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2016-12-18

【八田木枯の一句】惜しまざるものありや年惜しみけり  角谷昌子

【八田木枯の一句】
惜しまざるものありや年惜しみけり

角谷昌子


惜しまざるものありや年惜しみけり     八田木枯

「鏡」3号より。『八田木枯全句集』所収。       

木枯最晩年のこの句、この世の中に「惜しまざるものありや」との問いかけは、読者に向けられているというより、自分自身の心の奥底に呼び掛けているようでもある。下五の畳み掛けるような「年惜しみけり」は自問自答の軽やかさではなく、己の生涯を回顧した末の重量が掛かっている。だが「けり」の詠嘆は単なる感慨に終わっていない。木枯は重篤な肺の病という、逃れようのない運命を負いながら、しみじみと来し方を振り返っている。そこには悲壮感はなく、安易な諦念もなく、淡々と事実を受け入れる創作者としての立ち位置が浮かび上がる。細りゆくいのちを客観的に見つめながら、最期まで俳句を作り続けた木枯の心の灯を手囲いで守るような、こまやかな気息がある。

この句は木枯にしては、独自の個性が淡い句と言えよう。「惜しまざるものありやなし」の余韻を曳きながら、「惜しみけり」と下五にそっと置いたところに、万感の思いが籠る。

「鏡」3号の同時発表作に〈梟や父恋へば母重なり来〉〈天啓や鶴の卵はあをびかり〉〈鶴の子を見失ひたる夜汽車かな〉〈手鞠つく数のあまたをつきにけり〉など華麗な見せ場の多い句に比べると、掲句〈惜しまざるものありや年惜しみけり〉は、ふと深く吐いた息のように地味だが読者の心にしみいってくる。

木枯は延命治療を拒み、ご長女の夕刈さんに看取られ、平成24年(2012)3月19日、枯れきって最期を自宅で迎えた。亡くなる前に書いた言葉が「白扇落ちた」だった。木枯自身が「白扇」となってすうっと谿底へ落ちてゆくイメージは、寂しいがどこか華やいでいる。闇ではなく、白扇は光を返しながら、ひらひらと宙で舞い続ける。永遠の時空で舞う扇は、白く輝く。「光」を懼れ「闇」を愛した木枯は、この世を「惜しみ」ながら、泉下でも扇をかざしながら、俳句を作っているのだろうか。

2015年3月から、長きに亘って木枯俳句に毎月お付き合いいただき、ありがとうございました。鑑賞を執筆できて誠に嬉しいことでした。これがきっかけで、木枯俳句に興味を持っていただけましたら幸いです。




2016-11-13

【八田木枯の一句】信子逝く湯ざめの思ひして淡し 角谷昌子

【八田木枯の一句】
信子逝く湯ざめの思ひして淡し

角谷昌子


信子逝く湯ざめの思ひして淡し  八田木枯

第六句集『鏡騒』より。



八田木枯の師山口誓子の句集『激浪』(昭和21年)の季語分類と論評を行ったのが桂信子であった。自分の師、日野草城の許しを得て、信子は果敢にこの課題に取り組み、膨大な数の季語を分類して次々と誓子作品を鑑賞する。その仕事をまとめたのが信子の『激浪ノート』である。(『山口誓子句集激浪 付「激浪ノート」』邑書林 H11 参照)

信子は『激浪ノート』に、誓子のことを最初は作家として「尊敬するが好きにはなれな」かったと記す。ところがその印象は『激浪』を読んでひっくり返った。「平易な語句、簡単な用語」を用いた作品は、それまでとは劇的に違っていた。「自己凝視」による孤独な作家の営為によって「拡がりから深さへの転換」「自己のいのちとの格闘」がなされていると深い感動を覚えるのである。

私が木枯から『山口誓子の100句を読む』の執筆を依頼され、木枯にインタビューした際、誓子の戦中・戦後の三部作とも呼ばれる『激浪』『遠星』『晩刻』をその生涯の多くの句集の中で、最も高く評価すると言っていた。また木枯は、桂信子についてある評論家に、信子が『激浪ノート』を発表した当時、俳壇で知名度があったかと問われて、『激浪ノート』によって知られるようになったと答えている。

信子は誓子俳句を研究することによって、その文体や骨法、表現力を身につけていった。『激浪ノート』執筆が女流俳人として世に出る機会となったのだ。そんな信子の俳人としての歩みを見つめてきた木枯にとって、2004年12月16日の信子の逝去はことさら感慨深いものだったに違いない。

木枯は信子の死去に際して〈信子逝く湯ざめの思ひして淡し〉と詠んだ。誓子から多くを学び、同じ関西出身の俳人として強い共感を覚えていた信子の死去は、木枯にとって大きな喪失感となり、背筋にうすら寒さを覚える「湯冷め」の実感でもあった。

木枯は同時に〈白菜の断面桂信子の死〉とも詠んでいる。白菜を真っ二つに断ち割った「断面」の見事さに、信子の俳人としての潔い生き方を象徴させている。俳壇の流れに迎合せず、己の姿勢を貫いた一人の作家に対する最高のオマージュと言えよう。11月に生まれ、12月に逝去した信子には、寒さに鍛えられた一本の背骨があり、その生涯の支柱となっていた。

2016-10-02

【八田木枯の一句】よく澄める水のおもては痛からむ 角谷昌子

【八田木枯の一句】
よく澄める水のおもては痛からむ

角谷昌子


第六句集『鏡騒』(2010年)より。

よく澄める水のおもては痛からむ  八田木枯

秋は大気が澄んで、遠くの山々の尾根や裾まで、よく見渡すことができる。木々の紅葉が進み、葉が落ち始めて、混み合っていた梢もすっきりしてくる。林をゆっくり歩けば、強烈だった日差しも柔らかみを増し、足元まで優しく日の斑を散らすようになる。黄鶲や大瑠璃など美しい小鳥たちも姿を見せ、愛らしい声を聞かしてくれる。

今年は台風や長雨のせいで、川の水量が一気に増し、ふだんは穏やかな暮しを保っている土地を突然に襲うという悲劇が重なった。東関東大震災以来、水の恐ろしさを目の当たりにしているが、穏やかな水は、いきなり凶器に豹変して生き物すべてのいのちを断ってしまう。いのちを支える恵みの水は、唐突に「凶器」ともなるのだ。「狂気」や「悪意」を蔵した洪水という自然災害の要因でもある。

