2008-03-09

【週俳2月の俳句を読む】 村田 篠

【週俳2月の俳句を読む】
ずらされた「時間」
村田 篠



冬帽の大きすぎたる記憶かな     宮嶋梓帆

クリント・イーストウッドの撮る映画では、そのシーンのほとんどはワン・テイクしか存在しないという。つまり、撮り直しがないのだ。それらのシーンを編集して一本の映画となったとき、どうなるか。映画にスピードが出るのである。画面の中のアクションやストーリー展開の速さのことではない。映画に備わった「時間」と観客のなかの「時間」が、観客の生理に逆らうことなく、寄り添う。ムリのないかたちで、わたしたちはその映画を追体験できるのである。

このことは、各シーンがワン・テイクしかないことと、大きく関係している。イーストウッドは、俳優の作りこまれた演技を撮りたいのではなく、カメラの前で「起こったこと」を撮りたいのである。もちろんそれは、行き当たりばったりを撮るということではない。演じるものの作為をなるべく少なく抑えるための手段である。そうすることによってイーストウッドの映画は、よけいな夾雑物を身にまとうことを免れ、ある種の「スピード」を得るのだ。

宮嶋梓帆さんの『記憶』を拝読したとき、この「スピード」のことをふと思い出した。 

二階から雪を見ている生家かな

風花や川越えて行く葬儀場


初雪もなんまいだぶもまだ続き

よくしゃべる家族なりけり暖房車

マフラーの僧と仲良くしておりぬ

生家での誰か――親兄弟よりは少し遠い親戚あたりか――の葬儀に取材したと思われる10句は、どれも対象にそそぐ視線がクリアで、淡々と正直だ。切り取られた風景には、それこそワン・テイクしか存在しないシーンのような、ざっくりと潔い質感がある。見る目がとても利いているので、一句一句にばらしても臨場感のある句群だが、連作として並べ置かれることによって、独特の「時間」が生まれている。ちょうどイーストウッドの映画にあるような「時間」、告別のなかの日常を素直に詠んでいるゆえに、カラッと乾いていて夾雑物がなく、読むほどにコトンコトンと読み手のなかを転がっていくような「時間」だ。

そして、この時間を体験したとき、わたしたちははじめて、連作の中央に配された掲句、「冬帽」の句の異質さに気づくことになる。この句のもつ時間は、告別の「いま」を詠んだほかの句とは違って、作者の記憶のなかにある。「作者の眼」というカメラをふいと離れて漂う不思議な視線によって、誕生するなにか。ここでちょっとずらされた時間は、次の「葱畑」の句によって引き戻され、連作全体のなかに滲んでいってしまうのだけれど、このほんのちょっとした違和感によって、読み手には、滑稽なようで哀切なような、なんなのだか判然としない、かすかに宙ぶらりんな、それでいて、作者その人を強く感じたという感覚が残る。

こういう違和感の差し挟み方もまた、イーストウッドの映画にとても似ている。私がこの連作に惹かれるのは、まさにそこなのだと思う。



宮嶋梓帆 記憶 10句 →読む
矢口 晃 いいや 10句 →読む
神野紗希 誰か聞く 10句 →読む
毛皮夫人×毛皮娘  中嶋憲武×さいばら天気  →読む



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