2022-11-27
平山雄一〔ON THE STREET〕『AI研究者と俳人』川村秀憲&大塚凱著/dZERO刊
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2020-08-09
【句集を読む】精神の自由律 北大路翼『見えない傷』 平山雄一
【句集を読む】
精神の自由律
北大路翼『見えない傷』
平山雄一
刃物みな淑気に満ちて台所
石鹸玉祈る言葉がつぎつぎと
北大路翼の第3句集『見えない傷』の冒頭で、この2句に出会った。何の外連もない詠みぶりに、俳人・翼の変化を感じた。真っ向から事物を捉え、心情を直裁に述べる。第1句集『天使の涎』から5年、第2句集『時の瘡蓋』から3年。翼の句に何が起こったのだろう。
爆発的な跳躍力を発揮した『天使の涎』(田中裕明賞)と、アナーキーな文学表現を目指した『時の瘡蓋』で、北大路翼は俳人としてのポジションを確立した。しかし、そこには必ず“アウトロー”という枕詞が付きまとった。“アウトロー”は俳壇以外と翼を結ぶキーワードになった。同時に、既成の俳壇が北大路の俳句とまともに向かい合おうとしない事実をも示している。それでも翼はこの第3句集『見えない傷』で、己の俳句の深層に果敢に降りてゆく。
冬の蛾の粉になるまで踏まれたる
雪載せて有刺鉄線ひそかなり
日直が捨てる月曜日の金魚
冷蔵庫の中は暗かろ麺のつゆ
動かない鴨を見てゐて動かない
『見えない傷』というタイトルを彷彿とさせる句を挙げてみた。以前の句にはなかったタイプの淋しさが顔を覗かせる。
それをとことん突き詰めた「冬の蛾の」には、凄味が漂う。以前、翼は「ハロウィンの斧持ちて佇つ交差点」(『天使の涎』)で、無自覚な大衆を真正面から挑発していた。しかしこの句では、完全に無抵抗になっている。都市の無慈悲な雑踏は、孤独さえも粉々にしてしまう。
「雪載せて」には、淋しさに首まで浸かりながら虎視眈々と何かを狙う秘めた闘志がある。「日直が」では、日常の中で見過ごされがちな悪意のない惨禍を的確に掬い上げる。
「冷蔵庫の」では、翼の淋しさと「麺のつゆ」が不思議な共振を起こす。茅舎に「金剛の露ひとつぶや石の上」の句があるが、この「露」と翼の「つゆ」は同量の孤独を宿している。翼は淋しさを、弱者への労りとして昇華している。
これまで淋しさを「淋しい」と表現して来なかった翼が、無防備な姿を曝け出す。だから「動かない」の句が面白い。究極の無防備を凝視するうちに、己と鴨が一体化してしまったのだった。
次の句群は「死」を基調に作られている。
風鈴と同じ柱で首吊らむ
カーテンにかなぶんの脚夜涼し
ばらばらになつても脚がかなぶんだ
昔から網戸についてゐた死骸
虫籠は死んだら次の虫が来る
我が訃報咥へて蜥蜴隠れけり
以前の翼は「夭折」や「早逝」の冠を欲しがっていた。しかし『見えない傷』で描かれる死は、それらとは明らかに違う。新たな死生観が生まれたようだ。
「風鈴と」の句では、自らの死の方法について言及している。風鈴は翼の好きな季語で、「吊る前の風鈴の音をひた隠す」(『時の瘡蓋』)と詠んだ。どんな音がするのか、わくわくしながら風鈴を吊るした柱で、今度は首をくくろうかと述べる。ここには、一茶の「木つゝきの死ねとて敲く柱哉」を連想させる自虐がある。
「カーテンに」「ばらばらに」「昔から」の3句は、ひとつの景を微分してみせる。小さな昆虫の脚を、翼は生の痕跡として憐れむ。脚だけ残して消えたかなぶんへの冷えた共感がある。
「虫籠は」は、まるでコロナに侵されたブラジルの病院のベッドのようだ。これらの句に漂う直接的な死の匂いは、「我が訃報」となって隠匿される。
湯上りの爪やはらかく五月来る
ミネストローネは秋色の寄せ集め
陽のあたる場所に片手袋置かれ
これが本当に翼の作なのかと思わせる素直な句群だ。これまで見たことのないロマンとセンチメントに溢れている。「湯上り」も「秋色」も向日性が前面に出ていて、「片手袋」の句にはホッとさせられる。
