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2020-03-29

【歩けば異界】⑪ 神泉(しんせん) 柴田千晶

【歩けば異界】⑪
神泉(しんせん)

柴田千晶

初出:『俳壇』2017年2月号「地名を歩く」
掲載にあたり一部変更したところがあります。

神の泉という美しい名前を持つこの町は、渋谷区の中西部に位置する。かつては神泉谷と呼ばれ、泉が湧いたという。神泉駅に降り立つと、どこか昏い処で湧いている水の気配がする。
水がゆれて
浮かびあがる古い人体図
女の體内が
月にひらかれ
肉の
血の
骨の
昏さを夜に晒している
(「空室」〔*〕より)
1997年3月、神泉駅からほど近い木造2階建アパートの空室で、39歳の女性の遺体が発見された。

女性は東京電力に勤めるエリートOL。仕事帰りに渋谷へ立ち寄り、売春行為をしていた。

女性は109の化粧室で、ロングヘアーのウィッグをつけ、瞼に青いシャドーを塗り、円山町の一隅にある道玄坂地蔵の前で客を引いていた。一日に4人の客をとるというノルマを自らに課して。

当時、私はこの事件に強く惹き付けられ、彼女が毎晩そこに立っていたという道玄坂地蔵を見るために、神泉駅から円山町の界隈を歩いてみた。

神泉駅近くのローソン……事件現場の喜寿荘……その裏の階段を上ると円山町に出る。
その昔、荒木山と呼ばれた円山町は、現在も小高い丘になっている。傾斜のある入り組んだ路地を登り、ホテルペリカン…フェンシング練習場…地蔵尊、地蔵尊と唱えながら、真昼のホテル街へ迷い込んでゆく。

書割めいた路地をゆくと、道端で仏花を売る老女、若いカップル、葱を提げた母親と子ども、郵便配達員のバイクなどとすれ違う。料亭とラブホテルが並ぶ円山町の何処かに道玄坂地蔵はあるはずだ。

円山町はまるで異界だ。

彼女が立っていた道玄坂地蔵にどうしても辿り着けない。またホテルペリカンに戻ってきてしまう。

しだいに方向感覚を失ってゆき、小高い四つ辻で途方に暮れていると、背後からふいに水の気配がした。ふり返るとそこに、黒く濡れたお地蔵さまが立っていた。唇に紅を引いた艶やかな姿で。
ここに立つと女はみな
同じ鍵のついた空室になる
値ぶみするような
男の視線に
まともにぶつかり
私は表札のない空室になる 
(「空室」より)
東電OL殺人事件から23年の時が流れた。

彼女はいったい誰に殺されたのか、事件の真相は未だにわからない。

円山町を下ってゆくと、長い髪の女が路上で放尿している。静かに深部を絞り出している。彼女の足首を濡らす水は、書割のような路地を流れ、谷底の町、神泉まで続いている。
喜寿荘101号室に、彼女はまだ居る。

殺されたままの姿で。

彼女の深部から、昏い泉が渾々と湧いている。

 黄泉に来てまだ髪梳くは寂しけれ 中村苑子



記憶の中の道玄坂地蔵は、肌が黒く滑らかで濡れているように見えたのだが、2009年6月、再訪した円山町で私が見た道玄坂地蔵は、写真のようにグレーで、人間らしい顔つきをしていた。私が見た漆黒のお地蔵さまは何だったのか。

芝居の書割めいた円山町の路地も、ごくありふれた路地に変わっていて、なぜだろう、とても寂しい。



〔*〕柴田千晶詩集『空室』2000年10月/ミッドナイトプレス


2020-02-23

【歩けば異界】⑩東扇島(ひがしおおぎしま) 柴田千晶

【歩けば異界】⑩
東扇島(ひがしおおぎしま)

柴田千晶

初出:『俳壇』2017年1月号「地名を歩く」
掲載にあたり一部変更したところがあります。

夜の海にひらいた扇が漂っている。扇は女性の象徴という説がある。だとしたら扇の字を持つこの島は、女の島なのだろうか。

川崎市川崎区東扇島は、川崎港に浮かぶ人工の島。住宅地はない。西側には火力発電所やオイルターミナルが、東側には物流倉庫や食品関係の冷蔵倉庫が立ち並んでいる。昼間は殺風景な倉庫街だが、夜になると島は、工場夜景の鑑賞スポットとなる。

