2008-06-22

サバービアの風景 後篇 榮猿丸×上田信治×さいばら天気

サバービアの風景 後 篇
榮猿丸
上田信治
さいばら天気






「いま、ここ」のなまなましさ
天気●私にとっての「サバービア俳句」というのは、かなり単純なんです。私は、観光地に住んでいるわけではないし、田舎のあぜ道を仕事に出かけるわけでもない。茅葺きの屋根の下で火を熾して生活しているわけでもない。自分の周りにあるものを詠みたい。それは肉体の周り、というよりむしろ、意識の周りにあるものという意味で。

猿丸●それは「いま、ここ」ということでしょう?

天気●そう。

猿丸●「いま、ここ」しか信じられない状況というか。はじめに話題にのぼった伝統的背景がすっぽり抜け落ちた状態のなかに放り込まれた感じとも通じる。

天気●それは、最初に帰っていくわけですね。猿丸さんが最初に「サバービア俳句」の語を書いたときに引いた加藤かな文さんのことば、「小さな感動しか信じない」。

猿丸●そうそう。そこに帰る。

信治●風景がめまぐるしく変わっていって、歴史や伝統どころか、たしかに自分の環境にあったはずのものも、消えていったり、ダメになっていったりする。でも、ともかく目の前にある郊外を風景として見ようとする。その気分は、写真とか、他のジャンルにもあると思いますけど、俳句は昔から「いま、ここ」でやっているとも言える。自然や日常の、ほぼ意味のない、なんでもないものを詠んだり。

猿丸●ぼくが最初に俳句に魅力を感じたのも、まさにその部分ですね。

天気●他ジャンルとリンクするという場合、俳句の持ち分があるわけで、ないとリンクもできない。その持ち分というのは、俳句でしか言えないことでしょう? それは、ある意味、ちっぽけでつまらないこと。信治さんが「高浜虚子を読む」で言った「中二階」〔*1〕も関係してくるかもしれない。

信治●自分のことを言えば、同時代の俳句一般は「いま、ここ」と言いながら、どうも、なまなましさに欠ける感じがしたんです。それで、逆に、そこに、ひょっとしたら自分が書きたいことがあるかも、と。それは、ことさら現代的な素材を扱うということでは、もちろんなく、どんな昔っぽい句を出すときも、「いま自分がおもしろいと思ったんだから、『いま』なんだ」と言いはる(笑、その準備はできてるんですけども。すくなくとも世間がいいとする句に、首をひねることもよくあるので、俳句が将来ちょっと違うふうになりうる予感とともに、サバービア俳句ということを言っている、というか。

天気●信治さんの句はサバービア的と思いますよ。

信治●そうですか。ありがとうございます。

天気●なんか知らんけど、えらい微妙~なとこを狙ってる句(笑…。

信治●自分で、ある程度、こういうことがやりたいのかなあ、と思って読んでもらう句が、これほどまでにウケないとは(爆笑、自分でも思わなかった。それも、思いっきりフルスイングしているところが不評。風切り音がはっきり聞こえるほどの、空振り感があって(笑。

天気●信治さんへのみなさんの句評、例えば去年の豆の木賞〔*2〕や落選展へのコメント〔*3〕を見ていると、そのフルスイングの場面がスルーされている。芝居がやっと本番にさしかかったところで、目をつぶっている感じ。そのすれ違いようは、眺めていてコクがあります(笑。

信治●……新しいのに(笑。いや、うそうそ。まったくの力不足です。

天気●一定数の読者がとまどう、というのは、いいことなんだと思います。猿丸さんは、そのあたりのマーケンティングは?(笑

猿丸●え? それはまあ、その(笑。

〔*2〕豆の木

誰もまだ見ていない標的

信治●猿丸さんの先生である小澤實という作家は、僕の解釈ですが、現代俳句のリアリティの水準を変えることに挑戦している人で、「澤」の人の多くがそこを共有していると思います。

天気●なんかやらかそうという「いたずら心」はわかります。

信治●それは、まず、あるんでしょうね。

猿丸●やりたいもんね。なんか。

天気●巧い句ではなくて?