こうした新生面の一方で、従来の饒舌な句も健在だ。
Tシャツの柄に育ちの悪さかな
テントウムシダマシの二倍忙しい
何歳になつても雪は触るもの
雪礫どうした俺に惚れたのか
さうなのか昨日のあれが新米か
尊大な角度で鍋の葱を切る
治つたら行くよ卒業おめでたう
翼は意外と育ちが良い。だから笑って「Tシャツの」を作る。「テントウムシダマシ」は、アウトローと呼ばれることへの皮肉かもしれない。「何歳に」は、翼ならではの童心。「雪礫」は自称・モテる男の楽しいハッタリだ。「さうなのか」の謙虚さ、「尊大な」の自惚れ、「治つたら」の人懐こさが楽しい。口語俳句に新機軸を見い出した“翼節”とも言える魅力にあふれている。
ただし、相変わらずの減らず口だが、こうした句を読んでいると、ヤンチャな句作りに対する熱情がやや醒めてきているようにも感じる。
そして淋しさやセンチや死やヤンチャを掻き混ぜた末に、『見えない傷』の核となる句が生まれた。
よく晴れて風の鋭き大試験
『見えない傷』でこの句を見つけたとき、翼の志の高さを改めて確信した。露悪趣味すれすれの第一句集にも、それはあった。だからこそ『天使の涎』は、多くの人の心をざわつかせた。学年を締めくくる試験に臨む、凛とした青年の気概が風の速さに託される。斜に構えたところは微塵もない。
薙刀に巻き付けてある春ショール
伝統的な季語「春ショール」と、時代がかった武具「薙刀」を遣いながら、この句が示すのはとても新鮮な抒情だ。薙刀部を持つ高校の、最寄り駅のホームでの光景だろうか。イマドキのJK(女子高生)の一面を、格調高く切り取っている。
海市立つ流木踏めば骨の音
老成を感じさせる句だ。それでも、大人しくはない。ましてやセンチメンタルでもない。これまで怒りを交えて描写していた事象から、汗と涙を蒸発させて、非常に乾いた表現に行き着いた。『時の瘡蓋』収録の「郷愁の果ての鮃の寄り目かな」と着眼点は変わっていない。ただ表現の角度が変わったのだ。
新学期画鋲の穴にまた画鋲
着膨れの中に肩凝りしまひたる
翼は新しく獲得した傾向の句であっても、おどけてみせる。わかり易く言えば、”面白過ぎない句”を作っている。「新学期」は、かつての一年生が進級し、新しい生徒が学校に入ってくる高揚感を、画鋲の穴に重ねて描く。「着膨れの」は、着膨れが肩凝りの原因かもしれないという柔らかなアイロニー。
立ち食ひの重心変へて秋の雨
翼の主食は、立ち食い蕎麦だ。細長いカウンターに寄りかかって蕎麦を啜っていると、時折重心を掛ける足を交代したくなる。この卑小な発見と、繊細な秋の雨が見事に呼応する。紆余曲折のある感情表現ながら、絶妙なバランスで人の心を打つ。
どうやら翼は『見えない傷』で、“精神的自由律”と呼ぶべき句柄を身につけたようだ。彼の出発点となった種田山頭火がこの句集を読んだら、きっと喜ぶことだろう。『見えない傷』で、翼の俳句はついに成熟を開始した。
大根も過去もいづれは透き通る 翼
おそらくこれは、自身への追悼句。やはり翼は、愛すべき男なのである。
( 了 )
北大路翼『見えない傷』2020年6月/春陽堂書店
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2016-12-04
ボブ・ディランと俳句 平山雄一
ボブ・ディランと俳句
平山雄一
ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞のニュースを聞いて、とても嬉しかった。僕はディランの長年のファンであり、最も影響を受けたアーティストだからだ。
ただし、高校時代に初めてディランを聞いたときは、歌詞の難解さに圧倒された。アメリカ人でさえディランの歌詞は分かりにくいと言われているので、日本の高校生にとっては当然のことだった。しかし音楽が有り難いのは、言葉の意味が分からなくても、ディランが人生の真実を歌っていることが僕にも直感できたことだった。
