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2018-10-28

角川俳句賞とその時代〔後篇〕東京オリンピック前年 西澤みず季

角川俳句賞とその時代〔後篇〕東京オリンピック前年

西澤みず季
『街』第127号(2017年10月)より転載

≫承前

一九六三年(昭和三八年)翌年に開催されるアジア初の東京オリンピックに間に合わせようと、道を掘り起こし、川を埋め、新幹線を走らせ、高速道路を通し……東京全部が工事現場のようであった。この頃、中学を卒業し地方から都市部へ集団就職する子供達のために、専用の集団就職列車を運行させ、彼らは将来性もあり、安い賃金で働いてくれるということから、「金の卵」と呼ばれていた。

終戦直後から絶え間なく続く日本の高度経済成長は「東洋の奇跡」と称され、世界中から注目を浴び、日本はまさに高度成長期真只中にあった。

また一一月二三日、アメリカ通信衛星リレー第1号による日米間のテレビ初の衛星中継が行なわれた。これは翌年の東京オリンピックの放送を考慮した取り組みだった。しかしそこに映し出された映像は、テキサス州ダラスで空港から自動車パレード中の第三五代大統領J・F・ケネディが銃弾によって倒れるという衝撃的なシーンであった。

昭和三八年 第九回角川俳句賞 「聖狂院抄」

撰者 秋元不死男・大野林火・加藤楸邨・中村草田男・平畑静塔・角川源義

受賞者 大内登志子

大正一一年一一月一一日生。昭和三一年「鶴」同人。三四年発作性精神分裂症発病。しばしば作句不能に陥るも、俳句即信仰と念じ間歇泉のごとく蘇りくる平常神経の中で詠いつづける。昭和三七年初夏より三八年晩春まで一年間ザビエル聖和荘入荘。受賞作「聖狂院抄」は精神分裂症を発症し病院に入院した時の作品である。

青梅の百顆よ子欲し乳房欲し

ぼうたんに巣食ふ蛞蝓散るまで喰ふ

鶏冠黴び聖狂院の烏骨鶏

梅雨おぼろ狂女を囃す韓の唄

ねんごろに夜の黴拭ひ不治狂者

百日紅霊室も鉄めぐらせり

露の狂者禱るかたちに血をとらる

霧に吐く言葉返し来疲れたり

蜩や責具のごと餉のはこばるる

麻痺の子のごと立竦む木の実独楽

瞑れば柊にほふ懺悔椅子

鉄窓に押し割る胡桃雪催ひ

寒の菊死期の狂者に狂気なし

死にちかき唇を凍て出づ一独語

酷寒の紅梅を吻ひ狂ふなり

芝を焼く狂者の数の監視人

檻鳴らし夫放ちけり罌粟若葉

受賞後の感想で作者は、こう記している。
私には俳句以外になんにもないのです。何回か死を覚悟しながら土壇場へきて俳句への愛執がいつも私から死を遮るのです。(…)世にも人にも未練がない生ける骸の筈なのに、俳句に触れていると不思議に血が騒ぎはじめ、吐く息が生臭く鮮やかに匂い出すのです。
なんと切実な言葉であろう。

しかし今回の受賞はすんなりと決まった訳ではなかった。最終審査の段階で、「『聖狂院抄』は実をいうと、非常に訴えるものがあって惹かれているのです。私はこの一篇だけを全部の中から今年はどうしても推したいという強い気持ちを持っているんですよ。」(秋元不死男)に対して、「私はちょっとでも病的なものは芯から避ける性質があるんです。―こういう特殊なものをただ一篇推すというのは、私は不賛成なんですけどね。」(中村草田男)。「私は狂院俳句には点がきついものですから(…)欲を言えば、あまり狂者、狂人という言葉が出てくるのがどうも難じゃないですか。」(精神科医である平畑静塔)

特に中村草田男には「これを推すのは少しジャーナリスティックな気がする。僕は体質的に嫌いだから。」とまで言わしめて、最終的に再投票になり一点差で「聖狂院抄」に決定した。

どうしても「聖狂院抄」を推したいという秋元不死男の熱意がこの受賞を決めたといっても過言ではないだろう。

審査終了後に平畑静塔の「楸邨さんが来ておるとよかった。」との言葉が印象的であった。何故なら、体調不良で最終審査欠席の加藤楸邨は最初から「聖狂院抄」には一度も点をいれていなかったのだ。

その加藤楸邨が今回の角川俳句賞についての感想を述べているが、それは現代にも通ずる言葉として最後に記したいと思う。
(…)多少荒っぽくても、自分の噴涌を大切にしてゐるものを推したいと思う。表現の未熟はやがて完成を期待できよう。ただ語法上の誤は致命的なものになることを知ってほしい。今年は全体として穏やかな作が多かった。俳句のツボを心得た点では安心できるものが多かったと言ってよいのだが、もっと突き上げてくる切実さがのぞましかった。結局賞に応ずるために作るという風が自分ではその気でなくても賞向きの傾向を知らず識らずの中に生み出していて、この結果を生むのではなかろうか。若し現代俳句の代表的新人がこの程度の枠の中に入ってしまうというのではいささかさびしい。平素自分自身の切実な要請が即して生み続けたものを、結果としてここにとり上げるというような持続的工夫が主になるとよいと思うのだが。

