2008-01-06

12月の俳句を読む 羽田野令

【週俳12月の俳句を読む】
羽田野令そのように読むのは駄目だろうか 



白鳥定食いつまでも聲かがやくよ  田島健一


白鳥定食という解らないものがあって、妙に気になる句である。いつまでも消えない声の響きを伝える中七下五であるが、声という字も旧字の聲が使われていて、特別な声のように扱われている。「白鳥定食〜」と店の人が調理場へ伝えたのかもしれない。それを聞いた作者の中に声がいつまでもかがやいたのは、「白鳥」におよそくっつくことのない「定食」という言葉が続いているという違和からなのであろう。ちょっとした違和は新鮮である。それと白鳥の持つ清らかさとが読者にも不思議な印象を残す句である。


煤逃げの少女はフラフープの中よ  太田うさぎ


このフラフープは永遠に回りつづけるのではないのか、というのは私の妄想に過ぎないのだが、この句はそういう妄想を許してくれる。「少女死するまで炎天の縄跳びのみづからの圓(えん)駈けぬけられぬ」(塚本邦雄)の少女同様、この少女は無限に続く円環の運動の中から抜け出すことはできないのではないかと思う。

また、アンデルセンの『赤い靴』も思い出す。靴が勝手に踊り続け、少女は足を靴から抜くことが出来なくなってしまうという恐い話だ。教会に赤い靴を履いて行くというしてはならないことをし、おばあさんの看病をせずに踊った少女は、踊りをやめたくても踊り続けなければならなくなるのだ。塚本の歌では少女が縄跳びを出ることが出来ない理由は書かれていないが、掲句では煤払いを逃げてきた、いけない女の子なのだとある。年末の一光景を描いて「フラフープの中よ」と軽く言い納めているのだが、そのように読むのは駄目だろうか。


烈日の剥片として白鳥来   冨田拓也


烈日のイメージは色としては真っ赤である。灼熱の太陽の燃える日。一方、白鳥はその正反対にあり、どちらも反対の要素の極みにあるようなものである。空の中の白鳥の純白が、烈日のかけらであると言う作者は、相反する極限の中に共通するものを見ている。漢語がきりりとして美しい。


巨女冬夕焼を吸ひ尽す   中原徳子


フィリップ・ジャンティ・カンパニー『世界の涯て』に寄すと詞書がついている。知らなかったので検索してみた。何枚かの舞台写真も見たが、その中に太い足の赤い服を着た大きな女の人形の写真があった。人が突然人形に変わったりするそうだ。「朱欒ざぼん人形の肉ふくらみ来」がそれなのだろう。バルーンも使われていてテンポのいい舞台なのだそうだ。とても見たくなった。

掲句の「巨女」は、『世界の涯て』を知らなくてもいろいろな物語を思い起こさせる言葉だ。国来国来(くにこくにこ)と新羅の御碕から国を引いたという出雲国風土記をはじめとして、各地に残る巨人伝説、だいだら坊の話などを浮かべることができる。民話にある山姥が川の水を飲みほしてしまうそんな状景とも繋がる。夕焼けの空を飲み込んでしまう一大スペクタクルの句となっている。


裏口で鯨の肉を見せらるる     仲 寒蝉


見せている方と見せられている方との二者の関係の隠微さが漂う。捕鯨についての法律のことはよく分からないが、鯨の肉は本当はご法度ものなのだろう。二人の間にある物が肉という生々しいものであることで、場面の絵は完成される。裏口の持つ世界が申し分なく展開されている句である。この世界はなんとも言えない。



浜いぶき 「冬の匂ひ」10句 → 読む
小池康生 「起伏」10句    → 読む
田島健一 「白鳥定食」10句  → 読む
太田うさぎ 「胸のかたち」 10句  →読む
冨田拓也 「冬の日」 10句  → 読む
相子智恵 「幻魚」 10句→読む
笠井亞子 「page」 10句  →読む
中原徳子 「朱欒ざぼん」 10句→読む
矢羽野智津子 「四〇二号室」 10句 → 読む
仲 寒蝉 「間抜け顔」 10句 → 読む

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