猿丸●巧い句はたまに出来ればいい。シングルカット用。「でも、俺がやりたいのはアルバムだぜ」みたいな。ほんとにやりたかったのは、この句というのは、さっきの信治さんじゃないけど、スルーされるかもしれない(笑。あるいは、「何が言いたいの?」って感じか(笑。

天気●そういえばシングルカットされる曲は、嫌いな曲が多かった(笑。「巧い句」というのは一般に、恥ずかしい、と思っちゃうところがあるんです。堅苦しくいえば、既成の評価スキームに準じていて、的確な描写がある、句のもっている声のボリュームは「中」、ロレツがはっきりしているような句。高い評価を受けるのだろうとは思いますが、どうも、それって、読んでいて気恥ずかしい気になることがある。

猿丸●狙いが見えてしまっているからでしょう?

天気●ほんとうにおもしろい句は、その句によって、それまで存在しなかった的(まと)が現れてくるような句。

猿丸●そうそう。

天気●はじめから的があって、そこを巧く打ち抜いても、大きな悦楽には繋がらない。

信治●的にはすでにぎっしり矢が刺さっているのに(笑。

猿丸●既存の的は、もう埋め尽くされている。だから、自分なりの小さな的をつくって、それを射抜こうとする。

天気●以前、信治さんとブログでやりとりした「鉱脈」の話〔*4〕にも通じますね。そこを掘っても、もう何も出てこんぞ、という(笑。

信治●ああ、はい、はい。長島肩甲さん関連の話題でした。長島さんは、俳句のなかに「異人」として入ってきたという感じがありました。ご本人も、そのへんをセルフコントロールしてのことでしょうけど。

猿丸●「異人」という自認はないですか? 信治さんには。

信治●うーん。

〔*4〕鉱脈についてのブログ記事


新しい言葉・新しい文体


天気●まだ誰も気づいていない的(まと)ということで、新しい言葉、新しい文体の可能性というのは、どうなんでしょう? 外部からの異人ということも含めて。

信治●現俳系、と言っていいんでしょうか、小野裕三さんや田島健一さんはおもしろいですね。文学的じゃないところが(笑。

天気●それは、いい意味ですよね。

信治●もちろん。

天気●文学的な高みをめざしていないように見える。たしかに妙にカジュアルで、それでいて擦り切れ感がない。私も好きです、ああいう俳句。一方に、シュールで、ものすごく文学的で、ものすごく退屈な句をつくる人も多い(笑。そんななか、文学的じゃないというのは貴重。

信治●句会で、たまに韻律もモチーフも俳句じゃないという句が出てくることがあって、それはそれで、なんかある気がするんですが、句会全体ではまったくウケないですね。あれはなんなんですかね、突破力なのかな。それとも読み手のほうに、受け入れる準備ができていないのか。

天気●了解性の高さ、使い古された物差しが、全体的には幅をきかせているということでしょうか。

信治●例えば「烏山肛門科クリニックああ俳句のようだ」。上野葉月さんの。

天気●22世紀に残したい句、残る句、ですね。

信治●「なんと気持ちのいい朝だろうああのるどしゅわるつねっがあ」でしたっけ? 大畑等さんの句にちょっと似てる。いや、もっといい例が(笑…あった気がするんですが、こういった句を、説得力をもって大量に生産できる作家がいれば、変わってくるかも。

猿丸●葉月さんのその句は全然面白いと思わない。22世紀まで棚上げしたい句です(笑。穂村弘さんの歌集に『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』というのがありますけど、このタイトルを初めて見たときに、「あれ、これ俳句になっている」とうっかり思っちゃった。そうしたら戦慄を覚えて。こんなに自由でポップで、しかも定型感覚が活きている俳句なんてないぞ、と。こういう俳句が出て来てもよかったのに出て来なかった、いまだ出て来ないですね。そこまでの言語感覚をもった人がいないんでしょうね。

