2007-08-12

週俳7月の俳句を読む(下) 2/3

週俳7月の俳句を読む(下) 2/3

媚 庵 「三 汀」10句   →読む 菊田一平 「オペラグラス」10  →読む
田中亜美 「白 蝶」10句  →読む 鴇田智哉 「てがかり」10  →読む
佐山哲郎 「みづぐるま」10  →読む
寺澤一雄 「銀蜻蜒」50句  →読む
村田 篠 「窓がある」10句  →読む 山口東人 「週 末」10  →読む
遠藤 治 「海の日」10  →読む


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野口 裕 



帰 省 子 の 渡 り 廊 下 を 渡 り け り      媚庵

足音はその人の癖が出る。「ただいま」、「おかえり」の挨拶のあと、しばらく聞いていなかった足音をさせて遠ざかっていく背中でも見ている景か。


麦 粉 菓 子 林 房 雄 を 再 読 し         媚庵

林房雄を初読する気も起こらず、「はったい粉」を冬に食べていたので「麦焦がし」にしろ、「麦粉菓子」にしろ、夏の季感を喚起されない私にとってはどうでもよい句だが、猫髭さんが麦粉菓子を「ビスケットのような洒落た味」と書いているので気になった。

ウィキペディアには、「麦粉 (菓子)」および「はったい粉」の二項目で説明がある。それを参考にしつつ調べてみると、いわゆる麦粉を使った菓子には色々なタイプがあるようで(私の好きな「かつおげんこつ飴」も麦粉が原料として入っている)、必ずしも「ビスケットのような」は当てはまらないようだ。もっとも、「はったい粉」を湯で練って食べるやり方では、本を読みながらはちょっとしんどい気もする。


南 風 鯉 に か ま け て ゐ る ら し く      菊田一平

十句まとめて読むと、作中主体がかかわる恋物語のようだ。この句だけ取り出すと、南風が主語のように受け取れて不安定なところがあるが、作中主体の恋の相手が「鯉にかまけてゐる」と見ると、情緒纏綿とした景が浮かぶ。五七五に動詞の主語が見あたらないとき、常に主語を「私」と解釈するのをうっとおしいとも感じるところがあるので、なるほどそんな読みもできるのだな、と妙に感心した。


白 き 砂 利 心 臓 に し て 金 魚 か な      田中亜美

砂利一粒のような心臓、ということなのだろう。一瞬、砂粒のような心臓が金魚の体内あちこちに散在しているような錯覚におちいった。なかなか捨てがたい解釈だが、面白すぎてだめだろう。


ス ピ ノ ザ は レ ン ズ を 磨 き 天 の 川    田中亜美

一七世紀の、とあるサロンにて
A 望遠鏡で見ると、月はでこぼこらしいわね。天上にあるものが不完全な形なんて信じられないけど、本当かしら?ガリレイの法螺なんじゃない?
B じゃあ、実際に見てみたら。良いレンズさえあれば、簡単に見えるわよ。
A そんなレンズどこにあるの。
B スピノザの磨いたレンズよ。ちょっと高いけどいいらしいわよ。
A あの無神論のスピノザ?
B そうよ。だけど、レンズの良し悪しには関係ないわ。
A ん~。悪いけどやめとくわ。
…というような会話があったかどうかは、知らない。


昨 日 か ら 昨 日 の ま ま の 蛇 苺       鴇田智哉

「AがAである」という形の、トートロジーとなる五七五が成功するかどうかは、「AはAでない」という矛盾をあらわに示すことなく、暗示できているかどうかにかかっているのだろう。この句は案外良いなと思った。


あ  橋 の  風  夏  内 耳  み づ ぐ る ま  佐山哲郎

一見したときの印象と異なり、結構意味を強調する句が多いな、と思った。しかし、上述の句はほとんど意味のない音の羅列と見えるまで希薄化され、読者に意味を意識させないことに成功している。何回か音を転がすうちにゆっくりと意味が立ち上ってくるが、それが作句過程の追体験めいて興味深い。


船 虫 の た く さ ん 出 て た く さ ん 去 る  寺澤一雄
夕 空 は 気 ま ま な も の や 青 簾       寺澤一雄
夏 草 が 土 俵 の 中 を 埋 め に け り     寺澤一雄