木枯の掲句〈よく澄める水のおもては痛からむ〉には、純粋過ぎるものへの労りがある。匿しておけば傷つかずにいられたのに、秘するべきところまでさらけ出したことによって、弱みを掴まれてしまう。秘匿を守り抜けなかった哀しみがひたひたと滲む。だが深く同情しながら、純粋過ぎることの無知や無防備の危うさをそっと訴えているのかもしれない。

かつてフランス語の教師に「イノサン」(英語の「イノセント」)は、「純粋無垢」のほかに「無知」「愚かさ」の意味も含まれていて、決して良いニュアンスばかりではないと言われたことがあった。『白痴』のムイシュキン公爵ばかりではなく、文学のテーマともなる「イノセント」には悲劇を引き起こす要因があるのだ。

上田五千石に〈水といふ水澄むいまをもの狂ひ〉がある。よく澄んだ水に秘められた「狂気」の感受という点で、木枯句と通い合う。光を透過して底まで見届けることができる澄んだ水は、濁っていれば見られずに済んだものまで明らかにしてしまう。その悔いや「痛み」が憎悪や「狂気」に変わる破壊力を木枯句も、さり気なく捉えているのだろうか。

水面に映るべき木々や人々の映像は見当たらず、水底には、さまざまな影が流されぬように必死で張り付いている。その上を時の流れのように、水は無関心に過ぎ行くばかり。流れの強さにこらえ切れなかった影たちが水に巻き込まれ、つぎつぎと下流へと押し寄せてゆく。やがて海に注ぐ河口にわだかまり、しだいにどす黒い澱となって堆積してゆく。下にはマグマだまりがあって、なにが噴き出すかわからない。つもりに積もった地球の憎悪が潜んでいるかもしれないから、その断層を決して侵してはならない。


2016-09-04

【八田木枯の一句】曼珠沙華噴き出て天をあわてさす 角谷昌子

【八田木枯の一句】
曼珠沙華噴き出て天をあわてさす

角谷昌子


曼珠沙華噴き出て天をあわてさす  八田木枯

第六句集『鏡騒』(2010年)より。

「曼珠沙華」の茎は、いきなり地下からぬっと地上へ突き出る。細長い蕾は、まるで魔女の赤い爪のようだ。開くと花弁も蘂も反らせて球形になる。その花は、茎のてっぺんに掲げられた妖しい小宇宙となる。虚空に向かって捧げられる、くれないのほむらは、この世の不条理や災禍を嘆き、訴え、怒るようでもある。なにもなかったところから突然「噴き出て」責めるような赤い色を灯すので「天をあわてさす」と作者は捉えた。「天」さえも予期しなかった事態を糾弾する花の勢いなのだ。

このほかにも、木枯は〈犬の息かかりし赤さ曼珠沙華〉〈曼珠沙華曼珠沙華胸閊へたる〉〈曼珠沙華空を流るる鞭の影〉〈曼珠沙華傷口に美は極まれる〉〈曼珠沙華溢るるや我転倒す〉〈曼珠沙華しもとは天をしゆるりしゆるり〉〈牛去つてどつと日暮れぬ曼珠沙華〉などと作っている。「の影」や「しもとは天を」などからは、やはり「責める」意識が働いているように思える。

「曼珠沙華」とはサンスクリット語の音による。仏教では天上に開く花との意があり、見る者の悪行を清浄にするという。『大和本草』によると、「夏月花を生して葉死(か)る、花葉相衛らず、此花下品也、其葉石韮(しびとばな)に似たり一類也、此花を国俗曼珠沙華と云……」と記される。この世に在る者が生前に積んだ功徳によって九品を上中下に分けて、下位のものを「下品(げぼん)」とするが、曼珠沙華は「下品」だという。日本では彼岸花、天蓋花、ほかにもこの世離れした不吉なイメージがあるので、幽霊花、死人花、捨子花、狐花などとも呼ばれる。花と葉を同時につけない様子や毒がある植物という冥さが、このような名前を連想させるのだ。

日本では飢饉のときの緊急食料とし、水によく晒して食べたという。その名残で、かつては田んぼの畔でよく見かけた。もう二十年ほど前のことだが、奈良の明日香村の稲田が実るころ、曼珠沙華が見事な赤を添えていた風景に出会ったことがある。黄金色と赤の色の対比が今でも鮮やかによみがえる。

日本の庭で、園芸種として植えるのは一般的に避けられるようだが、英語では、cluster amaryllis と呼ばれ、美しい植物として観賞される。洋の東西を問わず、好悪の感情はその人によって大きく違ってくるだろう。

木枯の師、山口誓子は「曼珠沙華」を好んでたくさん作っている。例句を挙げると、〈遥けくて眼路暗くなる曼珠沙華〉〈つきぬけて天上の紺曼珠沙華〉〈海陸の間(あひ)の鉄路の曼珠沙華〉〈曼珠沙華紅を失ふ海は何を〉〈蕊張るは物を云ふなり曼珠沙華〉など70句に至る。『激浪』だけで34句、『遠星』2句、『晩刻』10句である。木枯は誓子が伊勢で療養していた時代の戦中・戦後三部作とも呼べる『激浪』『遠星』『晩刻』の作品から多大な影響を受けている。師に例句が多いので、木枯も同様に曼珠沙華に特別な思いを寄せるようになったのかもしれない。

誓子に師事した橋本多佳子も曼珠沙華が好きだった。群れて咲きながらも、茎をすっと伸ばした孤高の冷たさがある花に惹かれていたに違いない。〈曼珠沙華忌日の入日とどまらず〉〈曼珠沙華けふは旅なる吾にもゆ〉〈曼珠沙華咲けば悲願の如く折る〉〈曼珠沙華からむ蘂より指をぬく〉などと内奥の思いと響かせて作っている。

木枯は多佳子とも深い交流があり、手紙のやり取りがあった。多佳子は木枯という才能のある青年に心情を打ち明けることもあったようだ。木枯の句〈曼珠沙華曼珠沙華胸閊へたる〉〈曼珠沙華傷口に美は極まれる〉とともに「天をあわてさす」が多佳子の言葉に動揺する木枯の心情を仮託した表現ではなかったか、などと少々艶のあることを空想するのも、ちょっと楽しい。


