2007-12-30

堀本 吟 もっと奔放な定型律があらわれてもいい

【週俳12月の俳句を読む】
堀本 吟
もっと奔放な定型律があらわれてもいい




1)季語は環境デザインの装置

この雑誌(?)に出てくる作家の年齢は何歳ぐらいが多いのだろうか?(ときどきは著名な年配者を呼び出しバランスを取る心憎さを併せ持っている編集ぶりだが)。

今回は10句作品、数十句、かなりハード。工夫を凝らしてはいるが、オーソドックスな俳句が多い。おおむねおとなしいが、微妙な差異を見てほしいと主張している。

まずほとんどが当然のように季語を使用。多数者の安定感。とうぜん、心地よさがすこし物足りない。物足りない感覚と、一方ふつうであることの気楽さを、私はうまく言い止められるだろうか。冬の匂いを嗅ぎ取るたくさんの風景を前に、どういうところで個性を見分けたらいいのかな、などと逡巡する。

  暖房や私用電話のひつそりと     浜いぶき《冬の匂ひ》
  アイロンに水足しにけり冬うらら       同

お昼休みに上司は行きつけの食堂で天丼を食べに。午後の仕事の開始までにはまだすこし。チャンスである、久しぶりにあの人の声を聴きたい。公私混同もこのていどなら、と見逃してもらえる範囲を心得て、でもやはり遠慮してすこし声を低めてかけている。表情が見えるようだ。

アイロンの句は「冬うらら」を最後に持ってきたので手を休めて窓の外を見る仕草が活きる。

戸外には、さすがにいろんなものがある。「米軍基地」も「国道」も風景の一部。世はこともなし…であるようだが。見慣れているのに奇妙な違和感があるところをキャッチ。さりげないが、異様な風景、人工的ですらある。

 冬萌や米軍基地は囲はれて   →  「米軍基地」
  国道に冬の匂ひのしてをりぬ  → 「国道」
  枕木にわづかなくびれある霜夜 →  「線路」

「 」に取り出した場所がすこしヘンである、一種の境界地もしくは場所ならぬ場所、定住の場ではない空間がある…のに。それが、季節の気配に囲まれて、この「日本」という土地の輪廓をつくっている。季語は場所を定めがたい違和の土地を囲い込む環境デザインの装置である。


2)食べることの奇怪さ

当たり前すぎる一日の終わりかたは同じみたいでも、夕餉のおかずは家ごとに違う。夕方はやはり寒くなって星があんなにたくさん綺麗だ。今夜はやはりあたたかなもの。湯豆腐なんかいいな、ということでいぶきさんの食卓では、

  星しげし湯豆腐の湯の澄んでをり  浜いぶき

煮えたぎっている湯豆腐鍋の「湯」を「澄んでいる」と感じる繊細さが独特。

かたや、お隣の小池さんちでは。今日は、新鮮な牡蠣。

  牡蠣の身に冷たき海の運ばるる   小池康生《起伏》

「牡蠣」の実肉に、冷たい海が運ばれたと感じる触覚に注目した。この牡蛎は、鍋物ではなく、生牡蠣、酢牡蠣のメニュー。舌先にひやり。クセになりそうな味わいである、(酢牡蠣は、あの冷たさがすこしにがてだが。しかし、かつて、河東碧梧桐の…

  酢牡蛎の皿の母国なるかな     河東碧梧洞

…をみせてくれた和食膳の風景には、おおいなる感動を覚えた。

また、かの有名句。

  水枕ガバリと寒い海がある     西東三鬼

この「水枕」の中の海の喩を、小景の中に大景を、近景に遠景を組み合わす、この手法を自覚的にかどうかは解らないが、引きずっているような気がするが、食べることは根源的な行為である。食材も句材もたくさんあるし、その料理法もさまざま、雑食主義の私はひとつの食べ方だけではなく「様々な意匠」にであいたい。 


3)不安な花「帰り花」のとりあわせ

  標識の傾いてゐる帰り花    康生

  帰り花バス降りてゆくひとの老い    いぶき

どちらもそつがない。し飛躍がない、だから帰って、「老い」「傾いている標識」の危うさと「返り花」の生の華やぎと危うさをむすびつける。こういうのは同工異曲とは言わないのだろうか? でも、心象の詩になっている。


4)比喩の個人差

  海鼠腸や人は星雲ぞとおもう   田島健一《白鳥定食》

急に別の空間がでてくるところは「牡蠣の身に冷たき海の運ばるる(康生)」 に似ているとは思わないか? 冬の食卓に冷たい生ものを出す。ここでは形状と触覚から、宇宙が出現。個人差というか、スケールが拡がっている。

  白菜が祖母抱きしめて透きとおる  健一

これは、おもしろい。「白菜」に巻絞めされる祖母というブラックシューモア。しかし愛情がある。十句ぐらいでその人の個性を決めるのはむりというものだが、田島健一は、先の二人とはやや違う日常風景をみている。あえて云えば、比喩の多用を活かして。次のような句とも並べてみる。

  蛾の如き痣がひとつや冬籠    太田うさぎ《胸のかたち》
  ふりむけばメロンパン的冬霞        同

  烈日の剥片として白鳥来     冨田拓也《冬の日》
  隼や日の矢の中をさかしまに        同

うさぎさんは直喩が巧い、健闘しているが、また冨田拓也の求道の俳句は、だんだん手慣れてきて帰って危機を感じるのだが、今月のメンバーの中では、モチーフよりテーマ性がやはりめだつ、若手の中では、新興俳句のもとめた哲学、観念内面、を書こうとしている貴重な人材。新興俳句は、この内面の追究から卓抜な比喩を開発したが、彼のばあいは、赤尾兜子のような感覚に沈むタイプではないということもあり、テーマを探している、求道の道筋がはっきりしすぎるこういう場合には、比喩に頼るときも単純明快な直喩をよほどうまくみたてなければかえって主題が分散する。ここでは鳥を太陽の欠片とか日光の矢と見立てて捉えることで、飛翔するものの緊張感をうまく伝えている。もちろんここ止まり、であるはすがないことを期待する。