そうして今回、受賞を機にディランを聴き直してみて発見したのは、ディランの歌を俳句を読むつもりで聴いてみると、高校時代より遥かに身近に感じられたことだった。驚くことにディランの歌と俳句には多くの共通点があり、それをよすがに聴くと、高校生のときには気付かなかったディランの歌の面白さや深さがわかるようになっていた。
なので、もしノーベル賞をキッカケにディランに興味を抱いた俳人がいるのなら、ディランの歌を俳句で読み解いてみることを勧めたい。俳人は、俳句に触れたことのない人よりずっと早くディランの本質に迫ることができると思う。
これまでのノーベル賞受賞者の大半は、密室で作業する研究者や文学者で占められてきた。だがディランは75歳になる今も精力的にコンサート・ツアーを行なっていて、大勢の人の前でのライブ・パフォーマンスを続けている。これだけ多くの人々から拍手喝采を受けたノーベル賞受賞者は、前代未聞だろう。
聴衆がいないと成立しないのは、ポピュラー音楽の宿命だ。そして俳句もまた、鑑賞者がいて初めて成り立つ文芸である。ポピュラー音楽家は、「伝わらなくてもいい」や「わかってもらわなくていい」という立場は絶対に取らない。俳人も同じである。だからこそ俳人に、ディランの歌に触れてほしいと思う。
俳句とディランの共通点は、まず歌詞も俳句も韻文であることだ。簡潔な表現の中に膨大な情報量を蔵し、飛躍するイメージを韻(ライム)の力で聴き手の脳内に定着させることができる。
また、ディランの歌詞も俳句も、結論を言わないところで成り立っている。ディランの有名な「風に吹かれて」のサビは、♪答は風に吹かれている♪と結ばれている。歌の内容をどう受け取るかを、聴き手(読み手)に委ねている。その結果、混沌や不在といった“世の中の深淵”を描くことに成功している。
月いづこ鐘はしづみて海の底 松尾芭蕉
江戸時代の俳句としては、超モダンな響きがある。「月」も「鐘」も見えないのに、この二つの物が“海の底”で確かに出会っている。こうした描写が、ディランにもある。♪誰も痛みを感じない。今夜、俺が雨の中に立ちつくしていても♪(「Just Like a Woman=女の如く」より)は、芭蕉の描いた“不在の感覚”に非常に近い。
ディランはシュルレアリスムの詩からの影響が強いとされている。ロートレアモンの「解剖台の上での、ミシンとこうもり傘の偶発的な出会い」という有名なフレーズは、企業や個人名鑑の広告欄からランダムに抜き出された言葉で構成したとされているが、その作詩の方法にディランが挑戦した映像が残されている。
若い頃のディランを撮ったドキュメント映画『ノー・ディレクション・ホーム』(2005年公開 マーティン・スコセッシ監督)には、街に立ち並ぶ広告看板からディランが即興で詩を読み取っていくシーンが収められている。
「求む/タバコを売る店」
「求む/犬をシャンプーして送り届けてくれる店」
「求む/手数料で動物や小鳥の売買をする店」
これらの看板を前に、ディランは即興で詩を組み立てる。
「風呂を洗い、タバコを届けてくれる人/大募集」
「動物にタバコを/小鳥に手数料を」
と次々に読み替えていく。
これらの機知に富んだフレーズは、ディランの歌詞の中でよく見かけるタイプのものだ。
そして俳句にも、こうした“物と物とのぶつかり合い”の句が多くある。
渡り鳥見えますとメニュー渡さるる 今井聖
大きな湖のそばのレストランでの句だろうか。渡り鳥とメニューの出会いが、意外でもあり、新鮮でもある。解釈はすべて読み手に委ねられ、句の中には結論も説明もない。意外さと新鮮さが同居しているのは、ディランの「動物にタバコを/小鳥に手数料を」の手法に似ている。それこそ「渡り鳥にメニューを」と読み替えたくなる一句だ。