2016-08-14

【八田木枯の一句】原爆忌折鶴に足なかりけり 角谷昌子

【八田木枯の一句】
原爆忌折鶴に足なかりけり

角谷昌子


原爆忌折鶴に足なかりけり  八田木枯

第六句集『鏡騒』(2010年)。

広島の「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木貞子さんは、12歳でこの世を去った。被爆の苦しみを負った彼女は、病床で折鶴を折り続け、千羽鶴を遺した。

平成28年5月27日、アメリカのオバマ大統領は現職大統領として初めて広島の平和記念公園の式典に参加し、歴史的な一日となった。オバマ大統領は平和記念資料館を訪れた際、貞子の折鶴に見入り、さらに自分で折ったという四羽を資料館に贈った。そのうち二羽が資料館に展示されて大いに話題となっている。大統領の折鶴を見ようと、資料館の見学者が増えたほどだ。

掲句〈原爆忌折鶴に足なかりけり〉の〈原爆〉と〈折鶴〉は作品としては近過ぎる取り合わせかもしれない。だが「足なかりけり」と描写して、読者を一瞬ぎょっとさせる。確かに折鶴は翼、胴、頭部はしっかりあるが、「足」は省略されている。足で立つことはできないので、胴を固定しないと広げた翼はどちらかに傾いてしまう。糸に通して飛行の姿で飾られればよいが、元々はとても頼りない形態なのだ。

木枯は〈足〉の喪失感を強調することによって、原爆のみならず、戦争によって失われたいのち、また身体を損なわれても過酷な生涯に耐えねばならなかった、あまたの戦争被害者への思いを表したかったのだろう。〈足〉のない痛みと哀しみを負った〈折鶴〉に心からの祈りを籠めていたのだ。

同時発表作に〈生者より死者暑がりぬ原爆忌〉がある。木枯は徴兵検査で病気のため、兵役をかろうじて免れた。いつも〈死者〉のことが頭から離れないのは、自分は戦地に行かずに済んだが、代わりに友人、知人が命を落としたという痛恨事があるからだ。長崎と広島の〈原爆忌〉のころの熱風の中、〈死者〉が生身の人間よりも暑がるというのは、身近にその存在を生々しく感じているゆえだろう。

〈足〉なき折鶴を供華として、大戦後も木枯は戦争句をひたすら詠み続けた。また今年も終戦記念日が巡ってくる。泉下で木枯は、この世の〈生者〉のために折鶴を作ってくれているかもしれない。



2016-07-17

【八田木枯の一句】金魚死に幾日か過ぎさらに過ぎ 角谷昌子

【八田木枯の一句】
金魚死に幾日か過ぎさらに過ぎ

角谷昌子


金魚死に幾日か過ぎさらに過ぎ  八田木枯

第六句集『鏡騒』(2010年)より。

水槽を泳ぎ廻っていた金魚が、ひとところでずっと尾鰭を漂わせているようになった。やがてだんだん動かなくなり、或る日、水面に腹を見せてひっそりと浮かんでしまった。最後の一匹だったので、水槽の中に動くものはなくなった。あおざめた水を通して、書棚に並んだ本がゆがんで見える。

特にこころを傾けていた金魚ではない。子供が夏祭の縁日でとってきた三匹のうち、一匹だけなんとなく生き残っていた。名前をもらうこともなかった金魚は、庭の隅に埋められたが、墓はない。いまは草が覆ってしまい、どこだったかも定かではない。

金魚がいつ死んだか、もう記憶はあいまいだが、さらさらと流れる月日のかなたに、ふと金魚の輝く鱗がひらめくことがある。忘却のかなたに、さまざまなものの溶けてゆくなか、金魚の赤がまなうらにちらつくとき、こころにかすかな痛みが走る。

木枯の師山口誓子の句に〈友の金魚死なんとするを吻つつく〉がある。死にかけている仲間をつついている光景を客観的に描いているようだが、「友」としたところに、「非情の目」と呼ばれる誓子の意外に情深い一面がのぞいている。誓子は、たくさんの動物を詠んでいるが、金魚の句も多く、全部で60句ある。この誓子の句から、次の石垣りんの詩を思い出す。

  水槽  石垣りん

 熱帯魚が死んだ。
 白いちいさい腹をかえして
 沈んでいった。

 仲間はつと寄ってきて
 口先でつついた。
 表情ひとつ変えないで。

 もう一匹が近づいてつつく。
 長い時間をかけて
 食う。

 これは善だ
 これ以上に善があるなら……
 魚は水面まで上がってきて、いった。
 いってみろよ。

木枯の掲句は、もしかしたら、時間をかけて食われた金魚の永劫の弔いを詠んだのかもしれない。悼む対象の消え失せた水槽の水は、決して澱むことのないはずの「善」に充たされ、光を集めている。いや、まてよ……水が匂いはじめたのはなぜだ。


2016-06-19

【八田木枯の一句】傘と傘殺ッとふれ合ふ櫻桃忌 角谷昌子

【八田木枯の一句】
傘と傘殺ッとふれ合ふ櫻桃忌

角谷昌子


第六句集『鏡騒』(2010年)より。

傘と傘殺ッとふれ合ふ櫻桃忌  八田木枯

6月19日は小説家太宰治の忌日。6月13日、三鷹市の玉川上水に山崎富栄と入水し、19日早朝、下流で遺体が引き上げられた。19日は太宰の生誕日であり、忌日でもある。小説家の一生と呼ぶにふさわしい、不思議な因縁だ。

三鷹市下連雀の我が家は、入水地から歩いてすぐ近く。太宰の流された上水に沿って井の頭公園まで、豊かな緑を眺めながら、よく散歩している。玉川上水は、かつては水流が豊かで、たまに洪水を起こし、多くの人命が失われたこともあった。公園には、その受難碑が立っている。だが今では小流れになってしまい、昔日の面影はない。

太宰の墓のある禅林寺では、毎年「桜桃忌」が修され、全国からファンが集まる。墓にはさくらんぼのほか、カップ酒や煙草なども供えられる。これに対して、向かいの森鷗外の墓は、いつも取り残されたように暗くひっそりとしている。

