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2023-05-14

句集を読む  タマシイと句集2冊 『ぜんぶ残して湖へ』(佐藤智子)と『見えない傷』(北大路翼)の一句 上田信治

 句集を読む

タマシイと句集2冊
『ぜんぶ残して湖へ』(佐藤智子)と『見えない傷』(北大路翼)の一句

上田信治

「俳句四季」2022年6月号「忙中閑談」改題


 「自分は、路傍の犬を見て『おお、そこにタマシイがいる』と思うことに、まったく抵抗がない」といった内容のことを、思弁的なエッセイの書き手だった池田晶子が書いていて(雑誌で見たきりの文章で、正確な引用ではないのだけれど)それは要するにどういうことなのだろうと、ずっと考えている。

そして同じように、日々出会う俳句を自分が「いい」と思う、その思いかたについても、ずっと考えている。

俳句は、数限りなく生み出され、ほとんどが記憶されず消えていくものだけれど、自分は、俳句史上に残る名句たちと、日々の句会や新刊句集で出会う句を、まったく同じ資格の「良さ」を持つものとして読んでいる。

それは、今出来(いまでき)の句を「甘め」の基準で見ているというのでは全くなく、ただ、過去の名句と日々出会う句、それぞれを、まったく同じように熱狂的に「いい」と思う。

それは、俳句に限らず、あらゆるジャンルの「現役の」受け手が、経験することだと思うのだけれど、なぜそういうことが可能なのだろう。

つらつら考えていて、それは、私たちがすぐれた表現に接するとき、池田晶子が犬を見るのと同じように「ここにはタマシイがある」というふうに感じるからではないかと思い当たり、つまり、自分は、二つのお気に入りの「問い」を、一つのこととして考えるチャンスを得たわけだ。


 時計屋の時計春の夜どれがほんと 久保田万太郎

この四音の「春の夜」が、この位置に置かれたことのおどろきは、今日でも色褪せることなく、神が人の手をとって書かせたような句だと思う。

定型をなじみきった道具のように使う万太郎が、この不思議な句の作者であることにも、改めておどろくのだけれど、そういえばこの句、現代的だけれど、万太郎らしい俗謡を思わせるような口吻でもある。浜口庫之助っぽいとでも申しますか。

 目を上げてしんじゅく淡い秋の雨 佐藤智子
 
地名+雨は、ムード歌謡の定番でもあるけれど、四音の「しんじゅく」と三音の「淡い」が、前後の文節を含め、ゆるく切れつつつながっていて、とりわけ「しんじゅく淡い」という文語でも口語でもない語が生まれていることに驚く。

このフレーズは、ちょっと前例がないと思う。

しんじゅく」の仮名書きは、無音で「しんじゅく」とつぶやく主体の、砂糖菓子が崩れるような身体感覚の表現だろうか。

句集『ぜんぶ残して湖へ』(二〇二一)より。


 鳥わたるこきこきこきと罐切れば 秋元不死男
 
オノマトペは、この句にあって、時間と運動を表象している。鳥は「こきこきこき」の時間の幅を飛ぶのだし、その引っかかりつつ進む体感は、鳥が翼を駆って飛ぶ動作とパラレルで「」はそのようにして具体物でありつつ、同時に、主人公がその鳥を見ていない(下を向いて罐を開けている)のだから、思いっきり心象的で、つまり、はじめから鳥なんか飛んでいなかったのかもしれない(すごい句だ)。

 弁当は仔猫の重さ秋桜 北大路翼

 「弁当」と「仔猫の重さ」の二重写しが、愛しい命、といったものを浮かび上がらせるわけだけれど、そこに「秋桜」が加わると、死の影のようなものが呼び込まれる。

それは、反復される水平の感覚(コスモスはだいたい同じ高さに咲き、弁当は横置き)と、そこにはいない「仔猫」の体重→死にやすさに連想が働くゆえか。「ただ手の上に水平にある仔猫の重さ」と言い換えてみると、その不穏さ、不吉さが伝わるだろうか。

コスモスが、もともと、秋の明るさと暗さを同時にもつ季語だと再認識する。

弁当
秋桜が、冷えでつながって、そこに仔猫の温(ぬく)さが、重なって消える(仔猫はいないので)。作者の句は、このレベルの構造を獲得していることがあるので、油断ならない。

句集『見えない傷』(二〇二〇)より。


ところで人が、犬や俳句を見て、タマシイを感じるのは、目の前の「それ」に「この自分」の中の「自分」と、同等のものを認めているからだと思う。 

タマシイはきっと等重量なので、私たちは、過去の名句と同時代の俳句を、同じ資格で読むことができるのではないか。


2022-07-24

竹岡一郎【句集を読む】これが光、これが春 北大路翼句集「見えない傷」を読む

【句集を読む】
これが光、これが春
北大路翼句集『見えない傷』を読む

竹岡一郎


北大路翼の根城「砂の城」が、今年十月末に閉まると聞きました。遂に一度も行かないまま無くなるのは如何にも残念ですが、行った事のない小さな九龍城は、こうして思い出に美しく組み込まれ始めるわけで、私にとっては、それで良いんでしょう。

北大路翼といえば、句集に載っている彼の写真を見るばかりで、会うどころか動画を見た事さえありませんが、俳人は書いた句が全てで、その句が他ならぬ私個人の胸に刺さるかどうか、それだけです。

「見えない傷」を読んだ時から、この句集について書きたいなあ、と思いつつ二年間、書けませんでした。けれども、いい加減面倒になった、というか、書かないで我慢している事に飽きました。

尤も、遥か昔に二度、北大路については書きました。一度目は「びーぐる」に書いた「天使の涎」論を俳句新空間に転載したもの、二度目は筑紫磐井さんから「なぜ天使の涎を論じたか、書いて」と言われて、やはり俳句新空間に序論を書きました。あの二つは書いていて楽しかった。あの楽しさをもう一度、と言うわけです。

先に「俳人は書いた句が全て」と言いましたが、あとがき読んで感心した箇所があります。

それでも日本を愛してゐる。僕はこの国で生まれこの国で死ぬしかない。

単純ですが強い言葉です。こういう風に、すっと生き方を言う。思考と言葉は表裏一体ですから、生来の思考が直線で力強いんでしょう。それが俳句となると、次のような判り易く強い句となる。

Tシャツの柄に育ちの悪さかな  北大路翼(以下同)

手袋にやさしい闇が五つある

只素直に上手い。久保田万太郎は俳句の天才という説あり、山頭火も天才説ありますが、こういう句は、こちらが無理矢理励ますまでもなく、無茶に覚悟を迫る必要もなく、ごく当たり前に天才かな、と思います。勿論、この感想も私の願望に過ぎません。昔、「天使の涎」序論末尾に書きました「出来れば天才と化して欲しい北大路翼」とは、「後世に天才として記憶されて欲しい北大路翼」の意味です。

そう言うと、「こんな俗情と消費文化に凭れた、軽薄な、一寸病んでる振りを売り物にした、無教養な人間にだけ受けが良い句しか作れない奴を天才、とは聞いて呆れる」という罵詈雑言が聞こえてきそうですが、そしてそれは実際、何度か聞いた戯言ですが、「では、文学とも詩とも高尚且つ難解な哲学とも全く無縁な非ゲージツ的な日常を送る人々が読んで、泣いたり笑ったり出来るような句が、あなたに作れますか、今まで一句でも作れた試しがありますか」と問いたい。

文学、詩、哲学、芸術に良く通じている人間にしか分からない句は、どれだけ理屈捏ねまわそうが結局、枠内の句です。そして死に直面した時、その枠は何の意味も持たなくなる。死は単純で強力なものだからです。

北大路は恐らく、枠中の枠、いわゆるホトトギス系の伝統俳句の技術は、ほぼ習得している。彼がそういう芸を或る程度極めている事は、「鷹」という伝統俳句結社でやって来た私には良く観える。私が讃嘆するのは、彼がそういう芸を伏流として秘めながら、なお枠の外の言葉で詠える事です。

私はいっとき北大路の句を全否定したかった。それはそうでしょう。全否定する方が遥かに楽だし、安心できる。伝統俳句をやるにせよ、或いは他ジャンルの詩を取り込みつつ新しさを目指すにせよ、北大路のような、俗情がそのままの状態で死と対峙するような句は、自らのゲージツ的保身のために軽蔑し無視するに越した事は無い。「軽薄なエンタメ、消費文化に媚びてる、教養ある自分には読むに耐えない」とカッコよく大上段から切ってしまえば、私の中では解決する。その結果、分水嶺に立つ私は、一番大事な処を逃すわけです。しかも厄介な事に、何十年も後、死に際して初めて失敗に気づくだろう。

それで私は、北大路の分類不可能な処を取り敢えず、「天才」と定義してみたわけです。俳句にとっては「天災」かもしれないが。わかりやすい言葉で、どう生きてどう死ぬのか、我武者羅に、駄句を恐れずに絶えず探ってゆく、三振続いた果てに突然、場外ホームランを打つ北大路の在り方が、天才あるいは天災であれば良いなと願いつつ。

私が分水嶺に立っている時、無性に論評書きたくなる作家です。この男の産む獣たちを、丁寧に腑分けし、美味しく頂いて、のっぴきならない処を踏み越える。それが私のささやかな道楽でしょうか。では、参ります。

 狭き門より入れ

歩くのが遅い日傘を追ひ抜けず

「追ひ抜けず」といいますが、実際は追い抜きたくないのでしょう。歩いていて、ふと前方の姿に目がとまった。涼し気にも艶やかな後ろ姿で、時々ゆっくり左右を見たり仰いだり立ち止まったりもして、その度に日傘が少し回る。回るのは日傘の定番ですから句には敢えて書かないが、回ってるでしょう。とにかく歩くのが遅い。追い抜こうと思えばすぐにでも追い抜けるが、どうもその景を見ていたい。本当は暑いので、さっさと目的地に着きたいが、日傘のたゆたう様を眺めるのもまた涼しさ、と追い抜かない。いや、「追ひ抜けず」とあるから、実は既に日傘の魔に嵌まっている。熱中症で倒れる前に、その魔から遁れられますか。

ワンピース濡らして金魚持ち帰る

夜店の金魚すくいをした後でしょうか。水槽の水がワンピースの裾に跳ねて、金魚を貰って帰る。このワンピースは白でしょう。色物だと、濡れたところが染みのようになって、よろしくない。白なら陰翳となります。背が高いほど、ワンピースの裾の陰影と金魚が良く映えますから、この女性は成人と読みました。金魚を提げるのが少し嬉しくて、子供っぽく照れ笑いしている様が見えるようです。ワンピースの裾がひらひら翻るのと、金魚の尾びれの揺れが、良く響き合う。金魚のように夜店の間を泳いでゆくひとです。

手花火やころころ変はる好きな色

「女心と秋の空」と言います。「男心と秋の空」とも言います。男心の方が本来の言い方という説もありますが、いずれにせよ、恋心の移ろいやすさを指します。掲句は、秋の空どころではない早さ。手花火の色は一瞬一瞬変わる。同様に、心も一瞬一瞬変わる。恋心に限った事ではない。それが変わらないように思うのは、単に体裁で誤魔化しているだけです。心は一瞬もとどまらない。一度座禅でも組んでみれば直ぐに判る事です。美しい手花火に喩えたのは、自他の心のめまぐるしい移ろいを、作者が裁かずに受け入れているからでしょう。

僕は君を君は蟹を一生懸命に

君は蟹を一生懸命、どうしているんでしょうか。啄木みたいに泣きぬれて戯れている訳は無いですね。喰っているんでしょう。蟹を喰う時は無言になる。それほど一生懸命に喰うという事です。対して、僕は君を一生懸命にどうしているのか。恋しているのか、口説いているのか、何も言えずに只見つめているのか。君は知らんぷりです。僕よりも蟹の方に夢中。衣食足りて礼節を知るではないが、食足りて恋を考えるか。いや、そんな傲慢な事は申しません。蟹に満足した、その暁には、少し僕の方にも目をやって欲しい。そう願うばかりです。尤も、同集に「汝も我も蟹の匂ひの手で月夜」ともありますから、何とか振り向いてもらえたんでしょうか。

この作者、性愛の句はとにかく上手い。何でもない動作一つで、二人の関係を様々に思わせる句があります。

素裸にシャツかけてやり煙草吸ふ

腰に手を回し合ひたるまま昼寝

頬に欲し君の素足の冷たさを

この三句目など、作者の性癖を告白しています。一寸どころか随分被虐趣味なのかもしれないが、正直なのは結構です。「欲し」であり、「あり」ではありませんから、作者の憧れを詠ったんでしょう。

「素足」と「冷たさ」と、どちらを季語と取るかで、夏か冬か、季節が真反対になりますが、夏と取る方が相手の姿が見えます。夏にも拘らず素足が冷たいのは、体温が低いという事、ならば色白の肌ではないか、素足は痩せているのではないかと想像します。そして邪鬼を踏む天部を思わせる。自分を邪鬼だと自覚して、好きな女を天部と想うなら、その気持ちは切ない。

捨てるまで大事にさるる桜貝

恋人も知らない水着の柄がある

この二句の主人公は良く似ています。男はあまり桜貝など大事にしないでしょうから、主人公は女性でしょう。私は何十年でも大事にしまっておきますが。「捨てるまで」とあるから、ある日、ふっと飽きるんでしょう。それでためらいもなく、ポイと捨てる。或いは思い出を捨てるかのように捨てるのかもしれない。例えば、恋人と海に行った思い出。

「恋人も知らない」とは、今の恋人が出来てから、わざわざ買ったんでしょうか。それとも前の恋人の時に買ったんでしょうか。どちらの読みも出来るでしょう。この柄は、主人公の心の襞を暗示しています。心の襞が幾つもあるように、水着の柄も幾つもあるのかも知れない。箪笥の奥に仕舞われて、麗しい迷宮の心を形作っているのかも知れません。

合歓の花雨が引つ搔き傷のごと

合歓とは、中国で同衾の意。夜に葉が合わさる様から、この漢字が当てられます。和名の「ねむ」は葉が抱き合うように眠るから。桃色の雄蕊があまた突き出て、ふわふわと、夕に開いて夜を咲く花は甘く香り、その香に細かな夜雨が降る。昏い恋を思わせて、見方によっては痛ましい景です。「引っ搔き傷」とは、合歓がそう感じているのでしょうか。雨に降られるのは、花にとっては痛手です。それを引っ搔き傷と観るのは、合歓の強がりに寄り添うのでしょうか。

汚れ方違ふ枕が二つ春

これは同衾の枕でしょう。原石鼎の「秋風や模様のちがふ皿二つ」を踏まえています。石鼎の句が秋らしい諦めを詠うなら、掲句は春の生々しさを詠う。「汚れ」が、石鼎句の「模様」に相当します。石鼎句の模様は、なにしろ皿ですから、どうしたって変化しないが、枕の汚れはこれから幾らでも変化します。同じ汚れ方になるかもしれないし、心がすれ違うように益々違った挙句、片方が突然洗われて、まっさらになってしまうかもしれない。その汚れの行方が、二人の恋の行方です。

春夕焼け泣いてしらけるおままごと

「泣いて」とありますが、おままごとの相手が泣いたんでしょう。泣かれた結果、「おままごと」という子供の遊びに、現実の面倒事が入ってきてしまう、それで白ける。白けるとは言っても、「春夕焼け」の季語のせいか、或る余裕を持って、泣く子を見てはいる筈です。尤も、泣いた子自身がおままごとに白けた、と読む事も出来ます。子供の遊びは、夕暮れを以て終わります。丁度キリが良いから、はい解散、となるんでしょうか。

もう一つ、おままごとのような生活、という読み方もあります。泣かれた事で、または泣いた事で、ままごとのような日常から現実の惨たらしさに覚めた、そして白けた。この場合、「おままごと」は暗喩ですが、そう読む方が、句としては深みが出ますか。

布団から出れないほどのうれし泣き

掲句における「泣く」という行為が激しく見えるのは、「布団から出られぬほどの」という形容に依ります。「号泣」を目に見えるように、具体的に表現した。主語が提示されず匂わされてもいない場合、俳句では主語は作者自身と読むでしょう。だから、この場合、主人公は北大路自身と読みます。成人過ぎた男子です。

末尾が「泣き」で終わる言葉を調べてみました。噓泣き、焦がれ泣き、しゃくり泣き、忍び泣き等々ありますが、「号泣」という状態に相応しいのは、「うれし泣き」か「くやし泣き」でしょう。

掲句は、「うれし」が離れ技です。仮にこれが「くやし」だったら、どうしようも無い。予め断っておきますが、この「どうしようも無い」は、実際の「泣く」という行為に対してではなく、「泣く」という言葉として公に表現された時の反応です。

実際の行為は密やかに誰にも知られないようにする事は出来る。しかし、活字として公に定着された時、それに対して、どう反応してしまうかという問題です。

うれし泣きなら、傍らの者は、笑い飛ばす事も揶揄する事も、幸運にも涙腺が正常に機能するなら一緒に泣いてやる事もできる。微笑ましく、作者の幾許かの謙遜と卑下をも匂わせる句となる。

一方で、えんえん悔し泣きしているなら、黙って顔を背けるしかない。傍で見ている者にとっては責苦の如し、と言ったら、酷いですか。だが、そんな号泣を見せつけられて、金持ちに札束でツラ張られてる気分になる者もいます。

酷さついでに言えば、掲句の良さは、「泣く」という行為を傍観できる点にあります。うれし泣きする者に反応しなくとも良いし、ましてや共感を要求される訳でもない。

「泣く」という言葉の難しさは、そういう処です。これが笑う或いは嗤う、ならば読者に共感を要求させる作用はない。「泣く」という言葉のみに、恐らくは今の社会特有の慣習として、そういう作用が生ずる。ですから「泣く」という言葉を文章中に、ましてや短い詩形式である俳句中に用いる時には、細心の配慮が必要です。この句の良さは、そうした配慮の結果でしょう。

もう一つ思うのは、「うれし」は笑いに親和性がある。決して泣く事に親しい言葉ではない。嬉しさが一定の範囲を超えた時に「うれし泣き」という現象が起きる。「うれし泣き」とは、極端に嬉しいという感情が、落涙という、普通は悲しみに属する生理現象と化す事です。或る矛盾した状態が、「布団から出れないほど」激しく起こる。これは珍しい。

なぜこの句に惹かれたか、長々と説明してみましたが、泣くという現象は、私にとって、実は不可解です。ずいぶん昔、或る人に「心が死んでいるから泣かないのだ」と教えられました。改めて成程。それなら掲句が、私の欠損部分を補うかのような幻を見せてくれるから、惹かれるんでしょうか。