( 了 )

2018-10-14

角川俳句賞とその時代〔中篇〕激動の一九六〇年 西澤みず季

角川俳句賞とその時代〔中篇〕激動の一九六〇年

西澤みず季

『街』第126号(2017年8月)より転載

≫承前

一九五一年に凍結された日米安保条約は、一九五七年、岸信介首相が安保改定に乗り出し、米側と話し合いがもたれ、新安保も現実味をおびた。だがやがて反対デモが活発化し、一九六〇年五月一九日には新安保条約が強行採決される。

これに反対した社会党・労働組合・学生(全学連)及び一般市民は「日米新安全保障条約」に抗議し、六月十五日、国会議事堂の周りを大規模なデモ行進をした。八千人を超える学生を動員した全学連は、機動隊と衝突しながらも国会内に突入し中庭を占拠した。この騒動で、東大生・樺美智子(二十二歳)が死亡するという痛ましい惨事が起きる。六月二十二日、六百万人を超える大規模なストや集会が行われ、同日、岸首相は責任を取り辞任を表明した。

またこの年は全国で労働組合によるストライキ、デモが行われ、その最たるものは三井鉱山の三池鉱業所の無期限ストであったと言われている。この時も参入してきた暴力団により一人が殺害されるという悲劇が起きている。

十月十二日には日本の左傾化を危惧した右翼少年山口乙矢(十七歳)が立会演説中の社会党浅沼稲次郎委員長を刺殺、翌年にはやはり左傾化に危機を覚えたメンバーによるクーデター計画・三無事件も起こっている。

折しも今、自民党の圧倒的な数による強行採決によって、数々の法案が通ってしまっている現実。安倍晋三首相は岸信介首相の孫にあたる。歴史は繰り返すということか……。

こんななか、第六回角川俳句賞が決定する。

第六回角川俳句賞「与へられたる現在に」 
撰者 石田波郷・大野林火・加藤楸邨・中村草田男・山口誓子

受賞者 磯貝碧蹄館 三十六歳(萬緑)。

碧蹄館は東京出身。豊南商業学校(現・豊南高等学校)中退。十代から川柳を村田周魚、自由律俳句を萩原蘿月に学び一九五四年から中村草田男に師事。角川俳句賞受賞後、一九六六年には「握手」で俳人協会賞受賞。一九七四年俳誌「握手」を創刊し主宰となる。二〇〇四年句集「馬頭琴」で第五回雪梁舎俳句大賞特別賞受賞。書を金子鴎亭に学び創玄展審査員を務めた。二〇一三年三月二四日肺癌のため死去。八九歳であった。

  生涯旅僧たりし亡父の墓を訪ひて
泥鰌つ子鮒つ子寺を持たざる父を愛せ

  妻、過労のために喀血し、五歳のヒデオと
  われを残し逓信病院四階に入院する。
子と見る神輿遠くの妻は安静時

南瓜煮てやろ泣く子へ父の拳やろ

  わが職は郵便配達なり
臍が源泉百日汗せむ日焼けせむ

喜雨の突端肺ごと走る郵便夫

梅酒と麦飯水が生命(いのち)のたなご見つつ

夜間飛行機子と七月の湯屋を出て

病む妻(め)に笑いを与ふわが鼻日焼の鼻

台風圏飛ばさぬ葉書飛ばさぬ帽

  手術二日、神楽坂にて菊と梨を買へり。嘗て
  日劇にて「火の鳥」を舞ひし妻なり。
飛べぬ火の鳥梨のスープを受唇に

導尿終へし妻が低声「月がきれい」

地べたで鮭焼く昨日も今日もつまづきどうし

  年賀郵便繁亡期は、母に病まれし吾子と
  遊びやる寸暇なし……
「いろはにこんぺいと」地を跳べ地が父冬日が母

賀状完配井戸から生きた水を呑む

  わが晩年はゴッホが描ける「郵便夫ルーラン」
  の如く在りたしと思う。
髭のルーラン雪の空ゆく吾は地をゆく

  妻、自宅療養をゆるされる。
郵便配るこの身が時計の時の日よ

現在(いま)も稚拙な愛なり氷菓を木の匙に 

実は選評の過程で、五人の撰者全員が採っていたのは「部落」阿部浪漫子であった。「与へられたる現在に」は加藤楸邨と山口誓子が点を入れていなかった。しかし最終段階において、「部落」は一句一句がいいから採らざるを得ない。難がない最大公約数的な作り方。この人でなくてはならんというものがない。「与へられたる現在に」は色々欠陥はあるかもしれないが、ただこの人だけのものということが、非常に強く出ている。(石田波郷)類型だけで安心しているのではなく、それを突き抜けて、自分のものでいこうという力が感じられる。(大野林火)結果、「与へられたる現在に」の受賞が決定する。