芥川賞受賞作家の又吉直樹が太宰の熱烈な読者であることが評判になり、若い人たちが再度太宰に注目したこともあって、人気は衰えを知らない。毎年、桜桃忌には、さまざまなイベントが行われ、今年も資料展示、朗読会、ゆかりの場所散歩会、記念品販売会と盛りだくさんの予定だ。こんなに集客数が多く、盛況を喫するとは、太宰もびっくりだろう。

掲句、〈傘と傘殺ッとふれ合ふ櫻桃忌〉は、すれ違いざまに触れ合った傘と傘の立てた音を「殺ッ」というオノマトペで捉えた。何事もなかったように、両者は傘を立て直しながら、別々の方向へ去ってゆく。後姿が雨にけぶるばかりだ。だが、一瞬の殺気を作者は見逃さなかった。

桜桃忌に雨の降る確率は非常に高い。梅雨のさなかだから当然なのだが、雨にたたられる梅雨寒の天候は、どこか太宰の境涯にふさわしい気がする。

太宰は二十歳でカルチモンを大量に服用して自殺未遂を図り、それ以降も心中を繰り返す。死への衝動「タナトス」の権化だった太宰は、生涯、死や虚無に耳元でささやかれていた。「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」は、井伏鱒二が唐詩選の五言絶句を訳した言葉だ。この言葉が太宰の一生を支配した。

掲句の「殺ッ」は、「タナトス」の舌打ちのようでもある。瞬時に人間の心をわしづかみにして、かの世に攫うことのできる呪文だ。この呪縛から逃れきれず、太宰は昭和23年、39歳の生涯を閉じた。

吉本隆明は、太宰作品を「人間洞察を深めてゆく大作家の道のりも、人間と人間との関係の仕方に狎れた風化への道のりをも、示さなかった」と評する。太宰は、常に人間とは怖ろしいとの怯えにさらされ、自分が「人間失格」だという危機感を抱いてすくんでいた。「死」こそ狎れあうことのできる、心の平安だったのだろうか。

太宰は、「われは弱き者の仲間。われは貧しき者の友。やけくその行為は、しばしば殉教者のそれと酷似する」「おれは滅亡の民であるといふ願望一つである。おのれひとりの死場所をうろうろ探し求めて、狂奔してゐただけの話である」と書く(「花燭」)。太宰にとってすべてのやる気を失う「トカトントン」の響きも「殺ッ」という虚無の声と同一のものだったのだろう。

大戦後、焼け跡で人々の心は虚無に満たされ、「タナトス」があらゆる場所にはびこっていた。その中で、虚無を綴る太宰の文学は、読者にとって、聖者の作品のように映った。やがて世の中は物質的な豊かさを享受して、「タナトス」よりも「エロス」がもてはやされるようになる。それにつれて、日本文学は痩せていったような気もする。

いまでも太宰が若者のあいだで人気を保ち続ける理由の一つは、「タナトス」の深淵をだれもが心のどこかに抱いており、その暗さが太宰文学と響き合うからだろう。吉本隆明が言う、「風化」や「円熟」に至らない者たちにとって、「エロス」では埋めきれない日常の哀しみに、太宰の作品は寄り添ってくれる。「殺ッ」の響きが身ほとりから消えない限り、太宰は読者にとって、虚無の聖者であり続けるに違いない。


2016-05-22

【八田木枯の一句】黑揚羽ゆき過ぎしかば鏡騒 角谷昌子

【八田木枯の一句】
黑揚羽ゆき過ぎしかば鏡騒

角谷昌子


第六句集『鏡騒』(2010年)より。

黑揚羽ゆき過ぎしかば鏡騒  八田木枯

我が家では夏になると、揚羽の卵や幼虫を採取して、部屋の中で育てている。揚羽の食樹は蜜柑科の植物(ただし黄揚羽は芹や人参などのセリ科)で、庭の金柑や山椒の葉に卵を産み付けると、なるべく速やかに保護する。さもないと卵は蜘蛛や蝸牛、蟻などに喰われたり、幼虫も天敵の脚長蜂などに襲われてしまう。もしくは、蜂に卵を産み付けられ、寄生されてしまう。せっかく育てた揚羽の羽化を楽しみにしていたのに、やっと蛹から出てきたのは巨大な蜂という事態になるので、気を付けないといけない。

ナミアゲハとクロアゲハの若齢幼虫(孵化して一週間ほどまで)はよく似ている。どちらも黒地に白いまだらの入った鳥の糞そっくりだが、やや色が薄いのが黒揚羽だ。一度脱皮して緑色の終齢幼虫になると、色と柄などの違いがはっきりする。

一般的に揚羽類は、羽化すると日当たりのよい場所で華やかに舞っているが、黒揚羽は陰りある場所、たとえば林の薄暗い木立を縫うようにして飛ぶ。産卵のときも、直射日光を避け、薄日の射すような暗がりを好むようだ。そんな黒揚羽の生態が、ミステリアスな雰囲気を漂わせるのだろう。

〈黑揚羽ゆき過ぎしかば鏡騒〉の「鏡」は、大きな姿見のイメージだ。部屋に立てられた鏡は、庭の青葉を映している。そこをすうっと「黑揚羽」が飛び過ぎると、水面が波立つように鏡がざわざわと騒立つ。

黒揚羽は黄泉からの使者のように、かそけき彼の世の気配を曳きながら、喪章の翅をひらめかせる。黒揚羽の影がよぎり、心の底にふっと胸騒ぎが起きると、そのざわめきが鏡にまで伝わってゆく。

鏡には異界が映るのではないか。そんな思いに駆られて鏡を覗きこむと、奥から青白い手が出て引き込まれてしまう。もうすでに部屋に人影はなく、鏡から薄闇が滲み出て、庭の青葉へと煙のように漂い流れてゆく。やがて薄闇が黒揚羽のかたちとなって、まただれかを攫いに木々の間を縫い、何処かへ消えてしまうのだ。


2016-04-24

【八田木枯の一句】荷風忌の極彩色の覘かな 角谷昌子

【八田木枯の一句】
荷風忌の極彩色の覘(のぞき)かな

角谷昌子


荷風忌の極彩色の覘(のぞき)かな  八田木枯

第六句集『鏡騒』(2010年)より。

小説家永井荷風の忌日は、昭和34年4月30日。代表作の『あめりか物語』(1908)、『ふらんす物語』(1909)は、出版されてすぐ発禁扱いになった。1910年には、森鷗外や上田敏の推薦を受けて、慶応大学教授に就任するが、芸妓との交情が続く。この経験を綴ったのが、『断腸亭日乗』だ。浅草の歓楽街である玉ノ井を舞台にした『墨東奇譚』が、1937には朝日新聞に連載されている。

