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2018-11-25

【週俳10月の俳句を読む】素描:「見る」ような「読み」について 紆夜曲雪

【週俳10月の俳句を読む】
素描:「見る」ような「読み」について

紆夜曲雪


白い部屋林檎ひとくち分の旅  なつはづき「自転車で来る」

「白い部屋」、まず立方体に近い、美術館などで言うホワイトキューブに近い空間が想起される。その白さの印象が次に「林檎」の果肉に重なり、「ひとくち分の」と爽やかな甘さの印象に接続されながら、最終的に「部屋」からの離脱を告げる「旅」の一語に辿りつく。言葉は一方向に、リニアに流れてゆくという常識的な態度のもとで読めば、まずそのような読みになるだろう。あるいは、「部屋」→「そこからの離脱」という物語的時間経過のなかで読まれたこの読み以外に、「白い部屋」に滞在する時間自体が「林檎ひとくち分の旅」なのであるという、論理的なイコール関係として読む方向性もあるかもしれない。恐らく、その読みの分岐はいずれか一方に決定不可能であるのだが、こういう事態は俳句においても短歌においても、しばしば見られる。むしろ、決定不可能であることを重く見て、物語的な関係性、論理的な関係性を特に設けず、ただそのような言葉の配列としてある、という事実のみに定位して読む態度もあるかもしれない。ここでは、まず最後の読みの態度について少し考えたい。

上から下に、リニアな秩序に則って作品を読んでいったとき、「林檎ひとくち分の」と大きく修飾された「旅」の印象こそがこの作品において私に現前すべきだろう、とまず考えられるのだが、私にとってこの作品を印象づけるのは「白い部屋」の物質感の現前の方だった。一体、なぜこのような現象が起こるのか。

俳句の「読み」がリニアに、一定方向に流れてゆくということは、恐らく広く共有されうることだろう。小説や音楽と同じように、俳句もまた言葉である以上「読み」のプロセスが関わり、それは必然的に時間的経過を伴いながら現象せざるをえない、という認識である。たとえば、『プレバト!』で夏井いつきが上五まで読んだ時点では読者は「いったい何の話だろうか?」と考えるが、その次の中七を読み進めたところで謎が解ける構成になっている、というような解説をすることがあるが、これはリニアな読みの代表的な事例だ。夏井の説明はやや誇張的とはいえ、読みの現場をなるべく丁寧に説明していこうとすれば、あのような言葉の流れをひとつひとつ辿っていく説明にならざるを得ないと思う。私もまた俳句の「読み」においてリニア性、時間性がはっきりと機能していることは間違いないと思う。

だが、俳句という短い形式において、実はリニアでない「読み」の形態もありうるのではないか、とも考える。つまり、小説や音楽においては原理的に難しい「一見しておおよそのモチーフ、構図がわかる」という、「見る」に近い「読み」が、俳句にはありうるのではないかと思う。「白い部屋」「林檎ひとくち」「旅」といったモチーフがおおよそどういった系列をなしているのかが、細かな修飾関係、助詞の「を」「に」「へ」などの細かな選択――作品によってはそれこそが命となるような部分――を無視して把握されるという事態は、経験的にも受け入れられるものだろう。

絵画においてもおおよそのモチーフ、構図などが把握されたのちに、その線の方向性、マチエール、それぞれの人物の視線の交錯などが検討されうるように、空間的な把握――「見る」に近い「読み」の形態――は時間的な把握と対立するものではなく、むしろそれを基底から支えるものだ。つまり、リニアな秩序に従った、物語論的な、時間的な「読み」が成り立つとしても――絵画において、鳥が樹から飛び立った瞬間(物語的把握)を描いた絵が、依然として「樹」をモチーフとしてそのキャンバスに残し、私たちに現前させ続けるように――この「見る」という「読み」の契機を考えれば、「白い部屋」が「旅」より強い印象として現前するという事態は説明できる。物語的読みとはまた異なるところで駆動している「読み」の現場において、「白い部屋」が歴然と現前してくる、このような事態は普通に考えうる。このとき、「見る」に近い「読み」において強度を持つ部分と、リニアな「読み」において強度を持つ部分はそれぞれ別の文脈で語ることができる。直観的には、この整理がのちの議論に役立つことはあるように思える。