島のほぼ真ん中に位置する川崎マリエン(川崎市港湾振興会館)十階の展望室からは、360度の夜景が見渡せる。

首都高湾岸線を流れる車のライトの帯、横浜ベイブリッジ、みなとみらい21地区の光、東京湾を巡るナイトクルーズの灯、羽田空港へ降りる飛行機のランディングライト。そして京浜運河を挟んだ対岸の千鳥町、浮島町の工場夜景。東燃ゼネラル石油の煙突から噴き上がる炎、フレアスタックは圧巻だ。

島は幻想的な夜景に取り囲まれている。

コンテナ埠頭に面した物流倉庫で、私は4年ほど働いたことがある。

東京近郊の様々な会社で、単発のデーター入力の仕事を続け、東京を漂流しているような日々に疲れて、どこか一つの場所で、まったく違う仕事をしてみたくなった。求人情報で見つけた倉庫での軽作業という仕事と、東扇島という地名に私は惹かれた。

冬帽の手配師蟹江敬三似  千晶

倉庫での仕事は、主に雑貨類の異物検査、袋詰め、箱詰めなどの単純作業だった。底冷えのする作業場で働いているのは女ばかり。中国や韓国、フィリピンから来た女性たちもいた。

黄色いキャップにベージュのエプロン姿の女たちが、9列の作業テーブルに2人ずつ並び、1万2000個のリップクリームの一つ一つに、プライスシールを貼ってゆく。底冷えのするフロアーには、出荷を待つ段ボール箱を積み重ねた青いパレットが幾つも並び、まるで小さな氷島が漂流しているように見えた。

寒いね、冷えるね、とつぶやく女たちも私も、当て処のない漂流物のようだった。

女たちの作業テーブルにギシギシと氷島が押し寄せてくる。そんなシーンを妄想しながら、私はイチゴ味のリップクリームに、394円のプライスシールを貼り続けた。

後方の作業テーブルからチーフの怒声がした。

また住田さんが叱られている。住田さんの眼はいつも虚ろだ。事情を抱えた女たちが辿り着いた倉庫に、バラード調のK—POPが低く流れている。

袋綴ぢのヌード踏まるる霙の夜  千晶

定時で上がり、建物の外に出ると霙が降っていた。

送迎バスが止まる駐車場に「週刊実話」の袋閉じページが散乱し、名も知らぬアイドルの肢体が霙に打たれていた。

送迎バスの前を住田さんの自転車が横切ってゆく。住田さんはひとり川崎側へ帰る。住田さんの名前はアイリーン。14年前にフィリピンから働きに来た。

風花の倉庫うつむくフィリピーナ  千晶

横浜側へ向かうマイクロバスは、首都高速湾岸線に入り、工場夜景の中をゆく。工場の光がこぼれる雪の海に浮かぶ東扇島。いくつもの扇が島を取り囲んでいる。いくつもの扇?
 いいえ、あれは女たちの顔だ。人工の島へ流れ着いた、無数の女たちの顔が、夜の海に漂っている。

2020-01-26

【歩けば異界】⑨ 黄金町(こがねちょう) 柴田千晶

【歩けば異界】⑨
黄金町(こがねちょう)

柴田千晶

初出:『俳壇』2017年12月号「地名を歩く」
掲載にあたり一部変更したところがあります。

黄金町は、京浜急行電鉄の黄金町駅から日の出町駅にかけての大岡川沿い一帯の細長い町で、大岡川の両岸の桜並木は観光名所となっている。

かつては川沿いに捺染工場が立ち、女たちが川の水で横浜スカーフを染めていたという。赤や緑のインクで染まった川面に、いつしか風俗店やラブホテルのネオンが滲むようになり、桜並木の上に、ストリップ小屋「黄金劇場」の看板が煌煌と灯っていたこともある。

