2007-12-30

『俳句年鑑2008年版』を読む(3)

【俳誌を読む】
『俳句年鑑2008年版』を読む(3) 「合評鼎談」ほかを読む

上田信治×さいばら天気




■俳壇動向(p254-)

天気●取り上げるような内容は、ほとんどないですよね。会議に提出する報告書みたいです。執筆者も、誰に向かって書けばいいのかわからない、といった感じなのだと思います。

信治●これは、スルーでしょうか。

天気●ひとつ笑った箇所があります。「日本伝統俳句協会の一年」(p258-)の初心者のための俳句教室のところで「初心者が右往左往することのないように」

右往左往って、すごい言い方だなあとw

信治●右顧左眄? そういう意味じゃないか。

天気●もうひとつチェック箇所。「現代俳句協会の一年」(p256-)の「五十周年記念事業として刊行した『現代俳句歳時記』を、キヤノンの電子辞書に組み込むべく作業中」だそうです。

「キヤノンの電子辞書は、買ってはいけない」。

この『現代俳句歳時記』、私が知るなかでもトップクラスのトンデモ歳時記。お笑い例句集といってもいいくらいです。

信治●気の毒に、キヤノン…。


■合評鼎談…総集編(p211-)

信治●まず「ホトトギス」が話題になってました。

筑紫さんは、もともと、内容的にも文体的にも無に近いものから、もっとも強く「俳句とは何か」を問う作品が生まれる、ということを書かれてましたから、合評鼎談で、日々月々に生まれる「ホトトギス」的俳句を閲するうちに、理論的確信を深められたのではないかと。

天気●稲畑汀子の「お降の音とはならず光りけり」を、3人ともベスト30に選んだという奇遇というか事件に端を発する話題ですね。「本当に衝撃的な結果でありました」(櫂)とありました。

私自身は、句作としての「ホトトギス性」を、結社ホトトギスを超えて偏在的なものと捉えているので(つまり、そこらじゅうにある)、こういう話題、正直言って、あまりピンと来ないんです。

ただ、もちろん、実感レベルではなく思念的なレベルでは、納得します。俳句って、ある意味、痴呆的に「無」みたいな感触をもったもので、またそれだからこそ美味しい、とも言えると思うので。

信治●つづいて総合誌の休刊の話題から、大輪さんが、定年後の団塊の世代の人は、結社になじめないことが多いようだ、そういう人の活動場所としても、総合誌の投句欄の役割はある、あるいはサークルでもグループでも、なにか受け皿があれは、70、80で大成する人が出てくるかもしれない、と。

天気●世代別のところで、ちょっと出た部分ですね。団塊の世代が初心者として、「俳句世間」に大量に参入してくるという…。んんん、話して楽しい話題じゃない(笑。

「そんなもん、知らん」と言いたいところですが、まあ、そういう方々には、あんまりエラそうなことを言わずに、行儀よく俳句を遊んでいただければ、と。

信治●まだ、そんなにお見受けしないですよね。200×年問題というのは、たいがい、あやしいところがあって。

天気●ええ。実際に、そんなに余暇需要が急増するのかなあ、という感じではあります。

信治●儲かりまっせ、みたいな話は、いいですね、別に、どうでも。

天気●はい。でも、俳句業界は、世間がそう言うんだから、そうなんだろうなあと、特需に期待しているわけで。

ただね、実際、定年を直前にした人たちが、新宿あたりの小さな句会で俳句をはじめて、という話は最近聞いたことはあるんです。その句会に「先生」みたいな立場で参加している人から。

櫂さんがこの鼎談で「くいさがってくる」うんぬんとおっしゃってますが、それと似たようなことをを聞きました。自分の句を、ダメと言われて、なかなか承服なさらないらしいです。出版社アガリの人とかが、特にタチが悪いらしいw。

信治●あ、そういう人たちが、いっせいにブログをはじめる、というのは…すでに?

天気●あるかも。

私もブロガーwですから、あまり言えませんが、中高年(と思しき)初心者が、痛々しい句をブログに載せて得意満面でいる、という光景は、近未来ではなく、すでに到来している現実かもしれません。

そういう言い方は誤解を招きそうですが、初心者が悪いわけではまったくない。ヘタクソな俳句が悪いわけでもまったくない。自作のイタラナサに気づかないことが痛々しいわけです。

そこはやはり、半世紀以上の「人生経験」のプライドみたいなものが、自分を客観視できなくするのかもしれません。自分の作ったもののダメさに気づかない、というよりも気づきたくない。さきほどの新宿の句会でいえば、「ダメ」と指摘されても、「それは先生個人の意見、自分ではダメな句だと思わない、いい句なんじゃないか」と信じきる。

