2008-01-13

鈴木茂雄 「無形」を夢見る

【週俳12月の俳句を読む】
鈴木茂雄無形」を夢見る



2008年1月1日、新しい年が始まった。磁力の働いている空間を「磁場」というが、この『週刊俳句』というインターネット週刊誌の出現は、これからの俳句の「磁場」としての役割を果たすだろうという予感がしている。より強い磁場となるかどうかは、ここからすぐれた俳句が生まれるかどうかにかかっている。その『週刊俳句』が創刊された2007年最後の「週俳12月の俳句」を読もうとしてパソコンにむかっている。

今回の対象作品は10名100句。インターネット上に撒き散らされた言葉、ことば、コトバ……。ひたすら増殖するこれらのコトバの群れの中でもひときわその個性を主張して競い立とうとしている俳句は、誤解をおそれずに言うと、俳句の作り手のそのときの気分しだいでどんなふうにでも自分を変えることができる詩形だと思う。

俳句は定型だからこそいつも無形を夢見ているのである。写生とは、そんな俳句の一手法に過ぎないということも踏まえたうえでこうして眺めると、まるで冬の夜空に鎖をなす星座のようにひとつの具体的な存在として輝こうとしているが、いまはまだその前夜の混沌とした流星群のようだ。

これはパソコンの画面にむかって100句全体をざっと見渡した感想だが、さて今年はいったいどんな俳句と出会えるか。きょうが元日だからというわけではないが、背を正して一句一句の俳句と対峙したいと思う。

どうもわたしはふだん、意表を突く作品に出会いたい、ドキッとする俳句が見たい、もっと洗練された俳句はないのか、などと言っては俳句を読み漁る嫌いがあるようなので、これも正月だからというわけではないが、今回は一句一句が語りかける言葉に静かに耳を傾けてみようと思う。


国道に冬の匂ひのしてをりぬ  浜いぶき「冬の匂ひ」

浜いぶきさんの作品を通読してまず思ったのは、どこに住んでいる人だろう、なにをしている人なのだろう、ということだった。読み手をしてそう思わせるものが、手法としての写生にその主観が色濃く出ているからだろう。「冬の匂ひ」と題するこの作品には、線路を髣髴とさせる「枕木」や「米軍基地」が登場するかと思えば、人の乗降の少ないと思われる「バス」停、「暖房」の効いた事務所と思われる場所、それに、枯葉の積もった「プール」なども出てくる。しかも目尻の濡れた「けもの」を見ることができる環境とはいったいどこなのだろう、と。だが、作者はすべてを語らない。ヒントだけを与えておいて、あとは読者の想像力に委ねているだけだ。「謂応(いひおほ)せて何か有(ある)。」という芭蕉の言葉を知った人に違いない。だが、まだまだ饒舌だという感じがする。

上掲の句は寡黙だ。ここがどこなのかまったく語ってくれない。その寡黙さが醸し出す雰囲気がまた謎めいていて詩的情緒を煽る。カンバスにむかう作者は黙ってその白い画布に一本の「国道」をスーッと走らせる。それだけだ。読者は作者が引いたその一本の線をサッとなぞる。それだけでいい。それだけで靄に隠れていた小さな町が忽然と姿を現す。枕木の続く線路、米軍基地、乗降の少ないバス停、暖房の効いた事務所、枯葉の積もったプール、人里離れて遠く眠る山、と具体的に描こうとしている作品より、この「国道」の句は、より具体的に情景が浮かんでくる。シャレるつもりは毛頭ないが、「冬の匂ひ」という言葉に「匂」、つまり俳句的余情があるからだろう。

一読、「国道」が一本通った冬の小さな町の全体の光景がぽつんと、だが大景として浮かぶ。タイトルにもなっている「冬の匂ひ」とは冬そのものの気配がしているということだろうが、「国道」に漂うこの「冬の匂ひ」は海からのものだろうか、それとも山からのものだろうか。いずれにしてもこの一句を見る限りでは、作者のいぶきさんは「冬」が大好きな人のように思われるが、この「国道」に匂う「冬の」につづく言葉は読者の想像力を待っている。

