2008-12-21

『俳句年鑑2009年版』を読む 上田信治×さいばら天気

〔俳誌を読むスペシャル〕

『俳句年鑑2009年版』を読む ……上田信治×さいばら天気


季語ってバチカン市国みたいな


天気●ぼちぼち行きましょう。まず片山由美子氏の「巻頭提言:歳時記を考える」(p30-)です。

信治●はい。テーマは「歳時記」なんですね、季語ではなく。

天気●歳時記の刊行が相次いだという2008年の事情を絡めたのでしょう。内容をかいつまむと、実感や体験より歳時記の従来的な秩序を優先すべきということ。実感主義・体験主義を排して、季語は「ことば」である、さらにいえば「参照」であると宣言されています。

信治●「生活実感は歳時記の季節に優先しない」という片山さんの意見は、おもしろい。妥当な意見だと思います。ぼくは、季語は「俳句というゲームのルール」だと思ってるんで、ルールブックとしての歳時記、と考えると分かりやすい。ただ、歳時記はそれでよくても、季語は逆に、実感や日常語としての認識やらによって「ゆさぶられて、なんぼ」ということも忘ちゃいけない。当り前すぎる話ですが。

天気●「ゆさぶられる」とは?

信治●仁平勝さんがあげていた例でいえば〈帚木に影といふものありにけり 虚子〉。「歴史的な象徴性を背負った帚木が、目の前に生々しい影を持った現物として現れていることに、虚子は「感動」しているのである」(『虚子の近代』)と書いています。

岸本尚毅さんがあげていた例では〈掛稲のすぐそこにある湯呑かな 爽波〉。岸本さんは、写生の力で「掛稲」の既成の情趣を殺し「その句限りの「掛稲」風景を再構築した」というふうに書いています(「写生と季題のダイナミズム」)。

天気●新しい現実、新しい読み手によって、季語の或る側面が更新されるということ? いや、それより、「その句限りの」という部分が重要か。そこが「ゆさぶり」に繋がるわけですね。

信治●そうです、そうです。つねに新しい一句ということですね。季語より、一句がだいじ。歳時記は、俳句のしんがりにいるもので、ひっぱるものじゃないと思うんですよ。

天気●「歳時記は、しんがり」。含蓄です。

信治●俳句の中の「季語」って、ローマの中のバチカン市国みたいな、そこだけ別ルールで読まれる言葉になっていますよね。そこに生まれる複層的な構造に注目して、それを徹底的に使うか、それとも、季語からなめらかに展開して、断層やでこぼこのないようにするか、という書き方の違いがある。季語を中心にして俳句の叙法を考えた場合ですが。

片山さんは、それこそ、季語についての認識だけでなめらかに一句を成立させてしまうのが得意技で、やはりそういう「順接すべきもの」としての季語感を持たれているような気がします。季語の本意としての季節感を排した言葉は、季語とは言えないと、書かれている点などに。

天気●生活実感は歳時記に優先しないとする片山氏の提言は、作句に幅を与えるものと解していいのでしょうか。

つまり、俳句世間には、「現場主義」「体験主義」ともいうべき思想が根強い。記事中にも「季語の現場」という言い方が引かれていますが、俳句の作者が、それをどこで見たのか、どんな体験のなかで詠んだのか。「現場」を確認したがる習癖があります。そこに対して、体験・実感じゃなくていいよ、「ことば」としての季語を優先していいよ、となれば、足枷がひとつ取れることにもなります。

信治●どうなんでしょう。片山さんには、「歳時記」的秩序を再構築し徹底すべし、というモチーフがあるのではないか、という気がします。季語の秩序と規範としての歳時記ですね。

天気●なるほど。むしろ、歳時記を足枷とせよ、ということですか。私の比喩でいえば。

信治●どっちかというと、片山さんは季語について厳格主義に近いのではないか、と。先程引いた「生活実感は歳時記の季節に優先しない」という文につづけて「それを前提としないかぎり有季俳句は成り立たないのである」と書かれていて、そこまで、言い切っちゃえるのかな、と思いました。