 死亡遊戯

刃物みな淑気に満ちて台所

元旦から尖っている句です。台所には確かに複数の刃物があり、何の為にあるかと言えば、死をおいしく調理するためです。調理の初めに刃物がある。一年の初めに淑気があるように。淑気とは、めでたいなごやかな気です。人間は食足りて初めてなごやかになる。食は他の生を取り込む事です。当然、他の死を伴う。

ビアガーデン飛べると思つたことがある

ビアガーデンは大抵、屋上にあります。飛び降りもまた屋上に親しい。屋上の喧騒の中で、浴びるほど酒飲んで、挙句に天を見上げると、どうも本来の居場所がそこにある気がする。死ねると思った訳ではない、あくまでも飛べると思っただけです。飛んで地上から解放されると思っただけ。

死にたい訳ではない、とは言訳で、柵乗り越えて飛べば、潰れて死ぬに決まってる。それくらいは判ってる。飛び降りたって、警官が来るまでの酒の肴になるだけだが、それでも酔眼に暮れてゆく空、やがて幽かに星瞬く天を見上げていると、どうしても飛んで帰れる気がしてくる。ここではない、一体どこに帰りたいんでしょう。

凍死者の髭の痛さや吾にも髭

凍死者の髭は針のように凍って尖る。眼前に凍死者がいるわけではない。眼前にあるのは、寒い朝か、晩の鏡に映る自分です。髭を剃るのも面倒で、撫でる手に痛い髭の感触に、ふと凍死する自分を思うのです。冬山に行く必要などありません。霜降りる朝、公園や駅の入口で凍死している浮浪者は何度か見かけました。飯食わずに酒だけ飲んで外で寝れば良いだけです。髭は死後も伸びるという。身体各部が死んだ後、髭だけがまだ生の方向へ伸びてゆきます。

桜桃忌橋の上から煙草捨つ

太宰治は服毒未遂や首吊り未遂、自殺や心中を何度も試みて、それでも死にきれずに最後に入水心中。橋から入水のように捨てられる煙草は、火がついたままでしょうから、夜なら水面に至るまではその軌跡が赤く見えます。それを生のあっけない記憶と見るか、自分のつまらん希望と見るか。

風鈴と同じ柱で首吊らむ

風鈴は揺れる度に涼しさを奏でますが、その音への腹いせに、並んで首吊りたいのか、涼しさ台無しにして。それとも同じ柱で吊れば、少しは自分の死も涼しく見えるか、と無茶な希望を抱くのか。

入水前ちよつと冷てえなと思ふ

冷たい、は冬の季語ですが、無理に冬と限定する事もないでしょう。なぜなら、俺が死ぬ時が冬だ。世間で春だろうが秋だろうが、俺が死ぬから一寸ばかり冬なんだ。

虫鳴くや生きろといふ語鬱陶し

勉強しろ、ちゃんとしろ、仕事しろ、金稼げ、生きろ。ニュアンスは似ています。とにかく上から目線で、そういう命令するな。そのうち、グローバル企業とお上の為に死ね、とか言うんじゃないだろね。そう言われたら、何が何でも嫌がらせでも生きます。虫は好きなだけ鳴いたら、勝手に突然くたばる。鳴いてる間は黙って聞いてくれ。それが出来ないんなら、お節介せずに、どこかに行ってくれ。

昔から網戸についてゐた死骸

秋の蚊を打ちて手ごたへなき命

なんとなく踏まれて蟻の最期の日

冬の蛾の粉になるまで踏まれたる

生きるのがいやで光つてゐる蛍

虫籠は死んだら次の虫が来る

虫の死を詠うの、好きですね。読んでいると、まるで責務みたいに詠っている印象さえ生じる。そうやって納得させたいんでしょう、自分を。俺の死も虫の死も変わらない、って。目の前の網戸に自分の骸が引っ掛かっていても誰も目にとめない。打ち潰されたり、何となく踏まれたり、その上、形無くなるまで踏みひしがれても、誰も気にしない死なんだ。

つまるところは、みんなそうです。いくら頑張って立派になって褒められて媚びられたって、死ぬときは虫けらみたいに死ぬ。だから、虫の死骸を片付けるように、自分の死も人の死も箒で掃いて、もう思い出も行き先も何もかも嫌、生きるのも嫌で煙草に火をつけて、人間の振りしてる蛍も居るでしょう。そうして空っぽの虫籠見つめて、北大路翼がまた新たに生まれてくるのを、いつまでも待っている人もいる。

この句集のあとがきにこうあります。

政治を批判する人たちも、今の政治の汚さはわれわれ「人間」の汚さの集合体である事を理解すべきだ。他人の所為にしないで己の醜さを認めなくてはならない。

このあとがきの一文と、今挙げた虫の死の句群が、どうも繋がっているような気がします。北大路は或る意味、謙虚で、或る意味、苛立っている。そして或る意味、客観視しようとしている。政治または世間または糾弾したい他者と、自分とは、実は鏡像関係にあると、鳥瞰しようとしている。翻って、自分に正義があると信じている人は、果たして自分の鏡像を認識できているでしょうか。北大路は少なくとも、自分に正義があるなどとは露ほども思っていないでしょう。

前から気になっている事を言います。自分に正義があると思っている人は、いや、すみません、正確に言おうとすると、逡巡しつつ、おずおずと言わざるを得ないし、それでもなお言わない方が万事平穏に済むのかもしれないが、出来るだけ正確な印象を言いましょう。

人が正義を掲げた瞬間、もしかしたら文学から最も遠ざかる危険が芽吹くのではないか。糾弾とか断罪こそが、人と場合によっては、最も文学を堕落させる毒と化すのではないか。なぜなら、正義を謳う時、人は自らの業から目を背けがちだからです。もっと言えば、意識下では、正義を掲げる事に依り、自らの業から遁れようとしている。自分の視界に煙幕を張っている。煙幕が晴れた時、糾弾したく断罪したい対象が消え失せた時、否応なく自分の業と向き合うでしょう。そして業力から遁れられる人はいません。

そしてもう一つ。文学とは、言葉に依って成立するものです。言葉とは、何処まで行っても事象の或る側面しか捉える事が出来ません。絵画や音楽に比べれば、視覚や聴覚に直接訴え掛ける事が出来ないために、圧倒的に不完全である、それが文学の宿命です。

言葉とは、そもそも世界への認識を分断させる宿命を持つのではないか。これは、俳句という最短の詩を作る人なら、誰でも日々経験している事ではないでしょうか。自分の感じた事をこの短さでは正確に表現できないという憾み。しかしどれだけ長々と書いたところで恐らく同じでしょう。事象の周りをぐるぐる回っているその軌跡が何重にもなるだけです。

そのような、あまりにも不完全なもので世界を詠おうとする時、せめて世界の悪を自分の悪のように受け止めて、自分の鏡像を見るように捉えようとする事。これは中々難しいのですが、そういう志は必要ではないか。いや、悪というのは不正確、というか、此の世限定の短期的な見方です。世界の業を自分の業のように受け止める、と言うべきです。生き変わり死に変わる度に変化する立場を鳥瞰するという事。

正義を想いつつ文学をやるためには、少なくとも、シャーマン、巫のような立場が必要なのではないか。憑依される立場、もっと踏み込むなら、憑依される立場を超えて憑依する立場が。

どうも話がずれますね。この虫の死の句群において、北大路は虫に憑依している。その憑依する在り方が、北大路なりの正義ではないかと感じたのです。それを何とか説明したかったのですが、あんまり上手く言えてませんね。

日直が捨てる月曜日の金魚

日曜に死んだんでしょうか、それとも土曜の午後に。金魚は夏の季語ですから、一日二日、夏日の当たる温い水に浮かんでいた死骸は、割と傷んでいます。水も濁っていて捨てなきゃいけない。面倒です。この日直は貧乏くじ引きましたね。しかし、死とはこんな風に臭くてぬるぬるしていて面倒なものだと、子供のうちに知る機会を得た。それは結構な事です。

日曜終わって、また月曜から学校かよ、面倒だなあ、おまけに日直だから早く行かなきゃいけない、それで教室着いたら金魚の後始末かよ。月曜の朝の鬱陶しさ倍増ですね。まあ、人生とはそんなもので、それを子供のうちに知ったのは実に結構。大人になっても覚えておけよ。金魚の気持ち? そんなもの知りません。ひとの寂しさは百年でも我慢できる。ましてや金魚ですよ。

それならなぜ、句の末尾、最後に印象に残る言葉が、「日直」で終わらずに「金魚」で終わるんでしょう。「日直」で終わる作り方だって出来た筈です。でも、「季語は作者自身である」なら、捨てられる金魚の気持ちは、作者が一番身に沁みている。或いは死んだ金魚に憑依したいんでしょうか。

振り返るたび消えかけの花火あり

場所は何処かを考えます。何度も振り返るのだから、見晴らしの良い場所でしょう。公園や河原でも良いが、花火の地点から振り返る自分までの距離が長いほど、何度も振り返る事が出来ます。そう考えると、やはり海辺でしょう。浜で花火をやっている。自分は海から遠ざかってゆく。掲句の景は裏を返せば、自分が前を向いて歩いている間に、背後で新たな花火に火がつけられるという事。

それなら花火の始まりが見えても良い筈なのに、なぜか自分が振り返る時には、花火はいつも消えかけている。これは寂しい。見るのを許されるのは花火の儚さだけ、と諭されるかのよう。死ぬ前の走馬燈を見せられているかのよう。

花火をしているのは、仲間ですか。自分は疲れてしまって帰ろうとしているのですか。ここは仲間が花火をしていると読みましょう。その方が寂しさが増す。歩いて行く先は夜、振り返っても夜で、仲間はだんだん遠ざかる。花火は消えかかっても、決して消えはしない。いっそ消えてしまえば、まだ諦めもつくけれど、永遠に花火は消えかかり、夜道も海から遠ざかるほど、果てがなくなって来ます。

終電の次の電車は雪の中

終電の次の電車とは、回送電車か、それとも朝になるまで彼方で待機している電車か。いずれにせよ乗れない電車で、それをホームに立って何となく待っている。待っているとは書いてない。けれども、待っているんでしょう。そうでなければ「次の電車」と書く必要がない。

では、待っているとしましょう。何の為に。乗るためですね。開かないかもしれない扉、止まらないかもしれない電車を待って、雪を眺めている。終電の次の電車は、死へ向かうか、少なくとも「きさらぎ駅」へと向かう電車だよ。乗ってはいけない電車に乗りたいのは、飛び込もうにも時刻表に無い電車は来るかどうかも分からないし、凍死も何となく気が進まないから。駅員に追い出されるまでの猶予を、雪の中の電車に恋して、死までの猶予のように待っています。

満月に骨蹴飛ばして帰り道

何の骨か、が先ず問題ですが、何の骨でも良い、作者が何の骨と観たのかという事です。人間の骨だと仮定しましょう、それが一番凄絶だから。で、作者が蹴飛ばしても良い骨と言えば、たった一つしかない。作者自身の骨。満月に煌々と照らされている道は、何処かからの「帰り道」ですが、作者自身の骨を蹴飛ばしているとすれば、これは二つしかない。生から死への帰り道か、死から生への帰り道か、どちらかです。または作者が首を巡らす方向によって、どちらへでも変ずるか。

どの花を撮つても墓の写り込む

供花を撮った訳でもないでしょう。花の背後にえんえん墓地が広がっている、と読むのが、先ず無難な読みです。

俳句で「花」といえば、桜ですが、これは桜だろうか。桜と見れば、墓が重なるのは或る種の理で、「桜の下には死体が埋まっている」ではないが、桜とくれば死を含んでいる、と日本人は観ます。

墓は作者の心にあるものでしょうか。桜を撮れば、何処の桜でも自動的に墓が写るなら、それは写真が作者の心を映しているからです。

野遊びの景色となつて戻り来ず

死出の道なんでしょう。こんな風なら良いという、作者の儚い希望ですか。「景色となつて」いるのですから、消えてはいない。生きている側から見えなくなったわけではない。こちら側、生きている側からは、ずっと見えているけれども、「戻り来ず」です。

もしも作者が景色となった側なら、その景色は作者側からは見えないから詠う事も出来ない。という事は、戻り来ない者は、作者ではない誰か、恐らく作者に近しい誰かでしょう。もうこの世には居ないが、作者には、春の麗しい景の中、野遊びをしている様が、いつまでも見えている、見ていたい、見えていて欲しい、そんな悲しい句です。

冬晴れやこんもりと祖母焼き上がる

大阪人である私には、この句が最初不可解でした。これが火葬場の台車の景だとすれば、骨は台車一面に散らばっているから、「こんもり」という形容は出て来ません。骨壺に入れた景なら、僅かな骨がガシャガシャ入っているだけだから、同じく「こんもり」とはいかない。

ところが、関東では大きな骨壺に骨を全部入れ、最後に骨粉までも刷毛と塵取りで掃き取り、壺に収めると聞いて、疑問が氷解しました。壺の中にうずたかく積まれた骨の上、更に骨粉が被せられていたら、確かに「こんもり」となるでしょう。関西では主要な骨を入れたら、残りの骨、全体の四分の三くらいは火葬場に置いて帰るので、とても「こんもり」とはいかない。

そして疑問は解決したのですが、なお私の脳裏には実景とは異なる景が広がっています。晴れた冷たい空の下、地平の真ん中に祖母の骨だけが、「こんもりと」小山のように焼き上がっている景です。

句中には「積み上がる」とは書かれていない。あくまでも「焼き上がる」です。焼き立てほやほや、という事が強調されている。冬晴れの下でまだ湯気を立てているかのようです。死の、生々しい物質化。尤も、この「こんもりと」は一寸可愛い。生前の祖母を想像させるような形容ですが、それでも焼き上がっているのは、やはり骨です。

火葬場とか骨壺とかは無い。参拝者も居ない。祖母のまだ熱い骨の小山と、北大路だけが、冬晴れの下に対峙している。空の無情な冷たさが、そんな非現実的な景を思わせます。

中七、先ず「こんもりと」が来て、次に「祖母」が来ます。「祖母こんもりと」と詠われた場合との違いは、死の無情の強調でしょう。先ず「こんもりと」した物質がある、次にそれが祖母だと認識される。その密かな驚き。

闇鍋や遺骨を英語に訳せない

Ashes(灰)、remains(残存)、cremains(火葬した骨)、辞書を調べてみますと、英語でも一応あるんですよ。しかしそういうニュアンスではない、霊的な意味が入ってない、と言いたいのか。遺骨とは単なる物質ではない。何か、と問われれば、魄(はく)を蔵するものです。魂魄の魄です。魂が上昇するものと見れば、この魄とは地下へと降りるもの。生前の業を色々含みつつ地下を目指すもの。

だからこそ、闇鍋を配したわけです。色んなものが暗闇で、ぐつぐつ煮えている。地獄のように、あるいは中有の暗冥のように。そこを遺骨のある処、遺骨が内に含む業の行き着く先と感じたのなら、鋭い直感です。鋭すぎて、一読しただけでは意味が取れない。しかし、妙に心に残る。残るから考えてみる。そこでハッとなる。平明に、しかし訳わからん、けれどもなぜか引っ掛かる、こういう句は貴重です。

血液が蒼くなるまで冬眠す

蒼い血と言えば、烏賊、蛸、海老、蟹などでしょうか。鉄の代わりに銅が入っている血です。作者は冬眠において、進化を逆行している。人間やめるどころか、その血は深海の色に、蒼空の色に、そこまで眠りに落ちたいのだけれども。

蒲団から進化の途中のやうに出る

死と眠りは似ています。「昼寝覚」とは一旦死んで蘇る意味だと、初学のとき教わりました。ならば、この蒲団の句も、昼寝覚ではないけれど、やはり死から甦る句でしょうか。

だらだらのそのそ出てくる様を詠ったのでしょうが、やはり中七が曲者で、胎児は胎内で生物の進化の過程を全部なぞるそうです。となると、蒲団が子宮で、出てくる作者は早産どころか、人間になり切ってないのに、この世に出てくるのでしょうか。

革命の如き寝糞や冬に入る

句集「天使の涎」中の句です。糞の句と問われれば、私は真っ先に思い浮かべます。驚きと絶望と一種突き抜けた解放感と言いましょうか、その心情を現実の寝糞に投影し、革命と喩えたのが見事です。

しかも周囲の状況は「冬に入る」。えらいこっちゃ、なのは自分の排泄物だけで、それ以外はしんと寒々とし始める。これからもっと寒くなるかもしれないのに、掛布団も敷布団も台無し。明日は何処に寝ればいいの。革命だあっ! と叫びたい気持ちはわかる。案外こんなところから、人は革命へと突き進むのかもしれない。

これがもし「糞の如き革命」なら、単なる悪罵に過ぎません。判り易く他の例を出せば、「糞の如き世界」なら、飽きるほど聞いた悪罵、成人する前に判っていて当然の事実、平凡極まる喩えに過ぎません。
しかし、これが「世界の如き糞」なら、そんな糞をするのは一体どんな生き物だろう。鯤という大魚がおりますが、まず鯤よりも大きい生物、かの鯤だってその糞の一部に過ぎぬほど大きな生物でしょう。

北大路のこの寝糞は、先ず心情に拘わらず否定しようのない物質として在り、次に否応ない自己確認の素材として在ります。人間が排泄の後、自分の糞を見るのは、生物としての自己確認の欲求だと言いますから。通常は概念でしかない革命が、可視化され、湯気を立て、嗅ぐ事さえできる。自己確認としての、革命の物質化。理想論を一瞬で粉砕する、これが北大路のリアリズムです。

尾籠な話をもう少し続けますと、日本には糞から生まれた神がいます。イザナミが火の神を産んで女陰を焼かれ、苦しみの余り嘔吐し、糞尿を垂れ流して亡くなりますが、嘔吐物からは鉱山の神、尿からは灌漑用水や温泉の神、糞からはハニヤスビコ、ハニヤスヒメという神が生れます。土の神、肥料の神、五穀を生育させる神です。

死に瀕した神の糞から、食べ物を育てる神が生れる。マイナスのものがそのままプラスのものへと繋がってゆく。この円環が生ずるためには、大きな許容性が必要です。拒絶や糾弾や断罪からは決して生じない円環。

善は善のまま、悪は悪のまま変わる事が無く、永遠に対立しあう、というのが、ユダヤ・キリスト教的な二元対立ですが、その立場から見れば、この円環はまさに革命です。これが「革命の如き寝糞」に隠された意味。「寝」、つまり眠りという無意識の、疑似的な死の領域から、あふれ出す円環。そしてこの円環は、「ふるさと」と呼ばれるものの持つ円環へと繋がるのではないか。