信治●まあ、天才の仕事ですから。ないところから始めるというのは。

天気●大畑さんは、ある時期、そういう馬力をもった人だと思っていました。もちろん評価はいろいろでしょうが。「絶対電柱少女ぎしぎし歩く」という句が、比較的最近あって、ワケがわからないけれど、すごくいい。なぜ、いいと思うのか、自分で説明できない。
 解明できないけれど、それはそれでいい。自分でも説明できないものを生起させてくれる句だから、いい。なぜ好きかが説明できないから好きなんだ、という。ただ、了解性の高い句のなかからも、そういう、なぜいいのか説明を許さないような句が出てくると思うんです。そこは、了解性の有無にかかわらない部分。けれども、俳句世間では、了解性と非・了解性のあいだの壁や溝は大きいような気がする。

猿丸●そうでしょうか。経路は違うけど、同じところを目指している気がします。「絶対電柱少女」にしても、「まだ誰にも見えていない的」を探すという方向、既存の的を避けよう避けようとする方向は同じだと思うんです。ただ、やり方が違う。
 ひとつは、いわばシュールリアリスム的に、言葉によって、既存の的を避けるやり方。一方、了解性の高い俳句では、既存の言葉を使って、なおかつ既存には収まらない。あるいは、誰もが見ているけど、句にするとは誰も思わなかったものが句になって、「あっ」と驚いたり。

天気●鴇田智哉とかは?

猿丸●鴇田さんは、中間だと思う。言葉によるアプローチとそうじゃないのとの中間。

天気●なるほど。比喩でいえば、部品は普通、設計図が普通じゃない。

猿丸●そうそう。

天気●大畑さんは、部品も設計図も普通じゃない。もうひとつは、部品も設計図も普通なのに、出来上がってみたら、「なに、これ?」と普通じゃないパターンもある。

猿丸●平成俳人に人気の高い波多野爽波なんか、そうじゃないかな。…僕にとっては、そもそも俳句じたいが「普通じゃないもの」なんですよね。だから「部品も設計図も普通じゃない」俳句っていうのは、そもそも普通じゃないものをもう一度ひっくり返すということで、「それって他ジャンルでやってたことじゃん、他ジャンルで出来ることじゃん」って思っちゃうことが多い。結局、相対的にしか俳句を見られないというか、つねにさまざまなジャンルの中から、つまり俳句の外部から俳句を見てる感じ。なので、ぼくの大好きな攝津幸彦なんかはかえってベタに見えるんですよ。それよりか『ホトトギス雑詠選集』のがすげえな、って思っちゃう(笑。極端な例ですけど。でも、さっき信治さんが、自分はホトトギス直系って冗談で言ってましたけど、そういうことじゃない?

信治●冗談ではないのですが……。

天気●微妙なとこを狙うのが好きなんですね、信治さんは(笑。

信治●しかし、こうやって話していると、3人とも、今後、微妙な方向へどんどん(笑。居場所が……。

天気●それなら楽しいじゃないですか(笑。9人がきょとんとするだけ、1人が読者、というのは、作り手としてすばらしいことです。それではこのへんで。おなかもすきました。美味しい中華屋さんがあるんです。

猿丸●行きましょう。

信治●はい。お疲れさまでした。

※2007年12月9日・東京都国立市にて




8 コメント:

やまちあん さんのコメント...

決して嫌われようと思っているわけではありません(笑)。
個人的にサバービア俳句というアイデアはとても面白いと思うのです。
ただ、団地、工場、廃墟、ダムetc.、あるいは橋本徹のサバービアにしてもブームとして「すでにあるもの」ですよね。
マニアックなブームではありますけれど、なぜそこまでサバービアにこだわるのか、ブームだからこだわるのか。そのあたりがどうもしっくりこないというか、俳句においてサバービアという言葉を使うことが何となく気がl利いててオシャレだから、という印象をどうしても受けてしまいます。
単なるネーミングの問題なのかもしれませんが。

tenki さんのコメント...