作者の受賞の言葉の中に「伝統にダッコされたり、前衛の名にオンブしたりすることは僕にはできない。根本的には、〈何よりも人間的であること〉と、〈はだかのこころ〉を磨いたものに、僕は僕流に文学本来の命脈があると思っている。日給二百八十円の臨時集配員に僕は誇りをもって任じた。妻子の活殺を預かって……」とある。いかにも激動の年にふさわしい磯貝碧蹄館の受賞と言える。

(つづく)

2018-10-07

角川俳句賞とその時代〔前篇〕 西澤みず季

角川俳句賞とその時代〔前篇〕

西澤みず季

『街』第125号(2017年6月)より転載

昭和三〇年。この年石原慎太郎が「太陽の季節」で第一回(1955年度)文學界新人賞を受賞。翌年一月には第三十四回芥川賞を受賞。(1955年下半期)その後、この小説に描かれたブルジョア階級の既成の秩序にとらわれず奔放な考え方と行動をする若者達を太陽族と称し、石原裕次郎(石原慎太郎の弟)主演で映画化されたことも相まって、一大ブームとなる。ロカビリーが流行り、電気洗濯機、電気冷蔵庫、テレビが「三種の神器」と呼ばれ、この電化製品を手に入れることが一つのステイタスであった。

敗戦から十年、日本はアメリカに追いつけとばかりに高度成長期に突入して行く。

しかしそれは一部のブルジョア階級の人々の生活であり、一般市民はまだまだ生活に困窮している人も多かったと聞く。この年第一回角川俳句賞が発表される。

第一回角川俳句賞の撰者は、石田波郷、加藤楸邨、中村草田男、松本たかし、山口誓子。
受賞作「つばな野」。受賞者は鬼頭文子三十五歳(鶴、杉所属)。

画家である夫は画業の勉強のため単身パリに渡る。作者は日本でフランス人に日本語を教えながら渡仏の日を待っていて昭和三十二年渡仏。その後離婚しフランス人男性と再婚し彼の地で亡くなる。離婚の年は定かではないが、「パリ俳句会」の主宰を務める。高学歴、インテリジェンスに溢れた女性であり、いかにも戦後らしい女性俳人の登場である。またこの時代の女性俳人のスター性について、―俳壇ジャーナリズムに騒がれるにふさわしい条件を兼備していること。ジャーナリズムは平凡なものをとりあげない―とあるが、この経歴を見る限り、少なくともスター性は充分満たされていると思われる。

雨の手にバラの實受けぬ愛天降る

夕づつに紫蘇の香のぼり愛天降る

つばな野や兎のごとく君待つも

こはれ椅子月光にあり逢はむとす

祭笛君童らにおどけつつ

初々しい愛が溢れた句。特にタイトルになっているつばな野の句は季重なりにも関わらず、兎のごとくと使ったことにより、兎のように可愛い私、寂しい私を強調している。最初の二句、天降る(あもる)という言葉の響きが美しい。

ねむらむか遠夫(つま)よおのおのの寒夜抱き

プロヴァンスに夫ありたんぽぽの絮のとぶ

夫が寝嵩夫が形の足袋無き灯消す

鳥雲やおのおのの積むしらぬ時

フランスと日本に別れて暮らす夫を恋う句。

定型に収まらない句が多く、それがかえって夫への思いの強さを感じさせ、切なくなる。寝嵩という言い方が新鮮であった。

夫が邊や繪具奔放に夏めきぬ

燕とカンヷスと今新しき

春の雪レダ畫きし夜の夫優し

五月の汗夫默し畫く牧神を

夫かなし窓側の半身(み)は凍てつ畫く

画家である夫を描いた作品。夫を見る眼が一途である。

「若々しい艶のある抒情でうたひあげられてをり、ひねくれたところが全くない。何もかもが柔軟な抒情の中に溶け込んでしまってゐて、抵抗を感じさせない善良な目で貫かれてゐる。もう一つ、この生活の中で何か乗り越えなければならないような抵抗が生まれてくるとこの作者は変貌するであろう。」(加藤楸邨)

「異常なほどの夫君へ恋情が放胆な抒情詩に一篇を輝かせている。」(中村草田男)

「多少独善的でもあり、陶酔的でもある。現在の青春性を何時まで持ち続けることができるだらうか」(松本たかし)

「俳句はただ一人の記録であってはならない。(…)この受賞を機として、俳句そのものの厳しい形象ということに心を用いひるようになってほしい。」(石田波郷)

作者はこの時三十五歳。戦争真只中に青春時代を過ごし、敗戦の惨めさ飢え、焦土と化した東京、全て体験しているはずであるにもかかわらず、俳句の中には全くそれを感じさせない。俳句とは元来そういうものなのか。唯一、

黒人霊歌ひまはり枯れつ枯れつ立つ

終戦直後の日本人の生き抜く強さがひまわりに象徴されているようで、好きな句であった。

(つづく)