【週俳4月の俳句を読む】
しずかに春が
浜いぶき
譲られしふらここのまだ揺れやまず 矢野玲奈
ぶらんこは、公園のなかでも人気の遊具だ。大抵、いつもこどもの列ができている。ひとりのこどもが、ぶらんこを次の子にゆずる。元気のいい男の子だったのだろうか、彼は勢いをつけたまま、ぴょんっと前に跳んでぶらんこを降りる。待っている子は、少しおとなしい女の子だったのかも知れない。そのぶらんこは、なかなか揺れやまない。鎖を掴もうとしても、上手に取ることができない。女の子はそこに立ち尽くして、ぶらんこが揺れやむのを待っている。
この光景を見ている作者は「大人」である。譲ってもらったぶらんこに乗ろうとして、でも、鎖をまだ掴めない子どもに、幼い頃の自分を重ねている――のかも知れない。けれど、そうではなく、「今」の作者自身の何かが投影されているように自分には感じられた。そして、それが何なのか明かされていないところが、この句を支えているのだと思う。
慣性で振れつづけるぶらんこの、その揺れの中に、作者は何かを見つめている。飛び交っているはずのこどもたちの声は、そこには聞こえていない。鎖が立てる金属音がきしきしと鳴る。譲ってくれた子は、もう、どこかに走って行ってしまった。砂埃がちいさく足元に舞う。辺りには、しずかに春が満ちている。
第206号 2011年4月3日
■ひらのこぼ 街暮れて 10句 ≫読む
■天野小石 たまゆらに 10句 ≫読む
第208号 2011年4月17日
■矢野玲奈 だらり 10句 ≫読む
■福田若之 はるのあおぞら 10句 ≫読む
第209号 2011年4月24日
■関根誠子 明るい夜 10句 ≫読む
■羽田野 令 鍵 10句 ≫読む
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2011-05-08
【週俳4月の俳句を読む】浜いぶき しずかに春が
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2009-04-12
〔週俳第100号の俳句を読む〕浜いぶき いつもよりふかく息を
〔週俳第100号の俳句を読む〕
浜いぶき
いつもよりふかく息を
母のもの少し片づけさくらどき 久保山敦子
「少し」という副詞が、「母」がもうこの世にはいないことを暗示している。母ののこした衣類、装身具、本。そのほかのこまごまとした持ち物を、少しずつ整理していく。でも、いつか全て、ほんとうに片づけ終わってしまったら。窓へ向けた目に、さくらの花が映る。このさくらもやがては散り、散った花びらもいつしか掃き清められて、風景はまるで何ごともなかったように続きをはじめることを、作者は知っている。もしかしたら、それを分かっているから、「少し」しか片づけられないのかも知れない。
けれど、そのようなことは、どこにも書かれていない。その感傷の見えなさが、この句の美しさだと思う。
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卒業の木々の匂ひのただよへる 鴇田智哉
「木々の匂ひ」という表現に、卒業期がまだ少し肌寒いことを思う。
「今のこの時間(瞬間)を、このさき何度も思い出すことになるだろう」と直観するとき、人は、いつもよりふかく息を吸い込む。そのとき屋外にいれば特に、周りの空気を大きく胸に吸い込むだろう。だから、(ほんとうは、木の芽が吹く頃は毎年同じ匂いがただよっているのだけれど、)学校を出るという時になって、卒業子はその匂いをさまざまな思いと共に「吸いこむ」のだ。
でも、この句ではあえて、「ただよへる」と言っている。自身の繊細な感覚の相違を否定するように、まるでいつも通りだよ、というように。そこに彼の門出への自覚と、その自覚に対するほんの少しの恥じらいがのぞくようで、面白い一句だと感じる。
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芽柳やエンジンの音はじまつて 村田 篠
「予感」のある句。柳の芽が、成長してさみどりに細長く揺れ合う葉となる予感。エンジン音がはじまって、その音を低く続かせながら、バイクか、あるいは自動車が春のアスファルトを走り去っていく予感。その予感が達せられるまでのスパンには差があるし、植物と人工物という違いもあるけれど、どことなく長閑でひろびろとした空間のイメージのなかで、時間をかけてながく伸びていくはずの両者が心地よく響き合う。
「はじまって」という止め方は、句のなかで、そのふたつの予感を永遠のものとして昇華しているのかも知れない。
≫ 週刊俳句 第100号
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2009-03-22
2007-12-02
第32号 2007-12-2 10句作品 テキスト
浜いぶき 冬の匂ひ
枕木にわづかなくびれある霜夜
冬萌や米軍基地は囲はれて
帰り花バス降りてゆくひとの老い
暖房や私用電話のひつそりと
枯葉つもりて水のなきプールかな
国道に冬の匂ひのしてをりぬ
ふかぶかと白菜切らる両肩に
星しげし湯豆腐の湯の澄んでをり
アイロンに水足しにけり冬うらら
山眠るけものの目尻濡れてをり
小池康生 起伏
しぐるゝや川面近くに別の風
標識の傾いてゐる帰り花
ひと滑りして渦を巻く落葉かな
引き裂けど落葉は銀杏なるかたち
凩や割箸ぎゆつと圧し込まれ
牡蠣の身に冷たき海の運ばるる
斯くなるもボディコンシャス冬帽子
バス停にマフラー堅く括らるる
石跳びぬ蹴るともなしに冬日向
大枯野起伏を凝らすことしきり
田島健一 白鳥定食
海鼠腸や人は星雲ぞとおもう
鏡中のこがらし妻のなかを雲
白菜が祖母抱きしめて透きとおる
花屋の花はどれもてのひら冬青空
箱買いの蜜柑の隙間ねがいごと
子の言葉殖ゆ綿虫の一大事
顛末の朝のしずけさ寒卵
壺を置く婚前の狩いまはじまる
白鳥定食いつまでも聲かがやくよ
たましいの静かな試食十二月
2007-09-02
浜いぶき 内側と外側
浜いぶき 内側と外側
大 花 火 痩 せ た 財 布 の よ う に い る 大石雄鬼
花火というものは不思議なもので、たとえば広い河原などで打ち上がるのを見ていると、それを見上げている自分の“存在”にふと意識が向くことがある。
それはたとえば、美術館で絵を観たり、映画館で映画を観たりという(対象の存在のみに集中する)ときにはあまり起こらない。空と向き合っているということと、もしかしたら関わっているのかも知れない。
作者はそんなときに見つめた自分を、こう捉える。「痩せた財布のように」「いる」
財布はきっとくたびれて革が柔らかくなってしまっており、端は擦り切れているのだろう。そしてその細長い物体に、たぶん作者はとくに愛着ももっていない。
でも、ここに「いる」自分は、その財布を確かに知っている。実際に持っているのではないかも知れないが、中身の金額まで思いを致さないくらい、確かにその財布を“わかって”いる。
確実な存在の把握が、結びの「いる」を響かせる。「立つ」でも「見る」でもなく、「いる」。それは言ってみれば発見であり、外部からの注目である。自分の内側に耽溺した実感ではない。内側に対して、ちゃんと外側から着目している、というのか。
巨大な人工物(花火)が、空に華やかにひらく。それを見上げる、自然物である“はずの”自分。
津田このみ 空 蝉
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/08/blog-post_2112.html
谷口智行 おんどれ
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/08/blog-post_26.html
中嶋憲武×さいばら天気 「一日十句」より31句×31句
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/08/3131.html
なかはられいこ 二秒後の空と犬
大石雄鬼 裸で寝る
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/08/77.html
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