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2017-01-01

あとがきの冒険 ゲスト回 会える・会える・会える 安福望

あとがきの冒険 ゲスト回
会える・会える・会える


安福望


会えるときに、会えるのです。
(絵:安福望)

柳本々々「あとがきの冒険 第17回 時実新子『新子流川柳入門』のあとがき」『週刊俳句』2016年12月11日 所収)

2016-12-11

あとがきの冒険 第17回 会える・ときに・会える 時実新子『新子流川柳入門』のあとがき

あとがきの冒険 第17回
会える・ときに・会える
時実新子新子流川柳入門』のあとがき

柳本々々


以前、時実新子さんの直筆の葉書をみせていただたいことがあるのだが、そこには「人は会えるときには会えるのです」と書かれてあった。

私は家に帰るとすぐに勇気のノートにその言葉を記した。「人は会えるときには会えるのです」

時実さんが繰り返し述べていたことばに「一句一姿」というものがある。
川柳はもともと一句一姿(いっし)の立姿です。一句で立ち、すべてを語るものなのです。(時実新子「川柳と生きる」『新子流川柳入門』ネスコ、1995年)
「句」に「姿」のすべてが出るのだ、という考え方。もっと言えば、〈ことば〉から〈姿〉が立ち上がってくるということ。

まず、ことばがあって、姿が決まる。これは「人は会えるときには会えるのです」という先ほどのことば自体もそうである。いい言葉だけれど、なにが〈いい〉のか少し注意深く読んでみよう。まず「会える」が反復されている。「会える」という同じことばが二度反復されることで、〈(わたしの)会える〉が〈(あなたの)会える〉につながっていく。

しかも韻の「る」でも構造的につながっていく。「会える」の「る」はもうひとつの「会える」の「る」とつながりあい、ことばの上で共同体を育んでいく。「会える」という言葉自体が「会える」に出会い、つながりあう構造になっているのだ。

「会えるときには会える」は、まず言葉の構造のなかで〈出会え〉ている。だから、わたしたちは、この言葉を言葉として信じられる。

会えるときには会えるという感情的なメッセージ性を支えているのは実はクールな言葉の構造に裏打ちされているのだ。そしてその両方が揃ってはじめて言説の強度が成立する。

ちょっと時実さんの句を引用してみよう。

  目の前に水晶玉がある逢える  時実新子

  何だ何だと大きな月が昇りくる  〃

  菜の花菜の花子供でも産もうかな  〃

  女が女を見ているとさみしいね  〃

ここにあるのはメッセージ性を支える言語構造、韻による補強である。繰り返される「る」・「だ」・「な」・「み」。新子句はメッセージ性《だけ》をとらえられがちだが、それよりもまして、そのメッセージ性を支える《韻の技術》がある。

新子さんの川柳にとって《韻》とはなんだろう。それは一貫性としての意志なのではないかとおもう。葉書の文言もそうだが、反復されることにより、そこにはじめて語り手の主体と意志がたちあらわれる。姿、が。

ことばから姿がたちあがるとはそういうことなのではないかと思う。韻というシスマティックな言語技術によりながらも、しかしそこをふりきれてあるメッセージ性の同時成立。

あとがきを引用して終わる。
まず私は、「あなた」に向かって一対一でお話しました。私があなたの目から目を外らさなかったように、あなたも私の目を見て熱心に聞いてくださいました。……それがあなたの川柳です。
(時実新子「あとがき」『新子流川柳入門』ネスコ、1995年 所収)



2016-11-20

あとがきの冒険 第15回 まる・四角・小鳥 『Senryu So 時実新子2013』のあとがき 柳本々々

あとがきの冒険 第15回
まる・四角・小鳥
Senryu So 時実新子2013』のあとがき

柳本々々


時実新子さんの『有夫恋』を読んでいたわたしが、〈わたし〉というコアをめぐる新子さんの川柳に対する見方が変わったのが、石川街子さん・妹尾凛さん・八上桐子さん発行の『Senryu So 時実新子2013』によってだった。

この小冊子には後記として「私たちが欲した新子70句」と記されてあり、この小冊子が「私たち」の視点から編まれた新子アンソロジーであることがわかるようになっている。それはたぶん「あなたちが欲した新子」句とも対をなしているはずだ。

「あなたたちが欲した新子」句は〈そう〉だったかもしれないけれど、「私たちが欲した新子」句は〈こう〉だったんだよ、と。でなければ、アンソロジーの意味なんてないのかもしれない。アンソロジーはある意味、それまでの固定されたイメージを編み直すことによって断ち切るものでもあるはずだ。

私がこのアンソロジーで新しい視点を感じたのが〈形〉への視線だった。ちょっと引用してみよう。

  たましいのかたちとわれてまるくかく  時実新子

  月を四角と言い張る涙こぼしつつ  〃

  それも百体 人形が目をひらく  〃

これらの新子句で注目してみたいのは、「たましいのかたち」の「まる」や「月」の「四角」、「百体」の「人形」の「形」である。

「まる」や「四角」や「人形」という形を導入することによってまず普遍的なイメージをそこに配置している。これは〈みんなのかたち〉と言ってもいい。ところがそこに〈みんなのかたち〉を導入しながら新子句においては、「とわれてまるく《かく》」や「《言い張る》涙こぼしつつ」や「それ《も》」という〈意志の言葉〉を同時に配置する。

〈かたち〉という無機質なイメージに、〈わたくし〉の意志の言葉を配置すること。この〈世界〉と〈わたくし〉のすりあわせにこそ、新子句の魅力があったのだと思うのだ。

新子さんの句集に『有夫恋』があるが、これは明らかに、新子さんの伝記的事実を参照したくなるようなタイトルである。夫がありながら恋をする身の上とはどのようなものなのか、その心情とは、そして新子さんの人生とは。

それはそれでいいとも思うのだが、ただ新子句にはそうした伝記的事実を参照するだけでは汲み取れない、独特の言葉の配置なり構造がある。その言葉の構造から新しい時実新子像が描けないか。

そんなことを私はこのアンソロジーから「問いつめられ」たように、思うのだ。アンソロジーとは、あなたが「小鳥になるまでの過程」を「問いつめ」るものかもしれない。アンソロジーを読んでいるあなた自身も、また、編み直されるのだ。

  問いつめられて小鳥になるまでの過程  時実新子

(『Senryu So 時実新子2013』石川街子・妹尾凛・八上桐子、2013年 所収)