あとがきの冒険 第15回
まる・四角・小鳥
『Senryu So 時実新子2013』のあとがき
柳本々々
まる・四角・小鳥
『Senryu So 時実新子2013』のあとがき
柳本々々
時実新子さんの『有夫恋』を読んでいたわたしが、〈わたし〉というコアをめぐる新子さんの川柳に対する見方が変わったのが、石川街子さん・妹尾凛さん・八上桐子さん発行の『Senryu So 時実新子2013』によってだった。
この小冊子には後記として「私たちが欲した新子70句」と記されてあり、この小冊子が「私たち」の視点から編まれた新子アンソロジーであることがわかるようになっている。それはたぶん「あなたちが欲した新子」句とも対をなしているはずだ。
「あなたたちが欲した新子」句は〈そう〉だったかもしれないけれど、「私たちが欲した新子」句は〈こう〉だったんだよ、と。でなければ、アンソロジーの意味なんてないのかもしれない。アンソロジーはある意味、それまでの固定されたイメージを編み直すことによって断ち切るものでもあるはずだ。
私がこのアンソロジーで新しい視点を感じたのが〈形〉への視線だった。ちょっと引用してみよう。
たましいのかたちとわれてまるくかく 時実新子
月を四角と言い張る涙こぼしつつ 〃
それも百体 人形が目をひらく 〃
これらの新子句で注目してみたいのは、「たましいのかたち」の「まる」や「月」の「四角」、「百体」の「人形」の「形」である。
「まる」や「四角」や「人形」という形を導入することによってまず普遍的なイメージをそこに配置している。これは〈みんなのかたち〉と言ってもいい。ところがそこに〈みんなのかたち〉を導入しながら新子句においては、「とわれてまるく《かく》」や「《言い張る》涙こぼしつつ」や「それ《も》」という〈意志の言葉〉を同時に配置する。
〈かたち〉という無機質なイメージに、〈わたくし〉の意志の言葉を配置すること。この〈世界〉と〈わたくし〉のすりあわせにこそ、新子句の魅力があったのだと思うのだ。
新子さんの句集に『有夫恋』があるが、これは明らかに、新子さんの伝記的事実を参照したくなるようなタイトルである。夫がありながら恋をする身の上とはどのようなものなのか、その心情とは、そして新子さんの人生とは。
それはそれでいいとも思うのだが、ただ新子句にはそうした伝記的事実を参照するだけでは汲み取れない、独特の言葉の配置なり構造がある。その言葉の構造から新しい時実新子像が描けないか。
そんなことを私はこのアンソロジーから「問いつめられ」たように、思うのだ。アンソロジーとは、あなたが「小鳥になるまでの過程」を「問いつめ」るものかもしれない。アンソロジーを読んでいるあなた自身も、また、編み直されるのだ。
問いつめられて小鳥になるまでの過程 時実新子
(『Senryu So 時実新子2013』石川街子・妹尾凛・八上桐子、2013年 所収)
0 comments:
コメントを投稿