こんなに退屈な風景のはずはないんですが…

天気●では「年代別2008年の収穫」(p36-)を見ていきましょう。

全体にタイトルがおとなしいです。昨年はずいぶん笑わせていただきましたが、執筆者が変わって、さびしくなりました。正常になったとも言えますが。

信治●多少、人選がなされたということではw

天気●年代・性別ごとの記事から、基本的に一句ずつ、好きな句をいただくというスタイルにしましょう。というか、今年は、いただく句がなかなか見つけられなくて、「どうしたんでしょう? 私」という感じで、自分が不安になりました。

信治●ここまで、ってはずは、ないですけど。退屈な風景でした・・・。

天気●元気を出して行きましょう。「80代以上」。執筆者は佐怒賀正美さんです。

きつねいてきつねこわれていたりけり  阿部完市

をいただきました。素敵な壊れ方です。句も、阿部完市も。うれしくなってきます。

信治●ぼくは、

船虫の顔がうごいてゐてあはれ 今井杏太郎

みなさん、ご健勝でとしか言いようがないです。

天気●次の「70代男性」(執筆者:中西夕紀)では、

蘭鋳の尾鰭の後姿かな 齋藤夏風

信治●

朝顔の家にまさかの忘れもの 山上樹実雄

並べてみると、この世代の男性は、ひじょうに理知的な人ばっかり。理知的が、粋になったり、鈍重になったりは、作家それぞれですが。

天気●70代女性」(小島健)。ここが困りました。昨年はどれをいただくか迷うくらいだったのですが。

箱庭と空を同じくしてゐたり  岩淵喜代子

信治●同じく岩淵さんで、

盆踊り人に生まれて手をたたく 岩淵喜代子

グラビアの長谷川櫂選の100句のほうの「夜が来て蝙蝠はみな楽しさう」(同)も。

天気●それと、ちょっと。「誰にでも気軽に抱かれ竹婦人」(檜紀代)という句なんですが、「人形のだれにも抱かれ草の花」(大木あまり)がすでにあるので、どうしてだろう、と。たまたま、この類似が目にとまったのですが。

信治●目につきましたね。ちょっと選があやうい…ということになってしまうのでしょうか。

天気●私はふだんから許容派です。「どっちもアリでいいんじゃないの?」というスタンスですが、2008年の「収穫」としては、どうなんでしょう?という気がしました。句を引かれたご本人の檜さんも、ちょっと居心地が悪いのではないかと想像します。

信治●60代男性」(小林貴子)も、むずかしかった…。これは、いろいろ相性の問題かもと思うのですが、こんなはずは、と。

天気●同感です。

信治●一句、

仏頭をころがし木の芽吹く工房 坪内稔典

をいただきました。

天気●作者がまた一致しましたね。

緑立つコントラバスになりたい日 坪内稔典

それと、タイトルの「期待の蕾ふくらむ」には、ちょっと立ち止まらせていただきました。60代男性に「蕾」かあ、と。どういう意味か、考えてみても、よくわからないんですが。

信治●(笑)もう一句。

窓拭きのゴンドラふたつ日短 七田谷まりうす 

次は「60代女性」(水田光雄)です。

太刀魚をくるりと巻いて持つて来る 原雅子

天気●私は、

猫の子のふにやふにやにしてよく走る 大木あまり

信治●その句もいいですね。

天気●50代男性」(原雅子)。この年代はたくさん句があって迷うのだろうと思って読みましたが、そうでもなかった。

信治●なんか、今年、選者に艶消しを志向するバイアスがかかってる? 平凡ですよね、全体に。

夢も見ずなりし蒲団を干しにけり 市堀玉宗

天気●私がいただいたのは、

双六の京にのぼりて何せむか 小澤實

信治●高橋睦郎の句への、軽い返答ですよね。〈双六を 降りふりて上れば京や雪ならん〉。


筏で陸から遠く流されてしまったのでしょうか?