「膝ポン川柳」という言い方があるが、客観写生は「膝ポン写生」にとどめを刺すのかもしれない。「片陰の途切れ命は途切れざる」や、「風鈴は吊されながら鳴りにけり」などは、膝を叩けないが。


ぬ た く つ て 針 金 虫 は 輪 を 作 る     寺澤一雄

つい最近まで、針金虫の詳細を知らず、知ってから夢中になって調べたことがある。mixiの日記に書いたものをそのまま転載する。
『以前に針金虫のことを書いた。カマキリの腹中に棲む寄生虫で、大きくなるとカマキリの腹を脱して水中で生活する。カマキリの腹中に棲むものでも長いものは1メートルに達するらしい。書いてからずっと気になっていたのだが、カマキリの寄生虫ならひょっとすると秋の季語ではないかと思いついた。手持ちの歳時記を引っぱり出してみると、「図説 俳句大歳時記 秋」(角川書店 昭和48年刊)にあった。

針金蟲 (線蟲 あしまとひ)
解説
カマキリの異常にふくれている腹のなかから、まっ黒な長い針金のような虫が出てくることがある。くるくるもつれながらうごめいているところは気持ちが悪い。これはカマキリに寄生した円形動物門の線虫網に属する動物で昆虫ではない。(中略)甲虫類の叩頭虫(こめつきむし)の幼虫は土中に生息していて作物の根を食害しているが、これも針金虫といわれている。しかし、前者とはまったく違うものである。(大町文衛)

考証
『新修歳事記』(明治四二)に「異名 あしまどひ」として「蟷螂の先はすゝむや足まどひ 巴水」の句を初出。
…とある。これで思い出したのだが、宮澤賢治の戯曲「植物医師」に針金虫が登場する。これは上述の説明の後者を指している。針金虫をどこかで聞いたことがあると思ったのだが、宮澤賢治だった。
最後に、針金虫にとりつかれるきっかけとなった句をあげてこの話を閉める。

 かの川のはりがねむしに謎のこし        北村虻曳

針金虫を知ってしまうと、この句は「膝ポン写生」として読める。


蛇 を 見 て ひ と り に な つ て し ま ひ け り 村田 篠

句会で点が集まり、点を入れた人は句の良さを説明しようと苦労するが、説明が行き届かず、句の良さがわからない初心の人には何となく不満の残るタイプの句ではないかと想像する。まれに、「見て」が気に入らないと気むずかしいことをいう人も居そうだが、それは別問題としておく。

たぶん、どんな説明をしても分からない人は分からないとは思うが、分かるように説明する努力を放棄してはいけないだろう。放棄した途端、「第二芸術論」に足をすくわれることになる。口で言うよりも、文で説明する方が難しいだけに難儀なことではあるが。

五七五の中だけで説明しようとすると、「蛇を見る」以前を想像してもらうよりしょうがないだろう。「蛇を見る」以前は、「ひとり」ではなかった。「ひとり」でないときの人間は、普通、「語らい」の中にいる。ぺちゃくちゃとあれこれの話題を他人に投げかけ、他人からも投げ返されと、言葉はしっかりとした基盤を作っている。しかし、「蛇を見」た瞬間から、事情は一変する。「あそこに蛇。」、「どこどこ?」、「いないじゃない。」というような会話の後、「蛇」は宙ぶらりんになる。他人には通じない言葉となった「蛇」は、「ひとり」の中で反芻せざるを得ない。それを表現するのが、「ひとりになつてしまひけり」という書き方だ。

これも、足をすくわれた説明ではあろう。ま、その自覚を忘れず、ぼちぼちやらなしゃあない。


メ ロ ン パ ン 喰 へ ば 火 葬 の 終 り け り  山口東人

すでにカタカナ語に取り巻かれている、日常の言葉。その中から、五七五を発見しようとしているのだろう。「シーア派」の句以外が、懐かしい雰囲気に包まれているのはなぜだろう?安定した日常生活自体が過去を含んでいるのかもしれない。