黄金町駅の高架下、初黄町内会のゲートが掛かる路地には、「ちょんの間」と呼ばれる木造二階建ての小さな店が密集していた。表向きは飲食店だが店の奥や二階は売春のための小部屋となっており、最盛期には約250店舗に、千人以上の娼婦がいたという。

半間ほどの間口の店には、原色のビニールの庇が掛かり、そこに「君子」「レモン」「太陽」「水香」「桃太郎」などの屋号が同じ行書体であっさりと描かれていた。赤い照明のこぼれる間口には、ぎりぎりまで肌を露出した異国の女たちが佇み、路地に迷い込んで来る男たちに声をかけていた。

倶楽部の奥寝室在るや雪ちらつく 鈴木しづ子

まだOLをしていた頃、私は通勤電車の窓からこの風景をいつも見ていた。電車がこの辺りに差し掛かると、つと窓に身を寄せて路地を覗き込んだ。

或る夕刻、路地にいつもの女たちの姿は無く、軒並ぶ原色の庇の下に切断されたような女の脚だけがぼおっと浮かんでいた。

ぴったりと閉じられた無表情な女の脚だけが、ひっそりと闇に並んでいた。

私が惹かれる性と死の匂いが、この路地にもあった。

だが、この風景を見ることはもうできない。

2005年1月、神奈川県警による違法飲食店「バイバイ作戦」が実施され、ちょんの間は消滅し、異国の女たちも姿を消した。

今、路地には、ちょんの間を改装したカフェやアトリエが並んでいる。

明るくきれいになった高架下を歩いていると、消えてしまった路地の風景を思い出す。この喪失感は何処から来るのだろうか。

路地を抜けて大岡川に出る。

向こう岸に、赤い髪の女がひとりたたずんでいる。

くりかへす他郷の冬や髪長く    しづ子

2019-11-24

【歩けば異界】⑧ 皆野町(みなのまち) 柴田千晶

【歩けば異界】⑧
皆野町(みなのまち)

柴田千晶

初出:『俳壇』2017年11月号「地名を歩く」
掲載にあたり一部変更したところがあります。

惹かれた地名には、いつも性や死の匂いがした。これまで訪ねた地名には遊郭跡や幽婚伝説、殺人現場があった。皆野町にはいったい何があるのか。

皆野町は、埼玉県西部、秩父盆地の一画にある。町の中央を荒川が流れ、四方を城峯山、破風山、大霧山、宝登山に囲まれ、滝があり、峠があり、牧場、独立峰蓑山、ムクゲ自然公園、駒形遺跡や金崎古墳群がある。秩父音頭発祥の町、そして、金子兜太の故郷である。町内には兜太の句碑が点在している。

十年ほど前、私は皆野町を訪ねたことがある。塚越の花祭りが旅の目的で、宿「かおる鉱泉」までのバスを待つ間の短い散策だった。兜太の実家の金子医院と、駅前の寂れた景色のみが記憶に残っている。

皆野町という地名になぜ呼ばれたのか。皆、野、みなの、皆、野ざらし。ふいにそんな言葉が浮かぶ。

皆野町にも異界への入口があった。氷雨塚と呼ばれる天神塚古墳だ。氷雨塚は宝登山の山裾、荒川の左岸にある金崎古墳群の中の一つで、金崎神社の裏手にある。こんもりとした小さな丘の内部は短冊形の横穴式石室で、この穴が龍宮へ続いているという。

もう一つの異界への入口は、蓑山の山頂にある美の山公園。「関東の吉野山」と呼ばれる桜の名所で、山頂の展望台からの秩父市街地の夜景も美しい。

その展望台付近の駐車場で「男女七人集団変死事件」は起きた。

二〇〇四年十月、青いシートの掛かったワゴン車の車内で、二十代から三十代の女性三名と男性四名が練炭自殺を図った。七人の集団自殺も衝撃的だったが、彼らがインターネットを通じて知り合った、見知らぬ他人同士であったことに心がざわついた。