私生活は特異で、自ら奇人ぶりを自覚して住居を「偏奇館」と呼んだ。忌日は「偏奇館忌」とも言う。荷風には下町情緒が似合うので、忌日の句は墨東の雰囲気の漂うものが多い。

木枯の掲句にも、下町の祭の風情がある。

「覘」とは、覘機関(のぞきからくり)のこと。物語を構成する数枚の絵を箱の中に入れ、順番に変えていって、箱の外から眼鏡を通してのぞかせる。近松門左衛門の世話物『冥途の飛脚』に、この「覘機関」の記述がある。「極彩色の覘」とは、中の絵画がおどろおどろしい色に塗られていることだろう。きっと血塗られた情話などに違いない。箱の中を「覘」くという行為も、どこか俗かつ淫靡で荷風の境涯と響き合う。

実は、木枯の師山口誓子に、昭和8年作の〈祭あはれ覘きの眼鏡曇るさへ〉がある。「見世物の人々」という一連の作品の中の句だ。この句を木枯は愛誦していたので、もしかしたら、誓子作品の祭の雰囲気を思いながら、掲句を作ったのではないだろうか。誓子の群作は、少年のような好奇心に満ちている。誓子には、気難しく近寄りがたいイメージがあるが、木枯にとって、決してそうではなかった。誓子が療養中、木枯たち若者の海辺のテント張りを身近で見守っているような、親しい存在なのだ。そんな師を懐かしみながら、木枯は下町の祭を思い浮かべて荷風の面影と結びつけたのかもしれない。



2016-03-27

【八田木枯の一句】母の額椿落ちなばひび入らむ 角谷昌子

【八田木枯の一句】
母の額(ぬか)椿落ちなばひび入らむ

角谷昌子


第6句集『鏡騒』(2010年)より。

母の額(ぬか)椿落ちなばひび入らむ  八田木枯

椿は葉が濡れたように瑞々しいので「津葉木」「艶葉木」とも呼ばれるようだ。ことに紅色の椿を見ると、情に濃い近松門左衛門の女たちを思い浮かべる。椿が潔くほたほたと落ちるさまを眺めれば、運命に従って道行きへと従順に歩を進める女たちの姿と重なる。

木枯は『於母影帖』で、「母」をテーマにして、さまざまな女を詠んだ。そこには深い業を抱いた女の姿もあった。掲句の「母」は、あたかも能面を着けているようだ。しかも、その面は、肉厚な椿の花弁が当たっただけで、見事に「ひび」が入るだろうという。情念にとらわれた罰のように、額を打ち割られる女の哀れさがある。

近松門左衛門の本名は、杉森信盛という。ペンネームは三井寺の別院、近松寺(ごんじょうじ)に身を寄せていたからだと言われている。寺にあって市井・世間の人々を眺めていた近松は、残酷かつ浄福な、相反する要素のある心中を世話物に仕立てた。その作風には「聖」「俗」の二面性がある。聖・俗とは虚実の世界であり、その世界が巧みに交錯するのが、近松の文芸だろう。

近松には、虚実皮膜の論がある。嘘とまことの微妙なあわいにある芸の道を求めた。木枯が浄瑠璃など中世芸能を好んだことはよく知られている。掲句にも、近松を意識した木枯の隠し味が仕込まれているようだ。額を割られた「母」は、面を外すと、下からどんな素顔を現すのであろう。「ひび」は赤く裂け、なにやら鋭い角がのぞいているようだ。またひとつ、もうひとつ椿は落ちて、「ひび」は広がってゆく。


※八田木枯先生の命日は、3月19日。毎年、ご長女の夕刈さんのお計らいで、新宿御苑の翔天亭で偲ぶ句会を催しています。木枯先生の敬愛した山口誓子の命日は奇しくも一週間後の3月26日です。師弟の関係や不思議なエピソードについては、拙著『山口誓子の100句を読む』の「あとがき」に書いた通りです。(角谷)


2016-02-28

【八田木枯の一句】父や若しおもてあげれば野火の色 角谷昌子

【八田木枯の一句】
父や若しおもてあげれば野火の色

角谷昌子

第六句集『鏡騒』(2010年)より。

父や若しおもてあげれば野火の色  八田木枯

木枯の父は俳号を海棠といい、高濱虚子に師事していた。自宅の書庫には「ホトトギス」の全巻があり、木枯は少年時代から俳句に親しんでいた。木枯という俳号も、父が虚子選を得た句〈木枯や沼に繋ぎし獨木舟〉から採っている。早世した父は木枯のこころの中で特別な位置を占めていたようだ。だが、『於母影帖』の母が実の母を詠んだものではなく、普遍的な女であり、妻、母であるように、木枯俳句の父も、決して個人的な体験に基づく父ではなさそうだ。

この句の父は、あたかも舞台に登場した役者のようである。口上を述べようとして伏していた〈おもて〉をすっとを上げると、その顔に〈野火の色〉があかあかとちらついている。顔はもはや目鼻の凹凸を失い、一枚の鏡となって、焔の吐く舌や枯草を焦がす煙までを映している。若い父は、これから人生の修羅の火に真向かうため、覚悟を固めているようでもある。将来出会うべき艱難を思うたび、風が巻き起こって焔が昂ぶる。述べるはずだった口上は、くちびるに貼り付いて流れ出してはこない。野火は朱の咆哮を放ち、若い父に迫ろうとしている。

木枯の野火の句は、ほかに〈存らふは舟より野火を見るごとし〉があるだけだ。川の中に浮かべた舟から、対岸に猛る野火を眺めている。そんな距離感に守られていることが〈存らふ〉ことだという。木枯は早世した父の齢をかるがると越し、晩年となったとき、掲句を作った。舟の中から奔走する野火を見つめていたのは、父の姿を借りた、木枯自身ではなかったか。来し方が風に煽られ、次々に炎上してゆく。