普通、骨を拾って後に食事となる。その間、妙に腹が減ることはあり得る。近所で評判の店のこだわりのメロンパンではなく、ありあわせの、ひょっとすると火葬場近くのコンビニの、メロンパンで腹をなだめ終わったところだろう。生活のすぐそばの死を肩肘張らず書いて魅力的だ。


波 乗 り の 波 に 乗 る と き 陸 を 向 き   遠藤 治
波 乗 り の 姿 勢 の ま ま に 呑 ま れ け り  遠藤 治

瞬間を切り取る切れ味の良さ。

少 年 が 必 ず 落 ち る ゴ ム ボ ー ト

観察にかけた長い時間を思わせる句。と書くと、ご大層だが、毎年見ているとそんな感想も出てくるだろう。ああ、またやってる、と。


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猫 髭 



白 百 合 の 臓 腑 あ ら は に 咲 き に け り  田中亜美

ちょうど調布の神代植物園に植物吟行に行って、白百合を詠んで【内側はちらかつてゐる】といった措辞の句が句会で出ていたので、揚句を見たときに、【臓 腑 あ ら は に】という措辞に、これは女性が生理的に内側から詠んだ句だと感じた。男は外側から眺める目になる。アラーキーの花の写真にしても、あれは新宿の三角ビルでのオリンパスの展示会だったか、蘂をアップした花の近接写真に囲まれていると、写真であるにもかかわらず噎せるような花の匂いに息苦しくなり、外へ出て、硝子越しに画廊の写真を見ると、花弁の露のひとつぶひとつぶが愛液のようにきらめく克明なその写真たちを、アラーキーが女性器そのものとして撮っていることがわかったが、それも外側から内側へ分け入る男の目だ。

読むことに、男か女かという目は持たないが、時に作品のほうからまなざしをそそぐような句があり、揚句もそうだ。昔、マンハッタンで初めてジョージア・オキーフの花の絵を見たときの事を思い出す。吉行淳之介が理想の女性像を問われて「性器に手足が生えている女」と答えており、オキーフの花の絵を見ていると、女が全身Vaginaとなって迫ってくるような暗い美しさに、見ている自分が男根となって全部吸い込まれていくような気になり、食虫花のようにその中で蕩けてゆくのも悪くないなと思わせ、吉行淳之介が理想としたのはこれかと思い当たったが、揚句は自分で内臓を露わにしているにもかかわらずとてもクールな印象だ。

「白 百 合 の 臓 腑 あ ら は に 匂 ひ け り 」といった、イメージの叛乱を嫌うからだろう。つまり、自分が巻き込まれて「性」として露わになる「関係の暴力性」へは距離を置く詠み方であり、例えば【帆 船 は 祈 り の 位 置 に 夕 薄 暑】の「位置」は、スティーブン・キングが『デッド・アイ』の中で描いたような「関係の暴力性」が「祈りのような行為」だという生身の切なさまでには踏み込まない。【息 止 め て し ま へ ば き つ と 踏 ま れ ぬ 蟻】の、さくら貝を踏み潰した後のような蹠と蟻との距離、【い つ 逢 へ ば 河 い つ 逢 へ ば 天 の 川】の自分からは踏み出さぬ、待つ女としての距離。若くして看取る経験を重ねてきたのだろうか、吉行理恵の詩の感覚に通ずるような、熱くない青い炎のような無臭のエロティシズムを湛えた句である。


う す う す と 電 気 の な か を 羽 蟻 来 る  鴇田智哉

2005年という年は、仏壇に限りなく近かった俳壇が、鴇田智哉『こゑふたつ』と高田正子『花実』で俳人協会新人賞、今井肖子が『花一日』で日本伝統俳句協会賞という、才能ある三人の俳人を輩出したことで、わたくしには記憶に残る年になった。なかでも鴇田智哉には傑出した新しい才能を感じた。

モーリス・メルロー=ポンティは『知覚の現象学』の中で【事物の命名は、認識のあとになってもたらされるのではなくて、それはまさに認識そのものである】と述べているが、鴇田智哉が「電気」と言うとき、その命名はまさに認識そのもので、「電気」という言葉が自分で自分を指し示すようにそこにひとつの世界を現わす。「電気」と命名する事で、そこに「電気」という言葉自体が持つ意味が分泌しはじめ、読者はそこに「電気」という世界を見る。【光あれと言ひたまひければ光ありき】という神のような認識を持って登場した俳人を初めて見た。俳人になっていなければ、彼は教祖になっていただろう。その声は、居丈高ではなく【う す う す と】というように、静かな声なのがいい。