今井聖はシュルレアリスムの俳人ではないが、一見関連性のない事象から詩(ポエジー)を読み取る方法論には、ディランとの共通性を感じる。その他、聖の句には「日が差してをり刈田からピアノまで」、「鰐の背に日の当たりをり風邪兆す」、「乾鮭の眼窩に星を嵌めて寝る」などがあり、リアルでありながらディランと似た超然とした響きがある。
ディランの初期の傑作に「I Want You=アイ・ウォント・ユー」という曲がある。その歌い出しはこうだ。
♪やましい葬儀屋はため息をつく 淋しい手回しオルガン弾きは泣く 銀のサキソフォンは君を断るべきだと言う ひび割れたベルと洗いざらしのホーンは僕の顔に軽蔑を吹きつける 君を失うために僕は生まれて来たんじゃない 君が欲しい 君が欲しい♪。
ディランは“I Want You”のひと言を伝えるために、葬儀屋やサキソフォンを動員して混沌を演出する。意味のありそうでなさそうな語の連なりが、突然“君が欲しい”というテーマに集約される。“I Want You”は、論理的に導かれた結論ではない。いきなりテーマとして放り出されている。井上陽水の「傘がない」は、これとよく似た手法を取っている。
関係性のよくわからない情景描写の後に、歌の核心となるテーマを突然さらけ出す手法は、“人に受ける”ことを前提としたポップソングを作る上で有効なやり方だ。そして、一見無関係な情景描写に、作家の個性が出る。ディランも陽水も、情景描写とテーマに関係性があるかないかに関して、俳句でいう「付く・付かない」と同じ判断基準を用いているように思われる。
コスモスなどやさしく咲けど死ねないよ 鈴木しづ子
は、“死ねないよ”を伝えるために、直接は関連性のないコスモスを描いている。読み手に自分の気持ちを伝えるために、この句の作者の施した工夫は、賞賛に価するものだ。やさしく咲くコスモスと死の組み合わせは、意外性と切実さが両立している。
ディランはシュルレアリスムと並んで、アメリカのフォークソングの伝統も重んじていた。それらのフォークソングの多くは、名もない貧しい人々、農民や労働者の生活の記録であった。ディランは恐ろしい程の記憶力を持っていて、レコードを1、2度聞いただけで憶えてしまう特技があった。少年時代にディランは夥しい量のフォークソングのレコードを聴き漁り、歌作りの糧とした。つまりディランは、アメリカの民のリアルな生活実態に精通していた。そうしたリアルとシュルレアリスムとの狭間に身を置いて、彼は歌を作っていたのだった。
それゆえディランは、創作を超える現実があることをよく知っている。「事実は小説より奇なり」という言葉があるが、ディランの幻想的な作風は、幻想に逃げ込むところから生まれたものではない。小説より奇妙な現実を、彼は描こうとしていたのではないかと僕は思う。それがディランの歌詞と俳句の類似性に繋がっていく。
たとえば《水打てば夏蝶そこに生れけり 虚子》は、ある種の幻視である。また《泉の底に一本の匙夏了る 飯島晴子》も同じだろう。
「水打てば」の句は、打ち水から蝶が生まれたのかのように見えたという比喩であるはずなのに、虚子は断定として言い切っている。これが短詩の力であり、魅力なのだ。
また「泉」の句は、本当に泉の底に匙があったのかどうかは問題ではない。これもまた、リアルとシュルレアリスムの狭間にある一句だ。ディランもこうした幻視や断定の表現をしばしば使っている
さらに例を挙げれば、北大路翼の田中裕明賞受賞作『天使の涎』の中にも、同様の句が多数収録されている。
ハロウィンの斧持ちて佇つ交差点 北大路翼
ワカサギの世界を抜ける穴一つ 同
倒れても首振つてゐる扇風機 同
これらのリアリズムとシュルレアリスムの狭間にある表現の解釈は、聴き手(読み手)に委ねられ、聴き手の中でイメージが昇華されるのを待っている。
話を最初に戻すならば、ポピュラー歌手であるディランは、歌の自由な解釈をずっと聴き手に委ねてきた。委ねられた聴き手は、自由の素晴らしさと恐怖を同時に感じながら、ディランの歌を味わう。この文学的行為こそが、今回の受賞の理由なのだと思う。
