上州の反骨 村上鬼城
第4回 農民の反乱「群馬事件」 斉田 仁
鬼城の住んでいた群馬県高崎から信越線で五つ目に松井田という駅がある。高崎を起点として、長野を経て直江津まで通じていた、まさに東日本の動脈といってもいい信越線であったが、一九九七年長野新幹線の開通によって、高崎~横川までは在来線、横川〜軽井沢は廃線、軽井沢〜篠ノ井は第三セクター、篠ノ井〜直江津は在来線と、まさにずたずたに引き裂かれた鉄道になってしまった、旧信越線の駅のひとつである。
というより、上毛三山(赤城山、榛名山、妙義山)のひとつ妙義山の麓にある町の駅といったほうが手っ取り早いかもしれない。中山道の宿場となっていた町である。この宿場の次は横川宿であり、ここから碓氷峠の登りがはじまる。旧信越線はこの駅でスイッチバックしていた。
この松井田駅が開設されるちょうど一年前、この界隈を中心とした農村一帯でひとつの事件が起きた。いわゆる群馬事件である。
今でこそ群馬事件としてその名が定着しているが、高崎へ行幸される予定の明治天皇を襲う計画などがあったとされ、戦前、戦中はほとんど封印されていた事件である。この時代になり、ようやくその全貌が明らかにされてきたが、資料の少なさもあり、初めは単なる養蚕農民の騒擾事件と捉えられていたふしもある。
明治十年代後半の厳しい経済環境の中、輸出生糸価格の下落等がこの地方の養蚕に頼っていた農民に大きな打撃を与え、過酷な地租に困窮した農民が立ち上がった事件である。同時代に起こった秩父事件などとともに、時代を象徴する重大な出来事と捉えなければいけないものなのではないだろうか。
この時、鬼城二十歳、耳疾悪化のため司法官などの道を諦めた二年ほど後である。この事件はすぐに、高崎連隊などにより鎮静されてしまうのだが、おりからの自由民権運動の高まりなどもあり、まさに多感な時代の鬼城に多大な影響を与えたことは容易に想像できる。
まだ句作への道に進んでいなかったこともあり、このあとの鬼城の俳句にも、直接この事件を詠ったものはない。しかし、後年の彼の作品の中には、往時の農民を詠ったものはいくつもある。
昭和十五年(一九四〇年)に刊行された「定本鬼城句集」より、あまり人に知られていない句をいくつか採録しておく。
麦飯に何も申さじ夏の月
稲つむや痩馬あはれふんばりぬ
山畑や石芋掘って立ちかがみ
南瓜食うて駑馬の如くに老いにけり
大男のあつき涙や唐辛子
伸餅や狸ののばしゝもあらん
小百姓桑も摘まずに病みにけり
女房の病起きたる蚕飼かな
老病の鶯きいてまた寝哉
手燭して蚕棚見せけり小百姓
大雪にうづまって咲く椿かな
高名な作品、たとえば「痩馬のあはれ機嫌や秋高し」「冬蜂の死にどころなく歩きけり」「生きかはり死にかはりして打つ田かな」などにくらべて、直接想いを表現せず、逆に軽い諧謔などで当時の農民を詠んでいる。
しかし、先に述べたような時代を背景にこれらの作品を読むと、私には単なる農民の描写とは違った一面も見えてくる。
困窮の中でやっと立ち上がった農民たち、やがてそれも国家権力によってほうむられていく。鬼城の作品の諧謔の中にそんなかなしみを見出してみたいのである。
こんな時代、上州にとって象徴的な出来事がある。高崎の隣、前橋市でのちに抵抗の詩人となった萩原朔太郎が生れている。この事件の二年後、明治十九年(一八八六年)のことである。
(つづく)
※『百句会報』第115号(2007年)より転載
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