洗 ひ 髪 ゆ ゑ い き し ち に 火 、と 叫 ぶ  佐山哲郎

次は非常に騒々しい声を持つ俳句で、いわゆる飛んでる俳句。今は行っちゃった俳句と云うのだろうか。しかし、わからない=つまらないにならないのは、関係妄想症のようなイメージの連鎖のスパーク力で、この【洗 ひ 髪 ゆ ゑ】という滑り出しは、俳句は自由だということを証すアリバイのようにドキッとさせる。

吉増剛造と谷川俊太郎の二人は日本では数少ないプロと言い切れる詩人だと吉本隆明が言っていたが、吉増剛造がスパイラル状に言葉を自動書機のように増殖させる天才なのに対して、谷川俊太郎はデビューしたときから恐ろしく抽斗の多い整頓された言語登録機のような天才で(なにせ大江健三郎が『万延元年のフットボール』で【本当のことを言おうか】という処女詩集『二十億光年の孤独』の一節をテーマにしたぐらいだ)、年季が長い俳壇ではこういうめくるめくような天才は、ゲートボール文芸に天才は似合わないよなと腑に落ちてしまうところがあるが、さしずめ揚句などは谷川俊太郎的言葉遊びの天分がばらまかれている。

昔、NHKテレビで「みんなのうた」が始まったとき、これがみんな素晴らしく面白く、またアニメーションが楽しかったが、その第一回目の歌が『誰も知らない』という楠トシエの歌で、そのなかに揚句の【い き し ち に 火】というフレーズが出て来たと記憶する。確か【お星さまひとつ、プチンともいで、こんがり焼いて、急いで食べたら、お腹こわした、イキシチニ、ヒ!誰も知らないここだけの話】と、こういう歌だったが、おお、今でも歌える、もう随分昔の歌なのに。で、いま検索したら、1961年の歌で、作詞:谷川俊太郎、作曲:中田喜直、アニメ:和田誠だった。というわけで、「谷川俊太郎的言葉遊びの天分」と持ち上げたが、撤回。しかし、「火」によって、「洗ひ髮」と「しち」と「叫ぶ」で、八百屋お七が浮かぶ、そういう変わり玉のような面白さを持った「おとなのうた」である。



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小野裕三 



棘 の あ る 草 の ま は り の 梅 雨 晴 間   村田篠

名の草枯る、という言葉が歳時記を引くと出てくる。これを最初に見たときに、変な言葉だと思った。名のある草の枯れることなどというような説明があったりするのだが、と言っても正確に言えばどんな草にでも本当は名前がある。だが確かに我々は、日常的に「名のある草」と「雑草」とを大別してしまっていることも事実かも知れない。「名のある草」「名のある花」の裏には、無数の「名なき草」「名なき花」がある。なんだか脚光を浴びない地味な演歌歌手のような雰囲気で、ついつい応援したくもなる。

そんなことを考えていると、この句に出てくる「棘のある草」が妙に面白く思えてくる。あえて名を名乗っていないところを見ると、あの「名なき草」の一派かも知れない。まずは「わざわざ名乗るほどの者でもありません」との低姿勢を維持しつつ、しかし名はないながらもちょっとした特徴を説明することでその低姿勢な雰囲気から一歩だけ踏み出している。しかも、そのいささか控えめな自己主張が「棘」。「わざわざ名乗るほどのも者でもありませんが、特徴としては棘があります」という、自虐的なのか攻撃的なのかよくわからないスタンスが可笑しい。



分 身 の や う な 冬 瓜 も ら ひ け り   山口東人

冬瓜とは不思議に幾何学的な野菜という印象があって、普通の野菜とはやや毛色の違う句ができることが多いような気がする。その何かこの端然とした佇まいに、意思めいたものを持っているように感じさせたりもする。とにかくどこかミステリアスなところのある野菜である。