このディランの受賞が、俳句などの短詩作品がノーベル文学賞にノミネートされる可能性につながればいいと思う。
最後にディランの音楽的側面についても少し言及しておきたい。
近年のディランのライブを観る限り、歌からはメロディが消え、ほとんど呪文か浪花節のような語りに近いものになっている。しかし、それでもディランは優れたメロディメーカーだと断言する。彼の歌を他のアーティストがカバーすると、美しいメロディが忽然とあぶり出されるからだ。ピーター・ポール&マリーの「風に吹かれて」やザ・バーズの「ミスター・タンブリ・マン」を聴けば、誰もが納得するだろう。
この素晴らしい旋律と、歌詞の韻律が合わさってディラン作品は成り立っている。だからこそ説得力がある。現在のディランの歌唱は、極限まで削ぎ落とされた究極の歌なのかもしれない。その削ぎ落し方もまた、俳句に通じている。
僕の最も好きなディランのアルバムは、1966年にリリースされたアルバム『ブロンド・オン・ブロンド』だ。この稿を読んでディランに興味を持った人には、できれば彼の歌を聴いて欲しい。
終わりにディラン・ソングの歌詞の一部の和訳を挙げておく。
Desolation Row=廃墟の街
♪アインシュタインがロビン・フッドに変装して、トランクに思い出を詰め、
嫉妬深い坊さんを道連れに、この道を一時間前に行った。
彼は実に嫌みったらしく煙草をねだり、排水管の匂いを嗅ぎ、
それからアルファベットを唱えながら立ち去ったのさ。
君はもはや彼を気にも留めないだろうが、彼はその昔、エレキバイオリン弾きとして有名だった、廃墟の街でね♪
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2016-08-07
「最初」を探す旅 小林良作『「八月や六日九日十五日」を追う』 平山雄一
「最初」を探す旅
小林良作『「八月や六日九日十五日」を追う』
平山雄一
「八月や六日九日十五日」という句をご存知だろうか。日本の現代史にとって重要な三つの日付、広島の原爆忌、長崎の原爆忌、そして終戦日の日にちで構成された一句だ。他にも「八月の六日九日十五日」、「八月は六日九日十五日」などの類句が存在していて、自作としての発表者が数多くいる不思議な一句だ。
この程、結社“鴻”の出版局から出た『「八月や六日九日十五日」を追う』は、この句の最初の発表者を探すという、ミステリー仕立ての一冊だ。
「八月や六日九日十五日」は、ただ日付を並べただけの一句だけに、誰でも作れてしまう。実際、この本の著者・小林良作氏は、所属する結社“鴻”の俳句大会に「八月の六日九日十五日」という句で応募したところ、審査員から「この句はすでに発表されているので受け付けることができない」と連絡が来たので応募を取り消したのだった。
調べてみると「八月は六日九日十五日」という句もあった。「や」「の」「は」という助詞の違いはあっても、ほとんど同じで、伝えたいことも完全に重なっている。小林氏は単純に「誰がいちばん先にこの句を作ったのだろう」という探究心に突き動かされて、“俳句探偵”と化し調査の旅に出るのだった。
ネットで調べ、新聞社に問い合わせ、次第に真実に近づいていく。大分県にこの句が刻まれた句碑があると聞き、足を運ぶ。特攻隊基地の跡地を整備した公園にずらりと並ぶ72基の句碑の先頭に、この句が刻まれているのを発見する。そしてこの本の結末では、最初にこの句を世に発表したと思われる人物を特定するに至る。その人物は三つの日付すべてに関わりを持つ方で、ドラマティックな展開は、まさに「事実は小説より奇なり」。こんなに真に迫って、しかも温かい結末が待っているとは……。