無論、この「見る」という「読み」が、絵画の場合とは異なって純粋な「見る」にはなりがたいということは、「白い部屋」「林檎ひとくち」「旅」といった語が「言葉」として把握されている以上、すでにそこに「読み」が介在しているということからも明らかなのだが 、俳句形式の鑑賞において、リニア=時間的な読みに先行して空間的な把握が先行する契機を認めるという態度は、特に否定される材料はないと思われる。



いま少し思弁を進めよう。「白い部屋」「林檎ひとくち」「旅」といった(あるいは「白い」「部屋」「林檎」「ひとくち」「旅」かもしれないし、単語と連語が混淆したかたちで最初に認識されるというような事態も想像はできる)、空間的把握において把握される対象を一括して「オブジェクト」と呼ぶことにする。「白い部屋」「林檎ひとくち」「旅」など各オブジェクトは、「見られた」時点では時間的に構造化されていない。しかし、この時間的な読みが介在していない、ほとんど人間の認識が届いていない状態で、オブジェクト間にどのような関係性が築かれうるのかを思考してみよう。

キャンバスの上に「白い」「部屋」「林檎」「ひとくち」「旅」などの各オブジェクトが浮遊しているような、そういうまだ人間の「読み」による構造化がなされていない状態を考える。このとき、「白い」が「林檎」にイメージの上で影響を及ぼし、あるいは「部屋」が「ひとくち」と呼応し、あるいは「旅」が「白い」と関係性を持つなど、オブジェクト間の関係性はかなりの自由度を持って、原理的に思考可能なすべての可能性がそこには含まれているものとする――「白い‐部屋」「白い‐林檎」「白い‐ひとくち」「白い‐旅」「部屋‐林檎」「部屋‐ひとくち」「部屋‐旅」その他――。助詞による修飾や時系列など諸関係の構築はこの後になされる以上、ひとまずオブジェクトのみの状態ではすべての思考可能な関係性がそこにはあるものと考えられる(これは「そう考えるのが自然だ」というわけではなく、思弁的に想定されたオブジェクトが浮かぶ空間を考えたとき、その空間をどのようなものとして想定すべきか、という問題だ)。逆に言えば、この各オブジェクトが自由に関係性を持ちうる空間に対して、時間的な読みは、助詞や修飾関係、時系列などによってそこに構造をもたらし、オブジェクトの自由な空間に亀裂を入れ、オブジェクト間の自由度を決定的に減らしてゆくものとして考えられる。時間的な読みこそが、オブジェクトのあまりに自由な状態を束縛し、私たちの言語との連続性のなかで捉えうるものまで引き下げてくれる――このように考えてみる 。

空間的な把握、「見る」ような「読み」という契機を設定することは、時間的な読みの創造性の説明にもなると同時に、日常言語では把握しきれないような感覚が、俳句を読む経験においてはたびたび生起することをオブジェクト性の残存として説明することを可能にさせる。どういうことか。

「白い部屋林檎ひとくち分の旅」の「白い部屋」と「林檎ひとくち分の旅」の間にリニアな読み、時間的な構造化が介在しえないことをここで確認しておこう。すなわち、その読みは我々の日常的な経験に従って「物語的構造化」か「論理的構造化」かの二択までは絞られるが、しかし、それ以上の構造化は、端的に助詞の不在、修飾の可能性の不在によって、果たされない。このとき、ここに生起している事態を、「オブジェクト性の残存」と呼ぶことが、上記の議論を受け入れるならば、ある程度の妥当性をもって響くだろう。ただし、そのとき残存するオブジェクト性とは、相互に影響を及ぼす相手である、存在論的に等価なオブジェクトたちが存在する空間(「見る」ような「読み」が存立させる「場」)そのものが失われた状態のものである。すなわち、もはやこの「白い部屋」は自由に他のオブジェクトと関係性を持ちうる可能性自体が失われたもので、ただオブジェクトの残滓として取り残されてあるだけの言葉だ。それはオブジェクト以下のオブジェクトで、ゆえに「オブジェクト性の残存」としてのみしか名指されえない。積極的に見出だされるオブジェクトではなく、あくまでリニアな「読み」による時間的な構造化が果たされていない限りにおいて、消極的に取り残されてある、そのような性質だ。