その冬瓜が、「分身」のようだと言う感覚はよくわかる。冬瓜の持っている幾何学的な物質感と、その中に宿されているかのような意思性は、「分身」めいて感じられることもあるだろう。この句は、配合や斡旋の作品ではなく、「冬瓜」という本質だけを一途に詠んだ句である。冬瓜に対する把握の的確さと、それを一途にまとめた形式が相乗効果となり、作品全体に力強さを与えている。



少 年 が 必 ず 落 ち る ゴ ム ボ ー ト   遠藤治

俳句的に言うと、「みな」「すべて」とか「必ず」とかは便利なツールの一種とも言えるが、それだけにある種の逃げである場合も多い。AがBという状態であるというだけではつまらないものも、AはみなBという状態である、と言っただけで俄然面白く感じられたりするからだ。この句もどうだろう。少年がゴムボートから落ちたというだけではまさに只事でしかないだろう。それが、「必ず」の一言が入っただけでぐっと時空が広がり、むくむくと連想が働き始め、どこか物語の端緒すら感じさせるようになる。

とは言え勿論、「みな」「すべて」「必ず」を使えばいつも成功するというわけでもない。ある種の安易さが見え透いてしまう場合もあり、それが「逃げ」ということにもなる。この句の場合成功しているのは、少年がゴムボートから落ちるという、その様自体がどこかコミカルで明るい動きを示唆している点だ。しかも「必ず」と言われたことによって、読み手はその光景を複数想像してしまう。どこかモノクロの喜劇映画にも似た、光景というか動作自体のさまざまな面白さが読み手に伝わってくるのである。



有 象 無 象 神 輿 の 後 を 付 て い く   寺澤一雄

内容的には当たり前というか、神輿なのだから祭などの情景なのだろうし、その周りにいろんな人が付き従っていくのは、当然といえば当然の光景だ。この句の成功の鍵は「有象無象」にあるのだろう。神輿に付き従っていく人々、それを敢えて「有象無象」と濃く詠んだところが、何か不思議な連想を誘う。読んでいて、いささか起伏のようなものさえ感じてしまう。起伏というのは、最初に「有象無象」と出てきて、次は何が来るのだろうと思ったところに神輿に付き従う人々という、ややオチめいた展開が待っているという意味だ。一句の中のこの起伏がなかなか楽しめる。

そしてさらにいろんな想像も働きだす。「有象無象」と敢えて言っているからには、これは人間だけを指しているのではないのかも知れない。犬とか猫とか、いやあるいは虫とか鳥とか風とか、いやいやあるいはもっと目に見えないような何か、そのようなものもこの「有象無象」の中には入っているのかも知れないと思わせる。「有象無象」と言ったことによってぐっと景が広がり始めるのだ。



ス ピ ノ ザ は レ ン ズ を 磨 き 天 の 川   田中亜美

哲学に明るいわけではないので、スピノザが数世紀ほど以前の哲学者であるという以外にはあまり詳しい知識を持っていない。だが、その哲学者であるはずのスピノザがレンズを磨いているという、まずその様がいかにも面白い。確かにあの頃の哲学者は、神学者だか自然科学者だか判然としないようなところがあって、そんな雰囲気もこの句には漂っている(そういう意味では、「天の川」という、神学的だか哲学的だか自然科学的だかよくわからない存在が季語としてよく働いているのだろう)。

Wikipediaで調べてみると、どうやらスピノザがレンズ磨きの技術を身につけていたのは本当のようで、ただしレンズ磨きによって生計を立てていたというのは誤伝、という説明がある。史実はともかく、確かにこの句の中では輝く星空の下でスピノザは一心にレンズを磨いている。その像だけは、確実なものとしてこの言葉の中に存在している。



蚊 の と ほ り 抜 け た る あ と の 背 中 か な   鴇田智哉

彼が俳句研究賞を取って世に出てきたとき、僕はとても新鮮な印象を持った。いや、新鮮というのはどこか語弊があるかも知れない。新鮮というと、新進気鋭というか、挑戦的というか、どこか旧世代的なものに対する画然とした決別みたいなものを含意しているかも知れないからだ。彼の句はそういうのでもない。一番正しい評は、どこかはぐらかされたみたいな印象、というのが合っているような気がする。旧というでもなく、新というでもなく、どこに足場を置いていいのかよくわからないような、すべてに通じるようでもあり、すべてから離れているようでもあり、それが「はぐらかされた」という意味である。勿論、いい意味だ。

