2007-09-02

浜いぶき 内側と外側

浜いぶき 内側と外側


大 花 火 痩 せ た 財 布 の よ う に い る   大石雄鬼


花火というものは不思議なもので、たとえば広い河原などで打ち上がるのを見ていると、それを見上げている自分の“存在”にふと意識が向くことがある。

それはたとえば、美術館で絵を観たり、映画館で映画を観たりという(対象の存在のみに集中する)ときにはあまり起こらない。空と向き合っているということと、もしかしたら関わっているのかも知れない。

作者はそんなときに見つめた自分を、こう捉える。「痩せた財布のように」「いる」

財布はきっとくたびれて革が柔らかくなってしまっており、端は擦り切れているのだろう。そしてその細長い物体に、たぶん作者はとくに愛着ももっていない。

でも、ここに「いる」自分は、その財布を確かに知っている。実際に持っているのではないかも知れないが、中身の金額まで思いを致さないくらい、確かにその財布を“わかって”いる。

確実な存在の把握が、結びの「いる」を響かせる。「立つ」でも「見る」でもなく、「いる」。それは言ってみれば発見であり、外部からの注目である。自分の内側に耽溺した実感ではない。内側に対して、ちゃんと外側から着目している、というのか。

巨大な人工物(花火)が、空に華やかにひらく。それを見上げる、自然物である“はずの”自分。



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