「白い部屋林檎ひとくち分の旅」の「白い部屋」の物質感が、その後に続く言葉が導く時間的構造化にもかかわらず、なおも私に現前してくるという事態から、ひとつ、俳句における「読み」について考えてみた。

まとめると、私たちが常識的に受け入れているリニアな秩序に従った「読み」に先行するものとして、おおよその文字や言葉を視覚的に把握する「見る」に近い「読み」がある。これは経験論的にも受け入れられることだ。次に、その「見る」に近い「読み」によって把握される文字や単語、連語など一塊のものを「オブジェクト」と呼び、「見る」に近い「読み」が保障する意味論的な空間性について大雑把に、思弁的に想定してみた。オブジェクトはリニアな秩序に従った「読み」によって種々の構造化を経る前の状態だから、オブジェクト間の関係性は、考えうる関係性のすべての可能性の束として記述される。逆に言えば、我々が常識的に行っているリニアな「読み」とは、オブジェクト間の関係性の可能性を制限し、日常言語の舞台にまでオブジェクトを連れてくることだ。その上で、リニアな「読み」、時間的な構造化に限界があるような部分においてはオブジェクト性が残存する。「白い部屋」の物質感の現前も、そのような時間的構造化以前の「強度」として思考可能だ。

空間的な把握と時間的な読み。一般的な意味での「読み」に近い、時間的な「読み」があまり機能できていないと感じられるときに、言葉の奥から覗いてくる、「何者か」の印象があることに、覚えはないだろうか。違和感なのか、何なのか、言表しがたい「何者か」。私にとって「白い部屋林檎ひとくち分の旅」もまたその「何者か」に触れるものであり、その「何者か」の正体を、大雑把にではあるがスケッチしたものが以上の文章だということになる 。



以下、その他面白いと思った作品について触れておく。

象も蝶も一頭分の涼新た  なつはづき「自転車で来る」

「象も蝶も」と語っているが、その連続性・類比性について語っているというよりは象と蝶がそれぞれ異なる存在であることを前提にした上で、「一頭」という言葉の上で重なりあえてしまう、そのことのおかしみを「涼しさ」のもとで肯定的に詠んだ句として読んだ。「涼新た」と冒頭に置いた上で、象と蝶の差異を無化しながら季語の感覚のもとに画一的に描いてしまうことも、恐らくはありえただろうが、この句はそうならず、「象一頭分の涼新た」と「蝶一頭分の涼新た」がそれぞれの個別性を涼やかに謳いあげている。

この作者は「虫時雨この横顔で会いに行く」の「虫時雨」のなかに埋没せず、「この横顔」と名指す感覚や、「くすり指」が「鵙」の鳴き声のなかでやはり輪郭を保っているような、事物と環境の間に線を引く感覚に特徴がある気がした。それゆえに「そのひとは自転車で来る豊の秋」の、稲穂の輝きが「自転車で来る」「そのひと」に直接的に媒介されているように見えるこの句は、その線を引く境界性の恍惚とした溶解を告げているようで、好ましい。

明洞てふカラオケ喫茶ゑのこ草  市川綿帽子「横浜」

明るい洞。言い得て妙だ。「明るい箱」なら朝吹亮二だが、そんな詩情はここにはない。人間がそこに潜りこんでゆく洞だ。しかしそこは明るい、ほの明るい。「洞」という一語がどうしても暗さを湛えて、「ほの」という印象を私にもたらす。しかし、その「ほの」は心地よい印象だ。「ゑのこ草」もまた私に「ほの」を印象づけさせる言葉だ。

永遠に建設中や秋暮るる  市川綿帽子「横浜」

個人的には永田耕衣の「コーヒー店永遠に在り秋の雨」を想起せざるをえないが、「永遠」という言葉の不思議さをやはり想った。「建設中」の対象はないのだが、もはや「永遠」という言葉がそこにあれば「永遠」の物質的な重さがそこにあるように感じられる。「建設中」の中身が何であるかは関係なく、「永遠」であるだけで存在論的な重みが生じてくる。そこがやはり不思議で、秋の夕暮れの不思議さに相応う。