この句を読んだとき、その最初に彼の句に出会ったときの印象を思い出した。この句もなんだか、新とも旧ともつかない、どこかはぐらかされたような印象を与える。この蚊はどこを通り抜けたのだろうか、なんだか本当に人間の身体をするりと通り抜けてしまったような気がする。と、本人に聞いてもきっと「ふ、ふ、ふ」とはぐらかされてしまうに違いない。



半 夏 生 魚 は 鱗 を 脱 ぎ に け り   佐山哲郎

なんだか重心をどこに置いていいのかわからない、妙な句だ。魚が鱗を脱ぐというフレーズは面白くてそれ自体で確かな魅力を秘めているが、季語の斡旋次第では台無しになりそうなフレーズでもある。魚が鱗を脱ぐという、このイメージがどこか季感めいたものを孕んでいるからだ。季感ではなく、季感めいたものである。というのは、具体的な季節がここから浮かび上がってくるというよりは、個々の季語から季節が立ち上がってくる、あの瞬間に似た抽象的な動作をこのフレーズに感じる、という意味である。ふわっと空間が広がっていくような、あの瞬間だ。

そしてそのようなフレーズに対して、斡旋した季語が半夏生。微妙だ。成功しているのか成功していないのかもよくわからない。半夏生という季語自身がそもそもどこか手がかりに乏しい季語でもある。だが、少なくとも失敗はしていないだろう。フレーズが持っている季感めいたものに対して、季語が一歩引いているような印象があって、そのことで結局は全体のバランスをうまく取っているのかも知れない。それが、重心をどこに置いていいのかよくわからない、と言った趣旨である。



未 発 表 句 稿 あ り け り ね ぶ の 花   媚庵

たまに有名な作家などの未発表原稿が発見されてニュースになることがある。やむをえない事情を除き、たいていの場合は本人が未発表にしているのには理由があって、つまりはそれほど質の高い作品ではないというケースが多いのではないだろうか。だが、時に未発表原稿というものは数奇な運命を辿ることもある。有名な話はカフカの例だろうか。未発表原稿の焼却を遺言に死んでいったカフカの原稿を、友人のマックス・ブロートはその遺言に反して再整理し作品として発表した。『アメリカ』『審判』『城』なとがそれに当たるという。こんな具合に、未発表原稿という存在自体がどこか数奇な雰囲気を持っているのだ。

この句では未発表句稿ということで、明確に俳句作品と特定されているものの、未発表原稿全般の持っている濃厚な雰囲気は健在だ。これまで数奇な運命を辿ってきたか、あるいはこれから数奇な運命を辿ることになるのか、発表されることを待っている言葉の運命が頭の中を駆け巡る。そして、合歓の花。数奇な運命にはぴったりの花ではあるまいか。



夏 至 の 日 の オ ペ ラ グ ラ ス に 嘆 き の 場   菊田一平

結構、オペラは好きで、1、2年に一度は見に行く。DVDやCDも結構持っている。そんなに薀蓄を語るほど音楽の知識も技術もないが、オペラは観ていて、あるいは聴いていて、楽しい。嘆きの場面は、きっと歌も盛り上がるハイライトシーンのひとつなのだろう。歌い終わった後に「ブラボー」の声が飛ぶような、そんなシーンのはずだ。オペラグラスで観ているのだからきっと、天井桟敷だかなんだかそんな辺りだろう。レンズの向こうに遠くある役者たちはしかし、今を時とばかりに歌声を高らかに響かせているのだ。まさに、この瞬間のために今までの舞台があったのだとでも言うように。

この句、季語が非常によく効いている。暑い盛りというにはちょっと早い、蒸し暑くなり始めたくらいの頃だろうか。ぎっしりと埋まった劇場は、それでも充分なくらいきっと暑い。そして今まさに訪れた、レンズの向こうのクライマックス。それを俳句的な瞬間にしてしまった作者の力量に拍手。



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