2016-01-31

【八田木枯の一句】寒鯉の頭のなかの機械かな 角谷昌子

【八田木枯の一句】
寒鯉の頭のなかの機械かな

角谷昌子


寒鯉の頭のなかの機械かな  八田木枯

第六句集『鏡騒』(2010年)より。

句会で木枯の句を採ると、木枯は肩をくっくっとすくめて「いい選ですね」と微笑んだものだ。この句の作者だと名乗ったときの、木枯の茶目っ気たっぷりの表情と皆の驚きがなつかしい。

「寒鯉」は水底に沈み、みじろぎもしない。いかにも比重の重い金属の塊が横たわっているようでもある。「頭のなかの機械」の発想には驚かされるが、奇を衒ったという感じはない。それはどこかに説得力があるからだ。寒鯉の金属片で鎧ったような墨色の鱗や金属の小箱のごとき、がっしりした頭部をじっと見ていると、だんだん仕掛けられた機械が頭に内臓されているような気がしてくる。この機械は、からくり人形のような高度な動作を可能にするのではなく、単純な動きならばできるようなものだ。機械の中の歯車が回転するのだが、鯉の尾鰭をかすかに動かしたと思ったら、すぐに止んでしまう。そして鯉は水の重さにひたすら堪えるのだ。

そういえば、横光利一の『機械』の中に、仕事で劇薬を使う話がでてくる。金属を腐食させる塩化鉄を使っているうちに、強烈な刺激で皮膚や組織が侵され、頭脳にまで影響を及ぼしていってしまう。そんな「危険な穴」に落ち込む人間は、作中人物の言うように、この世の中で有用ではないとしたら……この句の機械仕掛けの鯉は、劇薬に頭脳を侵食された無用の人間の転生の姿かもしれない。何層もの水の最下位にひっそりと過去の記憶も持たずに生をつないでいる。そしてときどき、頭の中の機械が軋み音をたてて働くと、鯉の口から辛そうなあぶくが水面に上がってくる。あぶくが水面ではじけるとき、鯉が人間だったときのことばが、ひそかに一つ、二つと空中に散乱してゆく。

木枯の「寒鯉」の句はほかに〈寒鯉を飼ひ筆舌を尽しけり〉〈墨いろはうごかざるいろ寒の鯉〉があるだけだが、やはり掲句には及ばないだろう。

私の住む近くに井の頭公園がある。現在、環境改善のため、二回目のかい掘り中なので、池の大きな「寒鯉」を観察することはできない。その代わり、干上がった池底を廻るダイサギやアオサギの闊歩や群れ飛ぶユリカモメが見られる。カルガモが小魚を食べることも、初めて知った。ブルーギルやブラックバスなど外来種が駆除され、鯉も運び去られた。お茶の水の源流にゆったり泳ぐ巨大な真鯉はもう戻ってこないのか……頭に機械の埋め込まれた鯉も無用のものとして一緒に処分されたのかもしれない。


2016-01-03

【八田木枯の一句】煩悩の手毬ついてはつき外し 角谷昌子

【八田木枯の一句】
煩悩の手毬ついてはつき外し

角谷昌子


煩悩の手毬ついてはつき外し  八田木枯

第六句集『鏡騒』(2010年)より。

寺々の除夜の鐘を聞いて新しい年を迎える。百八煩悩を取り去るために撞かれる鐘の音は、しみじみと心にしみ入る。迷いは霧散したはずだが、そうすっきりとはいかないもの。めでたく年明けて手毬をついても、うっかり手を逸れてしまう。それはふと胸奥を不安がかすめたせいなのだ。毬は現世を逃れるように、何処へか果てしなく転がり続けてゆく。

手毬をつくときは、唄に合わせてひとつふたつと数を増やしてゆく。失敗してしまうまで、数はひたすら大きくなる。ところが木枯はかつて〈とこしへに数を捨てゆく手毬うた〉『天袋』と詠んだ。「手毬うた」を口ずさみながら「数を捨て」るとしたのだ。そこには煩悩を捨てようとする願いが籠められていたのだろうか。この世のさまざまな欲を捨て去ることの難しさを知るがゆえに、叶わぬ思いをつのらせたのか。

〈捨てし数いくつかしれず手毬つく〉(『天袋』)もある。来し方を振り返ると、日々の生活のために「捨て」てしまったことも多々あった。そんな失うことの繰り返しの上に、現在の自分の位置は築かれている。はなはだしい喪失感を抱きつつ、ひとつづつ手毬を弾ませて毎日を重ねてゆく。煩悩があるため、つい「手毬ついてはつき外」すのだ。しかし欲があるゆえに生きがいもできるだろう。手毬をつきながら、木枯は煩悩を飼いならし、さらなる句境へ進まんと、己を鏡に映し出しているのだろうか。さまざまなものを捨てて、俳諧の鬼となりゆく姿には、青白い焔がゆらめいている。


2015-12-20

10句作品 壮年の景 角谷昌子

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週刊俳句 第452号 2015-12-20
壮年の景 角谷昌子
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10句作品テキスト 壮年の景 角谷昌子  

壮年の景   角谷昌子 

夭折にあこがれしこと石蕗の花

ざくざくと落葉踏みゆきことば欲る

北風の鳴ってゐるなり薔薇の蔓

ぬつそりと獣道から冬帽子

壮年の景甲斐駒を雪が攻む

駅蕎麦の湯気に顔伏せ雪催

なにやらの獣骨脆し枯野原

冬座敷襖の虎を割つて入る

雲呑の具の透けてゐる夜の霜

眠れぬ夜つばさ音なくふくろふ来

2015-11-29

【八田木枯の一句】梟を抛らば皃の崩れけむ 角谷昌子

【八田木枯の一句】
梟を抛らば皃の崩れけむ

角谷昌子


梟を抛らば皃の崩れけむ  八田木枯

第六句集『鏡騒』(2010年)より。

ギリシャ神話のアテナと同じと考えられる女神に、ローマ神話のミネルヴァがいる。この女神が連れている梟は知恵の象徴とされる。ヨーロッパの学舎や図書館で梟の彫塑を見かけるのも、知恵のシンボルとして貴ばれるからだ。西洋で親しまれてきた梟は、ペットとして近年ことに人気がある。映画「ハリー・ポッター」で白い梟が手紙を運ぶ姿は愛らしく、飼う人が増えてきた。だが、肉食である。し排泄物の掃除が大変で、なかなか手がかかるらしい。