  木の中のやはらかき虫雪降れり    拓也

こういう暗喩へもゆける想像力なのだから。


5)白鳥定食。烈日の断片 …第32号

「白鳥」を例にすると、田島健一、冨田拓也は白鳥をメタファにしている。さきの冨田の白鳥はコスミックだが、田島の白鳥は究めて地上的だ。

  白鳥定食いつまでも聲かがやくよ    健一

田島のは、全編その隠喩も含めて「白鳥」が顕れるこの喩が成功している。「白鳥」はまた「聲かがやくよ」を導き出し、誰の「聲」なのかと不思議がらせる。「白菜」は「祖母」を抱貴一体となり(老いたるレとゼウスの姿か)、妻のうつる鏡の中に降る木枯らしや白い「雲」であったりもする。多くのモノと連鎖してうまれる多くのイメージの絡みで十句ができているようだ。巧まざる諧謔の視線もいい。一句の中の動きも目を引く。で、読んでいて愉しい。これは日常のただ事からのひとつの脱出法である。面白いのは、次の週にでた〈烈日の剥片として白鳥来 ・拓也〉や、中原徳子の句がその田島の十句の世界を覚えずに受けていることだ。

  白鳥よ種も仕掛もある夢よ     中原徳子 《朱欒ざぼん》


6)写生力

  文中の喧嘩の果ててより時雨    笠井亞子《page》
  行間を出て帰らぬ鴨となり       同

  富士壺の口寒月の照らしをり    相子智恵《幻魚》

穏やかな想像力と客観写生。こういう句柄は抵抗感がないのでとくに言うことはない。そのことばばがぜんぶそれぞれここに現れた理由を持っているようで、嫌いな句は無くなる。上手下手も関係ない、作者を知っていて、それはイヤなやつとか好きなやつということも関係ない。私にとってはそこにあるものほとんどが、ああこの人はそうなのか、すべてよし・なのである。次の句にも同じ感想。

  しぐるるや気持ち右向き観世音   矢羽野智津子《四〇二号室》
  湯の里の玻璃澄む山彦物産店       同

典型的な二句一章をつかって、観世音の気持ちをおしはかり自分の気持ちを重ねている。「しぐるるや」のおきかたが、気持ちいい。「気持ち右向き」とは。仏像の向きを言っているのかも知れない、が。

物産展のガラス窓が澄んでいたり、自分を取り巻くものが澄んでいたり、それを通して外側を見ているのである冬の透明感をあらわす工夫の点で、「星しげし湯豆腐の湯の澄んでをり・浜いぶき」のほうがやや上手か。


7)比喩で書くブラックユーモア

ブラックユーモアめいた、鋏のような感覚(でも「下半身」というのが恐い)。マンホールに街が落ちてゆく。地球は丸いから、「メロンパンみたいな冬霞」だとおもって安心して入り込んでいくと、世界の果てで突然落ちちゃうよ。

  極月の鋏と化せる下半身      中原徳子 《朱欒ざぼん》
  街並の落ちゆく冬のマンホール      同
  遁走の果て球体の冬霞          同
  マフラーや世界はかくもやはらかく    同

踏み込んだ大胆な言い止め方、生存の場所どこも安全地帯はないが、このふやふやの地球に感覚しているものの実感が出ている。形式の勝利というより詩的個性の勝利である。

仲寒蝉は、機知でまずひきつける。そこから、言葉の諧謔へ持ち込む。日常のいとなみみのうちに生じてくる単純な面白さを狙っている。

  真ん中に鼻の居すわる十二月     仲 寒蝉《間抜け顔》
  天袋より引きずり下ろす聖樹かな     同

だが、

  だんだんと泣き顔になる雪達磨      同

これなどは、ただごとからのひねり方が足りないような気がした。この人のように定型詩の才能のある人は、技法に手慣れてきたときに油断は禁物。


8)2008年はどんな俳句が出てくるのだろう?

以上、感覚のゆらめきに視点をあてれば、ここで話題になっている多くの日本人の生活のかたちである「郊外俳句」とだけいえない言葉への自由な触手もみえてくる。どこに住んでいようと言葉で日常性を異化すること。それがやはり表現を高めてゆく第一歩である。そして、今までの技法の財産を利用しながら、現在見える形の検証を通して、そこから世の中の形を幻想として変えてゆく、そういう言語の革命志向が、求められているのではないだろうか?

賀状書きも未だ、という歳末の時期に。私が持ちあわせていないデリケートな感覚や技法につきあう時間をかけるのも、業のようにたのしいが、しかし、もっと奔放な定型律があらわれてもいいのではないだろうか、とついつい期待する。




浜いぶき 「冬の匂ひ」10句 →読む
小池康生 「起伏」10句    →読む
田島健一 「白鳥定食」10句  →読む
太田うさぎ 「胸のかたち」 10句  →読む
冨田拓也 「冬の日」 10句  → 読む
相子智恵 「幻魚」 10句  →読む
笠井亞子 「page」 10句  →読む
中原徳子 「朱欒ざぼん」 10句 →読む
矢羽野智津子 「四〇二号室」 10句 →読む
仲 寒蝉 「間抜け顔」 10句 →読む



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