ネットの自殺サイトの掲示板で、心中相手を得た七人は、東京、埼玉、青森、大阪、佐賀から集まり、皆野町へ向かった。同じ日、ほぼ同時刻に横須賀市内でも二人の女性がネット心中している。

皆野、皆、野ざらし、という言葉がまた浮かぶ。

山林で、樹海で、ビルの屋上、アパートの空室で、見知らぬ男女が心中する。現代という荒野に生きがたさを抱えて生きるものは皆、すでにもう野ざらしなのだ。私も、あなたも。

 鍵束や冬の蠅死ぬ横向きに  金子兜太

2019-09-29

【歩けば異界】⑦別海(べっかい) 柴田千晶

【歩けば異界】⑦
別海(べっかい)

柴田千晶
初出:『俳壇』2017年9月号「地名を歩く」
掲載にあたり一部変更したところがあります。

広大な湿地帯に立ち枯れたトドマツの林が見える。これがトドワラか。白骨が散乱しているような風景に言葉を失う。この世の果てと呼ばれる地に立つと死がひたひたと爪先を濡らしてくる。

トドワラは北海道東部に位置する日本最大の砂嘴(さし)、野付半島の中ほど、別海町の飛び地にある。かつては原生林だったが、地盤沈下による海水浸水や海面上昇によりトドマツは枯死し始め、樹齢百年を超えるトドマツは今も腐食し続けている。しだいに風化消滅し、いずれは何もない湿原と化してしまうという。

湿原の地平線に一本離れて立つ電信柱のようなトドマツ。

あれは死んだ父かもしれない。

父は昔、北海道に小さな土地を買ったらしいのだが、その土地がどこにあるのか私は知らない。家も建てられない湿原みたいな土地を騙されて買ったのだと、母は父を詰っていたが、二人の死後にその土地の権利書が見つかることはなかった。父が買ったという幻の土地が荒涼とした風景と重なる。

別海という地名に、私はなぜ呼ばれたのか。

江戸時代、野付半島には鰊漁の番屋が六十軒ほど立ち並び、国後島への渡航拠点として幕府が設置した野付通行屋の辺りには、キラクという幻の歓楽街があったと言い伝えられている。一晩中明かりが点っていたという遊郭は、鰊漁の男たちや商人たちで賑わっていたのだろう。

呼んだのは父だろうか、それともキラクの遊女たちだろうか。

ハマナス、クロユリ、エゾカンゾウが地を這うように咲く半島に、父が買った幻の土地がきっとある。湿地帯に敷かれた竜骨に似た木道を行けば、半島の果てにキラクが蘇り、一夜限りの遊郭の赤い灯が点る。

別海は別界か——。

婚活サイトで知り合った男たちが、次々と不審な死を遂げた「首都圏連続不審死事件」の容疑者として逮捕され、死刑囚となった木嶋佳苗が育ったのも別海町だ。別海はキジカナ(木嶋佳苗)という怪物(モンスター)を生んだ町。

性と死が、白く立ち枯れたトドマツの姿をして、やがて湿原に沈んでゆく。

 野の涯へ鴉のような受話器置く  西川徹郎

2019-09-01

【歩けば異界】⑥ 七夕野 柴田千晶

【歩けば異界】⑥
七夕野(しちせきの)

柴田千晶
初出:『俳壇』2017年8月号「地名を歩く」
掲載にあたり一部変更したところがあります。

子供の頃から、ときおり夢に現れる見知らぬ男がいる。

初めて夢に現れたのは、確か七歳のときだった。

私はバスに乗っていた。買ってもらったばかりのリカちゃん人形を握りしめて、父と母の間に立っていた。しだいに車内が混み合ってきて、強引に降りようとする乗客に揉みくちゃにされ、はっと気づいた時には私の手からリカちゃんが消えていた。母に叱られながら足もとを探したけれど落ちていない。だれかが、あっと声を上げた。窓の外に、リカちゃんを手にした若い男が見えた。その男はグレーの作業服を着ていた。男は痩せていて顔色が悪く、荒木一郎に少し似ていた。