 提灯行列

軒下で犯され猫に産まれ来る

「軒下で犯され」と「猫に産まれ来る」の間には長い空白があります。犯されるのは猫、産まれ来るのも猫、この間に母猫の妊娠があります。もう一つの読み方は、前世は軒下で犯され、次の世には猫に産まれ来る。この場合の問題は、前世に軒下で犯された時、猫だったのか、それとも他の生き物、例えば人間だったのかという事。

先に指摘した「長い空白」とは、妊娠から出産までの此の世の数カ月でしょうか、それとも前生と今生にまたがる空白期間でしょうか。

葱畑同じ高さに絶望す

葱は同じ高さで生えています。みんな同じ高さで同じ目線で世界を見ていて、茫洋と何処までも並んで立っている状況に絶望したら、もう故郷とは振り捨ててゆくものでしかない。

蟬を捕る約束だけが甦る

それでも友達はいて、でも友達の名前も顔も声も忘れた。蟬捕りの約束だけをいつまでも覚えている。行けなかったから。約束は果たされなかったから。果たせなかった約束は、約束した人とは関係なく、いつまでも、何十年でも残るものです。そんな約束だけが、たとえ蟬捕りみたいな詰まらないものでも、本当かもしれません。全うしなかった約束だけが本当。

夏至の雨は泣いてる男の子の匂ひ

男の子って独特な匂いがするんですね。金魚みたいな、と言うか、何処か生臭く饐えた匂い。その匂いが、泣くとますます強まるんだ。涙だって、体内の毒の排出だから。男の子の中の濁った匂いが漂う。それが夏至の雨でもある。夏至だから、恵みの夜は一年で一番短い。昼も雨が降ってるなら、雲があるだけマシか。泣いてる男の子は、私にも遙か昔の自覚がありますが、汚らしいんですよ。面倒なのは男の子も自分の汚らしさを良くわかっている事で。その男の子の惨めさを同じ匂いで誤魔化してくれる雨は、やっぱり優しいのかも。

ぶらんこを見て欲しくつて雨の日も

ぶらんこを思い切り漕いでいる時は、なぜか得意な気分になれる。風を切っているのが好きです。この得意な気分を見て欲しいから、子供の頃は雨の日も乗ってた。馬鹿な子だね、と怒られるだけだったけど。自転車でもあれば風を切って出て行けるが、それも出来ない時には、ぶらんこはいい。体に夢を見させてくれる。地面から離れているからか。いつでも揺れてるからか。その中途半端な状態が良いのかも。

ふらここの錆の匂ひを故郷とす

ふらここの鎖は錆びていて、握りしめていると錆の匂いが付く。それは血の匂い。体の中を流れている故郷の、惨たらしい匂い。その匂いを我が物として諦めた時に、大人になる。

ふらここがぽつんと見えてあと畑

田舎であればあるほど、畑ばっかりであればあるほど、故郷は鎖に閉じられていて、その鎖の惨たらしさ、それをふらここを漕ぐ事で打ち破る、そんなわけないか。因習は何にも変わらない、うっとりと井戸の底のような温さの中、ぽつんと、ふらここをいつまでも漕いでいる、ギイギイギイギイ同じところを行き来しているだけの鎖の軋む音、それが春の悲鳴なんだよ。

今、ぶらんこの句を三句挙げました。一句目は「ぶらんこ」、二句目以降は「ふらここ」です。この名称の違いは何だろうと考えてみましたが、子供は「ふらここ」なんて古典的な名称は使いません。「ぶらんこ」と呼びます。主人公が子供、つまり過去の自分である場合は「ぶらんこ」、主人公が既に大人、今の自分である場合は「ふらここ」と区別しているのではないでしょうか。

雪道はどこかに売られてゆくやうで

時刻は夜でしょう。その方が雪の仄明るさが寂しい。ふるさとから無理矢理に引き剝がされる感覚。ふるさと、なんて凍え切った際の幻覚みたいなもので、実は無いんですけどね。雪道の寂しさは、自分が何かと交換されて流離する感覚に似ているんでしょうか。「全ての仕事は売春である」とゴダールは言いました。戦前は人買いが普通にありましたが、自分が物として扱われる実感、というのは今でも普通にあるのではないですか。何らかの値段をつけられて、寒くうすら白い雪道を運ばれてゆく感覚。故郷なんてものは最初から無かったという諦観。

旅に出るやうに焚火を離れけり

この句の場合、ふるさとは焚火の如しなんでしょうか。この寒さの中で、熱く明るく有難い。そういうふるさとが北大路には、もしかしたら在るんでしょうか。それならそれで良いんですけどね。中島みゆきの「エレーン」や「異国」を想えと言うつもりもありません。気を取り直して解釈するなら、一般的な流離の感覚を、一種力強く詠っている。末尾の「けり」に強さが現れています。そういう意味では、人口に膾炙しやすい句ではないですか。

この句と付き合わせて読むと、ぶらんこに乗ること自体が一種の流離なんだなと思います。大人はあちこちに流離する事が出来る。子供はぶらんこに乗るしかない。大人だって流離には体力気力要りますから、どちらも足りない時には、ふらここに乗るしかない。

家系図を匿してゐたる月明り

月明りは隠されてる家系図を照らそうとしているのか。それとも、陽光から家系図を隠しているのが、月明りなのか。例えば、月明かりの元でしか見たらいけないというような。どうも後者のような気がします。というのも「匿(かくま)う」の漢字を使って「匿(かく)して」と読ませているから。月は黄泉の光だから、そんな光に匿われている家系図には、祟りか障りか、どうせ危ないものが記されている、または危うさを解く鍵がある。

村祭り水死の人を神様に

漁に出て水死人を見つけると、必ず曳くか舟に上げるかして、陸に戻さなければならない。この水死人をエビスと呼びます。揚げられた水死体は辻などに葬る。そうすると豊漁をもたらすと言い、実際に豊漁の例が数え切れぬほどある。掲句では、そのエビスも神として接待を受けるのでしょう。

ヒルコという神があります。生れてすぐ虚ろ舟に乗せられ流された。後に立派な神となり、その神がエビスだと言います。日売子(ヒルコ)、日売女(ヒルメ)、双子の神あるいは夫婦神にして太陽神を思います。

この村、恐らく漁村でしょうが、ここで祀られる水死人が何を意味するか。先ず海の彼方からやって来る死、次に豊漁をもたらすもの、流され隠された神、本来、太陽であり海であるもの。この村祭りは、記紀によって整理される以前の神へと繋がってゆきます。

山開き事故をなかつたことにする

山開きは一般の登山客の入山を許す日で、今ではイベント化してる向きもあるが、本来は神事です。となると、掲句の読み方も二つに分かれます。一つは山開きのめでたさの為に、事故を隠すという意味。そして、もう一つの意味を、これから展開します。

山は本来、異界です。山伏や僧侶など異能を持つ者しか立ち入れない。無理に入れば天狗にさらわれる。山人が住み、山姥やヤマワロや一本タダラが棲み、平地の法律は山には通じない。いわば治外法権ですから、昔は、お上に追われる者は山に入ったと言います。

山における事故はなぜ起こるのか。山という異界に、平地に住む者が立ち入った結果です。その事故を山開きによって無かった事にするとは、平地と山との間の軋みを一旦、白紙に戻すという事。これがもう一つの隠された意味です。

今、海という異界、山という異界と、平地に住む者との関係を示しました。ここで展開した解釈は、掲句を拡大し過ぎと言われるかもしれない。ですが、水死人を祀るという事、山開きにより事故を白紙に戻すという事は、本来、こういう意味を持ちます。作者が意図しなかった意味が掲句に滲み出るとすれば、それは作者が使った言葉自体が、表面的な意味を超えて、言霊の領域に突き刺さるという事です。それは作者の無意識が、記紀以前の地祇と接触している事を意味します。

作者は「アウトロー俳句」と自ら謳っています。これは表面的には、作者の見栄、傾(かぶ)くポーズから始まった言葉かも知れない。しかし、アウトローとは何でしょう。それは客人(マレビト)、共同体の外からやって来る者、平地の法律の外にある者、本来は異界に住む者であり、それゆえにしばしば怖れられ、憎まれ、疎まれ、否定され、投石され、果ては人身御供にされたりもする。

同時に外部にあるものですから、あらゆるものを許容する。内部からはみ出した者が外部へ、山へ、海へと遁れる時には受け入れる。拒絶とは、枠によって生ずるものです。枠の外にある者とは、枠によって拒絶された者です。

今まで作者の句を読んできて感じる事は、その一種異様な柔らかさです。選択される言葉は、平易にして柔らかい、そして期せずして枠をすり抜けてしまうような作用がある。ですが、決して社会運動にはならない。当然です。社会という共同体の外にあるものだから。

クリスマス光の暴力だと思ふ

都会がふるさとである者も沢山いるでしょう。都会の最大のイベントはクリスマスではないですか。山開きも村祭もエビス信仰の風習も無い都会では、クリスマスとは一種の神事です。但し、キリストの生誕を祝う神事ではありません。西洋の資本主義社会に生きる人間の為の、悦楽の神事です。それを「光の暴力だ」と言う。都会に生きている作者にも、神事とは全く思えない暴力的な行事。これはふるさとの行事ではない、破壊的な行事だ、という認識の上に「光の暴力」という言葉が置かれます。

街路樹にイルミネーションが巻き付けられますね。夜も煌々と灯っている。あまつさえ点滅する。自分の全身にああいうものが巻かれて一晩中チカチカチカチカ点滅していると考えてください。眠れますか。あれは樹々に対する拷問だ、なんて、少年少女にはとても言えませんが、大人は知っておいても良いと思います。

病人が散らばつてゐる春の闇

「散らばってゐる」のですから、まるで物みたいに、人形みたいにある。「病人」ですから横たわっているか、少なくともあまり動けない。場所は闇です。あたりの様子も良くわからない。夏や秋や冬よりは過ごしやすいが、逆に言えば、春の闇は、その柔らかさによって全てを絡め取る闇です。これを病院と読めば、一気に状況は整理されてしまう。実際は病院の景を読んだのかもしれません。しかし、「散らばってゐる」という状況と「闇」という場所で、まるでこの世のものではない景のような気がしてきます。

私が読んだ状況は、村のようなところを俯瞰している。各々の屋根の下、或いは辻や畑などに人形のように人々が置かれている。俯瞰しているから「散らばっている」という形容が出てくる。何となく過ごせてしまうような心地良く柔らかい闇の中で、病んでみな孤独に散らばっている。今の私たちの住んでいる場所、ひいては「ふるさと」が病んでいる様の隠喩と読んでしまうのは、深読みのし過ぎでしょうか。

深読みついでに、もう一つ踏み込んで、「季語とは作者自身である」という定義を流用するなら、「春の闇」とは北大路です。病んだ者達を、春の闇の如く抱きとめたい、と北大路が思うなら、良いなあ。

老いてみな皇居の躑躅の蜜になる

不思議な句です。そして解釈が難しい。多少の皮肉は混じっているでしょう。「皇居という、現代日本の、不条理に守られている空間に対する批判を、優しい皮肉で書き表した」。昨今の知識人なら、こうでも書きますか。

皇居とそれが象徴するものを、大好きな人も大嫌いな人もどうでも良い人も居るでしょうが、それら全部含めて「老いてみな」です。何になるかと言うと、「蜜」。これをどう解釈するか。植込みの土じゃないんですね。躑躅の幹や枝や葉でもない。躑躅の花でもない。躑躅の蜜です。吸うと甘いあれです。子供が良く吸ってます。大人はあんまり吸わない。子供っぽい人なら吸うかもしれませんが。

蜜というのは、いわば花の上澄み、花の核です。そして実は躑躅の蜜には毒があるものもある。専門家でも見分けるのは難しいそうです。子供の頃、平気で吸ってましたが。

掲句に戻って整理すると、こうなります。皇居が好きな人も嫌いな人もどうでも良い人も老いてみな、皇居を麗しく彩る躑躅の核心部分であり上澄みであり、蜂を引き寄せる香りと甘さと、偶には毒をも有する蜜となる。

日本という国の核心である皇室が良いとか悪いとか、作者は一言も言ってません。ただ、国の中心部分の場所である皇居と国民との関係を、こういうものではないかと喩えている。この句は、作者なりの、恥じらう愛国の表明ではないか。そして作者自身は意識していないだろうが、日本に対する作者の霊的な感覚も露出している。句集あとがきの一文を思い出します。《それでも日本を愛してゐる。僕はこの国で生まれこの国で死ぬしかない。

八月をぜんぶなかつたことにする

八月と言えば、夏休み、海、ひと夏の恋。でも、何か色々上手く行かなかったんですかね。それとも上手く行ったばかりに、後で面倒な事になったんでしょうか、或いは冷めたんでしょうか。男にも女にも共通する思いでしょう。全部無かった事にはならんでしょうが、取り敢えず無かった事にして納得する。遥か昔から、そういうものです。

と、解釈して収まる訳はないので、なぜ八月なのかという事です。長期休暇に身も心も開放的で、海も水着も眩しいからじゃないですか。違います。日本人にとっては違います。俳句の初心者が敗戦を詠う時の定番は何でしょう。「八月や六日九日十五日」。

二つの原爆投下日と敗戦日。これ全部無かった事に出来ますか。アメリカ人なら出来ますが、日本人には出来ません。それは現今の日本人にとっては呪いと言って良い。チェ・ゲバラは1959年7月に広島を訪れた時、「君たち日本人は、こんなことをされて腹が立たないのか」と言ったそうです。「欲しがりません勝つまでは」の挙句が「過ちは繰り返しませぬから」です。これが呪いでなければ何なのか。たとえ次に戦勝国となろうが、解く術はありません。それを「ぜんぶなかつたことにする」。ここを作者が全部ひらがなで、たどたどしくも見えるように書いているのは、意味がある。

作者だって分かってる。どう理屈つけようが無かった事には出来ないと。八月にはお盆もあります。先祖のお祭りです。先祖が帰って来る。英霊も帰って来るでしょう。空襲犠牲者も帰って来る。沖縄戦線の非戦闘員もいるでしょう。大陸の、東南アジアの、太平洋の島々の、日本人ではない現地の戦災犠牲者もいるでしょう。

戦死した先祖も、空襲で死んだ先祖も、先祖と戦ったアメリカ人も、大陸や東南アジアや太平洋の島々の御霊も、その怨み悔しさ悲しさ寂しさを全部無かった事にするためには、時間を巻き戻すしかない。その無茶さを分かった上で、北大路は「ぜんぶなかつたことにする」と呟いている。だから、彼の視線の先には恐らく、「十二月八日をなかったことにする」という言葉が浮かんでいるはずです。

しかし、その言葉はあまりにも直截で、彼には気恥ずかしくて言えない。だから、夏のアバンチュールにかこつけて、八月です。池田澄子の「忘れちゃえ赤紙神風草むす屍」に通ずるものがある。そういう意味では、掲句は読み手にとってリトマス試験紙でもあります。

我が訃報咥へて蜥蜴隠れけり

北大路は、どうも自分が生きている気がしないんでしょう。いつも何か引っ掛かる不安がある。もしかしたら自分は既に死んでいるのだが、それを単に忘れているだけじゃないか。死んだという客観的な証拠が無いから、まだ生きているだけで。

他の人の死だってそうですね。訃報が来て初めて、既に死んでいた事が判る。それ迄は生きていると思い込んで、暑中見舞いに「御自愛下さい」とか書いちゃって投函したりもします。先の大戦でも同じ事は聞きました。訃報はいつまでも来ないけれども、実はとうに戦死していたとか。訃報が来たから死んだと思っていたら、突然帰還してきたとか。

訃報という情報が来ない限り、生きている事になるんなら、この蜥蜴は、よほど北大路に死んで欲しくないんでしょう。後生大事に訃報を咥えたまま、百年でも草葉の陰に隠れているつもりかもしれません。

これはニホントカゲでしょうが、幼体は尾が瑠璃色をしているので、瑠璃蜥蜴とも呼びます。幼体であれば、長く隠れられます。北大路が老衰で死ぬまで、瑠璃色の尻尾を草に沈めて、隠れていれば良いです。「昼寝してしづかに繋ぐ命かな」という句も同集にあります。随分神妙な句です。他者を写生した句にせよ、夏バテの自分を詠った句にせよ、これを読んだ蜥蜴は昼寝にでも入るように、ますます草深く潜るでしょう。

晩年はしづかな雪になりたくて

世の中の騒音を全て吸い取り、白く仄かに光を含む、冷たく儚いものになりたいと思うのですか。時刻は書かれていませんが、夜の雰囲気があります。「晩年」の、「晩」の一字がそう思わせるのでしょう。末尾が「て」で終わっている、ということは、まだ続きがあると期待します。「なりたくて、けれども」と続くのか、「なりたくて、そして」と続くのか、作者にもまだ見えていない先があります。運命というものは大抵、予測した方向には転がらないものです。

誰も気付かない内に、水のように溶け、蒸気のように空に昇りたいと思うのでしょうが、北大路には、無理。そういう者には、そもそもこの論評で取り上げてきたような句は書けません。この句は期せずして、北大路の晩年から一番遠いものを詠っている。憧れとはそういうものでしょう。

ここでふっと、同集にある「焼芋屋全部が根性だとしたら」という句を思い出して、妙に納得します。この「だとしたら」が不可解だった。だとしたら、何なのか。静かな雪なんかになれねえよ、と続くんでしょうか。焼芋という、ぶっとい根の塊は、雪の真ん中で食うとき一番美味いでしょう。

だから北大路に俳人としての責務を唯一望むとすれば、どんなに少なくとも後三十年は、何があろうと、生きて書き続ける事。自傷と恥辱に塗れて、それらを恐ろしく簡潔に書いてしまう彼が、老人となった暁に、一体どんな句を書くのか。その未見の句に、私は非常な期待を抱きます。

汚くて安くて花が見える店

この花を、町の公園の花壇と見るか、それとも俳句で言う処の花、つまり桜と見るかで、印象は随分変わって来ます。借景に桜を置くなら、これは随分と贅沢な句となります。「花の下にて春死なん」を思わせますが、汚くて安い店は、日々を何とか生きている事の象徴でもありましょう。となると、この句は「花の下にて春生きん」の意にも取れます。単純な句に見えますが、実は読み手によって読み幅が大きく動く。それは北大路翼の句全般に言える事です。