日本ではどうかというと、かつては親を喰う鳥と思われ、異名の「不幸鳥」「不孝鳥」などと呼ばれていたことがあった。真夜中に地の底から響くような低い声で啼くので、どことなく不吉なイメージがまつわりつく。(余計なことだが、自分は寝床であの声を聴くと、なんだか安らいで眠りに落ちることができる。だが、そんな句を作ったら、イメージが違うと退けられたことがあった。)「梟首(きょうしゅ)」とは「獄門」であり、斬罪にされた囚徒の首を刑場にさらしたことだ。むかし、村はずれの丸太の上に梟の首を掲げて魔を除けたと聞いたことがある。凶をもって凶を制するということだろうか。

一方、「不苦労」「福老」などの字を充てて、縁起のよい鳥とすることもある。さまざまな梟の置物が売られていて、コレクションしている人も多いようだ。吉兆もしくは凶兆、両方の意味合いをもつ梟は、どうも捉えどころがなく、ミステリアスだ。

掲句の「梟」は、なにやら凶兆のようでもある。梟首された頭をボールのごとく放り投げれば、「皃(かお)」がぼろぼろと崩れてしまう。頭蓋骨さえ残さず霧散してしまい、実体はなにも残らない。森の奥から、かすかに底冷えするような声が洩れてくるだけだ。人々が眠りにつくと、夢魔となってそれぞれの夢の中に、音も立てずに現れる。寝汗をかいてはっと目覚めたとき、すでにどんな夢だったか忘れてしまっている。だが、顔をかすめたなにかの羽の感触だけが、わずかに夢の名残をとどめているのだ。

木枯の梟の句には、ほかに〈梟がみじかき着物きせくれし〉〈梟をいぶかしめたるお竈さん〉〈闇を以て闇を磨けり梟は〉〈梟や父恋へば母重なり来〉がある。禍々しいイメージばかりでなく、どこか懐かしさがある。木枯は泉下で、梟に導かれ、ご両親にまみえていることだろう。


2015-10-25

【八田木枯の一句】子どもには子どもが見えて秋のくれ 角谷昌子

【八田木枯の一句】
子どもには子どもが見えて秋のくれ

角谷昌子


第五句集『夜さり』(2004年)より。

子どもには子どもが見えて秋のくれ  八田木枯

かくれんぼをして遊んでいたものの、見つけてもらえず、忘れられたまま、ほかの子どもたちは、みんな帰ってしまった。あたりがとんと暗くなり、急に不安になって物陰から出て来たその子は、きょろきょろと木立や道を見回し、自分だけが取り残されていることを知る。

その子は、〈子どもには子ども〉なんて決して見えていないのだと、いや、見えないより、忘れられることのほうがもっと哀しいと、拳を握りしめて帰ってゆく。
その子は、自分の夢想の友人を持つようになる。期待しなくてもすむ、現実には存在しない、座敷わらしのような、特別な力をもつ子どもを友とする。その友は、いつでも一緒に居てくれて、その存在を常に感じられ、呼べばにっこり現れる。どんなことがあっても、自分を見捨てたりしない。

掲句の〈子ども〉は、そんな不思議な存在のように感じられる。普通の〈子ども〉ではなく、必要とする者にだけ、見える友なのだ。純粋なこころを持つ者が求めれば、ちゃんとその姿を見ることができる。秋の暮の闇が迫るころ、ひそかに名前をつぶやくと、ひょっこり顔をのぞかせてくれる。やがて〈子ども〉が成長してそんな特別な〈子ども〉なんて居ないと思うようになると、もう全く見えなくなってしまうのだろう。

八田木枯は、この句を、大人には子どもがちゃんと見えておらず、見えるのは子供同士だから、などと教訓的な意味合いをこめて、作ったとは思えない。異界から現世にやってきて、ふっと物陰からこちらを上目づかいに見ているような〈子ども〉を描きたかったのではなかろうか。郷愁をさそう、だが、ちょっと怖いような〈秋のくれ〉、「夜さり」の雰囲気を一句に詠み込んだに違いない。


2015-09-27

【八田木枯の一句】とことはに月ぶらさがる物ならむ 角谷昌子

【八田木枯の一句】
とことはに月ぶらさがる物ならむ

角谷昌子


第5句集『夜さり』(2004年)より。

とことはに月ぶらさがる物ならむ  八田木枯

9月27日は仲秋の名月。月をめでながら木枯の句を味わいたいと思い、月の句を探したところ、ふと掲句に目がとまった。「ぶらさがる物」と詠まれたこの月は、あたかも芝居の書き割りに紐で吊るされた、金紙を貼り付けたいびつな代物のようだ。

神格化された月の化身には、バビロニアのシン、エジプトのトート、ギリシアのアルテミス、日本の月読命など数限りない。崇拝された月はさまざまな神話をもたらしたが、掲句は、そんな神々しさを振り払い、いかにも頼りなげで、天空に宙ぶらりんになっている。

太陰歴では、新月から満月へと満ち欠けを繰り返す月の運行に基づき、三年に一度、閏月を一カ月置いて調整する。そうしないと、太陽の運行と関わる実際の季節から、どんどんずれていってしまう。

この句では、まるで太陰歴の月が実に申し訳なさそうに、閏月の余計者のように「ぶらさが」っている。澄んだ夜空を見上げて、神々しく照り輝く月をこのように描いた作者はあるまい。

『夜さり』にはほかにも、〈月のぼりくる両袖をふりしぼり〉〈月光は帚のごとくあわただし〉〈月光がくる釘箱をたづさへて〉〈人老いて月夜の蓼をたべし夢〉〈月よりも古きものなし抱きまくら〉〈情なくてうごきづくめの水の月〉〈月光ははばたき水に火傷せり〉などたくさんの月の句が収められている。いずれも月の本意を超え、読者の固定観念を裏切る作ばかりである。




2015-08-30

【八田木枯の一句】天の川熟水は死のごとく在り 角谷昌子

【八田木枯の一句】
天の川熟(ゆざまし)は死のごとく在り

角谷昌子


第5句集『夜さり』(2004年)より。

天の川熟水
(ゆざまし)は死のごとく在り  八田木枯

窒息しそうになるほど暴力的だった猛暑がはたとおさまり、夜風が心地よく家の中にも吹き入るようになった。虫の声に誘われて庭に出てみると、月は煌めきを取り戻している。夜空を仰ぐには良い季節になった。秋到来の実感である。