ただ、こういうのはね、世代じゃないわけで…。

いまは、「団塊世代を貶しておけば間違いない」という風潮もあるので、その尻馬に乗るのもイヤなので…。

信治●同意。まったくです。

天気●俳句はすべて個人の資質、ということで。

信治●鼎談では、そのあと、結社の話、主宰の話、俳人の長生きの話などが、続きます。要するに、いまの俳句の「ゆるさ」についての問題意識が、ぼやっと提示されているような話です。

天気●俳句やってるお年寄りは、たしかにお元気ですね。

信治●筑紫さんが「俳句で殉職したような人たちはある時期以前はたくさんいたような気がします」と言っている。「俳人は長生きしちゃいけないんです」と。

よく作曲家は短命、画家は長生き、というようなことを言うんですが、ルノワールの晩年みたいに、自分の好きなあたりを、なでまわしてるみたいな創作活動は健康にいいのかも。

天気●なるほど画家ですか。老成して、熊谷守一みたいな句を詠んでいただけると、嬉しいんですが。

信治●熊谷守一、いいですね。ある種の洗練の極み。

天気●句会とか出てくるんじゃなくて、その人の俳句が読みたいんなら、自宅の縁側で五七五をつぶやくのを、横でずうっと待つしかない、とかね。熊谷守一が日がな蟻を観察しているみたいな…。俳句もそこまで行ってほしい。

でもね、見ていると、「ああ、いい感じに老成!」という感じより、むしろ、まだまだ娑婆っ気たっぷりで、「人間、なかなか通俗から脱却できなんだなあ」と実感させられるケースも多いように思います。その意味で、元気、という…。

信治●年齢別を読んでいて、70代後半から、そうとう「抜けてきてる」かんじ、いろんなものが「脱落してきてる」かんじがありました。

俳句には、ボケとかダメに対する「趣味」、つまり審美眼の蓄積というものが、ありますよね。

天気●はい。80代、90代は注目させていただいてるんです。

信治●じゃ、もうちょっと、俳人は短命でいいんじゃないの、という意見に、天気さんは与しないですか?

天気●与しないですね。もちろん、いろんな人がいていいんですが。

寿命はともかく、俳句で自分をすり減らして、というスタイルが、どうも、ね。それって俳句的じゃない、と思ってしまう。

これは単に趣味の問題ですが、ちょこちょこっと俳句を捻って遊ぶ、ほかのたくさんの愉しみと同じに、というのが、私の好きなスタイル。職業俳人に、なんの魅力も感じませんし。

信治●なるほど。

でも、ものすごくヘンな書き方を発明して、すぐ死んじゃう、あるいは消えちゃうみたいな人にも、いてほしいです。それは「週刊俳句」で顕彰したいw

天気●週刊俳句で、線香花火のようなキャリアにも目が届けば、それは楽しいですね。

俳句って、特に作句は、やめてもいいわけですよね。ところが、関わり続けないとダメ、みたいなところがあるようです。例えば「賞はとったけど、近頃見ない」とか、それがまるで「敗退」みたいに言われてしまう。

信治●鼎談は終り近く「読者」の話になって。

大輪さんが「文学の一つである以上、読者が、残すものを決めていくというようなことが、俳句の場合、出来たらいいなあと思うのです」と言っている。

結社というものが先生中心であることが、作者たちを「読者」として自立させることを阻んでいる、という話が、興味深かった。

天気●本質論ですね。

純粋読者になろうとしていた時期があって、と大輪さんがおっしゃっています。信治さんは、純粋読者である期間があったわけでしょう? そのあたり、どうですか?

信治●いや、いまだに、自分は、純粋読者でもあると思うんですが。「読む」ということは、自分が作ることとは関わりなく、自立した行為ですから。「純粋読者」という言葉があること自体が、俳句の残念なところだと思います。

天気●じゃあ、話題をちょっと変えて、読者が残すか残さないかを決める、というのは、俳句の場合、ある程度、成立できると思うんです。短いから。

小説だと、絶版になれば忘れ去られてしまう。でも、俳句は、人の頭のなかに残っていくことも可能だし、あるいは、ネットに戻りますが、例えば、週刊俳句で、「この句はいいよねえ」と10年間、言い続ければ、残るかもしれない。

制度の背景がなくても、「自然残存」みたいなことが可能かもしれない、なんて思います。

信治●「自然残存」、いいですね。

ただ、いま残っている俳句も、これまでずっと読者が残してきたと思うんですよ。

天気●なるほど。昭和の俳句のいくつかを、怠惰な読者の私までが何句かソラでいえるのは、そういうことなんですね。

信治●大輪さんの言っているのは、たとえば、何を残すかは読者が決める、というような、享受する側の力が、すごく弱くなっているように見える、ということだと思うんです。

享受する側が弱くなっているというのは、制度のほうが強く見える、ということかもしれない。

天気●ただ、制度というのが、ありていにいえば、ナントカ賞とか、結社内で有力な作家であるとか、総合誌に載るとか、そういうことだとしたら、その威力は、もうあまりないとも言える。