アイロンに水足しにけり冬うらら  浜いぶき

切字「けり」がこの句の焦点だ。ここに時間の静止がある。心理的な安定感がある。そしてなにより注目すべきことは、ここには作者の視点が「アイロン」から窓の外の「冬うらら」なる景色へと向きを変えたことを知らせるシグナルがある。つぎに、作業の途中で「アイロン」に水を足すというのだから、ハンカチ一二枚のアイロン掛けではないことがわかる。アイロンに水を足す行為にも充実感が力強く溢れている。季語「冬うらら」は窓外の景色であると同時に現在の作者の心象風景でもあるのだ。


しぐるゝや川面近くに別の風  小池康生「起伏」

小池康生さんの手法は物の見方にあるようだ。川の上を時雨が風に乗ってさあっと渡っていくのが見えた。つぎの瞬間、別の一陣の雨脚が「川面近くに」見えたのだろう。作者はそのことを「別の風」と表現したのである。

標識の傾いてゐる帰り花  小池康生

作者は「傾いてゐる標識」に気がついたのではなく、「標識の傾いてゐる」ことに注目したのだ。小春日和の暖かい日だったのには違いないのだが、なぜ「帰り花」という季語をもってきたのだろうという疑問がわいてくる。だが、何度も読んでいるうちに、やがていつの間にかこの「標識」と「帰り花」との間に詩的関係が成立していることに気付かされることになる。


白菜が祖母抱きしめて透きとおる
  田島健一「白鳥定食」

白鳥定食いつまでも聲かがやくよ  田島健一

田島健一さんの作品は、作品を読む以前にまず「白鳥定食」というタイトルを読んだときから違和感を覚えるに違いない。なぜなら「焼肉」と「定食」との関係なら現実の関係だが、「白鳥」と「定食」との関係は現実にはない、絶対にないとは言い切れないが、これまで聞いたことがない関係によって成り立っているからだ。「白菜」と「祖母」との関係もそうである。「祖母が白菜を抱きしめている」のなら現実に目にする光景だが、「白菜が祖母抱きしめて」という光景はありえない。ありえないが、倒置法だと思えば合点がいくだろう。いわば論理の逆転であるが、実際、昨年白寿を迎えたわたしの義母の腕は「透きとおる」ような肌をしている。血管のような青い筋の走る「白菜」は、あるときはまさに「祖母」になる。言い得て妙、共感を覚えた。

一見難解にみえるが、「白鳥」の句の場合もそうだ。「白鳥」と「定食」を置き換えるとわかってくる。「定食」はどこかの定食屋かレストランのことだと思えばいい。しかも「白鳥」の姿を見ることが出来るレストランに違いない。白鳥もご馳走のひとつになっている湖畔のレストラン。「いつまでも」というのは、家に帰ってからもずっとその光景が目に焼き付いて離れないということだろう。しかも光ではなく白鳥の声が、つまり音が「かがやくよ」と言う。「聲」という漢字に注目するのも面白い。「聲」の中ではなんと「耳」が耳を澄ましているではないか。


蛾の如き痣がひとつや冬籠  太田うさぎ「胸のかたち」

太田うさぎさんの作品を通読して思ったことは、比喩の使い方が上手いということだ。たとえばこの句を例にあげると、「蛾の如き痣」という比喩が上手いと言っているのではない。「蛾の如き痣(のようなもの)」という暗喩の用い方が上手いのだ。季語「冬籠」はまるで引きこもりの比喩であり、仕掛けとしての季語がその「痣」をますます色濃く鮮明に浮かび上がらせるのに成功している。「冬蜂の影が大きいずる休み」という作品もまたそうである。「冬蜂の影が大きい」というのは「ずる休み」といううしろめたさの暗喩である。その大きさが並でないのがわかるだろう。