丹波栗鳥獣戯画に拾ひけり  今井豊「いぶかしき秋」

丹波栗を鳥獣戯画のなかで拾った、という意味内容だと思う。作中主体が鳥獣戯画のなかにいるのであれば、その世界を「鳥獣戯画」としては認識できないだろう、とも思うのだが、むしろその内と外の認識の交錯こそが面白いのだと思う。「丹波栗」の具体的な地名がむしろ幻想への回路を開く言葉にもなっているようでもある。

泪してこのよならずや菊枕  今井豊「いぶかしき秋」

「鳥獣戯画」の句と同じく「このよならずや」という認識が存立する場所はやはり「このよ」でしかないはずなので、その内外が撹乱されているところが面白い。「このよならずや」のひらがな表記、「泪」が及ぼす視覚のジャック、「菊枕」の香りがもたらす感覚、「このよならずや」という「このよ」においては断定不可能なものへの疑問が、表現として成立していると感じる。

底紅や昼からともる洋燈館  中岡毅雄「底紅」

「底」という言葉の暗さからか、ルネ・マグリットの「光の帝国」(1954年)を想起した。「底」に「紅」が広がっている景、「洋燈館」の灯りが広がっている空間もまた「底」的な、暗い「昼」なのではないか、というアナロジー的な把握が働いたのだろうか。いずれにせよ昼の灯りに対して「底紅」の季語によって存在感を付与することに成功した句、とは言えるだろう。

念力の角の欠けたる新豆腐  馬場龍吉「豊の秋」

「念力」というインパクトのある語から、村上鬼城の「念力のゆるめば死ぬる大暑かな」も想起するが、こちらはすでに「角」が「欠け」てしまっている。にもかかわらず、というよりだからこそ「念力」なのだろう。「角」が「欠け」ながらも「新豆腐」であらんとし続けるためには、自らを保ちつづける「念力」ほどのパワーが必要とされるのだろう。いや、むしろ「角の欠けたる」という欠点をはっきりと見出しつつも、「新豆腐」の力を信じて疑わない凝視の力を持つ作中主体こそが「念力」を働かせている、ともいえるのかもしれないが……。



なつはづき 自転車で来る 10 読む
市川綿帽子 横浜 10 読む
今井  いぶかしき秋 10句 読む
中岡毅雄 底 紅 10句 読む
ウラハイ  馬場龍吉 豊の秋 読む

2018-07-08

10句作品 Snail's House 紆夜曲雪


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Snail's House  紆夜曲雪

涼しさの火(ひ)籠(ごも)りの眸(め)のふたつづつ

夢いまだ指にのこれる団扇かな

燕子花天のごとくに和紙破(や)れて

優曇華や空き家よりこゑある日々の

生きて会ふその風の世の籐椅子よ

ねむるゆゑをりをりを吊忍なる

睡蓮ににやんにやんとみづ湧くこゝろ

水盤とたなごころ汝をうしなひき

すれちがふたびにほたるとなりにける

蟬茸の記憶の紐やかよひあふ

2016-10-30

『近現代詩歌』と僕の好きな五句 紆夜曲雪

『近現代詩歌』と僕の好きな五句 

紆夜曲雪 


河出書房新社から池澤夏樹個人編集の日本文学全集『近現代詩歌』が刊行された。明治から現代までの詩・短歌・俳句を集めたアンソロジーで、個人編集とあるが俳句の選は小澤實が担当している(詩の選は池澤夏樹、短歌の選は穂村弘)。

こういう文学全集に俳句のアンソロジーが付されたのは一体いつ振りのことなのかと思って少し調べたところ、直近は『昭和文学全集35 昭和詩歌集』(小学館、一九九〇年)らしい。あるいは、明治以降という括りにこだわるなら『鑑賞現代日本文学33 現代俳句』(角川書店、一九九〇年)になるか。いずれにしても僕の生まれる前に刊行されたもので、当然のことながらこれらの本に関する当時の記憶はない。

