正人さんの歌「乾杯」があった。
いまだにクリスマスのような新宿の夜一日中誰かさんの小便の音でもきかされてるようなやりきれない毎日北風は狼のしっぽをはやしああそれそれってぼくのあごをえぐる誰かが気まぐれにこうもり傘を開いたように夜は突然やって来て君はスカートをまくったりくつ下をずらしたり
おお せつなやポッポー500円分の切符をくだせえ
500円分の切符をくだせえ。茅舎の句に「下さい」があるから俺はくだせえって言う。そんなちょっとの勇気さえ無いのかよ、俳人よ、てめえは。
なんだこりゃこそ学びの宝庫。
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