小林氏はこの俳句探偵レポートを、結社誌「鴻」に今年の1月から5月に連載という形で発表。大評判となって、「鴻」の記念事業として1冊にまとめることになった。実際、この連載は面白かった。僕も「鴻」誌にコラムを連載しているので、その縁もあってこの本の制作を手伝った。
一月号で大方の連載意図を説明した良作氏は、二月号で多くの作例や批評を当たってみる。その上で小川軽舟氏の「この句は作者が多いなと感心した」という言葉に触れて、その懐の深さに好感を持ったという。それは同時に良作氏の懐の深さをも表わしていて、失礼ながら氏は凄い書き手だと僕は新たな興味を掻き立てられた。
三月号では氏の行動力に目を見張った。手がかりのありそうな大分県に出向き、資料を片っ端から漁る。資料の読み込みが非常に正確であると同時に、取材対象者に敬意をもって接し、相手が胸襟を開き、良作氏の熱意に応えようとするところに感動した。ここまでくれば先行句の作者に最終的にたどり着くかどうかは最早問題ではない。そう思っていたら、広島県にいたと思われる“作者”にたどり着く。
白眉は四月号にあった。広島を訪ねた良作氏は、作者の遺族の方々の全面的協力を得る。だが良作氏は述べる。「もとより、本稿の目的は作者の人生を尋ねることではない。(中略)『八月や』の句には作者の人生のどのような一場面が投影されているのか」を考察したいと言うのである。この取材態度は、天晴れと言うしかない。一句を必要以上に作者の人生に重ねることはせず、あくまで作品として扱う。それは情に流されて本質を見失わないようにする“探偵”の本分だ。結果、良作氏は、作品の尊厳を守り通したのだった。
ズラリと並ぶ句碑のカラー写真には迫力があり、装丁も美しい。終戦日に間に合うように上梓したので、是非手に取って欲しい一冊だ。
問い合わせは、「鴻」発行所出版局 FAX 047-366-5110。
住所と部数を書いて申し込み。値段は送料込900円。
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2015-06-07
【句集を読む】21世紀新宿風土記 北大路翼『天使の涎』を読む 平山雄一
【句集を読む】
21世紀新宿風土記
北大路翼『天使の涎』を読む
平山雄一
この句集を後に振り返れば、北大路翼の中期の代表作ということになるだろう。『天使の涎』は、新宿を根城に作句を展開した2012~2014年の3年間に溜めた15000句余りから抜粋された2000句 からなる。当然、翼は少年時代から句作をしていたし、今後もそれは続くから、この句集は翼の俳句活動の中に忽然と現れた地続きの島、半島 のような存在なのだ。だから、その成り立ちの特殊さを含めて、彼のキャリアの中で特筆される作品になることだろう。
この句集のいちばんの特徴は、テーマを新宿に絞っていること。俳人は、それぞれ生まれた土地や暮らす地域をテーマに置いて作句するケースが 多く、詠む対象は美しい山河や独自の気候だったりする。自然の少ない都会がテーマの中心に来ることは、極めて稀だ。特に新宿なら、なおさらだ。翼は新宿生まれではないが、2012~2014年の間、どっぷり新宿に生きていた。新宿にも四季があり、その移ろいを知らせてくれる独特の風物がある。いわゆる花鳥風月とは素材を異にするものの、翼はこの街の季節を見逃さなかった。だからこの句集は、新宿の風土から生まれたといっていい。
〈しんじゅ句〉
トンカツの重みに疲れ春キャベツ
話してゐる八割が嘘アロハシャツ
鯊日和オリンピックは他所でやれ
ハロウィンの斧持ちて佇つ交差点
四トン車全部がおせち料理かな
家出少女など社会的弱者を徹底的にレポートするジャーナリスト鈴木大介は、著書『援デリの少女たち』で、新宿は未成年者の“巨大な闇の職 安”になっていると書いている。虐待を受けて家から脱出を試みる子供たちは、たとえ非合法であってもその職安を利用するしかない。そうした未成年者やパチンコの打ち子、オレオレ詐欺の受け子たちも、ヤクザと並んで新宿の重要な構成要素になっている。その他、ゲイ、レズ、ト ランスジェンダー、アルコールやギャンブル依存症者など、新宿には社会的弱者が多くいる。