やまちあんさん、こんばんは。

ねえ…どうしてこだわるんでしょうね(笑。

私の場合は、やまちあんさんと同様です。つまり、アイデアがとても面白いと思うから。

だから、乗っかりました。

団地、工場、廃墟、ダムetcは、前篇の最初にしゃべっているように、素材が問題なのではなくて(それなのに、そっち方面に話題が広がり、わかりにくくなっている)、でも、エピソードとしてこれらに言及することは、単にオシャレだから(ああ、俗物趣味!)というより、ひとつには他分野と話題を共有できる可能性、ということもあると、私自身は思っています。

俳句用語だけで語るうちは、まとまりがよく、俳人さんたちに伝わりやすい言説にはなるかもしれませんが、しょせんは「蛸壺の中」。

「サバービア」がチャラチャラした流行語(しかも適度に古い)だとしても、勇気を奮ってあえて使うことで、俳句的言説が「蛸壺の外」へと脱出する契機になるかもしれないじゃありませんか?(楽観主義w)

長くなりそうなので、あとはまた自分のブログにでも書きます。

猿丸さんもそのうち、どこかにまとめてお書きになるかもしれませんよ。

民也 さんのコメント...

例えば、ある作家の本が世間で話題になり、映画化される、マンガになる、映画を基にした写真集が発売される、映画の主題歌がそこそこヒットして着メロになる、時事川柳のネタにもなる、という流れの中に、「俳句になる」という項目がないことが、かなり不思議な現象だと以前から思っていました。

俳句はRPG(役割を演じるゲーム)のネタなんだ、と思い至っては、俳句をスタートにしたこのような多メディア、多ジャンル展開もあり得ることだ、と思っている僕としては、「サバービア俳句」に、いろいろと期待するものがなきにしもあらず。

家電量販店で、テレビゲームのソフトやガンダムのプラモデル、DVD、ポケモン・カードなどと一緒に、俳句のトレーディング・カード等が販売されている光景を、普通に見てみたい、と思っているのは、僕だけですか。

俳句を商品として売ろう、という発想がそもそもタブーだったりすることはないですよね?「蛸壺」の中も外も?なんでも商品になる時代に、俳句だけが売り物にならないなんて、それでいいのかな。

やまちあん さんのコメント...

俳句が商品になるかならないか。
少なくともそれは俳人が決めることではないような気がします。

天気 さんのコメント...

>なんでも商品になる時代に、俳句だけが売り物にならない

商品にならなくていいんじゃないでしょうか。
…というような話を自分のブログに書きました。
http://tenki00.exblog.jp/8216899/

民也 さんのコメント...

やまちあんさん、天気さんこんばんは。

俳句が商品になるかならないかを最終的に決めるのは、俳人ではなくて読者なんだろうけど、読者がそれを判断できるほど、俳句は作品として、読者にちゃんと届いているのでしょうか。

論より作品と言うし、僕も一読者として「サバービア俳句」をテーマにした俳句アンソロジーを読んでみたいと思う。

そのアンソロジー本が俳句愛好者向けでなく、一般読者をターゲットにして作られたとしたら、どんな本が出来上がるだろうか、と想像してもみるんだけど。そのような企画が実現することはまずなさそうです。

かように、一般読者まで今の俳句が届いていかない現状がもどかしい。

やまちあん さんのコメント...

「サバービア俳句」をテーマにした俳句アンソロジー、私も読んでみたいです。

「サバービア俳句」が「蛸壺の外へと脱出するため」のキーワードとして機能するかどうかというのは、まだ手探り状態にあるように思えます。
しかし、考えてみれば「週刊俳句」自体がすでにそういった役割を果たす媒体として機能しているのではないかとも思うのです。
ま、俳句世界の中においても外においても全く無名の私が答えられる問題ではありませんが。

tenki さんのコメント...

アンソロジーに「詞華集」という訳語をつけた昔の人のセンスって、なかなかだよなーと思っている天気です。

それは余談として、アンソロジーは、いまやひとりひとり作れるわけで(パソコンやネットの普及)、誰かの「マイ・フェイバリット俳句」、あるいはテーマ編集の俳句アンソロジー、読んでみたい気がしますね。

それはこれまで紙の書物にあったいわゆる「秀句集」とは、ちょっと違って、もっと軽やかな感じのアンソロジー。

好きな曲を聴くように、並んだ俳句が味わえたら、愉しいだろうなあ、と思います。