眼帯をとれば光やこれが春

片目では見えなかったものが、両目では見える、それを光と言っている。只の光なら片目でも見える筈ですから、これは光という語に託して別のものを詠っている。下五に出てきます。「これが春」と。

だが、この「春」という語も象徴でしょう。片目では見えなかった春、春という語に託されたなにものか、翼にとって光であり春であるもの。それが何であるかは、わかりません。きっと翼自身にも、はっきりとはわからないでしょう。

眼帯は拘束であり、傷を隠す物であり、防御でもあり、視界を塞ぐものでもあります。句集の題が「見えない傷」です。隠された傷、が一次的な意味でしょうが、この句を読むと、傷の為に見えない、とも取れる。または眼帯の為に見えない、と読むなら、見えないのは傷か、それとも景色か。眼帯の下には傷がある。眼帯を取ると、傷は生々しく露わになるのでしょうか。それとも塞がってはいるが傷として残っている、または傷跡として硬く再生した皮膚がきらめくのでしょうか。

いずれにせよ、眼帯と引き換えに、光が、春が現れる。これは美しい句です。復活、或いは新生の句でしょうか。何度も何度も傷は生じ、眼帯が付けられては取られるでしょうが、その度に光は、春は新たに現れます。傷だって、希望かも知れない。或いは突破口か。

( 了 )

2020-08-09

【句集を読む】精神の自由律 北大路翼『見えない傷』 平山雄一

【句集を読む】
精神の自由律
北大路翼見えない傷

平山雄一

俳句結社誌『鴻』2020年8月号
連載コラム“ON THE STREET”より加筆・転載


刃物みな淑気に満ちて台所

石鹸玉祈る言葉がつぎつぎと

北大路翼の第3句集『見えない傷』の冒頭で、この2句に出会った。何の外連もない詠みぶりに、俳人・翼の変化を感じた。真っ向から事物を捉え、心情を直裁に述べる。第1句集『天使の涎』から5年、第2句集『時の瘡蓋』から3年。翼の句に何が起こったのだろう。 

爆発的な跳躍力を発揮した『天使の涎』(田中裕明賞)と、アナーキーな文学表現を目指した『時の瘡蓋』で、北大路翼は俳人としてのポジションを確立した。しかし、そこには必ず“アウトロー”という枕詞が付きまとった。“アウトロー”は俳壇以外と翼を結ぶキーワードになった。同時に、既成の俳壇が北大路の俳句とまともに向かい合おうとしない事実をも示している。それでも翼はこの第3句集『見えない傷』で、己の俳句の深層に果敢に降りてゆく。

冬の蛾の粉になるまで踏まれたる

雪載せて有刺鉄線ひそかなり

日直が捨てる月曜日の金魚

冷蔵庫の中は暗かろ麺のつゆ

動かない鴨を見てゐて動かない

『見えない傷』というタイトルを彷彿とさせる句を挙げてみた。以前の句にはなかったタイプの淋しさが顔を覗かせる。

それをとことん突き詰めた「冬の蛾の」には、凄味が漂う。以前、翼は「ハロウィンの斧持ちて佇つ交差点」(『天使の涎』)で、無自覚な大衆を真正面から挑発していた。しかしこの句では、完全に無抵抗になっている。都市の無慈悲な雑踏は、孤独さえも粉々にしてしまう。

「雪載せて」には、淋しさに首まで浸かりながら虎視眈々と何かを狙う秘めた闘志がある。「日直が」では、日常の中で見過ごされがちな悪意のない惨禍を的確に掬い上げる。
「冷蔵庫の」では、翼の淋しさと「麺のつゆ」が不思議な共振を起こす。茅舎に「金剛の露ひとつぶや石の上」の句があるが、この「露」と翼の「つゆ」は同量の孤独を宿している。翼は淋しさを、弱者への労りとして昇華している。

これまで淋しさを「淋しい」と表現して来なかった翼が、無防備な姿を曝け出す。だから「動かない」の句が面白い。究極の無防備を凝視するうちに、己と鴨が一体化してしまったのだった。

次の句群は「死」を基調に作られている。

風鈴と同じ柱で首吊らむ

カーテンにかなぶんの脚夜涼し

ばらばらになつても脚がかなぶんだ

昔から網戸についてゐた死骸

虫籠は死んだら次の虫が来る

我が訃報咥へて蜥蜴隠れけり

以前の翼は「夭折」や「早逝」の冠を欲しがっていた。しかし『見えない傷』で描かれる死は、それらとは明らかに違う。新たな死生観が生まれたようだ。

「風鈴と」の句では、自らの死の方法について言及している。風鈴は翼の好きな季語で、「吊る前の風鈴の音をひた隠す」(『時の瘡蓋』)と詠んだ。どんな音がするのか、わくわくしながら風鈴を吊るした柱で、今度は首をくくろうかと述べる。ここには、一茶の「木つゝきの死ねとて敲く柱哉」を連想させる自虐がある。

「カーテンに」「ばらばらに」「昔から」の3句は、ひとつの景を微分してみせる。小さな昆虫の脚を、翼は生の痕跡として憐れむ。脚だけ残して消えたかなぶんへの冷えた共感がある。 

「虫籠は」は、まるでコロナに侵されたブラジルの病院のベッドのようだ。これらの句に漂う直接的な死の匂いは、「我が訃報」となって隠匿される。

湯上りの爪やはらかく五月来る

ミネストローネは秋色の寄せ集め

陽のあたる場所に片手袋置かれ

これが本当に翼の作なのかと思わせる素直な句群だ。これまで見たことのないロマンとセンチメントに溢れている。「湯上り」も「秋色」も向日性が前面に出ていて、「片手袋」の句にはホッとさせられる。

こうした新生面の一方で、従来の饒舌な句も健在だ。

Tシャツの柄に育ちの悪さかな

テントウムシダマシの二倍忙しい

何歳になつても雪は触るもの

雪礫どうした俺に惚れたのか

さうなのか昨日のあれが新米か

尊大な角度で鍋の葱を切る

治つたら行くよ卒業おめでたう

翼は意外と育ちが良い。だから笑って「Tシャツの」を作る。「テントウムシダマシ」は、アウトローと呼ばれることへの皮肉かもしれない。「何歳に」は、翼ならではの童心。「雪礫」は自称・モテる男の楽しいハッタリだ。「さうなのか」の謙虚さ、「尊大な」の自惚れ、「治つたら」の人懐こさが楽しい。口語俳句に新機軸を見い出した“翼節”とも言える魅力にあふれている。

ただし、相変わらずの減らず口だが、こうした句を読んでいると、ヤンチャな句作りに対する熱情がやや醒めてきているようにも感じる。

そして淋しさやセンチや死やヤンチャを掻き混ぜた末に、『見えない傷』の核となる句が生まれた。

よく晴れて風の鋭き大試験

『見えない傷』でこの句を見つけたとき、翼の志の高さを改めて確信した。露悪趣味すれすれの第一句集にも、それはあった。だからこそ『天使の涎』は、多くの人の心をざわつかせた。学年を締めくくる試験に臨む、凛とした青年の気概が風の速さに託される。斜に構えたところは微塵もない。

薙刀に巻き付けてある春ショール

伝統的な季語「春ショール」と、時代がかった武具「薙刀」を遣いながら、この句が示すのはとても新鮮な抒情だ。薙刀部を持つ高校の、最寄り駅のホームでの光景だろうか。イマドキのJK(女子高生)の一面を、格調高く切り取っている。

海市立つ流木踏めば骨の音

老成を感じさせる句だ。それでも、大人しくはない。ましてやセンチメンタルでもない。これまで怒りを交えて描写していた事象から、汗と涙を蒸発させて、非常に乾いた表現に行き着いた。『時の瘡蓋』収録の「郷愁の果ての鮃の寄り目かな」と着眼点は変わっていない。ただ表現の角度が変わったのだ。

新学期画鋲の穴にまた画鋲

着膨れの中に肩凝りしまひたる

翼は新しく獲得した傾向の句であっても、おどけてみせる。わかり易く言えば、”面白過ぎない句”を作っている。「新学期」は、かつての一年生が進級し、新しい生徒が学校に入ってくる高揚感を、画鋲の穴に重ねて描く。「着膨れの」は、着膨れが肩凝りの原因かもしれないという柔らかなアイロニー。

立ち食ひの重心変へて秋の雨

翼の主食は、立ち食い蕎麦だ。細長いカウンターに寄りかかって蕎麦を啜っていると、時折重心を掛ける足を交代したくなる。この卑小な発見と、繊細な秋の雨が見事に呼応する。紆余曲折のある感情表現ながら、絶妙なバランスで人の心を打つ。

どうやら翼は『見えない傷』で、“精神的自由律”と呼ぶべき句柄を身につけたようだ。彼の出発点となった種田山頭火がこの句集を読んだら、きっと喜ぶことだろう。『見えない傷』で、翼の俳句はついに成熟を開始した。

大根も過去もいづれは透き通る  翼

おそらくこれは、自身への追悼句。やはり翼は、愛すべき男なのである。

( 了 )


北大路翼『見えない傷』2020年6月/春陽堂書店

2017-08-13

自慰と憐憫 北大路翼句集『天使の涎』『時の瘡蓋』評・その1 山口優夢

自慰と憐憫
北大路翼句集『天使の涎』『時の瘡蓋』評・その1

山口優夢


「お兄さん、あともう1軒いかがっすか。飲みですか、それとも抜きですか」

歌舞伎町の客引きは、思った以上に紳士的で礼儀正しい。手ですっと拒否の意志を示せば、たいていは引き下がる。新橋や神田あたりで深夜に遭遇する年増のマッサージ嬢の強引さに比べたらはるかにマシだ。彼女たちは時に腕をつかみ、断っても100メートルはついてくる。この間などは肩掛け鞄をずっと離さないので往生した。

客引きを無視しながら歌舞伎町のネオン街を歩いて行くと、「思い出の抜け道」という汚い看板のかかった路地がある。ネオン街から急に暗い小径に入るので、知っている店がなければまず入ろうと思わない。その角のあたりに1棟の小さなビルがある。入り口がすぐに急でせまい階段になっている。その一番下に小さな黒い看板が寝かせてある。何度訪れても、この看板がきちんと立てられて看板の機能を果たしているのを見たことがない。看板に書かれた文字は、「砂の城」。俳人・北大路翼さんがオーナーを務める「アートサロン」だ。

この店は開いているのだろうか。最初に訪れたとき、路地の向かいにある屋台に似た飲み屋にいたオカマに「ここ、開いてるのかな」と聞いた。オカマは首をすくめて見せただけだった。どうやらこんな状態がデフォルトだと知って、二回目以降はもう聞かなかった。

一応、看板には敬意を払って踏まないように階段を上りはじめ、3階の砂の城まで上がる。この階段はかなり急で、太ももをしっかり上げないとのぼることが出来ず、酔っぱらいにはつらい。「手摺りつけようよ」という人もいるが、「この階段を上り下りできることがこの店に来る唯一の条件なんだよ」と翼さんは笑う。

×××

墓洗ふお前はすでに死んでゐる(「天使の涎」)

「洗ふ」の一語がなかったら、ふざけすぎだ、と不快な気持ちになったかもしれない。「お前はすでに死んでゐる」は、もちろんマンガ「北斗の拳」の主人公・ケンシロウの決めぜりふ。戦いの最中、すでに相手の秘孔を突いて勝負が決まっているときに「お前はすでに死んでいる」とケンシロウは吐き捨てる。すると、それを聞いた敵は最初は笑っているがそのうち攻撃が効いて倒れる、というのが定石だ。

その言葉を、墓に入っている相手に向かって言っているわけだ。墓に入っている以上、すでに死んでいるのは当たり前。しかし、お墓を洗ってやりながらそうやってつぶやいているのだと想像してみると、改めてその人物が亡くなったことを自分の中で反芻しているようで、どこか死んでしまった相手に向かってそのことを言い聞かせているようでもあって、同じ言葉でもケンシロウとはずいぶん趣きの違った響き方をするように思う。

ただ墓場に来て「お前はすでに死んでゐる」と言っているだけならばそれはパロディのためのパロディに過ぎず、悪趣味だ。墓を洗ってやっている、その行為から、たぶん自分と同世代か下の世代ではないかと思うのだが、その人物と彼とのつながりが見えてくる。だからこそ、パロディが自己目的化せず、ちゃんとこの句ならではの意味合いを獲得している。それと同時に、ブラックジョークの味わいも舌にざらりと残してゆくのだ。

×××

アートサロン「砂の城」があと何年ああいうふうに続いていくものなのかよく分からないところもあるので、店内の様子を書き留めておくことには意味があるだろう。

もともとは現代美術家の会田誠のお店だったそうで、私自身は会田誠なる人物のことをほとんど何も知らないのだが、お店にはその肖像画らしきものが掲げられている。メタリックな銀色のカウンターは彼の作品なのだ、とお客かバーテンに聞いたことがある。カウンターの周りには7脚ほど安物の丸椅子が並び、それだけで店はいっぱいだ。だから、店の奥にあるトイレに行くのに他の客をかき分けていかねばならず、いつも難儀する。

雨でもないのに天井から水が漏れてくるので、バケツが床に置かれている。クリスマスツリーの周りに絡まっているような電飾がツタのように天井を這い回り、壁には北大路翼が取り上げられた新聞や雑誌の切り抜きが所せましと貼られている。翼さんは子どもの頃、自分で作った俳句を部屋の壁に貼っていたそうで、「こういうの好きなんだよ」と言う。

バーテンは日によって違うそうだが、天狗のお面をかぶったてんぐちんという女性が入ったり、誰もいないと翼さん自身が入ったりしている。「今日はてんぐちんじゃないのか」という声も聞いたので、どうやらてんぐちんが人気らしい。「お面」と言うと本人は「これはお面じゃなくてこういう顔なの」と顔を真っ赤にして怒るのだが、天狗なのでもともと顔が赤く、あまり怒っているように見えない。

「ここはちょー事故物件だよ、100人くらい死んでるんじゃねえの」と翼さんは言っていたが、100人は誇張だろう。しかし昔はうりせんだったという来歴(翼さん・談)を考えると、多少何かがあったことは間違いなさそうだ。何時間もいると気持ちが悪くなってくることがあるが、たぶん空気が悪いのだろう。

×××

素麺を食べたくなるや自慰の途中(「天使の涎」)

ふいに、という言葉を隠しつつ書くとしたらこんな俳句になるだろうか。自慰に集中していないわけでもないのだろうが、「あ、なんか素麺食いたい、暑いし」みたいな瞬間は確かにある。そしてたぶん果てたあとは忘れている。そのときだから食べたかったのであって、果ててしまえば男の生理はがらっと全く変わってしまっているのだ。いい自慰ではなさそうだな。やっぱり集中できていないのかもしれない。

「自慰」という言葉がやけに強く響いてしまうかもしれないが、句の内容を見ると、意外とあっさりしている。トリビアルな欲求の流れをそのままふと漏らしたような句だ。割とポーズを作りがちな北大路の句群において、これは結構珍しいかもしれない。

思ひ出し笑ひを悴みながらする(「時の瘡蓋」)

これも同じ系列と言えるか。「思い出し笑い」の持っている寂しさという本意にかなった句であろう。

×××

翼さんが歌舞伎町を拠点に俳句を作り始めて5、6年になるらしい。その間にずいぶん飛んでしまった女の子や自殺した奴も多いとか。

指名用写真が遺影朧月(「時の瘡蓋」)

特に最初の1、2年は周りで自殺する人が多かったという。そのことについての翼さん自身の述懐をそのまま載せようと思う。

Q・死んじゃった人っていうのはどういう人か

A・左翼で灯油かぶって抗議したり。それも最初の1年目はいっぱい死んじゃった。毎月毎月。俺が励ますと元気になって死ぬ元気が出ちゃう。「砂の城」に来て元気になるじゃん、それで帰りに死んじゃうんだよ。だから変に励ましちゃいけないんだよ、うつ病のやつは。良くなったな、って言うと死ぬ元気出ちゃうから、勢いに乗って死んじゃうんだよ。変に同情したりすると死んじゃうだけだから。俺もプロじゃねえから、精神科の。バカにした方がいいんだよ、そうしたら死なないから、悔しくて。ほめると調子に乗って死んじゃうんだよ。元気になったな、なんでもできるな、って言うと、なんでもしちゃうんだよ。バカだから一番目立つことやりたいんだよ。ぽーんと行って終わりだよ。ほっとくしかない。どんな気違いでも天才でも普通に扱うしかない。器がいる。その修業ですよ、僕がやってるのは。

×××

キャバ嬢と見てゐるライバル店の火事(「天使の涎」)

「燃えてるねー」「ねー」くらいの軽い会話が聞こえてきそうだ。ライバル店が火事になるのはキャバ嬢にとっては「ラッキー」くらいのものか。

いや、決してそんなことはないだろう。ライバル店はつぶれてしまえ、くらいは思ったことがあるかもしれない。でも、火事とか、下手したら人が死んじゃうし。ガチだし。そこまでがっつり不幸になる感じのはちょっと望んでなかったかな…。どっちかと言うと内心、とまどいに揺れるのではないだろうか。

たぶん、キャバ嬢から最初に出てくる言葉は、「あーあ、かわいそうに」。憐憫と興奮とが入り交じり、それがだんだん、火事の火に見惚れていく。冬場だからしばらく見ていると肌寒くなってきて、「行こうか」とどちらからともなく促す。そんなキャバ嬢の微妙な心の揺れを男は感じ取っているだろうか。

キャバ嬢と客の深く断絶した関係性の中で、ライバル店の火事という微妙に力関係を崩しそうな偶然の出来事が、ふと2人に言いしれぬ「何か」の雰囲気を共有させてしまう。「何か」とは何か。北大路本人はきっと、「幸福感」と言うだろう。僕は「生命力」と呼びたい。他人の死が生きる活力になる、そういう世界で僕たちは生きているのだ。

ところで、北大路の句には中七が八音になっている句が多い。

啓蟄のなかなか始まらない喧嘩(「天使の涎」)
こんにちはスケベな花咲爺だよ(「天使の涎」)
白日傘与党に投票しさうだな(「時の瘡蓋」)

ちょっと拾っただけでこれだけ見つかる。中八は間延びした印象を与えるから避けるべき、というのはちょっと俳句をやっていればどこかから必ず聞こえてくるアドバイスなのだが、北大路のこの多さは意図的に中八をしているのではないかと思えるほどだ。