信治●ある一句に、あるいは、ある新人の登場に、俳句愛好家たちが騒然となり、こぞって話題とする、みたいなことが、まあ、ありそうになくて……それが、シーンの衰えということなんでしょうけど。

天気●そういわれれば、そうだ。評判が句を残す「自然残存」という捉え方は、空想的すぎたかもしれません。

信治●それは、もう、芸術運動とかどこにもないから、でもあろうし。ジャーナリズムが機能してないということでもある。目利き待望論にもつながりますが、やっぱり、それはどこかの部門が弱いと言うより、全体的な衰えですよね。

天気●「残る文学」という捉え方は、すでにちょっと純朴すぎるかもしれません。

信治●いえいえ、「文学」という概念を棄却するのは、いつでも、できますから。人類の希望として、「残る」俳句、というイマージュも、残しておきたい。

天気●大輪さんの発想、ひとりひとりがアンソロジーを、というあたり、インターネット的ですね。はからずも、かな?

これはすこし興味深い。すこしまえの「インターネット民主主義」的発想ではありますが。

信治●「ひとりひとりがアンソロジーを」という発想には、俳句の短さからきているんですね。丸ごと引用できますし、何度も読むのが苦にならないですから。

俳句コレクターの楽しみですね、柴田宵曲か加藤郁乎かという。

天気●個人アンソロジーが情報として集積されるのは、ネットをおいて他にない。そして、短いって、大きな意味がある。

「週刊小説」とか、絶対にできないでしょ? 信治さんと私で、もしやろうとしたって。

信治●できない。「週刊小説」ありましたけど、実業之日本社。

個人アンソロジーが情報として集積される、しかも俳句だからそれが可能、なんて、なかなか斜め下から出てきた希望というかんじでいいですね。

天気●その集積が、制度的な評価や淘汰とはまた別の、もうひとつの軸になる可能性がないとはいえない。

信治●文芸を制度としてみると、「作者」「読者」「出版もしくはジャーナリズム」の三極構造だと思います。そして、俳句を支える制度は、三極それぞれ、縮小、あるいは力を弱めている。つまり、いま俳句という文芸「制度」がひじょうに力を弱めている。これは、だれでも知ってることですよね。

そこで、メディアの変化が、プラスのインパクトあるいはフィードバックを「読者」あるいは「ジャーナリズム」に引き起こさないか。そんな希望があって、今年の「年鑑」は、巻頭提言にインターネットの話題が出てきたのでしょう。

個々の作品は、その制度あるいは構造の「上」に生まれるものですから、インターネットが作品に直接与える影響をうんぬんするのは、やはり、ちょっとピントがずれている。

天気●同感です。

ただ、インターネットの浸透が、「読む」という部分に好影響を与えるかどうかについて、半分は楽観的ですが、もう半分は、どうなのかなあ、と。

「どうなのかなあ」というのは、悲観というのではなく、つまり、よく見えない。

話はちょっと飛躍するかもしれませんが、私の場合、印刷物から俳句に入っていない。何も知らずに句会からスタートして、長らく、その遊び方を続けていた。だから、出版やジャーナリズムという視点を、奇形的に欠いているのかもしれません。

信治●ぼくは出版された俳句を読むことから入ってるし、なんか「表現」てのは、不特定多数相手にするものだろ、という先入観があって。

「出版あるいはジャーナリズム」が、俳句という文芸に果たす役割は、表現を不特定多数に媒介することですから(一般の文芸のように、お金を媒介する役割ははたしていない)、ジャーナリズムふくめて俳句が盛り上がってくれると、嬉しいです。

ともかく未知の作者に会えるチャンスが、重要。

天気●私は、盛り上がってもらわなくても、いっこうにかまわない(笑。

信治さんのおっしゃる「不特定多数を相手にした(カギ括弧付きの)表現」というものに、いまだにアレルギーがあるのかもしれません。

信治さんと私は、スタート地点が対照的ということなんだと思います。どちらが稀少で価値が高いかといえば、もちろん信治さん型。

信治●いやいやいや。むしろ、おたがい、珍獣かもしれませんw

天気●われわれは対照的なのでバランスがいい、ということにしておきましょう。

こんなとこですか。なんか、こちらの話題で勝手に展開して、「鼎談を読む」になってないw

信治●はい、こんなところで。おつかれさまでした。



(了)

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