その後も、一年に一度くらいの割合で、男は私の夢に現れた。

二十三歳の夏、私は青森でその男を見かけた。

青森県五所川原市金木町川倉七夕野(しちせきの)にある「川倉賽の河原地蔵尊」の霊場で。川倉地蔵尊では、旧暦の六月二十二日から二十四日に例大祭が開かれる。私が訪ねたのも例大祭の一日だった。

地獄の入口を思わせる山門の左右には、「賽乃河原」「地蔵尊堂」と書かれた板が掛かっていた。賽の河原には、化粧を施され艶やかな着物を着せられた二千体の地蔵が祀られているという。

境内には地蔵堂と人形堂がある。大きな雛壇に地蔵が祀られている地蔵堂も圧巻であったが、人形堂は更に凄かった。ぬいぐるみや人形が祀られているその奥に、硝子ケースに納められた花嫁人形がずらりと並んでいたのだ。花嫁人形には、亡くなった人の写真が添えられていた。

津軽地方には幽婚の慣わしがある。未婚のまま死んだ子供に、死後に花嫁を迎えてやり、成仏を願う。人形は死者の花嫁だ。

と、硝子ケースの中の一枚の写真に目が止まった。私の夢にたびたび現れるあの男が、飛行服姿で写っていた。写真には「平井幸男・享年二十一」と記されていた。写真に添えられた花嫁人形の顔は、あの日私が落としたリカちゃんに似ていた。

奇妙な気分で演芸場のある広場に向かうと、舞台では股旅姿の女が、津軽じょんがら節を唄っていた。その場の賑やかな雰囲気に疲れて、演芸場の裏に廻ってみると、景色が一変した。

掘建て小屋に莚を敷き、老いたイタコが並んで口寄せをしている。老女たちの津軽弁を聞いていると、夢の男が、いいえ平井さんが、なぜ私の夢に現れるのか聞いてみたい気もした。

だが、もう帰らなければ。

死者たちの七夕野に、じょんがら節が低く流れている。

 サングラス掛くれば吾に霊界見ゆ  三好潤子



2019-07-28

【歩けば異界】⑤我老林 柴田千晶

【歩けば異界】⑤
我老林

柴田千晶
初出:『俳壇』2017年7月号「地名を歩く」
掲載にあたり一部変更したところがあります。

我老林(がろうばやし)は、山形県鶴岡市を流れる赤川西岸に位置する農村地帯。我が老いる林、という不思議な地名の由来は、川原林が訛ったとも言われているが、しっくりとこない。我老林は、私が畏敬する詩人、阿部岩夫の生地であることを思えば、もっとおどろおどろしい地名の由来があるに違いない。

阿部岩夫の自伝的な詩集『月の山』を開くと、暗く湿った庄内地方の風景が生々しく立ち上がってくる。大網、七五三掛(しめかけ)、伊勢横内、羽黒、櫛引(くしびき)、黒川、そして我老林。
月の山で
死となかよく暮らしている
人びとの姿が
ミイラになったり 悪霊になったりして
消えてゆくのがみえる
—「死の山」より—
冒頭の詩からは死の匂いが濃く漂う。この詩集には二人の母が登場する。生まれて直ぐに生き別れた実母と癩病に犯された養母。二人の母の姿が、飢えと差別と病の中で、湯殿山の即身仏に重ねられる。生と死が、性的なエネルギーを浴びて輝く。

阿部岩夫の言葉に導かれて、我老林の中に佇むと、
ある日
ミイラ寺が焼けだぁ
行者のミイラも焼けだぁ
そこで困った村の衆が
行き倒れの他所者(よそもの)を
行者のミイラにつぐった
—「死の山」より—
と唄う女のダミ声が聞こえてくる。あれは、実母の声か、養母の声か。ダミ声は赤川を遡り、湯殿山の御神体に突き当たる。女性器の形をした赤い巨岩の御神体。その割れ穴から濁った赤い水があふれている。貰い子も死児も歓声を上げながら赤川を流れてゆく。