加藤楸邨の十七音量説? それも根底にはあるのかもしれないが、どちらかと言えば、これは北大路の句が基本的に口語で書かれていることと密接な関係があるように思う。文語で流暢に俳句を作る方法であれば、中八はただただ間延びするだけだろう。七音にして緊密な調べを取る方がいいに決まっている。ところが、北大路の句は口語調に威勢良く読まれてしまうため、八音でも間延び感はあまりない。もちろん、八音だな、とひっかかりは覚えるが、それをぐっと乗り越えていく勢いで読んでしまう。意識的か無意識的か、とにかく内容と形式はきちんと合っているように感じられる。

×××

たとえばコンビニで酒を買って、新宿の適当な公園や道ばたで飲み始める。と、そこに女が通りかかる。

「何してんの?ヒマ?ヒマでしょ?ヒマだよね?じゃ一緒に行こうよ」

とにかくたたみかけて自分で答えを出してしまうのが、ナンパのコツだという。「100人に声をかけたら10人は飲みまで行ける。そのうち1人くらいは最後まで行く」と豪語されて、ナンパしたことがない僕は、本当かよ、と目を丸くする。歌舞伎町すげえな、いや、この人がすげえのか、どっちだ。

翼さんいわく、自然には「人工的な自然」と「自然な自然」がある。前者は庭、後者は山や海。「自然」をテーマに書く俳人だったら、やっぱり「人工的な自然」より「自然な自然」を書こうとするだろう、と。しかし自分は「人間」をテーマにしている。人間にも「人工的な人間」と「自然な人間」がいるのであって、自分は「自然な人間」、つまりより人間くさい人間を書きたい、だから歌舞伎町に来た、と、ここまで一気に話した。自分の中で何度も語っている物語なのだろう。

なんか哲学者みたいな話をするな、と何となく相づちを打っていたら、思い出したように「合コンジャックって遊びもしてたな」と話し始めた。居酒屋で合コンをやっている席に乗り込んで「イエーイ」って勝手に盛り上がり、そのまま女の子を連れて帰っちゃうという遊びだそうだ。

「それをやっていたのはいつ頃ですか」と聞くと、「えー、ずいぶん昔の話だよ。大学生頃からかな」。

「いつ頃まで」「30過ぎかな」。

いやいや、結構最近までやっていたんじゃないですか。しかも10年以上の長きにわたって。

【つづく】


2017-02-26

【「俳苑叢刊」を読む】 第5回 加藤楸邨『颱風眼』 観念の実体化 北大路翼

「俳苑叢刊」を読む
5回 加藤楸邨颱風眼
観念の実体化

北大路翼


『颱風眼』は『寒雷』につぐ第2句集。昭和15年刊行なので第二次世界大戦が激化していく時代である。すでに楸邨らしさが随所にみられるが、戦争の混乱が進むにつれて作風も力強さを増してゆく。世の中に対する義憤がそのまま、句のエネルギーになつてゐるやうにも思へる。
十二月都塵外套をまきのぼる
黒松の黒さ秋風吹きこもり
秋風の松風ばかり聴きさぐる
「ひた鳴る」「吹きこもる」「聴きさぐる」など動詞+動詞の複合動詞が目立つ。大半の人は「外套をのぼりたる」と流すであらう。このしつこさがいかにも楸邨らしい。自分の気持ちに適ふまでごちやごちやと言葉を重ねてゆく。そして下5に強い言葉が来ることも注目したい。最後の叫びのやうな言霊は強く読者の心に残る。

よく知られる
蟇誰かものいえ声かぎり
も同様であるが、この句の場合中7下5とつながつて12音でまるごと訴へてくる強さがある。

そして思ひを優先する作り方は内容が未整理のまま人の前に提示される。晩年の楸邨本人は本当はうまいと思つてゐたやうだが、この頃はどう思うてゐたのだらう。整理できなかつたのか、あへて整理しなかつたのか。
寒の木木人の対ふやひき緊る
冬の夜霧あまり短く坂了りぬ
厨さむく相寄るや人言とがり
のやうな句はほぼ定型には納まつてゐるが、動詞も多く切れる位置がわかりづらい。見方によつては三段切れのやうにも見える。はつきり言つて下手だ。

ただ変なところで切れたり、切れが複数あるやうに思へるやうな作り方には理由がある。一句の時間が長いのである。
蝸牛いつか哀歓を子はかくす
つひに戦死一匹の蟻ゆけどゆけど
蟻地獄昨日の慍り今日も持ち
楸邨の句には「いつか」「つひに」「昨日の」など俳句ではあまり見かけない時間の経過を示す副詞が散見される。その副詞が浮かぶことなく成功してゐるのはひたすら一つの対象を追ひかけ続けてゐるからだらう。対象を睨み続ける執念。

楸邨の切れは、一瞬を切るのではなく、長い時間の中の一つの呼吸なのだ。それも深呼吸といつていい。「蝸牛」と「いつか哀歓を」の間にどれだけ深い思ひが込められてゐるか。何度も口に出してみるとその深さが浸みてくる。楸邨の難解と言はれてゐる句も、深く呼吸をして味はつてみると共感できることが多いはずだ。
目が並ぶ台風の夜の軍用車
下悔いんとするか肩うごく
電話室汗垂れ物をいふ顔あり
汗の子のつひに詫びざりし眉太く
人物を描くときは目、肩、顔、汗の子など換喩が多い。動詞はあんだけごちやごちやと使つてゐるのに、名詞になると急に単純化されるのが面白い。単純化といつても、簡易にするのではなく濃縮して絞り出すやうな把握ではあるが。この濃縮具合が過ぎると難解といはれてしまふのかも知れない。
炎天に木は立てり憤るもの目になきとき
少し違ふがこの句の「目にない」も異常な把握だと思ふ。「見てない」といはずに「目にない」といふ表現。眼力の強さが肉体を通して伝はつて来る。

そして把握の異常さは、実景を観念で強引に摑まへたときに発揮される。ここが楸邨のオリジナリティ。観念を実景に同化させると言ひ換へてもいい。目ではなく体で感じてゐることを写実的に写しとるのだ。 
英霊車冬木は凭るにするどき青
しぐれねば火星するどく路地の奥
栗煮えて妻の愉しさ身にひびき
灯を消すやこころ崖なす月の前
「するどき青」「火星するどく」「妻の愉しさ」「こころ崖なす」、いづれも見事な把握だと思ふ。特に「こころ崖なす」の崖は心の中の崖なので、実際にはない崖のはずなのに、実際に存在するやうな崖のイメージが伝はつてくる。観念を読者に実景でぶつけてくるすごさ。
山ざくら石の寂しさ極まりぬ
そして最後に僕が集中で一番好きな句を。下5の極まりぬの強さ、山ざくらからの深い断絶(切れ)、そしてさみしさを石の形や冷たさで具体的にする力、いままでにあげたすべての楸邨の特徴が出てゐる句だと思ふ。

2015-06-07

【句集を読む】うんこ讃頌 北大路翼『天使の涎』を読む 喪字男

【句集を読む】
うんこ讃頌
北大路翼『天使の涎』を読む


喪字男



北大路翼の句集「天使の涎」を読んで、まず頭に浮かんだことはパンクロックのことだった。
身 体に安全ピンを差したり、薬物を摂取して暴れたりというイメージが強いパンクロックであるが、その一番の功績は、ロックを民衆へ取り戻したことにある。七 十年代のロックは高度な技術と複雑な曲展開で肥大化の一途を辿り、もはや若者のものではなくなっていた。そこへシンプルな曲と刺激的な振る舞いで殴り込み をかけ、風穴をあけたのがパンクロックである。

パンクロックは多くの若者に楽器を買わせた。それはパンクロックが自分たちの音楽だったからである。
北大路翼は多くの若者に歳時記を買わせる。それは北大路俳句が自分たちの俳句だからである。

「天使の涎」は、俳句のことなど全く知らない人に読んであげても、笑いという反応がおきる。それは例えばこんな句である。

こんにちはスケベな花咲爺だよ  北大路翼(以下同)
ちんぽこにシャワーをあてるほど暇だ
団栗やごろごろとゐる鬱の人
七五三違ふ家族のカメラにも


俳句のことを知らない人が反応する句集が何冊あるだろう?
たいていは
「?」
もしくは
「今、忙しいんで・・・」
「ちょっと何言ってるかわかんない・・・」
こ れは何が原因で起こってるいるかというと、エンターテイメント性の欠如からくるんだと思う。そりゃあ、切れや季語という俳句特有のお約束があってそれを知 らない人には「?」となるのに違いない。でも、それいいのだろうか?俳句とはそんな程度のもんなのか?僕たちは軌道をそれた人工衛星なのか?

そこへピンクのシャツに下駄履きの北大路翼がやってきてこう言う。
「俳句はもっとギラギラしたものだ」

「つかみ」、まず人の目を惹く、振り向かせる。これは何かをやってる人にとっては一番大事なことで、「つかみ」が成功してはじめて、お話になるのである。先ほど挙げた句と同じページにはこんな句が載っている。

はなびらのひるがへるとき空のいろ
夕焼に消えるママチャリベル鳴らし
地下道で眠る神様神無月
孤独死のきちんと畳んである毛布


僕の調査のよれば、多くの人がここで息を大きく吐いて「いいねぇ」と言う。こういう芸当はなかなかできるものではない。
恐らくこれは彼が人に揉まれて獲得したものなのだろう。
文学ヲタク達は書を捨てないし街にも出ない。寺山修二だって頭を抱えているんじゃないだろうか。「あんだけ言ったのに!」って。
文学ヲタク達が抽象的なことばっかり言ってホワホワしてる間に、彼は歌舞伎町で女に捨てられながら酒に溺れながら性病にかかりながら借金を踏み倒しながらひたすら俳句を作り続けたのである。

彼の俳句は友達の悪ふざけのように優しい。

肉まんのやうなうんこを霧におく

……うんこはまさに<うんこ>であるが、<そのうんこ>ではない。
一メートル先も見えない霧の中に、こんもりと湯気の立つうんこがおかれてある。
それは「出た」のではなく確かな意志を持って「おかれた」のである。
意図はまったくわからないが、なんだかとても人間臭い行動だと思う。
この酒臭い天使はそういうものを愛してやまないのだろう。



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【句集を読む】21世紀新宿風土記 北大路翼『天使の涎』を読む 平山雄一

【句集を読む】
21世紀新宿風土記
北大路翼『天使の涎』を読む


平山雄一



この句集を後に振り返れば、北大路翼の中期の代表作ということになるだろう。『天使の涎』は、新宿を根城に作句を展開した2012~2014年の3年間に溜めた15000句余りから抜粋された2000句 からなる。当然、翼は少年時代から句作をしていたし、今後もそれは続くから、この句集は翼の俳句活動の中に忽然と現れた地続きの島、半島 のような存在なのだ。だから、その成り立ちの特殊さを含めて、彼のキャリアの中で特筆される作品になることだろう。

この句集のいちばんの特徴は、テーマを新宿に絞っていること。俳人は、それぞれ生まれた土地や暮らす地域をテーマに置いて作句するケースが 多く、詠む対象は美しい山河や独自の気候だったりする。自然の少ない都会がテーマの中心に来ることは、極めて稀だ。特に新宿なら、なおさらだ。翼は新宿生まれではないが、2012~2014年の間、どっぷり新宿に生きていた。新宿にも四季があり、その移ろいを知らせてくれる独特の風物がある。いわゆる花鳥風月とは素材を異にするものの、翼はこの街の季節を見逃さなかった。だからこの句集は、新宿の風土から生まれたといっていい。

〈しんじゅ句〉
トンカツの重みに疲れ春キャベツ
話してゐる八割が嘘アロハシャツ
鯊日和オリンピックは他所でやれ
ハロウィンの斧持ちて佇つ交差点
四トン車全部がおせち料理かな


家出少女など社会的弱者を徹底的にレポートするジャーナリスト鈴木大介は、著書『援デリの少女たち』で、新宿は未成年者の“巨大な闇の職 安”になっていると書いている。虐待を受けて家から脱出を試みる子供たちは、たとえ非合法であってもその職安を利用するしかない。そうした未成年者やパチンコの打ち子、オレオレ詐欺の受け子たちも、ヤクザと並んで新宿の重要な構成要素になっている。その他、ゲイ、レズ、ト ランスジェンダー、アルコールやギャンブル依存症者など、新宿には社会的弱者が多くいる。

〈ごくら句〉
唄もよし余生僅かなおでん屋よ
祖母の香のするストーブの焚きはじめ
マスターとヒーターだけの立ち飲み屋
綿菓子のやうなおかんを連れ歩く


〈ぢご句〉
夏や朝カラスの落しゆく肉片
金融の笑顔絶やさず水を打つ
寝苦しき夜ニンゲンを売る話
通勤に怯えマフラーかたく巻く
毛糸編む不幸を我慢するかたち
事故車から下半分の鏡餅
この町を出るため寒鴉の餌に
冬帽子目深に無人契約機
戦死者と傘の忘れものの数


そんな街だからこそ、新宿には今も風狂たちが集う。60年代にアンダーグラウンド文化の象徴だった新宿も、90年代に入るとバブルの影響でかなりのエリアが整頓されてしまった。しかし、2010年代に入ると、復活の兆しが顕われ始めた。その拠点の一つが、翼のホームグラウンドである俳句&女装バー“砂の城”だ。

ここは馳星周の悪漢小説『不夜城』のモデルになった店で、ゴールデン街が現在の場所に移る以前に賑わった“元ゴールデン街”の一角にある。おそらく翼はそれを知らずに店を構えたのだろうが、その場所が惹きつける人種は、間違いなくその筋だ。夜更けには、パフォーマー、デザイナー、絵描き、漫画家、カメラマン、薬剤研究者などがどこからともなくやってくる。彼らの大半は、強固な反骨精神の持ち主たちだ。

〈ロッ句〉
チンピラのままの一生春の蝿
穀雨かな雑民を継ぐ志
長き夜のギターの腹に丸き闇


翼自身も、正業に就いているとはいえ、酒と女とギャンブル に明け暮れる日々を送る不良だ。その性癖に即した句も多く、『天使の涎』には伝統俳人が顔をしかめるような題材=新しい言葉や俗語がたくさん登場する。だが、問題は題材ではない。俳句として成り立っているかどうかだ。「名句であれば、新しい言葉であっても認められる」という俳人がいるが、そもそも作らなければ何も生まれない。俗語を使おうが季語がなかろうが、まずは言いたいことを言うのである。創作には誰の許可も必要ない。翼はそこから、自分自身の俳句を生もうとしている。そして、そのいくつかは成功している。“見た事もないような成功 作”にたどりつくには、多くの未認可作があって当然だ。もしこの句集を読んで、自分も未認可句にトライしてみようという俳人が現われれ ば、翼の思うつぼだろう。

〈ファッ句〉
雪催キープボトルに女陰の絵
祭の夜口移しで飲むワンカップ
蚊を打ちてお前が俺の命だと
喉が痛い頭が痛い今会ひたい
沈丁花君の便器でゐたかつた
誰がために剃りし陰毛夏来る
寝タバコで暑さを言へば抱き着き来
両性具有雷は金の雨
こんにちはスケベな花咲爺だよ
さくらさくら浮気するのは逢ひたいから
肛門の用途の無限吊し柿


〈だら句〉
人生の大半を酔ひまた祭
逃げる気のなく縛られて蟹夫婦


〈とば句〉
競艇のない日はただの春の川
全レース外す恍惚花卯木


一方で、翼は古典にも通じている。そもそも俳句という表現手段を選んだ段階で、伝統的な日本文化を肯定する志を持ち合わせている。そこで興味深いのは、翼が伝統を肯定した上で、批判的に読む姿勢を貫くことだ。句集中の作品でも、その批判をパロディとして展開している。

たとえば「一人の時も咳の仕方が大袈裟だ 翼」は、尾崎放 哉の「せきをしてもひとり」のナルシシズムに釘を刺す。西東三鬼の「おそるべき君等の乳房夏来る」には、「無自覚な巨乳よ初夏の風が吹く」と、時代の違いを明らかにしてみせる。

痛烈なのは、「向日葵が人間に見え斬るよりなし」。角川春樹の境涯句と言われる「向日葵や信長の首切り落とす」に対して、それはただの妄想だと切って捨てる。

さらには「萬の下駄芭蕉の弟子を名乗りたる」と、江戸の宗匠を気取る現代の伝統派の輩に一撃を見舞うのだった。

かつてカウンター・カルチャーの側にあった俳句を、翼は取り戻そうとしている。だとすれば、現代のカウンター・カルチャーにも通じていなくてはならない。翼が新宿に反骨の表現者たちの集う場所を 提供していることには、深い意図があるだろう。実際、“砂の城”では、パンクやヒップホップ、コミックス、地下アイドルといった権威に組しない者たちが、毎夜、口角沫を飛ばしながら呑んでいる。翼は句集中のあるページで、「僕達は生きるためのルールを探してる。無頼とは壊すことではない、新しいルールを作ることだ。」とも書いた。

〈パン句〉
倒れても首振つてゐる扇風機
北大路翼の墓や兼トイレ
殴りたるへこみが雪だるまの目玉
蟻はいま穴を出ましたフルチンで
「でも犯人はクーラーをつけてくれました」
銃乱射男に夏休みをやれよ
魚氷に上る原発再稼働
天皇に誂へてある片陰り


もう一つ、この句集が特異なのは、収録句数の多さだ。通常の句集が300~500句で構成されていることを考えれば、2000句 は尋常ではない。しかし水増しかといえば、そんなことはない。俳句の世界で多作多捨はよく言われることだが、膨大な数の中から編まれた 『天使の涎』はその要件を充分満たしている。

虚子の生涯20万句や、二万翁(一 昼夜で2万句を作ったという)を自称した井原西鶴と比べる術はないが、多作には多作にしかない到達力がある。出会うものすべてを俳句にしてしまおうという気概は、時として俳句と俳句ではないものの境界に肉薄する。結果、それが俳句であるかないかは、読み手と時間が答えを出すものだとしても、今回の翼の挑戦の意味はそこにある。

かつて1960~80年代に かけて活躍したミュージシャンのフランク・ザッパは、多作のアーティストとして空前絶後だった。少なくとも生涯で89枚のアルバムを出したザッパは、ロックからジャズ、クラシックにまで及ぶ音楽的興味を洗いざらい表現して、音楽の境界の拡張に貢献した。当時、ザッパは変人扱いされたり、その音楽を難解と評されたが、ザッパの影響を受けた大友良英が朝ドラ「あまちゃん」の音楽を作り出した事実は示唆に富んでいる。あの震災からわずか2年後に制作されたテレビドラマの音楽を引き受けるには、相当な覚悟が必要だったはずだ。大友の覚悟は、もしかしたら敬愛するザッパの多作の冒険心から培われたものなのかもしれない。

多作には、人々を勇気づける力がある。わかり易く言えば、翼の度を超えた多作にはある種の痛快さがあり、門外漢でも俳句を作ってみたくなる衝動に駆られるのではないかと思う。

〈めい句〉
太陽にぶん殴られてあつたけえ
二度寝して人の最期はこんなもの
ワカサギの世界を抜ける穴一つ
聖樹より冷たきものに煙草の火
電柱に嘔吐三寒四温かな


もし“砂の城”が新宿アンダーグラウンドの新しい拠点になるのなら、『天使の涎』はそのマニフェストと見ることができる。悪漢小説のようなこの句集は、新宿という思想を見事に体現している。またそれは“21世紀の新宿風土記”でもある。

多作の幸なる翼よ、才能を持て余せ!