〈ごくら句〉
唄もよし余生僅かなおでん屋よ
祖母の香のするストーブの焚きはじめ
マスターとヒーターだけの立ち飲み屋
綿菓子のやうなおかんを連れ歩く
〈ぢご句〉
夏や朝カラスの落しゆく肉片
金融の笑顔絶やさず水を打つ
寝苦しき夜ニンゲンを売る話
通勤に怯えマフラーかたく巻く
毛糸編む不幸を我慢するかたち
事故車から下半分の鏡餅
この町を出るため寒鴉の餌に
冬帽子目深に無人契約機
戦死者と傘の忘れものの数
そんな街だからこそ、新宿には今も風狂たちが集う。60年代にアンダーグラウンド文化の象徴だった新宿も、90年代に入るとバブルの影響でかなりのエリアが整頓されてしまった。しかし、2010年代に入ると、復活の兆しが顕われ始めた。その拠点の一つが、翼のホームグラウンドである俳句&女装バー“砂の城”だ。
ここは馳星周の悪漢小説『不夜城』のモデルになった店で、ゴールデン街が現在の場所に移る以前に賑わった“元ゴールデン街”の一角にある。おそらく翼はそれを知らずに店を構えたのだろうが、その場所が惹きつける人種は、間違いなくその筋だ。夜更けには、パフォーマー、デザイナー、絵描き、漫画家、カメラマン、薬剤研究者などがどこからともなくやってくる。彼らの大半は、強固な反骨精神の持ち主たちだ。
〈ロッ句〉
チンピラのままの一生春の蝿
穀雨かな雑民を継ぐ志
長き夜のギターの腹に丸き闇
翼自身も、正業に就いているとはいえ、酒と女とギャンブル に明け暮れる日々を送る不良だ。その性癖に即した句も多く、『天使の涎』には伝統俳人が顔をしかめるような題材=新しい言葉や俗語がたくさん登場する。だが、問題は題材ではない。俳句として成り立っているかどうかだ。「名句であれば、新しい言葉であっても認められる」という俳人がいるが、そもそも作らなければ何も生まれない。俗語を使おうが季語がなかろうが、まずは言いたいことを言うのである。創作には誰の許可も必要ない。翼はそこから、自分自身の俳句を生もうとしている。そして、そのいくつかは成功している。“見た事もないような成功 作”にたどりつくには、多くの未認可作があって当然だ。もしこの句集を読んで、自分も未認可句にトライしてみようという俳人が現われれ ば、翼の思うつぼだろう。
〈ファッ句〉
雪催キープボトルに女陰の絵
祭の夜口移しで飲むワンカップ
蚊を打ちてお前が俺の命だと
喉が痛い頭が痛い今会ひたい
沈丁花君の便器でゐたかつた
誰がために剃りし陰毛夏来る
寝タバコで暑さを言へば抱き着き来
両性具有雷は金の雨
こんにちはスケベな花咲爺だよ
さくらさくら浮気するのは逢ひたいから
肛門の用途の無限吊し柿
〈だら句〉
人生の大半を酔ひまた祭
逃げる気のなく縛られて蟹夫婦
〈とば句〉
競艇のない日はただの春の川
全レース外す恍惚花卯木
一方で、翼は古典にも通じている。そもそも俳句という表現手段を選んだ段階で、伝統的な日本文化を肯定する志を持ち合わせている。そこで興味深いのは、翼が伝統を肯定した上で、批判的に読む姿勢を貫くことだ。句集中の作品でも、その批判をパロディとして展開している。
たとえば「一人の時も咳の仕方が大袈裟だ 翼」は、尾崎放 哉の「せきをしてもひとり」のナルシシズムに釘を刺す。西東三鬼の「おそるべき君等の乳房夏来る」には、「無自覚な巨乳よ初夏の風が吹く」と、時代の違いを明らかにしてみせる。
痛烈なのは、「向日葵が人間に見え斬るよりなし」。角川春樹の境涯句と言われる「向日葵や信長の首切り落とす」に対して、それはただの妄想だと切って捨てる。
さらには「萬の下駄芭蕉の弟子を名乗りたる」と、江戸の宗匠を気取る現代の伝統派の輩に一撃を見舞うのだった。