天気●50代女性」。ここに来て、楽しくなりました。

陽炎のにほひなりけりボール紙 奥坂まや

この句のほか、

金柑のひとつぶづつに汽笛かな 鳥居真里子

バナナ剥く春を惜しみてゐるごとく 石田郷子

信治●ぼくは、

金柑のひとつぶづつに汽笛かな 鳥居真里子

ですが、同じ3句をいただいていました。

天気●奇遇w で、「40代」が、なぜか、すごく困ったんですよ。なんなんだろう、これは。

信治●ぼくたちの俳句観が、何かから、大きくずれつつあるとか。

天気●あはは。筏で、沖に流されて、陸がどんどん遠くなっていくような?

信治●あるいは、筏はとまってるのに、陸のほうがどんどん流されていくw

ざりがにの静かに流れ花菖蒲 日原傳

天気●あ、その句、いいですよね。

日当たりて家より古き夏蜜柑 岩田由美

次は「30代」です。ここは、すこし目移りする楽しみがありました。

眠られぬ夜の背中にゐる鯨 山下つばさ

信治●一句はむずかしかった。

失格を告ぐる小旗や鰯雲 藤井智恵子

笑いました。(作者は笑わせようとしてないか)

天気●加藤かな文さんのおっしゃるとおり、健やかですね。

信治●たまたま女性ばかりですが、

昼顔をまるまる喰うて虫ひとつ 如月真菜

紅梅と白梅の間ぬつと棕櫚   相子智恵

かな文さんの鴇田智哉評も読ませました。鴇田さんの句をジェンガにたとえている。

天気●積み上げた木片を抜いていく、という言い方ですね。「その古い言葉の塔の重心を測りつつ、言葉の木片を次々と抜いていく。向こうの景色は透いて見えるのに、それでも塔は崩れない」。

信治●最後です。「20代・10代」。執筆者は池田澄子さん。

天気●その導入部分を引きます。

ここに記すのは私が偶々知りえた俳句である。選ばれるべき作品や作者を見落としていないとは言い切れない。だから、単なる現象を気にしないこと。偶々の俳句界での評価は絶対ではないのだから、それを目標にしないこと。自分を恃み、自分に恥じない覚悟を持つこと。

俳句総合誌だけでなく、この「週刊俳句」まで採取場所を広げ、それでも「偶々知りえた」とおっしゃる点、このこと自体は、誰もすべての俳句を詠めない以上、当たり前の事実なんですが、あえてきちんと言っておくという毅然に注目しました。

それと、偶々の俳句界での評価を目標にするな、というアドバイスにも。

信治●そして、個々の作品については、いちばん厳しい。

扇風機まで月光の及びけり 谷雄介

谷君に澄子さんがおくった言葉が「読者は諦めない」。これは、ね、ちょっと震えましたね。

優夢君の「台風や薬缶に頭蓋ほどの闇」文香さんの「明易や吊れば滴るネガフィルム」と、週俳掲載作の、コレという句を抜いていただいてるのもありがたい。

天気●信治さんの引いた句は、どれもいいですね。

ネガフィルムの句は、ウラハイ(当時「あかるい俳句」)での龍吉さんの記事と猫髭さんのコメントが印象的でした。

私がいただいたのは、

冬の金魚家は安全だと思う 越智友亮

山口優夢さんの「台風や薬缶に頭蓋ほどの闇」「ゆく夏のシンクに水の伸びゆける」もいいけど、自分のブログと週俳で書いたので除きます。

信治●あ、あと、

初雪やリボン逃げ出すかたちして 野口る理

なんだろ、この初雪w

天気●では、きょうはこのへんで。残りは後日。

信治●ちょっと疲れる作業でした。去年と今年で潮目が変わったという気もしないんですけどねえ。

天気●はい。お疲れさまでした。


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