(敬称略)




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【句集を読む】翼の童心  北大路翼『天使の涎』を読む 久谷雉

【句集を読む】
翼の童心
北大路翼『天使の涎』を読む


久谷雉



北大路翼の処女句集の題名が『天使の涎』になると聞いたとき、実に翼らしいと思った。天使の「恍惚」ではなく、その物質的な残滓である「涎」を前面に押し出すところに、翼の童心を見たような気がしたのである。新井英樹画伯による表紙は、歌舞伎町を駆け抜ける翼とおぼしき青年の姿を真正面からとらえたものであるが、その背後に広がってトンネル状に折り重なっているネオンの灯の色は、まるで春の訪れとともに一斉に咲き乱れた花々のようだ。おそらく画伯の筆が感応したのも、この童心であろう。

翼はかつて自らの作句信条として「すべての表現者に虐げられてきた悪いもの、汚いものを救い出す」ということを挙げていた(『びーぐる』第十六号)。「悪いもの、汚いもの」がしばしば、人類の歴史の本質的な要素を凝縮したかたちで映し出す鏡たり得ることは、すでに様々な場で論じられている。この鏡の世界へ分け入っていくために必要なのが、童心である。善悪や美醜の枠組みを持つ前の精神へと遡行する勇敢さである。

デリヘル嬢、ローター、魔羅、経血、陰毛、生ゴミ、ランジェリーパブ……『天使の涎』一集に顔を出す言葉たちは、一見、俳句という文芸の中では異端の位置を占めるかのように見える。しかしながら、これらの言葉を繰り出す精神は実はオーソドックスとしか言いようのないものだ。そもそも十七文字という短い音数とリズムの醸し出す記憶への定着力にしても、あるいはミニマルな詩形の中に膨大なアーカイブへの扉を設定する季語という仕掛けにしても、俳句は記憶の集積についてのこだわりが強い文芸である。そして「悪いもの、汚いもの」のごった煮の中をくぐりぬけていくこともまた、記憶や歴史の集積への旅に他ならない。それゆえなのだろうか、二千という取捨選択を敢えて放棄しているかのような収録句数であるにも関わらず、繊細な表情を見せている佳句が意外に多い。

入口と違ふ出口や九月尽

「ハプニングバー」と詞書きの添えられた句の近くにあるので、この句も情交のあとのことなのだろうか。果たしてハプニングバーという場所がどういう室内構造になっているのかは私の知るところではないが、「入口」および「出口」というフレーズには建築物のみならず、その中でもつれあう人々の肉体の記憶を喚起する作用があるのではないか。互いの肉体に開いた孔をあるときは「出口」のように、またあるときは「入口」のように探っていく。「九月」の残暑のような気だるい熱を、空間も肉体も帯びている。しかし、空間と肉体が重ね合わせられていることから生まれる抽象性が、透明感を呼び起こす。「九月」が終ったあとに吹き抜けるであろう十月の清涼な風の予感が、一度限りの肌を重ねた相手との距離感をも暗示しているようだ。

眼から乾きだしたる羽化の蟬

「眼」は潤いがあって機能する器官である。この器官の「乾き」は見ることの、あるいは肉体そのものの死の暗示に等しい。しかしながら、それが「羽化」という、生命が新たな形を得ている場で生じてしまっている。いや、新たな形を得ることそのものが、死へと一歩前に進むこと――あるいはかつての形の死――だ。そもそも蝉の成虫の一週間という寿命は、地中に潜伏していた時間の長さに比べれば一瞬でしかない。幼虫の殻を脱ぎ捨てる瞬間から、既に死の兆しがその肉体を彩っているという発見。

肛門の用途の無限吊るし柿

さて、「肛門の用途」とは何だろう。棒切れであったり、ピンポン玉であったり、ビール瓶であったり、小さな孔であるに関わらず様々なものが訓練次第で入ってしまいそうな予感がする。勿論、「吊るし柿」も。また小さな孔が大きなものを呑みこんでいく(あるいは吐き出す)という逆説的な光景は、人を観念的な境地にいざなう。しかしながら、この句の眼目は決して、肛門に柿の実を挿入するという特殊な遊戯の構図ではなかろう。むしろ、乾燥した「吊るし柿」の表面に刻まれた皺が、肛門の内部に広がっている「無限」の襞を想起させる点をこそ汲まねばならぬ。秋の冷ややかな外気にさらされて、己の内部の閉ざされた――またそれゆえに懐かしい――空間にそっくりな物体が、飄々と揺れているのだ。哄笑と恐怖が同時に溢れ出し、詠み手の童心を激しく打つ。

さて、二千句の中から僅かに三句のみを取り上げてみたが、いずれも巧みに読み手を宇宙的な感覚の中へ連れ出していく佳句である。しかしながら巧みであるゆえに、北大路翼という俳句の詠み手の童心の写し絵としては不完全な気がしてならない。巧みな句を作るといった程度でこの男を終わらせてはいけない。やはり蛮勇そのもののような句がなければ、翼の像は描けないだろう。

太陽にぶん殴られてあつたけえ
生チ○コをペロペロバレンタインデー
こんにちはスケベな花咲爺だよ
ビキニ着て股間の盛り上がりが猛虎
口髭がクワガタだつたら食べにくい


一々解釈を付す必要はなかろう。このような句を臆さず隠さず句集におさめ、混沌を生みだしてしまうところに翼の懐と業の深さを私は見る。そして、翼が根城にしている歌舞伎町の混沌の深さをもっと知りたいという思いに駆られる。広いとは言えぬ路地にひしめく黒服の男たち、肩をぶつけてしまったやくざの慇懃な詫びの口調、選挙の幟を自転車の荷台にくくりつけて挨拶に回る李小牧などといったイメージしか、私は歌舞伎町に対しては持っていない。『天使の涎』すなわち翼の童心のかたまりに触れた今、かの街に立つといかなる宇宙がその姿を現すだろうか。世の中の「さみしいこと」を棄てることも受け止めることもできぬ者こそが「不良」であると翼は定義づけているが、銀河の端に宙吊りになっている「不良」の眼で、かの街をまなざすことが私にもできるだろうか。


(注・後で翼本人から聞いたところによれば、実際は二万句ほどあったのを二千句にまで絞り込んだそうだ。)



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【句集を読む】路地裏でワルツを 北大路翼『天使の涎』を読む 倉野いち

【句集を読む】
路地裏でワルツを
北大路翼『天使の涎』を読む


倉野いち



北大路翼氏の第一句集「天使の涎」は歌舞伎町の句集だ。
ヒリヒリするような激しさと、猥雑さの中に、一冊を通してずっと寂しさが漂っている。その寂しさはノスタルジーにも似ていて、描かれているものは決して美しい風景ではないはずなのに、どうしようもなく胸がきゅんとする。

電柱に嘔吐三寒四温かな
神座で済ますアフター春の雨
焼酎に足す焼酎や閏雪
猫柳性感帯を丸出しに
さくらさくら浮気するのは逢ひたいから


ひとまず、好きな作品を5句引いた。下品だし、情けないし、でもなぜか憎めない。
作品を読み進めるうちに、北大路氏はとても純粋なのだと気付いた。それゆえに世の中の見たくない部分も、真っ直ぐに見つめてしまうのだろう。

紫陽花や自由と幸せとは違ふ
ウーロンハイたつた一人が愛せない
かき氷拷問器具のみな尖る
不眠症蛍の旧字に火が二つ


「天使の涎」を読み、私はひとつの出来事を思い出した。俳句の話ではないのだが、書かせて頂きたい。

もう随分前のことになるが、田渕という男に連れられて、歌舞伎町のキャバクラを一晩中ハシゴしたことがある。

田渕は私の友人が高田馬場のキャバクラで働いていたときのお客さんで、二度ほど一緒に飲んだことがある程度の知り合いだった。
理由は思い出せないが、どういう訳だか私はその夜、田渕と二人で歌舞伎町にいた。
そして歌舞伎町中のキャバクラを何軒も何軒もハシゴした。

好きで何軒も連れ回してるくせに、田渕はどのキャバクラでもずっと不機嫌だった。女の子が話し掛けても無視。どうにもならないので女の子たちは次々と私に名刺を渡した。
彼女たちだって私に営業したところで何の特にもならないのだが、まぁ仕方がないのでドレス可愛いねとか、この店は長いの?とか適当に相手をした。田渕は横でむっつりと黙り込んでいた。こんな酔い方をする奴だったのだろうかと思って、心底面倒臭かった。

「帰るね。送ってくれなくていいから。」
もはや何軒目かも分からない店を出て再び歌舞伎町の路上へ戻ったとき、私はほとんど反射的にそう言っていた。
もういい加減に疲れていたし、田渕の態度にも腹が立っていた。
私がタクシーを探し始めると、田渕は怒ったような口調で、最後に寄る店がある、いいからついて来いと言ってまた歩き出した。

最後の店はなかなか見つからなかった。ブツブツ言いながら同じ道を行ったり来たりするので私のイライラも頂点に達していた。
そして田渕はある路地の角に来たとき、「ああ!くそっ!」と突然叫んだ。

その角にあったのはキャバクラではなく花屋だった。
夜遊びをしない方にはいまいちピンと来ないかもしれないが、クラブやキャバクラで花は何かと入り用なので、繁華街には深夜でも開いている花屋があったりする。
この店もおそらくそうなのだろうが、生憎その夜はシャッターが閉まっていた。

「俺は、お前に花が買いたかったんだよ!」

私は呆気に取られながらも、そうか、これは田渕なりのデートだったのかと気が付いた。
そして同時に、こいつ本当にモテないんだな、と思った。

思い出話が長くなってしまったが、歌舞伎町とは、かっこ悪くて、人恋しくて、危なっかしいけどなぜか惹かれてしまう、そんな町だと思う。そしてそれは、句集を通して見る北大路翼という人物のイメージと、ぴったり重なって見えた。

飲みに行くとは会ひに行くこと大寒波
手袋をして手袋に触れたがる
チンピラのままの一生春の蠅





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新宿の魔窟 小笠原玉虫

【句集を読む】
新宿の魔窟

小笠原玉虫



歌舞伎町の片隅の、ごみごみとした横丁をダンジョンのように進んだ先に「砂の城」はあります。
狭くて急な階段をのぼり、句会会場の三階の部屋に入ると……。

わたしは目を見張りました。

そこは異質な空間でした。紫煙濛々たる薄暗い和室。壁の至るところにモノクロの美しいポートレートと、無数の細長い紙が貼ってあります。よく見るとこれらは全て短冊なのでした。そうです、句会で俳句をしたためる、あの短冊です。一枚につき一句。それが、数え切れないくらいに!
ここは俳句で埋め尽くされている。俳句が溢れ返っている。そんな印象を受けました。

そして決して広くはないこの部屋で、十数名の男女が笑いさざめいています。
金髪のベビーフェイスくん、毛皮・豹柄・パイソン柄など、ド派手なお洋服に身を包んだコワモテのお兄さんたち。若くて可憐な女の子、美熟女。
見た目で判断してはいけないと思いつつも、え、今から句会だよね? ほんとにみんな俳句とか詠むの? と、驚きを隠せなくなってしまいます。
ふと目を移すと、いかついお兄さんが、慣れた手つきで紙を引き裂いています。あ、これか、壁にたくさん貼ってある短冊。お兄さんは今日の句会進行役を務めて下さるそうです。彼は無言で裂き続けます。たくさんたくさん、短冊が出来上がってゆきます……。部屋の中央には、いつの間にか誰かが空き箱を設置してくれていました。

「よーし、そろそろ始めるかぁ!」
「砂の城」城主、北大路翼さんがにやりと笑います。
「ゲストだから、おがちゃん、お題出して」
突然しんとなり、皆の注目を集めてうろたえるわたし。しかしここで退いては女が廃る。
「有難うございます、それではまいりましょう、『蝋人形』、お題『蝋人形』でお願い致します!」

心地よい緊張が場を支配していきます。そして参加者全員に、どっさりと短冊が行き渡ると、進行係さんが始まりの合図をします。
「よし、こっから~時~分まで。スタート!」
さぁ屍派句会の始まりです!

紙の上にペンが走る音だけがさらさらと響きます。
わたしがその場の思い付きで出したヘンなお題だというのに、みんな速い、ビックリする程速い! 次から次へと句をしたため、我先にと空き箱に投げ込んでいきます。ま、マジかよ。焦りに焦るわたし。どう頑張っても五句以上詠める気がしません。ほかのみんなは一人十句は投げ込んでいるように見えます。ちょっと何これ。わたし即吟苦手だったんだ!
自分で気付いてなかったけど。あーん悔しい! 決めた絶対これから即吟の訓練しよ……そんなことを思いながら、ともかく数だけでも出そうとむきになって投句し続けました。

「よしっ時間。投句やめ、ストップ!」
みんなの手が止まると、進行係さんが箱を抱え、短冊を整理し始めました。このあと、無記名の句を一句一句読み上げ、みんなで感想を言い合うスタイルのようです。
「これ季語動くね。これじゃなくても良くない???」
「ああ~確かに。……そうですね、すみません」
「あとなんでここ『を』にしたの?」
えええええ! 「歌舞伎町」って聞いて、自然に思い浮かべてしまうまんまタイプの、こわぁいお兄さんたちが、めっちゃ鋭い句評をしている!!
ぽっと出のわたしなんかより、ずっとずっと勉強していらっしゃる!そして全員が、遠慮なく活発に意見を述べ合っています。あまりしゃべらないな、という人が一人もいない。矢継ぎ早の言葉の応酬はとてもスリリングで、思わず手に汗を握ります。と、言っても喧嘩腰ということではありません。全てのメンバーの頭の回転が速い感じ。ものすごくクレバーな印象を受けました。
どうしよう、これ、怖い句会だ。アウェイのわたしは思わず脂汗を浮かべます。いやもうわたし勉強不足だわ。ああ怖い、でも面白い! 何だこの魅力的な句会は……。

次の句で突然爆笑が起こりました。
「新発売蝋人形の~~(下五失念。すみません)」
「ぎゃはははは(笑)」
「上五『新発売』は天才やな! 俺も今度使おっと。 これ誰!」
「ハイッ俺です!!」
詠み人は金髪ベビーフェイスのホストくんでした。聞けばホストくんはこの日が、句会どころか俳句初チャレンジとのこと。
そうなのです。知的でスリリングな句会でありながら、誰でも参加OK。この日俳句初めての人でも存分に一緒に楽しめる。そんな句会なのです。
「次。蝋人形曲がりくねつて来たりけり」
「ぎゃーーーははははははは(笑)」
「パクリじゃん(笑)(笑)(笑)」
「来たりけりのインパクトぱねぇ!」
「よく見ればどういう状況なのかさっぱり分からん。でも何となく皆の眼に像が結ばれるね。面白い! で、誰よこれ」
「ハイッわたしです!!」
わたしは勢いよく挙手します。
「おがちゃんかよ!! 何やってんだよ! でもめちゃ面白い(笑)」
「あー笑った笑った」
自分でお題を出しておきながら何も思い付かなかったわたしでしたが、とりあえず大爆笑させることは出来たようです。ちょっとだけほっとしました。

わたしが知っている屍派句会は、こんな感じです。

今回、屍派句会レポートを書いてみてと言われて、細かく思い出していたのですが、わたしは屍派句会が大好きなんだなと改めてしみじみしてしまいました。
ああ、また砂の城に遊びにいきたくてたまらなくなってきましたよ。
次もゲスト特典で出させていただく機会があったら、どんなヘンなお題できりきり舞いさせてやろうかしら。
そんなことを思いながら、一人でそっと笑う夜なのでありました。

ちなみに、わたしが北大路翼さんからいただいた言葉で、大事にしているものは下記の三つです。
「遠慮せずに踏み込め、思い切って」
「悪ぶったりおどけたりして逃げるな」
「おがちゃん季語が身についてないね(笑) 無季の方が面白いの多いから、無理に季語使わないって方向も考えてみ?」




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【句集を読む】go into action 北大路翼『天使の涎』を読む 松本てふこ

【句集を読む】
go into action
北大路翼『天使の涎』を読む


松本てふこ


北大路翼は行動の人だな、と思う。
俳句という文芸は、必ずしも行動を必要としない。
句会に毎月出ることも、毎月結社誌に投句することも、行動ではない
(句会や吟行というシステムそのものには、行動というファクターが
かなり重要な割合を占めているように思うが、
俳句を詠む中で必ずしなければならないことではない)。
日常に簡単になじんでいくルーティンワークになりうる。
彼がtwitterに俳句を垂れ流す「行動」、
句集に二〇〇〇句も収録してしまう「行動」、
誰かの誕生日に挨拶句を贈る「行動」
(句集の中で七人の人物が祝われていた)、
誰かの死を悼む「行動」
(マニアックな人気を集めたアイドルから
ググっても特定出来ない人物まで幅広い人名が登場していた)、
歌舞伎町を活動の拠点とする「行動」、
気鋭のアーティストたちと活発に交流する「行動」。
久留島元の表現を借りて、
「行動」を「パフォーマンス」と言い換えることも出来そうだが、
北大路の場合は彼自身の生き方や価値観に
多分にパフォーマンス(『派手な振る舞い』という意味での)
的要素がちりばめられているので
彼のことを言い表す時に「パフォーマンス」という言葉を使うのは
気後れがするというか、どうにも憚られるのである。
人名が前書にかなり登場するので、
そのたびにググりながら読んでみたら、
その多くは北大路より10歳以上年下の若いアーティストだった。
北大路自身の妙に面倒見のいい気質もあるのだろうが、
若者たちの新鮮な感性に触れることで
自分が埋没してしまいそうな平凡さや既成概念から
抜け出す糸口を探り続けているのだと思った。