湯殿山には即身仏への信仰がある。

「木食修行」と「土中入定」という想像を絶する修行の果てに、自らミイラとなるというのだ。

我老林とは生きながらミイラになることか。

この暗い地名から一体の即身仏が立ち上がる。

あれは阿部さんだ。ベーチェット病という難病に苦しみ、凄絶な詩をたくさん残して逝った人の姿が即身仏と重なる。
死の山の
庄内弁のミイラよ
癩の養母の死よりももっと深く死ね
化膿しかけた皮膚の悪霊に
言いようのない怖さが走る
義眼の網膜に
見えない死の粒だけが浮遊する
展けた呼吸音に
棺の釘を打つ音が流れ
おらぶ声と笑う声が
牛の背にまたがって
走っていく
—「月の山」より—
阿部さんは走っている。我老林を抜け、赤く濁った水が迸る巨岩の向こうの、死に向かって激しく走り続けている。

  幽霊画に描き足す赤子百日紅  千晶



2019-06-30

【歩けば異界】④女化 柴田千晶

【歩けば異界】④
女化

柴田千晶

初出:『俳壇』2017年6月号「地名を歩く」

女化(おなばけ)という地名に呼ばれて、桜にはまだ少し早い三月の下旬、茨城県龍ヶ崎市を訪ねた。上野駅から常磐線に乗り、佐貫駅で降りる。寂れた駅の東口には観光客らしき人の姿はなく、タクシーが一台止まっているだけ。

「女化神社まで」と告げると、「お客さん、前にも乗せたことあったね」と、運転手に言われた。

ミラーに映る男の顔に確かに見覚えがある。龍ヶ崎市には初めて来たのだけれど。男とどこで会ったのか、思い出せないうちにタクシーは走り始める。

竜ヶ崎ニュータウン、ニュータウン北竜台、ニュータウン長山……広大な田畑と田畑の間に造られた新興住宅地にモダンな家並が続いている。

タクシーは蛇沼公園の入口を通過し、雑木林沿いの脇道を走っている。女化神社までの近道だと運転手は言う。

薄暗い脇道を抜けて、広い道路を渡ると、女化神社の裏側に到着した。

料金を支払うと、運転手から名刺を渡された。

「根本忠七」という名前と、電話番号のみが記された名刺。

もしも帰り道がわからなくなったら呼んで下さいと。

女化神社は、牛久市女化町の中にある。不思議なことに所在地の住所は龍ヶ崎市馴馬で、神社の敷地だけが龍ケ崎市の飛び地になっている。

砂利道の参道を歩く。桜はまだ二分咲きだ。いくつもの鳥居を抜けた先に質素な拝殿があり、拝殿の手前には二体の狐像が祀られている。

左右の狐の足元には可愛らしい子狐がいる。

女化の狐女房譚に由来しているのだろうか。

女化伝説は、猟師に命を狙われた狐を、農夫の忠七が助け、その狐が人間の娘に化けて、忠七の妻となり、三人の子を産む。だが八年後、うっかり忠七に正体を知られてしまい、母狐は子と別れ、泣く泣く森に姿を消す、というお話。

拝殿の裏の道を北へ行くと、こんもりとした森が現れる。

母狐が逃げ込んだというその森に、女化稲荷の奥の院がある。低い鳥居を屈んでくぐる時に顔が夕映えのように明るむ。と、先ほどの運転手の名前が、女化伝説の農夫と同じ「忠七」だったことに気づく。

私はあの男にやはり会ったことがある。

地中に半分ほど埋まった鳥居の向こうで、三匹の子狐が私を見つめている。もう引き返さなければ。でも帰り道がわからない。

橅林の暗がりの向こうに、タクシーの「空車」の文字が赤く滲んでいる。

茨咲いてこんなさみしい真昼がある 三橋鷹女







2019-05-26

【歩けば異界】③ 大滝町 柴田千晶

【歩けば異界】③
大滝町

柴田千晶

初出:『俳壇』2017年5月号「地名を歩く」

柏木田、皆ヶ作、安浦。昭和の中頃辺りまで、横須賀には三つの遊里があった。最も有名なのは、山口瞳の小説『血族』に登場する柏木田遊郭だが、その前身となる遊郭が幕末の大滝町にあった。