花ひひらぎ先に二階の灯りけり  太田うさぎ

灯っているのは二階の明かりではない。いや現実には二階の部屋の明かりがたしかに灯っていたのだろう。だがそれ以上に、それを眺めている作者のこころが「花ひひらぎ」のように淡く灯っていたのである。自分の家の二階ではなく、作者の思いのこもった「二階」なのだ。現代俳句にもこういう抒情的な視点と把握がもっとあってもいいのではないか。「先に二階」が灯るというのはとても抒情的な出来事なのだが、作者のうさぎさんは直感的にそのことを感じ取ったに違いない。そう感じたとたんに作者の心象風景にはしみじみと冬の茜に染まった雲がひろがっていったことだろう。

暖房機しくしくふうと止まりたる
  太田うさぎ

一概に秀句と言ってもあとからゆっくりと感銘を受ける作品と、一読これは作者にしてやられたと思う句があるが、うさぎさんのこの句には「してやられた」と思った。こういう作品に解釈など不要だ。しばらく反芻するだけでいい。「しくしく」とは泣く声の擬音語であると同時にそのさまを表す擬態語でもあるのだが、ここでは「暖房機」が止まる寸前の音を見事に捉えて、「泣く」という意味をともなう従来の「しくしく」という擬音を払拭している。少し前の旧式のエアコンだろうか。しかも深いため息のように「ふう」と止めたところにこの「暖房機」の個性を見事に描き出すのに成功している。詩の個性は飛び火する。以後、読者は「暖房機」を見るたびにこの作品を、そしてこの「しくしくふう」というオノマトペを思い出すことだろう。「煤逃げの少女はフラフープの中よ」「のけぞるや聖樹まるまる写さむと」という句も面白かった。

一葉忌句点ほろりとぶらさがる  笠井亞子「page」 

「page」というタイトルから察せられるように、笠井亜子さんの作品はすべて「本」または「読書」に関したものがテーマになっていて、本好きなものにとっては心地よい言葉が並んでいる。「広辞苑」「落丁、乱丁」「文中」「栞」「句点」「古本」「行間」「誤読」「頁」「図書館」各句から拾い出してみた。ここには、本のことを「本」と言うより「書物」と呼んだほうがふさわしい雰囲気がある。しかも本や読書をテーマにしたものばかりではなく、本や読書を髣髴とさせるコトバと季語とをコラボレーションさせて一種独特な世界を描き出している。「すさまじき」と「広辞苑」、「七五三」と「落丁、乱丁」、「時雨」と「文中」、「枯庭」と「栞」、「寒の猫」と「古本」、「行間」と「鴨」、「襟巻」と「誤読」、「兎」と「頁」、「冬」と「図書館」。ああ面白かった、と、文字通り一気に読ませる「page」になっていて楽しい。とくに「一葉忌」の句の、その「句点」が「ほろりとぶらさがる」の行(くだり)が圧巻だった。樋口一葉の作品を余程読み込んでいないと、この「句点」につづく「ほろり」は出てこないだろう。一葉の語り口の文体が上手く書き表されている。と、思ったのだが、ここまで書いてひとつ気になった。「ぶらさがる」なら句点「。」より読点「、」のほうがふさわしくはないか、ということに。


そのほかにつぎの作品が印象に残りました。

烈日の剥片として白鳥来  冨田拓也「冬の日」

富士壺の口寒月の照らしをり
  相子智恵「幻魚」

極月の鋏と化せる下半身  中原徳子「朱欒ざぼん」

湯の里の玻璃澄む山彦物産店  羽野智津子「四〇二号室」

天袋より引きずり下ろす聖樹かな  仲 寒蝉「間抜け顔」




浜いぶき 「冬の匂ひ」10句 →読む
小池康生 「起伏」10句    →読む
田島健一 「白鳥定食」10句  →読む
太田うさぎ 「胸のかたち」 10句  →読む
冨田拓也 「冬の日」 10句  → 読む
相子智恵 「幻魚」 10句  →読む
笠井亞子 「page」 10句  →読む 中原徳子 「朱欒ざぼん」 10句 →読む
矢羽野智津子 「四〇二号室」 10句 →読む
仲 寒蝉 「間抜け顔」 10句 →読む

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