かつて海外派遣先のオーストラリアの乾燥地帯で天の川を仰いだことがある。はっきりと太い流れをなす天の川は、銀砂子をぶちまけたようで、その迫力に圧倒された。粒立った星々の中に、あこがれの南十字星を見たことよりも、銀河の生々しい脈動の方がはるかに強烈だった。

我々の宿舎は羊の毛刈り職人のためのもので、時期外れで空いていたため、使うことができた。実に簡素な木造のバラックだった。砂漠の気候と同じく、昼は大変暑く、夜は気温が低くなる。仲間のなかには、屋内も戸外も同じだと、ベンチを寄せて簡易ベッドを作り、満天の星を仰ぎながら眠りに着く者もあった。

砂だらけの大地には、あちこち滑らかな岩が露出している。それらは、何百万年も前、氷河が移動した跡だと地元の住民が教えてくれた。夜中には周囲に灯がひとつも見えない。迫る星々を眺めていると、太古から脈々と続く時空の中に呑み込まれてしまいそうな怖ろしさで潰されそうだ。平原のかなたに突然、稲妻が走ると、天と地の近さを眼前とする。まるで聖書の天地創造の場面のようで、思わず粛然となる壮大な光景だった。

掲句〈天の川熟水(ゆざまし)は死のごとく在り〉を読んだとき、豁然と目の前にあのオーストラリアの銀河がよみがえった。頭上の神秘なしろがねの帯から、ひとすくいの水をいただき、死出の旅立ちのときは、唇を湿したいものだ。天の川を眺めると、ふつふつと生死の思いが胸にこみあげる。作者はというと、天の川を仰ぎながら、〈熟水は死のごとく在り〉という感慨を抱いた。しかも「湯冷まし」ではなく〈熟水〉を用いて「ゆざまし」と読ませている。「湯冷まし」だと煮沸して滅菌処理をしたものなので、水そのものが有機性を失い、或る意味、死んでいるのかもしれない。それを敢えて「熟水」としたところに、熱湯から人肌へ、さらには冷えてゆく水の変遷過程を捉えた意味合いが出るだろう。その時間経過を含んだ「熟水」の存在は、雑念を払い、次第に純化される魂への思いを仮託しているとも思える。この世のしがらみに煩わされることこそ「生」だとすると、さまざまな絆を断ち切り、此岸に別れを告げて彼岸に渡る「死」は、時充ちて成熟に至った水そのもののようなのだ。「死」を成熟の到達点としてあらたに仰ぎ見る天の川は、いのちの源のように輝きを増して澄み渡っている。

『夜さり』にはほかにも、天の川を描いた〈父老いて銀漢の尾を捌きをり〉〈軍服はたるみ銀河にぶらさがる〉〈天の川われも鱗はしろがねぞ〉〈笄をひるの銀河に匿しおく〉がある。広大な宇宙の中の「天の川」と対比させ、いずれもいのちの哀しさを凝視した末の、無常観のにじむ句である。



2015-08-02

【八田木枯の一句】白桃や死よりも死後がおそろしき 角谷昌子

【八田木枯の一句】
白桃や死よりも死後がおそろしき

角谷昌子


白桃や死よりも死後がおそろしき  八田木枯

第五句集『夜さり』(2004年)。

桃というとすぐに思い浮かべるのは西王母の逸話だろう。中国の仙境には蓬莱山と崑崙山があり、そこには不老不死の妙薬があると言われていた。崑崙山を司るのが西王母であり、道教では最高位の長寿の女神とされる。この女神の所有する桃こそ、不老長寿の霊力を持ち、魔除けの効力があると尊ばれていた。

みずみずしい白桃をじっと見つめていると、その産毛の輝きや内側から滲んでいる赤味がなんとも艶やかで妖しく感じられる。きっと誰もいない真夜中には、一つの生命体としてトクトクと脈打つに違いない。たっぷりとした水分が内部に充満し、薄皮一枚をいまにも破りそうに張りつめている。いかにも神仙の果実として珍重され、その生気にあやかろうと人が心を寄せそうな円熟ぶりだ。

木枯のこの句では、眼前に据えた白桃に魅入られながら、ふと唇からこぼれた生死への思いが主題となる。生命を全うし、いよいよ賜る〈死〉そのもの、呼吸が止まり、心臓も打つのをやめる、その瞬間よりも、肉体が滅びたあとの〈死後〉の長さを懼れるというのだ。木枯にとって死後は時空からの解放ではなく、果てしなく続く煉獄のようなものだったのか。魂魄は滅びることもなく無限の闇にさまよいつづけるのを案じたのだろうか。

木枯は実作から遠ざかっていた期間が長かったが、晩年は俳句一筋の日々であった。命ある限り俳句に向き合っており、最期の言葉は「白扇落ちた」だった。その白扇は木枯の魂そのものだったのではないか。くるくると舞いながら光と闇を攪拌し、肉体を離れたあとは、海坂を自由に出入りしているに違いない。

木枯には「桃」の句が多い。『天袋』には〈まよなかをゆきつもどりつ冷し桃〉〈死ぬまでは生きてゐし人ひやし桃〉がある。また、掲句の収められた『夜さり』には〈白桃や母なじるとき我薄れ〉〈冷し桃うらがへりたる捨身かな〉〈白桃は逢魔ヶ刻を羽撃きぬ〉〈冷し桃もの言ふことを封ぜられ〉〈冷し桃人を殺めしことはなし〉〈両手もて口塞がれし冷し桃〉〈正体の無くなるまでに桃冷えし〉〈桃ほどに腐まずに柿寂びにけり〉などたくさん見いだせる。いずれも桃の妖艶かつ生命力に溢れた特徴を捉え、そこから生死にかかわる思いへと発想を飛躍させている作品である。

最後の〈桃ほどに腐まずに柿寂びにけり〉には「傷む」ではなく、「腐む」が使われている。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中で、ロシア正教のゾシマ長老が亡くなり、腐臭を放つ衝撃のシーンを思い出す。「いたむ」という言葉から「傷む」「痛む」「悼む」が浮かぶ。木枯はあえて「腐む」としたところに、「死」への感傷を振り払い、即物的に扱ったのだろう。そして「死後」の魂の救済について信じようとすれども、なお懐疑的だったと思うのは考え過ぎだろうか。