子どもの頃、大滝町は横須賀でいちばん華やかな町だった。デパートや映画館がある町。家族で余所行きの服を着て出かける町。だが時代とともに町は寂れてゆき、緑屋が消え、丸井が消え、さいか屋大通り館が消え、4つほどあった映画館もすべて消えて、最後に残った成人映画館「金星劇場」も2012年に閉館した。

商業施設が次々と消えてゆく町で、三笠ビル商店街だけは今も賑わっている。

軍艦三笠を彷彿とさせる鉄筋コンクリート四階建ての商店街。一階は通路になっており、通り抜けができる。

この商店街には不思議な空間がある。

ドブ板通り方面から商店街に入ると、中ほどの左側にある地球堂靴店の脇に短い横道が現れる。真っ赤に塗られた通路に、てらてら光る白ペンキで「参道」とあり、硝子張りの引き戸に突き当たる。商店街の裏側は豊川山の崖。その中腹に豊川稲荷がある。硝子戸はお稲荷さんの入口になっている。

異界への扉のような硝子戸を開けると、豊川山に上る長い石段が現れる。

赤い手摺りを摑んで石段を上る。途中、生白い女の足とすれ違ったような気がした。はっとふり向くと、女の姿は見当たらず、石段の麓に白い紫陽花が揺れている。少し開いた硝子戸から、赤い参道が見えている。

百七十段を上ると、ようやく山門に辿り着く。山門をくぐり、境内から横須賀の町を一望する。

大昔、豊川山の真下はすぐ海岸線で、豊川稲荷の辺りから大きな滝が海に落ちていたという。

幕臣小栗上野介による横須賀製鉄所の建設が始まり、慶応2年に滝は埋め立てられ、翌年そこに遊郭が作られた。軍港の歴史と遊女たちの肢体が重なる。

明治21年の大火により大滝町遊郭は消滅し、遊郭は柏木田に移転した。

横須賀市史年表には、「明治22年(1889)6月、柏木田田圃を埋立てここに大滝町遊郭を移す」と、一行あるのみで、遊女たちの消息はどこにも記されていない。

滝が消えて、遊女たちが消えて、軍港だけが残った。

横須賀中央駅東口のYデッキから中央大通りを見下ろす。

山口百恵の「横須賀ストーリー」の駅メロが流れる夕闇に、ふいに怒号のような滝音がして、三笠ビル商店街の裏、豊川山の中腹に、巨大な山椒魚のような隧道が現れる。

隧道の赤い闇の向こう側に、お稲荷さんの石段を素足で上ってゆく、艶やかな遊女たちがゆらゆらと見える。

  はんざきの傷くれなゐにひらく夜   飯島晴子





2019-04-28

【歩けば異界】②渚町 柴田千晶

【歩けば異界】②
渚町

柴田千晶

初出:『俳壇』2017年4月号「地名を歩く」

熱海市内の中心部を流れる糸川。1月中旬には川べりの58本のあたみ桜が満開になる。濃い桃色の花びらは厚ぼったい。桂信子の〈春の夢あまたの橋を渡るかな〉を呟き、御成橋…新柳橋…ドラゴン橋…桜橋……と、糸川に架かる短い橋を渡り、左岸と右岸を行き来する。橋の上では大勢の観光客がカメラを構えている。目白が賑やかに飛び交う遊歩道を下れば、前方に眩しい熱海の海が見える。

この糸川の右岸は、かつての赤線地帯、中央町である。新柳橋に近い村越魚店が異界への入口。店先の発砲スチロール箱には、鮟鱇、鋸鮫、鱏、海鼠などの珍しい近海魚が並ぶ。鱏の腹に張り付いた花びら。その脇の路地をゆくと、ふいに風景がざらついて見える一画に出る。バーやスナック、居酒屋が並ぶ此処が、旧糸川カフェー街か。

花見客の喧噪もここまでは届かない。娼家を思わせる明り取りの丸窓や、煤けた壁に鷹の美しい装飾が施された建物もある。黄土色の壁の二階家に売家の札が掛かっている。ここもかつての娼家だろうか。ガス燈が角角に立つこの路地に、今も白い手に招かれた男たちが迷い込む。

