2016-01-10

【週俳12月の俳句・川柳を読む】 透明感のあるゴツゴツとか、落ちそうで落ちないとか 上田信治

【週俳12月の俳句・川柳を読む】
透明感のあるゴツゴツとか、落ちそうで落ちないとか

上田信治


壮年の景 角谷昌子 

この人は「ゴツゴツとありたい」のだろう、と思いました。

夭折にあこがれしこと石蕗の花」「ざくざくと落葉踏みゆきことば欲る」「北風の鳴ってゐるなり薔薇の蔓」「なにやらの獣骨脆し枯野原」などなど。

2016年の角川俳句年鑑の自選句にも「カンナの緋鉄の扉に鉄の錠」「鹿のこゑ月下の森をふるはする」「赤貧のさまに鳴るなり枯蓮」などあり、こちらもゴツゴツ。

壮年の景甲斐駒を雪が攻む 角谷昌子

作者が、ゴツゴツの冬山をほめるとき、同時に、そのような人をほめ、またそのような人をほめる自己像を浮彫にしている。

物質的対象から、人、思いなどへとイメージがうつろうときに生まれる、透明感のあるゴツゴツとでもいうべき在りようが美しい。


以後 太田うさぎ

葉牡丹に日の差す伊勢の漬物屋 太田うさぎ

葉牡丹に日が差すことは季語との約束ですが、「日の差す伊勢の」とつなぎ「漬物屋」とつなげば、それはさらさらと描かれる水彩のスケッチの筆勢のようなもので、浮かんで消えるモチーフの筆まかせの恣意性が、お楽しみの本丸なのだと思います。

沛然と雨の港区神の留守 同

こちらは「神の留守」という季語が、お筆先のような恣意性をもってあらわれる。そこに自由の感触があります。「闇鍋の蓋の大きな明石かな」「かかるほどに蠟月闌くるをぐらあん」もまた。

「雨の港区神の留守」の、俳句っぽくない調子の良さが、いい意味でとても気になります。


狐罠 西村麒麟

水浅きところに魚や夕焚火 西村麒麟
紙振つて乾かしてゐる十二月 同

小唄のような軽い詠みぶりで魅せることの多い作者ですが、掲句のような、感覚的実質があってなおかつ簡単に尻尾をつかませない取り合わせを見ると、なるほど長谷川櫂門下の人だなあと。

水仙や長距離を行くフリスビー 同

モチーフの軽さが楽しい句ですが、ナルキッソスの神話から、夭折とか青春のはかなさ方面に連想を飛ばして読むのもアリかも。中七下五の語の斡旋が、落ちそうで落ちないフリスビーと相似形をなしています。


月曜日の定食 相子智恵

曜日はカレンダー上の言葉であって、物質世界との紐帯が弱い。

作者が、月曜日を週日のアタマ、ゴミ収集日等として、つまり「嵌めて鳴る革手袋や月曜来」「ゴミ袋に割り箸突き出雪催」「吊革のマスクに隣る吾もマスク」のように書くのは、この人がつくづく現実重視、実感重視の人であるから。

月曜のB定食の牡蠣フライ 相子智恵

どうしようもない偶然としての曜日が、牡蠣フライという質量をともなって目の前にある。これ、店頭の見本かもですね。

吹き上ぐる落葉の中の母子かな 相子智恵

母が幼子を抱き「ジョジョ立ち」しているのかもと思わせるような、かっこよさ。


水曜日の変容 関悦史

輪郭のうすれて冷えて水曜日 関悦史
冬けふも居間占むる象気にとめず 同
テニスしてをりしがいつか枯草に 同

古い友人である栗城さんは、関さんが不調や不眠を訴えるツイートを連投していると、関くん絶好調だなと思うのだそうで(「第三回田中裕明賞」冊子P155)、どうも関さんは、冬が多産期であるような気がします。


兼題「金曜日」 樋口由紀子

相子さんのところでも書きかけましたが、曜日というのは、質量も季節性も、多くの場合文脈すらしょわない質量0の語彙です。

こういった空っぽの語が、テキストに、いわゆる空項として、あらゆる言葉を代入可能な(   )として、書かれる場合がある。樋口さんのこの連作においては「金曜日」が、空項として書かれています。

これは「アメリカの鱒釣り」方式ですね。なにかがあった場所に穴が空いていて、その穴が、テキスト全体を非日常化する。

穴が空いて詩になってしまったテキストは、全ての質量を失うのですが、そこに思い出のように、残留思念のように(といったら幽霊になるのか)、呼びかけてくるものがある。

あの川を金曜日と呼ぶことに 樋口由紀子

なにかがしきりと呼びかけてくるのだけれど、その物語は、二度と形にならないのです。


第451号 2015年12月13日
相子智恵 月曜日の定食 10句 ≫読む
関 悦史 水曜日の変容 10句 ≫読む 
樋口由紀子 兼題「金曜日」 10句 ≫読む
第452号 2015年12月20日
角谷昌子 壮年の景 10句 ≫読む
太田うさぎ 以 後 10句 ≫読む 
西村麒麟 狐 罠 10句 ≫読む


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