2008-04-13

【週俳3月の俳句を読む】 澤田和弥

【週俳3月の俳句を読む】
澤田和弥
牧歌的な「にんげん」





にんげんに足腰ありて耕せり   大牧広

耕す人を見るとき、その足腰の存在感に圧倒される。現在のモデルや芸能人のような細い足腰は役に立たないという意味で文化的である。いや。嫌いな訳ではない。むしろ大好物である。役に立たないからこそ美しい。不完全であると同時に完全なのだ。それは或る意味で遊戯的なのかもしれない。

対して耕す足腰は肉感的である。そして同時に力である。縄文のヴィーナスなど古代宗教における女神像は概して豊かな足腰をしている。その豊かさには言葉などというものを圧倒して凌駕する存在感がある。作者の方の足腰への視線にはエロティシズムを越えるもっと原始的な感情を感じる。母への憧憬といってしまっては言いすぎだろうか。

「にんげん」がいい。人間という文明を築き上げた者たちではなく、まるで「まんが日本昔ばなし」のような牧歌的な「にんげん」である。「にんげん」に最近会っていない。現在の日本は「人間」に征服されてしまったのだろうか。


豆撒いてこれは戦争の練習   横須賀洋子

人々の中には千差万別の戦争観がある。私が何か語ったところでそれは野暮というものである。ただ私はこの句の軽みとも重みとも受取ることのできる雰囲気をとても大切なもののように思ったまでである。


空に置き去りの蹄鉄梅咲いて   中村安伸

「空に置き去りの蹄鉄」とはなんであろうか。天へと旅立ったサラブレッドが置いていったのだろうか。蹄鉄を置いていったのはサラブレッドであり、ガラスの靴を置いていったのはシンデレラである。ガラスの靴は王子様に拾われるが、この蹄鉄は誰が拾うのだろう。誰も拾わないかもしれない。もしかしたらここに句として提示した作者の方が拾ったのかもしれない。

作者の方、その蹄鉄は誰のものですか。カブトシローですか。メジロボサツですか。それとも人間用の蹄鉄ですか。

空の景に対して地に咲く梅の添え方がさらに美しさと儚さを句に与えている。


ジーンズのポケットの穴薮椿 小倉喜郎

キスをする春の地震の少し後 小倉喜郎

この2句が並んでいた。前句は寺山修司ならばジーンズのポケットに穴を開けておいてそこから手を突っ込み、己の男性器をいじるのだ、とでも言いそうである。それは性という素晴らしいものに足を踏み入れた青春の謳歌である。しかし自分で自分の性器をいじるのではまだ性の醍醐味を味わっていない。ゆっくりとズボンを下ろす暇もなく、自分の世界に慌てて陶酔するのは落ち着きがない。さらに言えば艶がない。「藪椿」が青年のまだ見ぬはだかの女性を感じさせる。この青年は女も男も入り乱れている東京の男であってはならない。地方の、それも農村部の青年であってほしい。丸刈りならさらにいい。「藪椿」からそんなことをイメージしてしまった。

この青年が上京して、女を知る。キスである。それも「春の地震の少し後」というしゃれた演出をするあたり、かなりの曲者である。それとも偶然にしたくなったのだろうか。青年は大志をいだくと同時に女を抱かなければならない。

なかなか忙しい。この2句に出会って、自分も多分歩んだはずである青春というなんとももぞもぞするものや、異性との接触という未知であった世界を想い起こした。

青春は決して美しいものではない。ただ冒険的なだけである。



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