だから今回、はしゃいでいる。

文学全集というもの自体、「そういうものが刊行され、インテリアとして揃える時代があった」というような認識でいた僕にとって、それはとても遠いものでもあったのだけれど、一方でブックオフに行けば一山いくらで買えるというとても身近なものでもあった。特に、よく文学全集の終わりの方に引っ付いている「現代名作集」や「評論集」、「詩歌集」は、知らない作家や作品に出会うことのできる、絶好のガイドブックだった。ジャック・デリダを知ったのは集英社の『世界の文学38 現代評論集』所収の「白けた神話」(豊崎光一訳)だったし、學藝書林の『全集・現代文学の発見』は松永延造や石上玄一郎といった作家の存在を教えてくれた。池澤夏樹の文学全集は、世界文学全集のときから、そういうなつかしい華やぎとともにやってきて、そして今年の九月末、新しい詞華集を僕たちの前に落としていった。

試みに『昭和詩歌集』と比べてみると、今回のアンソロジーの特徴が少し見えてくる。『昭和詩歌集』は千ページを超える上に三段組という、とにかく作品の量が豊富で、最初から最後まで読み通すことを想定していないような形式で編まれている。その点でいうと『近現代詩歌』の、一人五句に口語訳と鑑賞文という形式は、さらりと読み通すことができて、入門として極めて優しい。全集の一冊で、ここまで作品数を削ったアンソロジーって今まであったんだろうか。たぶん、なかったんじゃないか[]。それに、入門用だからといって選が安易なものじゃないというのも、目次を眺めていると窺われてくる。

たとえば、個人的な関心でいうと、文人俳句として夏目漱石とかじゃなく尾崎紅葉を収録したことは、子規以外の俳句近代化運動の存在を見えやすくしていると思うし、一方で、そういう運動の割を食ってしまった旧派の増田龍雨を紹介していることなんかは、大切なことだという気がする。

というわけで今回のアンソロジー、それに小澤實の選にはかなり敬意を払っているのだけれど、もちろん全てに満足するような選というのは、ありえない。前置きが長くなったが、『近現代詩歌』が「近代・現代俳句のみごとなまでの多様性を示したいと思った」としつつ、扱いきれなかった、というより扱いえなかったものの中で、個人的に好きな句を、わずか五つだけれども、その周辺に並べてみたい。そうすることで『近現代詩歌』の立ち位置もちょっとは見えてくる気がする。作者・書誌の情報などの体裁は『近現代詩歌』に倣った。 


高篤三(こう・とくぞう 一九〇一~一九四五 畑耕一門)[新興俳句 近代の抒情と下町の情緒] 
目つぶりて春を耳嚙む処女同志 (雑誌『句と評論』 一九三四年四月号) 

今でいう「百合」を詠んだ俳句ということになるだろうか。耳を噛むという行為と「処女」という言葉から性のニュアンスは感じられるが、「春の」でなく「春を」と開放感のあるフレーズになっていることで、「処女」という個人でなく、むしろそれを包み込んでいる世界ないしは空気のあり方を描こうとしているように見える。また、この少女たちは深い内省や禁忌の意識に身悶えているわけでもなさそうだ。水彩画のようなごく淡いタッチで描かれている。

高篤三が八巣篤という号だった初期の作品で、この作者の真骨頂になる少年少女や浅草を描いた作品にはまだ距離があるが、ぽっかりと青空の空いている野原のような、自省や懐疑の介在しない作風の端緒は見えている。「新鮮な野菜があつて水の秋」(同、同年十一月号)の瑞々しさも「浅草は風の中なる十三夜」(同、三七年七月号)の情緒も、恐らくは掲出句と根を同じくしている。高篤三の作品が持つ不思議ななつかしさは、稲垣足穂の『一千一秒物語』などにも少し繋がって見える。「しろきあききつねのおめんかぶれるこ」(『俳句研究』、一九三八年六月号)「桃色の日光(ひかり)の中の花祭」(同、一九三九年五月号)