北大路はきっと、アパシーを前提とした日常が怖いのだろう。
毎日が退屈だなんてありえない。
毎日同じように過ぎていく日常だなんてあるわけがない。
だから俳句を「普通」(俳壇の中での常識に従って、程度の意味だが)に
発表しないし、痛飲するし、少々変わった店をやるし、
ギャンブルをやめない。

酒を飲むだけの弔ひ鳥帰る

寂しがり屋なのだと思う。
でも、あからさまに寂しがるのは好かないのだとも思う。

薔薇剪つてつくづく夜に愛さるる

自己陶酔が強烈な「つくづく」の使い方に面白さがある。

馬鹿野郎だけが花火に愛されて

最初に読んだ時は読み流してしまったが、
気持ちよくてバカバカしくて、なかなかにいとおしい句である。

肛門がよごれてゐたる猫の恋
花びらは女が拗ねてゐる熱さ


北大路の性に関する句の大半に、
私はミソジニーもホモソーシャルも感じない。
母乳をほしがる乳児のようないたいけさ、
「王様は裸だ!」と叫びたい素直さを最も感じる。
〈肛門が~〉は、その素直さの結晶であるし、
北大路のバレ句の基本路線のひとつであるとも思う。
〈花びらは~〉は、ちょっと毛色が違う。
分かったような口をききたい思春期の男子のような背伸び感、とでも
言えばいいだろうか。珍しく、少々のミソジニーを感じる。

ウーロンハイたつた一人が愛せない

「こういうことを書くやつは、
たった一人を愛したいなんて思ってもいないくせにこういうことを書くものだ」
と一読して思ったのだが、案外本当にこう思っているのかもしれない。




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【句集を読む】クズ作家 北大路翼 北大路翼『天使の涎』を読む 五十嵐筝曲

【句集を読む】
クズ作家 北大路翼
北大路翼『天使の涎』を読む

 
五十嵐筝曲



「北大路翼論を書いてくれ」という内容の、やけにあらたまったメールが北大路翼から来たのが5月の半ばくらい。「承りました」と返信したのはいいのだが、そのあいだわたしはまったく北大路翼のことなど考えていなかった。

「まわりが褒めすぎているから、ちょっと貶して書いてくれ」という本人からのお達しがあったので、勇んでボロクソに書こうかと思ったのだが、氏とは作品を通しての関わりより、呑んでダベってという関係のほうが圧倒的に長かったので、貶そうとなると北大路翼がいかにヒドい私生活を送っているのか、という暴露のようにならざるをえないことに気づいてわたしは途方にくれている。北大路翼がいかにヒドい人間かということを書きつらねれば書きつらねるほど、北大路翼の俳句はファンにとって味わい深いものになるだろう。わたしは北大路翼ファンを減らすようなけなし方をしたいし、サイテーな氏を白日の下に晒したい。ほんとにサイテーなんだってば…。

苦しい時、困ったときにwikipediaで有名人の名前を引いては、その生涯の波乱ぶり(要するにクズぶり)を見て安心するという悪癖が、わたしにはある。そんな自分がものすごく恥ずかしいが、作品よりも人生のほうがおもしろい、という作家はいるものだ。そういう作家はだいたいが作品にも生活のクズぶりがにじみ出ていて、もはや自分がその作家の作品のファンなのか、その作家の人生のファンなのかよくわからなくなってくる。わたしはそのような作家を「クズ作家」と呼んでいる。

北大路翼も今回の句集で「クズ作家」の仲間入りを果たしただろう。実際、彼は『天使の涎』のような生活をしていた。作品と人生の間で嘘はついていない。だから、安心してみなさん北大路翼をクズ作家として楽しんでほしい。クズ作家にとって人生は作品だ。クズ作家は作品のとおりに生きなければならないし、作品は生きた証でなくてはならない。
 クズになるのは簡単だがクズ作家になるのは難しい。作品として強度のあるものを作り上げるだけの力量もいるし、なにより自分の人生を俯瞰してみなければならない。それに、まずひとに興味を持ってもらわなければならない。北大路翼はこうした条件をクリアしているように思える。やっぱりクズ作家だ。

北大路翼の作品に強度があることに疑いはないだろう。しかし『天使の涎』のように、私生活をゲロのように吐露していった先にあるのは、クズ作家への道であり、作家への道ではない。北大路翼の作品のファンよりも、北大路翼の人生のファンのほうが多い、そんな作家への道しか残されていないように思える。クズ作家の人生は作品だと言ったが、それはつまり、人生が作品である以上、クズ作家はいつ断筆してもいいということだ。断筆しても、破天荒な人生が彼を作品たらしめてくれる。逆に、破天荒な生き方をやめて、まじめに書き始めたとしても、それも彼の人生という作品よりも大きなものに回収されてしまう。どう転んでもクズ作家をやり続けるしかないのだ。

北大路翼はまちがいなく俳壇最高のクズ作家だ。彼の作品よりも彼の人生のほうがもはやデカイ。近くにいたわたしにはそう思えてならない。

ウーロンハイたつた一人が愛せない  北大路翼



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【句集を読む】翼と虚子 北大路翼『天使の涎』を読む 坂井日菜

【句集を読む】
翼と虚子
北大路翼『天使の涎』を読む

坂井日菜



足下に猫をしまつて雪見上ぐ  北大路翼

『天使の涎』を読んだ人なら分かるだろう、
『天使の涎』2000句の最後を締めくくる猫と雪の句。

私は北大路翼の俳句が好きだ。
私と北大路翼が出会ったのは砂の城。
こう書いてしまうと、私が歌舞伎町で遊び歩きたまたま入ったバーが砂の城でそこで出くわしたかのように聞こえるが、断じてそうではない。
私はお酒も飲まないし歌舞伎町では遊ばない。遊んだことはない。
それは去年の春先、たった一度だけ所用があり降り立った新宿駅で紆余曲折あり不思議な人の縁で辿り着いたその先が真昼の砂の城だった。
「さあ帰ろう」そう砂の城をあとにしようとした時にふと目に飛び込んできたのが北大路翼の俳句だった。
紙いっぱいにびっしりと書かれた文字。
まずそれだけで圧倒された。
それが俳句だとわかったのは一瞬だった。
「すごい」
と思うより先に、心がすっと軽くなった。

「俳句だ…すごい」
俳句に触れたのは中学生以来だった。

「確か…俳句で同じような感覚になったことがある!」
「誰だろう、誰だったろう..」
私は片っ端から昔の代表的な俳人の句を探った。

「誰だ、いったい誰だ」
「確か、ほんとうに同じ感覚を感じた俳人がいる、いた」
「違う違う、これじゃない…」

見つかった。
それが高浜虚子だった。

遠山に日の当りたる枯野かな  高浜虚子

遠山の枯野に日の当たっている冬の穏やかな風景。
音はしない。
ただただ、遠山の枯野に日が当たっている、ただそれだけを詠んだ句。
わたしの目から入った17音が頭を一瞬で駆け巡り情報となって心に辿り着く。
何秒ではない、ほんの一瞬。
遠くの山々、音もなく静かな枯野に日が当たっている、日が沁み込んでいくような風景。
広がった景色。
ほんの一瞬、心がすっと軽くなった瞬間。

「これだ」

まったく同じであった。
北大路翼の俳句に触れた瞬間と。
北大路翼は延々とTwitterで俳句を詠み続けている。
次々と繰り出される無数の俳句。
北大路翼が歩けばそこにある景色が次々と俳句に変わる。

秋風や眼中のもの皆俳句  高浜虚子

高浜虚子が詠んだこの句のように。
目に飛び込んできたものを全て俳句にしてしまう。

花のある限り命のある限り  北大路翼
諦めぬ力たとへばチューリップ  北大路翼

いずれも春の桜、チューリップを詠んだ句。

花のある限り命のある限り
まず驚いた。
桜を美しいと言っていない。
桜に命とつけてきた。
桜の花の命、自らの命。
すごい。
「桜が綺麗、美しい」と言っていないのに、咲き誇るたくさんの桜の花が浮かんだ。
命のある限り という、力強い言葉と共に。
不思議な力だった。
俳句というとても短い詩形で、こんなにも力強さを感じたのは初めてだった。

諦めぬ力たとへばチューリップ
面白い。
「なんでチューリップなんだろう」
それよりも、そう思うよりも先に、春の太陽を浴びてまるで笑っているように咲く、自らの命を楽しむように誇らしげに咲くチューリップが見えた。
前向きさ、ひたむきな姿を強く感じた。
諦めぬ力をチューリップと例えた面白さ。
面白さだけではない、巧さ。

「高浜虚子がそこにいるみたい」
私は素直にそう思った。
私は私が感じた感覚だけを信じて、自分なりに北大路翼と高浜虚子の共通点を調ベてみたい追求したいと思った。
「この人を追わなければいけない」

翼と虚子

「たった17音に、なにが隠されているのか」

私が思う、北大路翼と高浜虚子の共通点。

そこを歩けば俳句が生まれるということ。

北大路翼はかつてTwitter上でこう発言しました。
「地味な発見を、飾らず壊さず伝達することが、僕のいふ俳句の技術である」

『天使の涎』ではまず、歌舞伎町の風景からはじまる。

おしぼりの山のおしぼり凍てにけり
春が来るすなはち春の歌舞伎町
朧夜のバー訪ねればなほ朧


ページをめくるごとに次々と現れる歌舞伎町の風景や一場面。
それはどんどん加速していく。

春の闇どこへも繋がらない通路
春の路地ひとのかたちの白い線


春の闇、春の路地の句からはなにか事件に巻き込まれてしまったような不穏な空気を感じる。

そんな歌舞伎町にも雪が降る。

大久保病院の全景が見ゆ雪の夜
ミラノ座の壁は凍える豚の色
愛再び新宿中の雪集め


大久保病院から伝わるしんと静まり返った雪の夜。
ミラノ座の壁、見たことはないけれど汚れているんだろうな。それを更に汚れた豚の色とすることで雪によるどうしよもない不毛な寒さを感じる。
愛再び新宿中の雪集め  一見すると俳句ではないような句。
愛再び  とドラマチックにはじまる。
わっと新宿中の雪が舞い上がって一カ所に集まるようなダイナミックさを感じる。
新宿に溢れる人々のドラマを雪という共通の事象を通して見ているかのようだ。
しかし、雪が出てくることで一見ダイナミックな中にも雪の結晶のような繊細さを感じる。

続いて虚子、東京、異国の地を歩く

東京
月青くかゝる極暑の夜の町
昭和11年7月19日 発行所例会。丸ビル集会室。

欧州へ
春潮や窓一杯のローリング
著飾りて馬来(マレー)女の跣足かな
春の寺パイプオルガン鳴り渡る
上海の梅雨懐しく上陸す
戻り来て瀬戸の夏海絵の如し

東京の夜を詠んでいた中でも印象的な句。
月青くで幻想的な雰囲気が伝わる。
極暑の夜の町とすることで熱帯夜だが、月青くかゝるがきいていて騒がしさはなく無数の人が消えていないような暑さの中に不思議な静寂さが漂う。
欧州。
春潮、香港出帆。
船の窓から見たであろう、窓一杯に広がるローリング。船が進むことで出来る波の軌跡。旅の始まりの力強さを感じる。
馬来(マレー)女
いよいよ国際色を感じる。
インド人女性の華やかな装いが想像され、跣足とすることで熱帯の空気感を感じさせられる。
パイプオルガン、シェイクスピア菩提寺
パイプオルガンはきっと当時では珍しかったであろう。なんの変哲のない句のように思われるがシェイクスピア菩提寺のパイプオルガンとなると、とても特別な感じがする。
パイプオルガンという言葉自体のやわらかさと春の寺がとても合っていて音色が想像出来る。
上海
長い旅も終わり間近の上海の梅雨。
日本の梅雨の季節を懐かしく思って出来たのだろう。上海にいて梅雨懐かしくとは、日本への恋しさが感じられる。
瀬戸の夏海
6月11日朝6時甲板に立ち出でて楠窓と共に朝靄深くこめたる郷里松山近くの島山を指さし語る。
とある。旅の終わり。旅の中で沢山の美しい景色を見たであろう虚子が郷里に戻りその海を絵の如しと詠んだことが印象的な句。
穏やかな朝の夏海から美しい景色と共に虚子の愛郷心も伝わる。

次に
散歩した時に目にしたであろう道に咲く花

北大路翼
あてもなく歩けば散歩母子草
芝桜ひろがるところまで日向
接骨木の花の真昼や犬は寝て


高浜虚子
犬ふぐり星のまたゝく如くなり

母子草のなんともやわらかな響きがどこか懐かしく、安心感を誘う。
あてもなく歩く先に出会うちいさな発見。
散歩してみようかな、とふと思う。
やさしさを感じられる句。
芝桜が足元に広がる。どこまでも広がる。
どこまでも日向なんだな、自分が芝桜になったみたいに春の日向にいるような暖かさを感じる句。
接骨木の花が咲いているような穏やかな昼下がり、犬も寝ている。
接骨木ニワトコのその名前がなんだかまるで少し犬の名前のような、可愛らしさがある。穏やかな昼下がり。犬と一緒に寝てしまいたい気持ちのいい時間。

高浜虚子
犬ふぐりはちいさなちいさな細かい花。
そんなちいさな花が集まりわっと咲いている。
地上に広がる青い星。
地面に咲いている花を地上にはない星と例えた可愛らしさ。
でもなにも違和感がない。
「足元にも星がありますよ、こんなにもちいさな花ですが、遠くにあるちいさな星がまたたくように咲いていますよ」
そう語りかけてくれる句。

この二人の句に共通していることこそ、
先に北大路翼が自身の俳句の技術としてあげていた
「地味な発見を、飾らず壊さず伝達すること」
です。
地味な発見を、飾らず壊さず伝達することによって、受け取り手にそのまま詠み手が見たであろう風景が伝わる。
どんなにちいさな発見でも、それを共有することによって楽しい気持ちになれる。
翼は虚子はなにげない風景を切り取り、語りかけるように俳句で見せてくれる。
自分も外に出て歩いたような、とても楽しい気持ちにさせてくれます。

次に
翼と虚子、絵にならない俳句。

北大路翼
日が眩し寒波に耐ふる葉が眩し
折るつもりなき枯れ枝の折れにけり


高浜虚子
桐一葉日当りながら落ちにけり

北大路翼
ある冬の晴れた日の一場面。暖かな冬の日差しを一身に浴びる寒さに耐えながら輝く葉。
その葉のちいさな命の輝き。
この17音は到底絵に出来ません。
寒波に耐える葉、そこへ降り注ぐ冷たい空気の中の冬の暖かな日差し。
私の住んでいるここ信州はことに雪深く、寒さに耐え雪に耐えて春を待つ一心で過ごしていた冬、とても励まされたような気持ちになりました。

17音から聞こえる、折るつもりのない枯れ枝の折れる音。
枯れ枝を真ん中に挟み、「折る」と「折れる」主体が行ったり来たりするところ。
これは絵で表そうとしても表わすことが出来ません。

高浜虚子
初秋の穏やかな日を浴びてゆっくりと落ちていく桐の葉。
その瞬間をとらえた句。
静止した文字から頭の中で展開される、ゆっくりと落ちていく桐の葉。
静止した文字から頭の中で展開される動いて見えた景色。

翼と虚子、二人に共通していることは共に絵にならない、絵にはしえない俳句を詠むということです。
冬日を浴びた葉が輝いて、そして寒さに耐えている瞬間。命の輝き。
折るつもりのない枯れ枝が折れた瞬間、その折れる音。
「折る」と「折れる」絵では説明しえない2通りの行ったり来たりする視点。
桐一葉が落ちていく、宙を上から下へと降りていくその瞬間。
動いたり、音が聞こえたりする俳句。
17音の静止した文字から繰り出される頭の中で広がる動いて見える景色。
それを感じた時の心の驚き。

客観写生

立冬の日の差してゐる滑り台  北大路翼
もの置けばそこに生れぬ秋の蔭  高浜虚子



冬日を浴びる滑り台を少し遠くから見ている
虚子
物を置けばその物の蔭が生まれる

両者そのままの風景を詠んだ句。
そっけなく見えるような句だが、誰が見ても普遍的な風景、事象を詠むことによって読み手は安らぎを得ることが出来ます。
なにも奇を衒わない、俳句の中の1つ1つの言葉に重みがない、意味を持たせようとしていない。それは俳句に無理をさせていないということに繋がる。
なにか詠んでやろうという気負いが全く感じられない。
だからこそ、安心して読める。
句の中の1語1語も、句がしんと静まり返っていることにより、その分、際立って見える。洗練されている。

表現の幅

花の雨花の狂気が地に浸みて  翼
一部分だけでも死体花の雨  翼
あてもなく歩けば散歩母子草  翼
諦めぬ力たとへばチューリップ  翼

大寒の埃の如く人死ぬる  虚子
大寒や見舞に行けば死んでをり  虚子
有るものを摘み来よ乙女若菜の日  虚子
よくころぶ髪置の子をほめにけり  虚子

花をモチーフにした翼。
人をモチーフにした虚子。


同じ「花」で明暗を表す。
花の雨ではおどろおどろしい風景を読み手に否が応でも想像させ、一転、母子草、チューリップでは道端に咲く花で連想させた健気さややさしさを表した。
同じ場所でも夜の顔があり昼の顔がある。
同じ場所なのにまったく異なる風景。
1つの「花」という共通のモチーフを通してまったく違う景色を見せてくれました。

虚子
同じ「人」で冷徹さと愛情を表す。
大寒の埃のように人が死ぬ
見舞いに行ったならばもう死んでいた
と、そっけなく、けれどもしんと静まり返ったその場の雰囲気をもそのまま詠んでしまう冷静さ。
あるものを摘んできなさい
と呼びかける虚子。
幼い髪置の子をほめる虚子。
冷徹さと愛情というよりも、あるがままを感じたままを詠む。
それが俳句の幅、冷徹さと愛情となって読み手には映り、その幅広さから面白みを感じます。

共通のモチーフを通して読み手側からは思いもよらない景色や気持ちを自在に俳句にすること。
新鮮な発見となって読み手に伝わります。

翼と虚子の挨拶句。

俳句とは景色や気持ちを詠むものと思っていた私にとって北大路翼と高浜虚子の挨拶句はとても新鮮なものに映りました。

俳句を自分だけのものにせず、自分の気持ちを俳句で相手に伝えるということ。

「お寒うございます、お暑うございます。日常の存問が即ち俳句」虚子俳話より

俳句で人に愛情を伝える。
俳句で祝福や哀悼を伝える。
それだけではない、そのやり取りを見た当事者以外の第三者も自分のことではないのに自分のことのようにとても温かな気持ちになったり、悲しみを感じられる。