売春防止法の施行により、昭和33年に赤線が廃止されると、中央町は表向きには飲食店街となり、海に近い渚町に青線が生まれた。糸川の下流を埋め尽くす落花のように、赤線の女たちもこの渚町に流れ着いたのだろう。

風俗店が目立つ渚町の本通り、ナギサ・サンロードを行けば、海岸通りへ抜ける細い路地に気づく。渚発展会の看板が立つ寂れた路地に、ちょんの間を彷彿とさせる間口の狭い飲食店が並ぶ。スナックの二階の窓に干された蒲団、質屋の軒下で寝そべる妖艶な白猫、鈴蘭の形をした街灯、ここはまだ昭和だ。

爛れたような桃色の花びらの群れが、夜の渚町に吹き寄せられ、男の肩幅ほどの路地を埋め尽くす。どこからか現れた老婆は、糸川のユリコと名乗る伝説のポン引きだ。もうこの世にはいない老婆に腕を引かれて行けば、スナックのうす昏い間口に、ポール・デルヴォーが描く裸婦に似た青白い女が、ぼうっと立っている。

  花びらのときに入りこむ蒲団部屋  桂 信子


著者撮影

2019-03-31

【歩けば異界】①新世界 柴田千晶

【歩けば異界】①
新世界

柴田千晶

初出:『俳壇』2017年3月号「地名を歩く」

大阪を舞台に女子高校生が芸能界のドンになるという漫画「女傑」の原作を書くため、取材を兼ねて、2002年の冬、通天閣のある新世界を訪ねた。

地下鉄御堂筋線動物園前で下りて、ジャンジャン横町を歩くと、串かつだるま、ホルモン道場、どて焼てんぐの看板が目に飛び込んでくる。呼び込みの声と、酔っ払いの高笑い、観光客の話し声が入り混じる真昼の商店街を、中村草田男の〈野の男外套胸より吹かれ開き〉といった風情の日雇労働者がゆらゆら歩いている。ここからあいりん地区も近い。

のんきやの関東煮の湯気の向こうで、大阪弁をまくし立てる男たち女たち。ニッカボッカ姿のたこ八郎やレオナルド熊、ズーズー弁の若水ヤエ子、清川虹子に似た老女もいる。もうみんな死んだ役者だ。

ジャンジャン横町は、飛田新地と新世界という、ふたつの異界をつないでいる。遊郭で魂を抜かれた男たちは、ジャンジャン横町をさ迷い、新世界で黄泉帰る。ここは死んだ人間が生まれ変わる地。

新世界の真ん中に、エッフェル塔に模した通天閣が立っている。HITACHIのエレベーターで、五階の展望台に上ると、幸運の神様、ビリケンがちょこんと坐っている。生まれたての赤子のように尖った頭をして。大きな口を結んだままにんまり笑うビリケンの顔は、どことなく叔父に似ている。家族を持たずに放浪し、最後は川崎の簡易宿泊所で、笑ったままの顔で死んでいた母の弟。

通天閣の地下には、地獄と呼ばれた囲碁将棋センターがあった。伝説の真剣師、大田学が一局500円で対局指導をしたという将棋の聖地。土日に開催される歌謡劇場では、通天閣を頭に乗せた歌姫、叶麗子が、「通天閣人情」を熱唱していた。

漫画「女傑」の舞台はこんな地獄がいい。廃れた大衆演劇の芝居小屋のイメージが次第に出来上がる。

通天閣から下界に戻ると、新世界はもうたっぷりと暮れていた。づぼらやの巨大なふぐ提灯が点る南本通をゆけば、ドヤ街の男たちであふれる立ち飲み屋に、ビリケンに似た叔父もいる。だれが死者で、いったいだれが生者なのか、もうわからない。串揚げの安い油の臭いが、地獄まで流れてゆく。

死相のみの幽霊はよし梅咲いて  草田男



写真:西原天気 ※今回異例。以降、著者・柴田千晶撮影の写真を掲載いたします。