高篤三は新興俳句系の雑誌出身ゆえにその括りで語られることが多いが、一方で浅草に生まれ育ち、下町の庶民文化の洗礼を受けた人でもある。その点でいうと、久保田万太郎などとの繋がりでその作品を語ることもできるかもしれない。近代的な情緒を確かな手つきで掬いとる巧緻な言語センスと、下町の情緒への志向。この両方を併せ持っていた高篤三の作品の面白さは、そのどちらの文脈にも回収しきれないものだ。 


阿部青鞋(あべ・せいあい 一九一四~一九八九)[虚の実在感] 
虹自身時間はありと思いけり (『火門集』八幡船社 一九六八年) 

高篤三が活躍した『句と評論』という雑誌は、実は渡辺白泉が当初活動していた場でもある。白泉がそこを脱退して創刊したのが『風』という雑誌で、ここで白泉、三橋敏雄、そして阿部青鞋が出会うことになる。この三人が戦時中していたという有名な(?)古俳諧研究の資料を探しているのだけれど、どの雑誌に当たればいいのかよくわからない。たぶんこの辺なんだろう。

掲出句を見てもわかるように、阿部青鞋の俳句は割と変だ。少なくとも、他にこういう作品は今でもあまり見ない。談林派俳諧の影響を指摘されていたりはするけど、三橋敏雄の「撫で殺す何をはじめの野分かな」(『眞神』)などと違って形からの影響関係は見えにくい。青鞋は古俳諧から、存在の根源に雫を落とすような、ユーモアのにじませ方を学んだ。

掲出句は、なんにせよ、虹というものが、時間というものはあるのだな、と思っているという。虹は時間が経つと消えるものだから、地上にいる人が、虹を見て時間の流れに思いを馳せるのは普通だ。けれども、この句は「虹自身」が「時間はあり」と思っているらしい。

この句、虹と時間なのに全然儚い感じがしないのが面白い。これが「時は流ると思いけり」なら少しは儚い感じも出ただろうけど、「時間はあり」、この重たい響きだ。同じ作者の「想像がそつくり一つ棄ててある」(『ひとるたま』)もそうだが、人間が考えたに過ぎないはずのものが、ずっしりとした実在感を得てそこに現れている。「虹自身」という言い方も、「虹」というぺらぺらのものに存在の重みを与える、とても強い言葉だと思う。阿部青鞋は〈虚〉のものに、手で触れられるような実在感を与えて描くことのできる俳人で、無技巧のように見えることもあるけれど、物凄い力量を持っていたのだと思う。「一生の白いかもめが飛んでくる」(『火門集』)「水鳥にどこか似てゐるくすりゆび」(『続・火門集』) 


小川双々子(おがわ・そうそうし 一九二二~二〇〇六 加藤かけい門)[中部俳句 人間存在と言語] 
風や えりえり らま さばくたに 菫 (『囁囁記』湯川書房 一九八一年) 

前述した阿部青鞋の職業は牧師だったのだが(ちなみに高篤三は生涯定職を持たなかった)、この小川双々子もクリスチャンだった。掲出句の「えりえり らま さばくたに」はイエスが十字架にかけられて最期に叫んだという言葉で、「神よ、神よ、なぜ私を捨てたまうのですか」という意味になる。風の中で菫がそう叫んでいるのかもしれないし、あるいは菫に対して誰かがそう叫んでいるのかもしれない。風の音なのかもしれない。「えりえり」は菫が風に揺れている姿の擬態語のようにも見える。四つの一字空きがきれぎれに声を攫うみたいで、あ、そういえば葛原妙子の「疾風はうたごゑを攫ふきれぎれに さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ」(『朱靈』)も聖母マリアだった。

ひらがなに開かれているのと「菫」という可憐な花のイメージのおかげで、ここに緊迫感はほとんどないのだけれども、風と菫というのどかな世界の中でイエスの最期の叫びを聴いているあたりには、同じ句集の「だけどこの子は空襲で死んだ草」のような、今は見えないが確かにそこに在った犠牲者の声を聴いてしまう、この作者の聴覚を看て取りたいようにも思う。「芒には砕けたる扉のひかりがある」も同句集。