私は二人の挨拶句を通して、まるで同じ温かな愛情を感じました。

ここで最初に例に出すのは高浜虚子。
小説  虹より。
結核のため29歳の若さで逝去した森田愛子に生前高浜虚子はいくつかの句を送り、そして逝去の一報を耳にした時、句を詠んだ。

虚子から愛子へ
虹立ちて忽ち君のある如し
虹消えて忽ち君の無き如し


愛子は柏翠とお母さんと共に一度小諸の虚子の元へ訪れる。
帰ってから間もなくして、愛子は病臥してしまう。

虹消えて音楽は尚続きをり
虹消えて小説は尚続きをり


小説  虹を書き続ける中で、心に愛子を思い浮かべる。
それに愛子も応える。

虹消えてすでに無けれどある如し  愛子

目には見えない虹を心と置き換えて、虹は無くとも先生と慕う虚子を想う気持ちはありますよ、ここにあります。と強く訴えかけられるような、遠く離れた三国からの愛子の想い。

死に瀕した愛子が虚子へ送った句。

虹の上に立てば小諸も鎌倉も  愛子

まるで愛子自身が虹の上に立って虹の上から小諸を鎌倉を見ているような、自らの死期を悟り、壮絶な中でもその気持ちを俳句にし、虚子に送った愛子。

虹の橋渡り交して相見舞ひ 

その虹を渡って見舞いに行きたい、
しかしこの句が愛子の元に届く一日前に愛子が亡くなってしまう。

「愛子の死を聞いた時は、私は別に悲しいとも思はなかつた。
私は愛子とは反対に、快くなつて来たのであるが、それを別にうれしいとも思はなかつた。」小説 虹より

虹の橋渡り遊ぶも意のまゝに 

その人を本当に心から慈しみ、病に立ち向かう姿を俳句で支え励ました。

元未亡人蕗の薹を齎す
夙くくれし志やな蕗の薹  虚子

青畝
聾青畝ひとり離れて花下に笑む  虚子

小諸の地、小諸の人々へ
人々に更に紫苑に名残あり  虚子

蕗の薹
虚子の元へ元未亡人が訪れ蕗の薹を齎す。
蕗の薹を届ける身近な間柄。ささやかな春の風景。
元未亡人のそのささやかな行いを志と俳句の中で表し、「志やな」とまるで語りかけるようにも表した。
なにげない日常の風景を簡潔に表し、感謝の気持ちを伝える。

青畝
花下に佇む青畝。
それをやさしくきっと青畝と同じように静かに笑みをたたえながら見つめる虚子の姿が目に浮かぶ。
虚子から青畝への愛情が句からにじみ出る。

小諸の地、小諸の人々へ
小諸の日々を想い、小諸の人々を想った句。
これで小諸の地を後にするが、「更に」とあることで、虚子の心の中で小諸で過ごしたこと、小諸の地で起きたこと、すべてが思い出となってその日々が続くような続いていくような余韻。
小諸の人々への感謝の気持ちと共に。
北大路翼『天使の涎』より

和楽の成人を祝ふ
撫子やはじめての酒はじめて酔ふ  翼

安藤克己引退
アンカツの気合の残る冬の砂  翼

悼む 鈴木詔子氏
欠場の赤き二文字や寒の雨  翼

亡き君の誕生日をFacebookが届け続ける。
生きてあれば。
月に怯える猫をかばつてゐるだらう  翼

侑季の誕辰を祝す
雪が雪宿してゐたる信濃かな  翼

くろちゃん「しずかのうみ」より
みづからの光を信じ藻の育つ  翼
泡に包まれ幾億の闇夜より  翼
命とは音と光と囁きと  翼

祝福・成人を祝う
いつも着物を着ている子だったからであろう撫子や  と始まる。
初めてのお酒に初めて酔うという二十歳の初々しい姿を思わせ、またその姿をやさしく見守る姿も浮かぶ。

讃える・引退
引退を讃えると共に「まだまだやれる」とも激励しているような力強い句。
気合の残る冬の砂と余韻を残したことによりより一層強まる。
今までの活躍を讃えるだけでなく、これからの新しい人生をも激励しているような二つの面が垣間見られる。


事故で亡くなられたボート選手への追悼句。
赤き二文字から無念さが、句全体から悲しみが伝わる。

亡き君の誕生日
亡き友達、誕生日に想いを馳せた句。
何も知らない第三者が見ても繊細な人柄やそのやさしさが伝わる句。

誕辰を祝す
一面の雪景色、名前のゆきを雪とかけた美しい句。信濃という地名が入りより一層穏やかさを感じる。

くろちゃん「しずかのうみ」
3句からとも幻想的な雰囲気を感じる。
みづからの光  健気な姿、何も知らない読み手も前向きさやひたむきさを感じられる。
幾億の闇夜  まるで夢の中にいるような追憶。泡に包まれ  によってとても癒される幻想的な句。
命とは  生命の営みを音、光、囁きで表す。最小限の表現によって、生命を表し掬う繊細さとやさしさ。

相手を想う気持ちを俳句にするということ。北大路翼の句も高浜虚子の句もどちらもさりげなく相手を想います。

さいごに
このような機会を与えてくれた北大路翼に感謝したい。
赤星水竹居が「虚子俳話録」で高浜虚子をこう語っている印象的な一文があった。
『先生は我々といっしょにたまに人の話をする時、「あの人はよく俳句に理解のある人ですよ」とか、「あの人は俳句の理解のない人ですよ」とか言って、俳句を作る人に対しても作らぬ人に対しても、また俳句の上手下手にかかわらず、俳句の理解のあるなしによって、まずその人を見ていられるように思われる。』
北大路翼は、北大路翼も、私に対して、俳句を作る作らないに関係なく、上手下手に関係なく、俳句の理解のあるなしによって、高浜虚子と同じような目線で見てくれた。
そして、翼と虚子について書くよう頼んでくれた。
全てが平等なのである。
この人は俳句を作らないから、作ったとしても下手だから、なんて目で見ていない。
ちゃんと私の考える思想に関心を持って耳を傾けてくれた。
実際、北大路翼のまわりには彼の人柄や俳句の才に憧れたくさんの人が集まってくる。
俳句を全く詠んだことのない人に対しても、わかりやすい助言をしたり、ほんの少し句をいじっただけで見違えるような句にして驚かせたり、全く垣根がないのだ。
この事実から、赤星水竹居が高浜虚子を表した文章はそのまま北大路翼に当てはまる。
なによりも北大路翼も高浜虚子も俳句を愛しているのである。
俳句への己の愛を通して広く俳句が普及するよう、人々を見る目がやさしさに満ち時には厳しく静かに愛に溢れているのだ。
それによって、北大路翼も高浜虚子も俳句を何も知らない私に俳句の楽しさを教えてくれた。
私は深く北大路翼の人となりを知らない。
けれども遠いところからだって、しっかり見えてくる景色はある。
北大路翼が俳句に向かう姿勢はどこまでも誠実だ。
私はただそれだけを見てきた。
道を歩き見たものを感じた気持ちを延々とTwitterで詠み続ける姿、すべてを俳句にしてしまう力、俳句にする力、俳句に向かう姿、地味な発見を飾らず壊さず語りかけるように伝えてくれる俳句の技術、「え?同じ人が作ったの?」と驚くほどの豊かな俳句の表現、豊かな俳句の幅、言葉を知り尽くした者の洗練された言葉の選び、自分以外の他者への愛情に溢れた、心で思い浮かべた相手に送る慈愛に満ちた挨拶句。相手に対しての喜びも悲しみも祝福も俳句で表現する力。
以上をもってして、北大路翼と高浜虚子は同じである。
北大路翼を高浜虚子よりも前にさせていただいたのは、天使の涎でも度々出てきた今まで誰も詠んだことのないような東京の雑然とした雑多な歌舞伎町の風景や、人々が見つめつつも敬遠するようなナンセンスや心の闇の部分を積極的に俳句にし、元来の俳句とはこうあるべきものというイメージを払拭させ風光明媚な俳句というものに新たなイメージを加えたこと。どんな景色でも心情でも俳句にし続けこれからも変わらず俳句の可能性を広げていこうとする姿勢、どのような時も俳句の形に忠実であり続ける姿勢。
歌舞伎町の風景を好んで詠もうが、自然の美しさや営み、人が人を想う心の機微を捉える力を同時に持ち合わせているということ。
そこに俳句の未来に希望を込めて翼と虚子とさせてもらいました。
高浜虚子は高浜虚子でしかないし、
北大路翼も北大路翼でしかないその中で、
ここまで北大路翼の中に高浜虚子を見ました。
翼と虚子。
心から敬意を表して。







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究極の自選一句 北大路翼


2015-04-05

12句作品テキスト 北大路翼 花の記憶

  花の記憶  北大路翼

なんとなく付き合つてゐる福寿草
紅梅やキスするときの身長差
温泉のタイルのぬめり辛夷咲く
遅桜お金がなくなつたら死なう
見たことがない苧環が誕生花
近づくほどにブラジャーは紫陽花だな
姫女苑ごまかしながら連れて来る
百日紅女に運転してもらふ
傷つきし猫は君かも野菊の上
葛の花小さき車窓に顔二つ
葉牡丹が特殊な性癖だとしたら
ポインセチア君の電話がやたら鳴る


12句作品 北大路翼 花の記憶

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週刊俳句 第415号 2015-4-5
北大路翼 花の記憶
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2010-11-14

指一本の遊戯 金原まさ子句集『遊戯の家』 北大路翼

指一本の遊戯  金原まさ子句集『遊戯の家』を読んで

北大路 翼


『遊戯の家』には集名どおり「遊」があふれている。
以前「街」で金原さんの自選百句について書かせてもらったときは、文学的ナルシズムを批判した。死や性を感じさせる言葉に凭れていると感じたからだ。
ところが『遊戯の家』では文学臭は薄れ、自由度が増している。今回は「臭い」がどう拡散していったかみてみたい。
いくつもの要素で句は成り立つので、分類が絶対ではないが、分り易いのでいくつかに分けて考えてみよう。

 ●

一つ目は「おちょくり」。肩の力が抜け文学的なテーゼを必要以上に背負っていない。やりすぎると俗に落ちるが対象と心理的距離感が絶妙だと思う。距離感が揺らぎを産み詩を育てる。

  論陣の口にアメリカンチェリー嵌めん
  裸寝の父は鳥葬にしてやらん
  ふと見ると額に罌粟が付いていた

  釘箱にサングラス入れたのは誰


  母はヤナギでできているという父よ

  青蜥蜴なぶるに幼児語をつかう


  サンシキスミレは悪い花だなはいコーク


二句目、だらしない格好で寝ている父を空想で鳥につつかせる。五句目、じゃあ父はウナギか。言葉遊びにしても面白い。六句目、幼児の残虐性が大人にも投影。

  目の青い天道虫は殺すべき

他にも視力に関する句があったが、ご自身で目を患ったときのことなのだろう。視力を詠んだ句群に関しては気負いがありすぎて失敗しているように思う。

 ●

次に新しい境地としては「死」の肯定がある。
以前にも「死」がメインテーマといえるほど詠まれていたが、「死」の比重が強すぎて、その裏の「生命」が見えなかった。言い換えればイメージや他人の死で自分の死ではなかったともいえるだろう。今回は「死」と仲良くなって(あんまり仲良くしすぎないで下さいね)あの世のことまで見えてくる。

  首に巻き忘れてしまう藤蔓は


  鈍行でゆく天国や囀れる


  老人の血はすっぱいと鳴く春蚊


二句目、囀りと天国の組み合わせはチープだが、鈍行がリアル。一人で死ぬんじゃなくて、みんな同じ電車に乗っているのだ。三句目、この「すっぱい」はいいなあ。初恋が甘すっぱいならこちらは渋すっぱいか。春蚊は遥かで遠き日の回想も。

 ●

そして死とくれば当然エロス。肉感的な句が多くて、こちらはまだ衰えないぞと安心。

  白板をツモると紅梅がひらく
  隣人を窺いながら盗るザクロ
  くらりくらりと童貞女だか鱏だか


  合歓の家毛深い神が出入りす

  赤いところで氷いちごは悲しんで


  生牡蠣を朝食う貴族には勝てぬ


  もぎたてを食べると木苺はにがい


パイパンにザクロにいちごに女体もさまざま。生牡蠣なんてもろでいいねぇ。しかも朝から。余談だが某出版社にいたとき書店から『強姦の丘』の注文があって、よく聞いてみたら『ごうかん』は『合歓』の読み間違いだった。

  殻ぎりぎりに肉充満す兜虫

極めつけがこの一句。隆隆たる男根の句として絶品です!!最近兜太のモノも落ち鮎らしいのでこの句を見せつけてやりたいなあ。

 ●

ラストは金原さんの真骨頂ともいうべき妄想の世界。普通は現実に身をおいて虚構を詠むのに、金原さんは虚構にいて、さりげなく指一本だけちょこんと現世に差し込む。簡単に成仏しない執念の地縛霊俳句(笑)だ。この世界は敬意をもって「嘘リアル」と呼びたい。

  バフンウニのまわり言霊がひしめくよ
  
  流氷を視ており牢屋へ入る前


  スワヒリ語もて雷を怖がれり


  たあと叫ぶ尺蠖が向き変えるとき


  衣被モグラを剥くように剥きぬ


  くちびるを噛みきるあそびプチトマト


よくこんなことを平気な顔してしゃあしゃあと詠むなあと油断していると、すっと指が一本が入ってくる。ウニのトゲ、網走のイメージ、スワヒリ語を話す黒人、シャクトリのくねり、モグラの手つき、プチトマトの食感。このリアルさはずるいなぁ。イメージだけどリアル、リアルだけどイメージ、そんなことはどうでもよくなってくる独自の世界。

 ●

そんなわけでずーっと誉めて参りましたが、金原さんの自選十句はやっぱり文学臭が匂うから認めませんよ。なんてね。
大先輩には失礼ですが、これからも「不良」同士、切磋琢磨していきましょう。
僕が百歳になるまで、あと七十年は長生きして下さいね。

(著者注・最後は私信です。帯の句が気になる人は句集を読んで下さいね。)


著者紹介
金原まさ子(きんばら・まさこ)
1911年東京生まれ。
「草苑」創刊同人、「街」同人。
句集に『冬の花』『弾語り』。

『遊戯の家』 ≫金雀枝舎
 ●

2008-05-25

10句作品テキスト 北大路翼 KING COBRA  

KING COBRA  北大路翼

 

 北大路改めPrinceK

ルピナスにされてしまつた昇り藤

 ご来店

入口で拾つたといふ蛇の衣

 誘つたり誘はれたり

鬼百合のやうなスカート足組んで

 常連のR嬢

香水でわかる財布の中身かな

 場内指名

螢袋の中を覗きに行かないか

 ドンピン

戦遥か夕焼色の飲物に

 乾杯

滝壺は何で溢れないのかな

 五月十四日はPrinceK聖誕祭

雷を除いて怖いものはなし 

 延長

枯れるまで同じ時間の時計草 

 エレチュウ

湿る夜の舌から裂けてゆく女

2007-11-11

小特集:北大路翼のすべて

小特集:北大路翼のすべて


 北大路翼自選39句「ひりひりと」 →読む

 北大路翼独占インタビュー……〔聞き手〕谷雄介 →読む

 わかば・私は翼の弟子である……佐藤文香 →読む

 はじめてのキャバクラ……谷雄介 →読む

 師匠、ではなく……宮嶋梓帆 →読む

 Yくんの師匠……モル →読む



「北大路翼自選39句『ひりひりと』」は、翼さんに「これまでの作品から自選50句と新作10句をお願いできますか」と頼んでみたところ、なぜか旧作・新作ばらばらで39句が送られてきました。きっと弟子に対する「サンキュー」というあたたかい労いの言葉なのでしょう。

「北大路翼独占インタビュー」は、10月末に新宿で行ないました。実は笑える話がもっとたくさんあったのですが、落ち着いて考えてみると、とても公共の場ではしゃべれないお話ばかり……知りたい方は僕までこっそり耳打ちしてくださいね。

その後につづく4つの文章は、「師匠・北大路翼」というテーマで、僕を含め、僕が「翼さんの弟子」と認識している人たちに原稿を依頼し、書いていただきました。しかし、文章を読んでみると翼さんを師匠だと思ってない人も若干名いるみたいで、まあ、それはそれで笑えるかなと。

第2回芝不器男俳句新人賞の贈呈式で、翼さんが「僕の弟子はどんどん偉くなっていくな」とつぶやいたこと。なんとなく印象に残っています。

本特集は以上のような構成になってます。

北大路翼の世界、お楽しみください。(谷 雄介・記)



北大路翼自選三十九句 ひりひりと

北大路翼 自選三十九句
ひ り ひ り と



蜜柑剥く一人暮らしは精子の香

童貞諸君鰭酒はおまんこだよ

ひりひりと霜降りる夜の女陰の朱

男根を吸ふ雪解けのやさしさで

乳頭を齧る氷柱のきびしさで

果ては女体無限に続く蟻の列

男は手女は足を入れ炬燵

手袋が抱いて欲しいと応へをり

蜜柑剥く風俗求人欄ちらと

友のみ知る中絶の過去卒業歌

ポインセチア仕舞ひ忘れてゐる花屋

冴返る旧居住者の鏡かな
  玲奈へ
麗奈だと思うてゐたよ春うらら

シャッターを下す真つ赤な薔薇抱へ

二回目の豊胸手術梅雨に入る

石像にゐた蚊柱がついてくる
  五月二十四日ユースケの誕生日
古池に蛙飛び込み浮いて来ず

笑茸死ぬなと言はれても困る

銛だけが実物鮫の模型の背

毛虫焼く頭の中で蝶にして

合宿のはじまる冷やしトマトかな

ラグビー部の宿舎ぼろぼろ油蝉

夕立や女に戻るアスリート

全身を触覚にしてシャワー浴ぶ

うつとりとするほど巨根夏行きぬ

求婚やぐんぐん廻る風車

西瓜大好きゆいたんはもつと好き

俳人に愛されすぎて蜻蛉死す

貧しさの寄つてたかつてゐる炬燵

香奈ちやんを思うてマリエを抱く無月

簡単に口説ける共同募金の子

超キレイの超は言ひ過ぎクリスマス

空中に新郎新婦皿に牡蠣
  最愛の佳子へ
いつまでも待つ我は造花の牛膝

饒舌の水着流行色の黒

レモン浮くモデルルームの浴室に

年惜しむユミ・ちさ・京子・麻美・かおり

情交のあとのうつぶせ除夜の鐘

雪しんしん膣のぬくさの限りなし