かつてカウンター・カルチャーの側にあった俳句を、翼は取り戻そうとしている。だとすれば、現代のカウンター・カルチャーにも通じていなくてはならない。翼が新宿に反骨の表現者たちの集う場所を 提供していることには、深い意図があるだろう。実際、“砂の城”では、パンクやヒップホップ、コミックス、地下アイドルといった権威に組しない者たちが、毎夜、口角沫を飛ばしながら呑んでいる。翼は句集中のあるページで、「僕達は生きるためのルールを探してる。無頼とは壊すことではない、新しいルールを作ることだ。」とも書いた。
〈パン句〉
倒れても首振つてゐる扇風機
北大路翼の墓や兼トイレ
殴りたるへこみが雪だるまの目玉
蟻はいま穴を出ましたフルチンで
「でも犯人はクーラーをつけてくれました」
銃乱射男に夏休みをやれよ
魚氷に上る原発再稼働
天皇に誂へてある片陰り
もう一つ、この句集が特異なのは、収録句数の多さだ。通常の句集が300~500句で構成されていることを考えれば、2000句 は尋常ではない。しかし水増しかといえば、そんなことはない。俳句の世界で多作多捨はよく言われることだが、膨大な数の中から編まれた 『天使の涎』はその要件を充分満たしている。
虚子の生涯20万句や、二万翁(一 昼夜で2万句を作ったという)を自称した井原西鶴と比べる術はないが、多作には多作にしかない到達力がある。出会うものすべてを俳句にしてしまおうという気概は、時として俳句と俳句ではないものの境界に肉薄する。結果、それが俳句であるかないかは、読み手と時間が答えを出すものだとしても、今回の翼の挑戦の意味はそこにある。
かつて1960~80年代に かけて活躍したミュージシャンのフランク・ザッパは、多作のアーティストとして空前絶後だった。少なくとも生涯で89枚のアルバムを出したザッパは、ロックからジャズ、クラシックにまで及ぶ音楽的興味を洗いざらい表現して、音楽の境界の拡張に貢献した。当時、ザッパは変人扱いされたり、その音楽を難解と評されたが、ザッパの影響を受けた大友良英が朝ドラ「あまちゃん」の音楽を作り出した事実は示唆に富んでいる。あの震災からわずか2年後に制作されたテレビドラマの音楽を引き受けるには、相当な覚悟が必要だったはずだ。大友の覚悟は、もしかしたら敬愛するザッパの多作の冒険心から培われたものなのかもしれない。
多作には、人々を勇気づける力がある。わかり易く言えば、翼の度を超えた多作にはある種の痛快さがあり、門外漢でも俳句を作ってみたくなる衝動に駆られるのではないかと思う。
〈めい句〉
太陽にぶん殴られてあつたけえ
二度寝して人の最期はこんなもの
ワカサギの世界を抜ける穴一つ
聖樹より冷たきものに煙草の火
電柱に嘔吐三寒四温かな
もし“砂の城”が新宿アンダーグラウンドの新しい拠点になるのなら、『天使の涎』はそのマニフェストと見ることができる。悪漢小説のようなこの句集は、新宿という思想を見事に体現している。またそれは“21世紀の新宿風土記”でもある。
多作の幸なる翼よ、才能を持て余せ!
(敬称略)
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2012-06-24
2012-04-01
『吉田鴻司全句集』抜粋100句 前口上 平山雄一
平山雄一
昨秋の故・吉田鴻司師の7回忌に合わせて、ご家族の協力を得て、結社“鴻”出版局より『吉田鴻司全句集』を上梓することができた。『神楽舞』(昭和52年)、『山彦』(昭和58年)、『頃日』(平成5年 第34回俳人協会賞受賞)、『平生』(平成16年)の4句集、『自註・吉田鴻司集』(昭和60年)、それに『平生』以後の句を合わせた1796句を収録している。『吉田鴻司全句集』は、常に句作に変化を求めた師のスタイルを活かすために、『平生』から始まり、時代を遡っていくように構成されている。この100句(≫こちら)もその順で抜粋してみた。ぜひ、楽しんでください。
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