話は変わるが、『近現代詩歌』の良かったところの一つとして、下村槐太が収録されたことは挙げられると思う(Twitterでそういう意見を見た気もする)。関西での戦後俳句を考える上で、槐太の存在は大きいものだったらしい。『近現代詩歌』では「関西前衛派」として鈴木六林男が紹介されて、代わりに関西に拠点を持っていた赤尾兜子の『渦』などは紹介されていないけれども、槐太を紹介したことで関西のシーンの多様性が窺えるようにしたんじゃないかと思う。

一方で、この小川双々子や、師に当たる加藤かけいなどが活躍していた中部地方の俳句というのが、いまだにいまいちよくわからない。関西俳句という括りが成り立つなら中部俳句の研究も同じようにあっていいと思うのだが、どうなんだろう、たぶんあるにはあるんだろうけれども。短歌の方では今年、加藤治郎が『東海のうたびと』という本を出していた。 


加藤郁乎(かとう・いくや 一九二九~二〇一二)[俳諧と前衛] 
牡丹ていっくに蕪村ずること二三片 (『牧歌メロン』仮面社 一九七〇年) 

今まで挙げた三人はどちらかというと全集で扱うには躊躇われる、収録されていたらちょっとビビるような人たちだったが、加藤郁乎は実際に収録される可能性も高かったのではないかと思う。今回のアンソロジーで採りあげられた増田龍雨も、加藤郁乎が『俳の山なみ』などでその価値を説いてきた俳人だ。

掲出句は『牧歌メロン』の諸作の中ではまだ大人しい方の言語遊戯だが、それでも一般的な俳句とはかなり異なるつくりをしている。「牡丹ていっく」はロマンティックみたいな即席の和製英語でもあるし、「牡丹で一句」と句を吟ずる場の演出でもある。造語と作句がパラレルに運動しているわけだ。蕪村の「牡丹散つて打ち重なりぬ二三片」を踏まえながら、そのパロディに留まらず、元の句が生まれる現場を言語によって再構築しているような感さえある。

加藤郁乎は吉田一穂に師事して西洋の詩法を自家薬籠中の物とした人だけれど、その詩法を俳句に応用したというよりはむしろ、俳諧という方法を現代に応用しなおすことで、新しい現代詩、新しい言語を作ってしまった。思潮社の『現代詩文庫』でも句集を中心にその詩業が編まれているのは、加藤の俳句がそのまま一つの現代詩であるという評価ゆえのものだろう。「切株やあるくぎんなんぎんのよる」(『球體感覺』) 


石部明(いしべ・あきら 一九三九~二〇一二)[現代川柳 異界のエロスとタナトス] 
さびしくて他人のお葬式へゆく (『賑やかな箱』手帳舎 一九八八年) 

インターネットという無作為に何でもかんでもを繋げてしまう真っ白な空間で育った僕たちは、いつの間にか中村富二やら石部明やらの川柳も眼にしてしまって、衝撃を受け、検索ボックスに「石部明」などと打ち込んでネット上で読めるものは一通り読んで紙に書き写してamazonや日本の古本屋で本を探したりする。そうやって享受するものは増えて、でも、俳句と川柳の距離感みたいなものは結局わからないままでいる。

この近いようで、たぶん実際遠くもない詩に、俳句はどのようにして接していけばいいのだろう。たぶん、これはこれからの話。

掲出句の「他人」は、死んでしまった人との絶対的な距離から生まれた呼称だと読んだ。死なれたらひとは圧倒的なまでに他人になってしまう。それも含めてさびしい。そういう距離を隔てた死者という「他人」に、それでもなお関係し続けようとしてしまう、それもまたさびしくて、きっとまた薄暗い路地を歩いてしまっている。「水に浮く赤い神社の赤い秘所」(『バックストローク第36号』)



[] 短詩を網羅的でなく少数だけ掲載するという方法は、浅田次郎ほか編『コレクション戦争と文学』(集英社、二〇一一―二〇一三年)や高原英理編『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』(筑摩書房、二〇一四年)などでも既に採られていたもので、今回のアンソロジーが発明したというわけではないけれども、〈全集〉が網羅性を犠牲にしているというのは凄いことのような気もする。もっとも、これは、この詞華集が持つ性質というよりは、今回の池澤夏樹版文学全集自体が持っている特徴なのかもしれない。